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恋愛短編集  作者: 長野智
2/5

ある日、愛になった。

美央は、憧れの先輩と体だけの関係を持っていた。

けれど妊娠したことが発覚し、この関係を終わらせようと心に決める。

しかし、彼と別れ話を進めるうちに、会話がおかしな方向に向かい……。


「おめでとうございます! 妊娠三ヶ月です」


 最近少し気だるいなとか、火照ってるなとか、そんなことを思い始めたのは少し前で、とうとう吐き気がした頃には確信を持って検査薬を購入した。

 反応は陽性。だけど間違っていますようにと願いを込めてやってきた産婦人科で現在、最後通告を受け取った。


 やってしまった。

 それが、率直な感想である。


(ううん、別に子どもに罪はなくて……)


 だから「やってしまった」なんて言い方は間違っているのだけど。

 

 ――セフレとの間に子どもが出来るのは、さすがにご法度ではないだろうか。


(しかも、私はあの人が好きで、あの人はそれを知らなくて……)


 ぐるぐるとまとまらない思考。何が正解なのかも分からず、しかしどうすべきなのかは薄ぼんやりとは理解していた。

 なぜなら、以前に聞いたことがあった。

 あの人は「面倒くさいこと」が大嫌いらしい。


『告白とかよくされるけど、正直迷惑だよなぁ。断ったらなぜか泣くし、噂とかも流すじゃん。女同士で固まって、まるでフった俺が悪いみたいな目で見てきてさ。……無理無理、面倒くさい。ほんと、俺には美央(みお)がちょうどいいわ』


 営業部の一番手。みんなの憧れの彼は、実は大学の先輩だった。とはいえ三つ年上なために関わりもなく、その繋がりを知ったのは入社して関わってからである。


 面倒くさいことが嫌いな彼は、私の妊娠をどう思うだろう。


(すごく嫌な顔をされて……責任とれとか言うな、とか言われるかも)


 そもそも。

 彼との関係も、ぐだぐだのゆるゆるの始まりだった。飲み会の翌日、目を覚ましたら隣には素っ裸の彼が居て……という王道パターンだ。そこからは「一回も二回も同じ」と言わんばかりに何度も関係を持ってしまい、今では彼はほとんど私の家に居て、半同棲状態となっている。

 愛や恋なんて関係じゃない。

 勝手に家に住んでも何も言わずに家事をこなし、ご飯も作って都合の良いときに体すら開く女。きっと彼は私に対してそんな認識で、そして私たちはその程度の関係だ。


(どうしよう……)


 ――責任とれとか言うなよ。俺たちそんな関係じゃねえじゃん。きちんと避妊もしてたしさ、面倒くさいことは言いっこなしだろ。


 そんなふうに言われる未来が目に見えて、帰りの足取りも覚束ない。

 帰ってきたマンションの一室。社会人になって住み始めたそこの電気が点いているのを確認して、鍵を開けることさえも躊躇ってしまった。

 素直になんて告げられない。それなら、どうするのが最適だろう。

 

「おかえり」


 部屋の奥から聞こえたその言葉が、ジワリと心に広がっていく。

 彼の声が好きだった。低いけど優しくて、鼓膜に心地良く響く音。だけどもうこれが最後になるのだろうなと、何となく自嘲する。


「体調悪いのにどこ行ってたの。起きたら居なくてびっくりした」

「すみません、ちょっと病院に」

「はあ? なんで一人で行ったんだよ。起こせって」


 内科じゃないんですよ。産婦人科です。それを知ったら、すぐ出て行っちゃうでしょ。

 喉に張り付いて、そんな言葉も出ない。

 別れを先延ばしにして、来るはずの未来から目を逸らす。一秒でも長く、今のままの関係でいたかった。


(あーあ、格好いいなぁ……)


