序章
宇佐太の文学を楽しんでください!
純文学を初めて読んだのは、十歳の暑い時季だった。その年は、母と夏休みに、岩手に行った。盛岡や遠野じゃなく、花巻に行った
花巻には、宮沢賢治の世界が沢山あることを母が教えてくれた。そのときは、宮沢賢治なんて、誰かも知らなかったし、興味もなかった。ありんこと同じだった。僕の生きる中でただすれ違う、見かける、それだけだと思っていた。だけど母は僕と違って、宮沢賢治が好きだった。特に好きだと言っていた作品がグスコーブドリの伝記という本だった。いっつも楽しそうに、清らかに、明るく、時には暗く読んでくれた、宮沢賢治の世界観を音だけで伝えてくれた。
それは新幹線の中でも同じだった。母はボストンバッグから一冊の絵本を取り出した。僕の入れそうなバックだったのを今でも覚えている。大した日数も泊まらないのに、異様に大きかった。といっても、僕はクラスでもちびな方で、背の順ニ列で並べば何時も先頭に立っていて、前ならえなんて腰に手をつけたことしかなかった。
母から絵本を受け取って、表紙を覗く。そこには、群青よりは少し明るい綺麗な青の中に真っ白な斑点がまだらに入り混じっていて、下腹部には赤茶色い列車が描かれていた。心臓が奪われそうになった。 母に本を返して読んで、という視線を送ると、やさしく頷いてくれた。少し硬い表紙と、薄い中の紙が擦れてかわいい音がした。ふいに片頬に触れた暖かさがやさしかった。
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」色彩が放たれた。赤や黄、青ではなくて、もっと違うわかりやすい色だ。奏でられた色彩から生まれた向日葵が頭を撫でてくれて、ヒヤシンスが猫のように膝に擦り寄ってきた。右手では、桃が傷を宥めてくれて、左手の甲には、桜桃がキスを落とした。千草色のにょろにょろが、やさしく小指に絡まって、運命の赤い糸みたいだ。あやかしの泣き声や囀りを聴いているよりも、おおらかな、かつ、繊細な気持ちでいられた。春眠暁を覚えず、三人寄れば文殊の知恵が重なったように楽になっていくのが、耳やら指先やらまでに伝わった。
「かっか、お花が沢山、僕とお話ししてくれるよ、笑ってるよ緑色に」
母はおかしな顔をした。笑ってないし、困ってないし、怒ってもないし、悲しんでもいない、それでも刹那に心なしか揶揄された気がした。自意識過剰も甚だしいと揶揄されるのは目に見えていた。青だよ。ハルジオンになった気がしたそれも萎れたハルジオンだ。なにも言われなかった。母は、僕の言葉を無視して、絵本を読み続けた。そこで明確になった。ハルジオンとヒメジョオンは違うんだと。
風が吹いた。耳に入り込んでくすぐったい。目も乾いた、重たい瞼を閉じ、再度開ける。息を、飲む。さっき吐き出したばかりだからか、鼻からごっふ、と二酸化炭素が溢れた。夕闇空に宝石が光っていた。陽の深いところでは、水面が群青に谷を作っていて、陽の浅いところでは、渚が透けるアクアマリンの水が住んでいた。ほのかに光る翡翠の星が異様に僕を誘い込む、勧誘のようで少し恐れをなして縮こまった、肉体から骨まで枯れた喉を潤しながら。白銀の飾り付けが小さい頃のイルカ声を響かせて、綺麗に映し取っていた。足許を緩やかな透き通った空気が取り巻き、花や草木が微笑み、鳥が渚を示した。脈を打ち、喉元を鳴らす。痰が絡んだような感覚が、鎖骨あたりの神経を縛っているのが歯痒くて、神に祈るのに意味がないと感情が揺らいだ。ふとした瞬間、翡翠が髪に降りてきた。こめかみあたりに降りて、輝いた。髪留めでもないし僕の瞳でもない、世界が輝いた。
「かっか翡翠が揺れて、植物と踊れるよ」
また風が吹いた。朝焼けの生暖かい風だ。土煙にまみれた顔で、母がにやけたように錯覚したのは、子供とて心底気に食わないと叫びそうだ。
こぺん、となにかが床に弾んだ。亀になった気分で足許に屈み込み、床と並行になると、薄濃く爽やかな青を纏い、ところどころ金色の線が青を引き締めるかのように帯びている万年筆が空っぽけに落ちていた。自然と手が疼いて、万年筆へと伸びてゆく。軽く握って胸許に持っていく。そっと無意識にでた左手で万年筆のキャップを包み、少し力を込めて左に引く。締まりの固いキャップは、想像よりも弾けるようにしてはずれた。鼻がなにかにくすぐられた。くしゃみが軽くでて、眼を同時に閉じさせる。くしゃみをしたまま眼を開けていると、目玉が飛び出るらしい。空中で炸裂したものが床にに飛び散るとともに眼を開く。少し蛇口が緩んだのか、つーっと直線に頬が生ぬるかった。それを、膝を服のなかに折り入れる癖でよれよれになった襟で擦り上げる。摩擦に負けた肌がぽろぽろと雨となって降った。視界がぼやけて霞がかかって、刹那に晴れた。人間の生暖かい吐息が神経に触れて、肌が山のように立つ。生物のわななきやら、ニトロやらが頬を叩いた。
