15年目の初恋
彼と付き合って15年。結婚の話が出ない上に、どことなくその話題を避けられる日々。
つまり私は、彼にとって結婚相手ではないのだろう。
残念ながら私には結婚願望があるから、年齢も考えてそろそろ別れるべきかもしれない。
「おかえり、省吾くん」
日付が変わって一時間が経った頃。オートロックに警備付きと、厳重に守られたこのマンションの一室に、もう付き合って十五年になる恋人が帰ってきた。
多感な中学一年生だった十三の頃に告白されて、山もあり谷もありで、それでも一度も別れることなく十五年。別れの危機、なんてものは本当に一度もなかっただけに、今回のことは本当の本当に大事なのかもしれない。
「ああ、来てたんだ、水澄さん。いらっしゃい」
一つ年下の相見省吾は、リビングでくつろぐ私を見て柔らかく笑った。
相見省吾という男を一言で表すなら、まさに「完璧」である。
黒く清潔な髪は短く整えられ、容姿だって男らしく精悍、競泳で鍛えられて引き締まった身体は逆三角というやつで、その上実家は資産家だ。ここまで揃えば当然のように、省吾くんの周りには常に女の子が居た。
今年から係長に就任したから、これは益々会社でモテていることだろう。
二十七歳にして会社からの強力プッシュがあり、将来有望な男前でさらに独身、ともくれば、超優良物件間違いなし。
彼ももう二十七歳。
結婚も考えているはず。
「メールしたよ、家行くねって。今日忙しかったんだ?」
「え、あ、そうなんだ。ごめん、見てなかった。……忙しくはなかったよ。ちょっとトラブルとかもあったけど、飲み会は普通に中止にならない程度だったし」
スーツを脱ぎながら寝室に向かい、少し遠くで何かを言っている。
よくは聞こえないけれど、新入社員の歓迎会は無事に終わった、というような旨がなんとなく理解できた。
「ご飯食べた?」
しばらくして、部屋着になった省吾くんがリビングへとやってきた。
会社の女の子たちが知らない、ゆるっとした部屋着を来た「相見省吾」という男の一面。それに優越感を感じる浅ましい心から目を逸らすように、省吾くんから視線を外す。
『十五年も付き合って結婚の気配もない? 今フラれたらどうする。貰い手が居るのなんか若いうちだけだろ』
隣の部署の上長が、やや呆れたように笑う。普段は気にならないはずの雑音を拾ってしまったのはきっと、くすぶっていた気持ちをそのまま言葉にされたからだった。
『だから何度も俺にしろと言ったのに。――結婚への意識もなく、むしろその話題を避けてるなら相手の気持ちはもう決まってる。いつまでそうしているつもりかは知らないが、結婚したいのなら早めに次に行くことだな』
飲み会の隅っこでひっそりとおこなわれた、確信を突いた会話。
やはりこの年で結婚のけの字も出てこないのはおかしいことなのだと、改めて理解した瞬間だった。
薄々分かってはいたものの、他者から見てもそうなのだと思えば、彼が終わらせかたを知らないだけなのだという結論に至る。
会社が違うために、会社での彼の姿を知らない。だけどきっと、彼が結婚したいと思う「いい人」は、彼の周りにはいくらでも居るのだろう。
「ご飯は食べてきた。……ちょっと話、いい?」
少しトーンを落として言えば、彼は何かを察したのか、ピクリと眉を揺らした。
何について言われるのかを聞きたいのに雰囲気に飲まれて聞けない、という表情で、省吾くんが私の正面に大人しく座る。
「……なに?」
一瞬、省吾くんの目が時計を映す。
明日も仕事だから早く寝たいのか、はたまた時間を理由にしてこの重い空気から逃れたいのか。どちらにせよ、私が「面倒くさい女」だと思われていることに違いはない。けれどそれももう今日で終わりになると思えば、申し訳ない気持ちも薄れる。
「ごめんね、明日仕事なのにこんな時間に」
「いや、別にいいけど。……水澄さんこそ、こんな時間まで待って、話ってなに? 重要なこと?」
「うーん、重要といえば重要だけど、省吾くんにとってはそうじゃないかも」
「何それ、気になる」
自分にとって重要じゃないということは、本当に重たい話じゃないのか。そんなことを考えてるのだとはっきり分かる表情で、省吾くんはホッと息を吐いた。
だから私もなんだかつられて、肩の力が抜けた。
「……今から、別れ話しよっかなって」
「…………は?」
随分と間を置いて、彼の表情が硬く変わる。
「私、結婚したいの。男の人は三十代でも相手は選べるだろうけど、女はどうしてもそうはいかなくって。だからこれ以上時間の浪費したくないから、別れてほしいなって」