 寝起きのスウェット姿。みんなの憧れの彼のこんな姿を知っているのは、私だけだった。


 仕事をバリバリこなす係長候補の彼は、実は性欲が強いとか。普段パリッとして爽やかな彼は、実は朝が弱くて甘えん坊だとか。

 しいたけと茄子が苦手。魚が好き。味は濃い目が好み。ラーメンは豚骨派。お風呂は浸かるし、シャンプーにもこだわりがある。

 全部全部、私だけの彼だった。

 だけどもう明日には、そんな彼を私は見られない。


「で、大丈夫だった?」


 ぎゅうと胸が苦しくなる。

 言いたくない。だけど、言わないといけない。


「……なんというか、その……」


 テレビを見ていた彼は言いよどむ私を変に思ってか、そちらに向けていた目を私に移した。


「どした」

「……終わらせたいんです、この関係。私もそろそろ、結婚しようかな、なんて……」


 弱虫な私は、やっぱり本当のことは言えなかった。

 卑怯なことに、別れを突きつけられる前に、こちらから切り出すことを選んだ。

 ずしりと空気が重く変わる。それに戸惑う間も無く、テレビを消した彼が「座って」と低い音で私をうながす。


「……何、いきなり。なんでそんなこと言い出したの」

「いきなり、ってわけじゃないんですけど……もうずっと考えてて……」

「理由は?」


 ジッと見つめる瞳が怖くて、つい視線を落とす。


「さ、さっきも言いましたけど……結婚とか、考えてるんです。私ももう、こうやって遊んでる暇はないので、」

「遊び? 何、俺遊ばれてたの」

「それは……」


 そっちじゃないですか。

 喉元で引っかかった言葉は後味悪くそこに居着いて、やっぱり出て来ようとしない。

 言ってやればいい。遊ばれて本気になりました、子どもも出来たから責任取ってくださいよと。

 そうしたら彼も「面倒くさい奴」と言って、私をすぐに捨てて出て行くだろう。

 分かっているのに、それさえも選べない。

 最後まで綺麗でありたい醜い自分が、あまりにもみじめだった。


「とにかく、そういうことなので。……今まで、ありがとうございました」

「納得できない。こんなんで終わりとか……」

「別に私じゃなくても……次の人はすぐ見つかりますよ。それこそ私より面倒くさくなくて、サッパリとした都合のいい人」

「待って」


 彼の手が、私の腕を掴んだ。逃がさないとでも言いたげな力強さがある。


「都合がいいって何? 俺が美央のことをそう思ってるって?」


 ぐ、と腕が締められた。それに眉を揺らすと、気づいた彼は「ごめん」と力を抜いて、ゆっくりと手を離す。

 少しだけ距離を取った。側に居すぎると離れがたくなると分かっているからだ。


「……なんでそう思ってたの?」

「……なんで?」


 だって、何も言われなかった。

 飲み会の翌日のあのきっかけの朝でさえ、彼は焦った様子もなく「まあ、よくあることだろ」なんて言っただけだ。

 そして普通にシャワーを浴びて、普通に出社した。

 二回目も三回目も、特別な言葉なんか無い。一緒にご飯を食べても、一緒に日々を過ごしても、まるで当たり前みたいに日常に溶け込むだけで、恋人らしいことも無い。

 全部曖昧なのは都合のいいセフレだから、という理由だけを押し出して何も言わなかったのは彼なのに、どうして「なんで」なんて言えるのだろう。


「……本当は、結婚したい人が出来たとかじゃないの。だから俺のせいにして別れようとしてない?」

「どういう意味ですか?」

「だから、美央が浮気してたってこと。それで俺の存在が邪魔になったから、俺に遊ばれてたってことにしたんじゃないかって思って」


 不機嫌そうなトーンだった。

 だけどどうして私が責められているのだろうか。


 浮気をした。別れようとしている。

 何を言っているのかは分からないけれど、私たちはそれ以前の関係だったはずだ。


「…………面倒くさい人が嫌いだって、言いましたよね」

「え? うん、言ったけど……今はそういう話じゃなくてさ、」

「子どもが出来たんです。だからもう終わりにさせてください」


 これ以上何も聞かないようにと、俯いて一方的に吐き出した。

 すると彼はどう思ったのか、今度こそビタリと動きを止める。沈黙は異様に重く、どういうわけか嫌な汗が背中を伝う。

 だけどこれで彼は「責任とれとか言うなよ面倒くさい」と言って、すぐに出て行くはずだ。訳の分からない話もせずに、がっかりしたと隠しもしないまま、私を振り返ることもなく、きっとそれで終わり、


「は?」


 低い音だった。

 驚いて視線を上げると、いつの間にか目の前に彼が迫っていた。


「わ、えと、」

「待って、は? 意味が分からない。嘘だよな? なあ」


 ぎゅううと強く腕を掴まれて、先ほどと同じように眉を寄せるけれど、今回は離してくれそうにない。力を込めて解こうとしても、その手はあまりにも強すぎた。


「答えろよ、美央、やっぱりそうなんだろ」

「いた、痛いです、離して!」

「子どもとかさあ、んでそんなもん作ることになってんだよ! おかしいだろ!」

「め、面倒くさいって言われても産みますから!」

「はあ!? 浮気相手の方が大事なのかよ!」


 言われた言葉がよく分からなくて、一瞬だけ考える間を作ってしまった。それがいけなかったのか。彼は隙ありと言わんばかりに詰め寄ってくる。


「子どもに罪はねえからさあ、百歩譲って産むのはいいよ、けど相手の男とは別れろよ! 子どもなら俺にだって育てられるし、俺と住んでるみたいなもんなんだから俺との方が断然暮らしやすいだろ! ……いつから関係持ってたのかとか、父親はどこのどいつだとか気にもなるけどもうどうでもいいから、とりあえずそいつのことは切れ。それなら今回の浮気は許すから」