気づけば、鼠色の壁に、青い座席が並んだ少しボロそうな列車の中にいた。斜め前に視線をやると、青い座席に黒上着を羽織った長身の少年が窓から頭を出しているのが見えた。そんなことしてたら頭、千切れるよ。吐息に混じらせて、ぼそぼそと呟くいた。これは悪い癖だと、先生が言っていた。
その少年に気付いたのか、貧乏そうな少年がすぐそばに立っていた。黒上着の少年はなにかを喋り始めた。同時に生ぬるい、湿った空気が流れた。
「みなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」
ひしひし、やつらみが抜けて排出され剥がれてゆく声だった。何か思ったのか気付いたのかで顔を変えた貧乏少年は
「どこかで待っていようか。」
と問い掛けるも、苦し紛れな声で黒上着の少年に、ザネリという者は父と帰ったと知らさせた。貧乏少年はなんだかよくわからない表情を切り取って付けたが、もう一人は元気だった。水筒やらなんやらを忘れたけどそれはよくて、白鳥を見るのが好きだとか、無茶苦茶に言いたいように話す。僕は座席を電車の陰でくしゃくしゃにしまぜこぜにして立ち上がり、黒上着の少年と、貧乏少年のもとへと向かった
揺れているようなないような車両の上を黄色い電燈を揉み消して歩くと。数歩ほどで少年等の元へ着いた。少年の元には黒色の地図が置いてあった。その地図は暗闇の中に、停車場や泉水とかは、青や緑、橙で細かな光まで散りばめられていました。
「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ。」
貧乏少年の発言で、黒い地図は黒曜石の地図だとわかりました。貧乏少年の明るい声帯に併せたのか、黒曜石の地図が、白銀に光をあげ始め、瞳を刺激した。雷鳴が怒号を鳴り響かせ、豪雨が嘆きをあげた。痛い、痛い、痛い温かい液体窒素が瞳に語った。貫くように、溶かさないように。耳で囁かれる少年の声。口に入る使い捨ての空気。鼻から出る役目終了の音。すべてがいとおしく、儚く、不必要だった。
「かっか。黒は、悪者でも、光れるんだよ」
感情動向を口に出せば出すほど、胸や肺が圧迫されて、ならけた空気が震えてでる。宙を震撼させ、けだまする。花が蕾から開花するとき、蝉が殻から抜けて、透明に輝くとき、人は誰しも感受性を輝かせる。今だって僕も同じ。胎児じゃなくて僕なんだ。母はずっとへんてこな顔を貫く、それも僕を見るたんびに唇を、深く真ん中をへこませたハンガーのように折り曲げている。僕はそんな顔が嫌いだ。国会の身勝手な政治家より、綺麗事への理解のない奴より嫌いだ。母からの圧迫感は、僕の頭に深く縫いをつける。玉結びをした細い糸と針で、薄っぺらい布の肌を刺して、深くまで貫通させ、引っ張られる。そして、また、器用に波を描いて刺す、いつか糸が終わりを告げる。そして玉止めをし、ぱちっと糸を切り、終わるはずだ。だけれども、この裁縫には終わりがない。なんメートルも続く長細い糸は、人を紡ぎ、人を切る。母の教えは刺繍と同じ、僕の頭に縫い付けられ、紋様が咲き、躾となる。ほつれはするがぼどけやしない。終わりのない、きせい。親子を繋ぐ真っ赤な糸、僕と繋ぐ真っ赤な糸。早く、途切れないかな。
すすきが揺れた。血液のようにさらさらと動き、アルミニウムを纏っていた。群青に宿るアルミニウムが妙に輝いて見えた。美しかった、揺れた。
ぷつり、。糸が切れた。物語の糸だった。すすきなんて、目に見えなかったし、何時もの楽しさの欠けた青空と、いびつな吐息があわを吹く、有象無象な新幹線の中にいた。さっきまでいた、ジョバンニやらカムパネルラは居なかった。今はもう、抽象的に言えば、皺の寄せられた計算用紙が目にしみるのだった。夏休みだというのに、ピンと張った上等な計算用紙は、あまり見当たらない。ジョバンニやカムパネルラのような紙が、これっぽっちも。
「かっか。カムパネルラとジョバンニがいないよ」
「…。今日はここでおしまいね」
そう母が言ったときには、既に本は閉じられていて、深い谷のあやかしが背後でうずめいている気がしてきた。
「うん、ありがとうかっかは読むのがじゃうずだね」
「北斗は書くのが上手よ、」
「このあいだの作文、素敵だった」
「じゃあ、僕が書くから、かっかが読んでよ。僕、小説家になるよ」
ずっと祈があった。
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