『俺と付き合ってください』
真っ赤な顔をした、まだまだ幼さの残る小学六年生の少年に告白されたのは、私自身もまだ幼かった、中学校に入学して三ヶ月が経った頃だった。
少年は「中学に入って誰かにとられることを考えたら、居てもたってもいられなかった」というような言葉を付け足して、照れくさそうに目を伏せた。
小学生の頃、陸上クラブだった私を、水泳クラブからずっと見ていたらしい。
走る姿がすごく綺麗で好きになったのだと、その後も長々と語ってくれた。
彼を明確に「好きだ」と実感したのは、高校生になってからだ。
きっかけなんかないし、理由なんかも分からないけれど、ただ「好きだなあ」と、県大会で堂々と泳ぐ彼を見て漠然とそう思った。
初恋は色褪せないまま、今だって心にある。
だけど彼がそうでないのであれば、いくら私が想っても仕方がないじゃないか。
「話はそれだけ。遅い時間にごめんね」
長い長い初恋が終わる。
お互い嫌いになったわけではない。だから別れるという選択はおかしいのかもしれないけれど、未来のない関係に縋るほど、夢を見ていられる年でもなくなった。
帰ろうと玄関へ向かうと、思ったとおり、彼が追いかけてきた。
「どういうこと、水澄さん。今の話本気?」
「本気も本気、超本気」
靴を履き終えて振り返ると、不機嫌そうな彼が私を見下ろしていた。
「今は理解できないだろうけどさ、そのうち分かるよ。……まあ、なに。お互い、幸せになろうね」
初めてのキスは、私からだった。
不意打ちにしたから驚いたみたいで、まだ中学一年生だった彼はゆでダコのように真っ赤になっていた。その後「覚えてないからもう一回!」と必死に請われて、今度は彼からゆっくりと優しいキスをしてくれた。
大人のキスをしたのは、その半年後。
初めて相手の身体に触れたのは、私が中学三年生、彼が中学二年生の頃だった。
あの頃が一番幸せだった。何も考えず、二人で居るということだけに重要性を感じていられた。
けれど、大人になるにつれて未来を意識し始め、彼が就職して落ち着く頃には結婚かなと、そんな淡い期待を抱いていただけに、そうでない現実に打ちひしがれた。
それからもずっと待ってはみたけれど、そんな話は一切出ない。さらには結婚を意識した素振りもなく、テレビで結婚の話やCMが流れるとあからさまに私に別の話題を振っているように思えたから、こちらから話を振ることもなんとなく出来なかった。
彼女にしたい人と、奥さんにしたい人は違うと聞く。あからさまに避けられ続ければ、私がただ彼の「奥さん」という枠に選ばれなかったということだと、いつからか自然と理解していた。
「……誰?」
ガチャン! と、大きな音を立てて玄関の扉が閉まる。
外に出ようと扉を開きかけて、たくましい腕が私を追い越した直後だった。
「びっくりしたー……」
なんて言っている間に、反対側からも伸びてきた手が私を閉じ込めて、身動きがとれなくなった。
「教えてよ、なんで急にそんなこと言い出したの。誰になにか言われたからなんでしょ」
「……別に、一人で考えてそう思っただけ」
「西尾課長?」
『女だって、彼氏にしたい男と旦那にしたい男では求めるものが違うだろ。それと同じなんだよ。俺と付き合えば今すぐ結婚できるぞ。薬指は空いてる』
そう言ったのは確かに、隣の部署の上長である西尾課長だ。あの人は口癖のように「俺の所に来い」と私に言っては、女の人を取っ替え引っ替え……現在では本命が出来て婚約中のために、そんな口癖もなりを潜めているけれど。
とはいえ、課長のあれは挨拶のようなもので、私がよく彼とのことを相談していたから、元気付けようとしてくれていたのもあるのだろう。もちろん、課長の言葉を本気にしたことはないし、お互いに冗談であると理解していた。
しかし、どうして勤め先の違う彼が、私の会社の人間を知っているのだろう。
「知らないと思った? そうだよね、水澄さんはあのとき、すごく酔ってたもんね」
ぐっと腕を引かれた。
靴も脱げないまま引っ張られて、慌てて脱ぎ捨てながらついて歩くと、そのまま寝室へと連れ込まれた。
乱暴に投げ出されて、ふんわりとしたベッドに力なく押し付けられる。
「知らないだろ、俺があのときどんな気持ちだったかなんて。……なんで他人からあんたの可愛さなんて聞かないといけないんだよ。あんたはいい女だと、教わらないといけないんだ。そんなこと、俺が一番知ってるのに」