 彼はものすごく嫌そうな顔をしながら、とても不愉快そうに吐き出した。

 言われた言葉の意味は分からなかった。けれどもしかしたら今、とんでもない間違いを犯そうとしているのではないかと、確信めいた予感がした。

 

「あの……私たちって、セフレですよね?」


 だから一応確認のために聞いたのだけど。

 彼は嫌そうな顔のまま、訝し気に眉を寄せる。


「はあ? 美央は俺の恋人だろ……って、もしかして、セフレだから俺と離れて浮気相手と結婚するとか意味分からないこと言うんじゃないだろうな」

「……恋人?」

「言っただろ、最初に寝たとき……え? 覚えてねえ? え、え、嘘だよな?」


 あの日は、調子に乗って飲みすぎた。

 覚えているのは、最後の店をご機嫌に出たところまでである。


「……うっそだろ……俺、ずっと、大学んときから好きなんだけど……めちゃくちゃ恥ずかしいからもう言わねえぞってあのとき一回きり……えー、まじか……そんで俺、セフレと思われててさ、本命彼氏作られたってこと? じゃあ俺が浮気? まじかよ……」

「え! まっ、だって、次の日『よくあることだろ』って」

「実は大学の先輩だった男が自分のことを好きだったとかよくあるだろ! 少女漫画とかで!」


 はあー、と深くため息を吐いた彼は、力が抜けたかのように座り込んで頭を抱えた。

 怒って尖っていた雰囲気が和らぐ。それはどこか弱弱しくて、泣いているようにも思えた。


「……あの、すみません……」

「いや……二度言わなかった俺も、悪いし……だからもう、美央ばっかを責められないし……」


 けどさあ、と、言葉尻を揺らして続く。


「あんまりだろこれは。……なに、俺は美央と付き合ってると思ってたのに、その美央は他所の男に恋して子どもまで出来ちまってさあ……ありえねー……無理。さすがに立ち直れない」

「……あの……」

「んで何、そいつと結婚すんの? 馬鹿じゃん俺。ほんと、浮かれて馬鹿みてえ」


 ぐす、と聞こえた。泣いているのかもしれないけれど、頭を抱えている彼の表情は見えない。

 違うのに、と思ったら、すぐに身体が動いた。彼が傷ついているのを見るのが嫌で、膝をついて目線を合わせると、俯く彼を抱きしめる。


「すみません……私、勘違いしてました」

「あー、うん。知ってる。セフレと思ってたもんな」

「そうじゃなくって……あの、私も、その……翔悟さんのこと、ちゃんと好きなんです」


 指先が震えた。だけどきっと彼はそんなことを揶揄わないだろうと、そのままさらにぎゅうと腕を強める。


「だけど、面倒くさい人が嫌いだって言ってたから、子どもが出来たなんて言えないなって……別れないとって、思って……」


 シン――と充分に沈黙が落ちた後。

 抱きしめた腕の中から小さく「え?」と、掠れた声が聞こえた。


「え、え? 待って、美央、待ってよ」


 顔を上げて、驚いた顔をして、


「今、色々言われて、何がなにやら分かんないんだけどさ……ひとまず一つ、確認なんだけど、」


 情けなく表情を崩した彼は、真っ赤な目を隠すこともせずにただ小さく呟く。


「…………俺の子?」

「はい」

「……俺と、美央の子?」

「そうです」

「……ほ、ほんとに? いや、ちが、疑ってるんじゃないんだけど、信じられなくて……」

「私と、翔悟さんの子です」


 動きを止めた彼はやっぱり情けない顔をしていたけれど、すぐにパッと笑顔を咲かせた。

 それは歓喜にも安堵にも見える。どちらにしても、今まで一度も見たことがなかった表情だった。


「うわー良かった! まじか、良かった……はー、情けねえー……」


 優しく引き寄せられて、柔らかい力で抱きしめられた。

 情けねえ、なんて言葉が震えていた。だからまた泣いているのかなと、なんとなくそんなことを思う。


「何、じゃあ結婚しようよ」

「じゃあ、なんですね」

「いや、ごめん、ついでとかじゃなくて…………もー今の俺には優しくして……朝からさ、色々あってキャパオーバーだから」

「だけど翔悟さん、これって割と電撃婚ですよ」

「いいだろ、電撃婚。それに俺はずっと美央を好きだから、電撃なつもりはないよ」

「そうですか」


 ずっとなんですね、と。そんなことを言いながら、優しく抱きしめてくれる彼の逞しい肩に、甘えるようにすり寄った。

 

 

彼は意外と一途で誠実

(でも一見してそう思われない)

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