そういえば西尾課長が変なことを言っていた時期があったなと、そこでやっと思い出した。
あれは確か、数年前のとある飲み会の翌日だった。起きたらなぜか彼の家に居て、彼の機嫌が最高潮に悪かった日のことである。彼が何も言わないから謝ることもできなくて、モヤモヤとした気持ちで出社をしたあの日。
『お前の彼氏、思ってたよりいい男だな。イケメンってより、男前って感じか。体格も良かったし、殴られたらさすがに勝てないなあれは。良かったよ、ギリギリで堪えてくれて』
どうして彼のことを知っているんだろうと思いつつも、ここで会話を繰り返せば着地点が面倒なところになりそうで、そのときは「まあそうですね」とスルーした。
ギシ、とベッドが軋む。
彼の手が、私の手をきつく押さえつけた。
「結婚したいから別れて? 何言ってるの? なんで俺と結婚しようってならないわけ? 年下の男はやっぱり頼りない? 西尾さんみたいにはなれないけど……俺だって、すぐに昇進して安心させられるよ」
「……え、いや、ちが……まって、省吾くん。……私と結婚できるの?」
「は? できる……というか、したいに決まってる。だけど水澄さんは『仕事ができて将来安泰な大人な男』が結婚相手の理想だって言うから、俺がせめて課長になるまではと思って……」
「え……私そんなこと言った?」
「……西尾さんから聞いた。水澄さん時々『仲の良い課長』の話してたから、たぶんあの人だろうなって思って、そんな人に話してるなら本当かもしれないし……でも聞くのは怖いし……」
ああ、だからあの朝の彼はとてつもなく不機嫌だったのか。
「省吾くん、私そんなこと言ったことないよ」
「……でも、あの人に狙われてたのは事実だよね。気に入らない。同じ会社に入ればよかった」
「いや、課長のあれは冗談だから。そうじゃないと、省吾くんがいるのに課長と親しくなんてしないよ」
すりすりと額を合わせて、身体が密着する。
心地よいそのぬくもりに、私はつい笑ってしまった。
「なに笑ってんの」
「ごめんごめん、可愛くって」
「今の状況わかってる? 水澄さん、余裕なんだ?」
「余裕なんかないから、別れ話したんじゃない」
ちゅ、と、優しく唇が重なった。すぐに離れたそれは、二度、三度と触れ合って、また少し離れる。
「結婚するなら俺としよう。ここまできて離れられるなんて可能性考えてなかった。結婚しないと逃げられるなら、俺はしたい」
「なにそれ、不純」
「ロマンチックに言えば、ずっと一緒に居たいから、結婚してほしい」
「……うん。うん。そうしよう。そうしたい」
「じゃあすぐにでもうちに住んで。どうして頑なに断られ続けてるの、俺」
初めて「一緒に住まない?」と誘われたのは私が二十五の頃だった。しかし私は少し考えてそれを丁寧に断った。
結婚する気もない相手と一緒に住む必要性はないという単純な理由だ。
すぐに出て行くことになっても荷造りが面倒だと思ったし、もしも「結婚したい相手」が彼の前に現れたとき、その痕跡を見つけてしまうのも嫌だと思っていた。
なんて理由を今は言えないため、ただ苦笑を浮かべることしか出来ない。
「……まあ、いいけどさ。……ねえ、俺三人兄弟の真ん中でさ、兄弟居るってすごい楽しいんだよ」
「ん? うん、仲いいよね、省吾くんのとこ」
「そう、だからさ、子どもは三人は欲しいな」
「はは、いいね。そうしよう」
言い終わるが早いか、押し付けるように触れ合った唇から熱い舌が伸びて、私の口内を探り出す。
逃げようにも、両腕をベッドに縫い付けられるように固定されているため動けず、ただ彼の動きに答えるしかできない。
揺れる腰があまりにも扇情的で、唇が離れる時には互いに吐息が熱くなっていた。
「じゃあ、すぐにでも」
ギラギラとした欲を含んだ瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
それに湧き上がるはしたない欲を感じながら、今度は私から彼に口付けた。
後の西尾さん
「いや、俺はただ背中を押したかったんだよ。本当本当。だって『送ってくれたお礼に』とか言って茶まで出してくれたからさぁ……え、何を言ったか? 別に、お前の普段の様子とか、お前の結婚感とか? まぁ確かに多少脚色はしたが……いいじゃないか、それで結婚が決まったんだろ。あー、悪かったって。分かったよ、俺は安全だって示すために、今度そいつと飯行きゃいいんだろ、はいはい」
後の省吾くん
「ただでさえ腹立ってたけど、話してみたら普通にいい人でさらにムカついた。絶対一生許さない」