095 クラスティ・タイクーン・ロード
◆ Chapter1.01
ひんやりした空気のなか桃の花びらがひとひら、ふたひらと舞っていた。
絶景といってよいだろう。削いだような岩肌を見せる峰が雲間から突き出している。頂上やちょっとしたくぼみには申し訳程度の緑を貼りつかせているが、その様子は刃物のようだった。
遠景ゆえに大きくは見えないが、クラスティが身を横たえた四阿や廟と比較をすればどの頂も数キロメートルの横幅はあるはずだ。
空はくすんだような縹色だ。雲海の上に突き出したこの仙境だが、空気が薄いとか凍えるといった不都合は感じられなかった。肌寒くはあるが、ゆったりとした道服をまとえば気になるほどではない。
〈坐街〉で溢れた長椅子に身体を投げ出したクラスティは、放埓な姿勢のままその遠景を視界に収めていた。
この四阿は四方の壁を取り払っている。
雲の上に存在するこの場所では雨は降らない。
美しい色瓦で作られた屋根も本来必要ないのだ。風も強くはふかない、いたって穏やかで静かな場所であった。
谷底から風が吹き上げれば桃の花びらが枝からはなれて、香りと共にクラスティのもとへも届いた。視界の端でクラスティは裾についた花びらを見るが、取り立てて払うでもなくにはそのままに任せた。
長椅子の足元へ大きな体を横たえた犬狼がのんびりとした仕草で尾をふったので、クラスティは毛並みをなでてやった。見かけよりも甘えたがりの犬なのだ。
その犬狼がゆったりとした仕草で尻尾で床をはたいた。
「仙君さま、ごはんできましたよ」
そちらへ視線をやると、花貂が現れたところだった。挨拶も抜きにして用件を伝えてきたこの少女は、〈白桃廟〉でクラスティの世話をしている従者である。色褪せてはいるが綺麗な藍色の襦裙を着た少女は可愛らしい丸耳を備えている。
「もう昼食ですか」
「そーですよ。お昼ですよ。お日様さんさんじゃないですか」
「そうですかね。なんだかぼんやりした天気ですけど」
「仙境ですからね。お日様も手加減してさんさんですよ。良い気候で素晴らしいですね。さあ食堂に」
「面倒くさいですね」
「そうおっしゃると思って思って台車にもってきました。花貂は気が利きますから」
そうですか、とクラスティは答えて身を起こした。
空腹だとは言えないが、さりとて食べられないほどの満腹でもない。茫洋として取り止めがない感覚だが、どうやらそれはこの仙境とよばれる場所の基本属性らしく、ここにたどり着いてふた月の間にすっかり慣れ親しんでいた。
そんなクラスティの態度を許可だと受け取ったのか、花貂は甲斐甲斐しく配膳を始めた。花貂は多少煩わしいところはあるものの善良で献身的な従者なのである。
餐卓の上に並べられたのは野菜炒めの乗った米飯と琥珀色のスープだった。
クラスティがここへたどり着いたころ、花貂は全く料理ができなかった。どうやらこの廟には料理人はいないらしく、花貂たち貂人族はそちら方面の才能が全くもって欠けている。
それだけならまだしも、天吏(天宮の役人)を任ぜられているという彼ら一族は、格式にだけは厳しくて、一回の食事に十数品の皿を用意しようと努力するのだ。その結果、野菜くずや消し炭を十品も二十品も並べていたのだから悲しくなる。
クラスティの指導でここまで持ち直した結果がこの野菜炒め丼だ。見た目は質素になったが味の方ははるかにましである。
さっそく箸をつけたクラスティはそのまま半分ほど食べ進めた。
もとより品が良い白皙のこの青年は何をしていてもそれなりに礼儀正しく見えるという特徴がある。これだけ体格の良い戦士でもあるので、その食べる速度はけっして遅くはない。遅くはないのだが、背筋のすっきりのびた姿勢のせいで優雅に見える。野菜炒め丼を食べていてもそう見えるのは得というほかないだろう。
餐Lhの下の犬狼は、花貂からもらった素揚げ肉にかぶりついていた。この犬、空腹になれば峠を下って適当な魔物を狩って食べるのだが、それはそれとして少女からもらう食事もデザート感覚で楽しんでいる。なかなかに利口な生き物なのであった。
そんなクラスティと巨大な獣の世話を花貂はくるくるとこなす。料理はからきしだが茶を入れるのは得意なのだと茶器を用意している。
貂人というのはいたちの精なのだとか。
小さくてまめまめしい者たちだ。
スープを一口飲んだクラスティはそんな様子の花貂に声をかけた。
「上手にできてますよ」
「そうですか! よかった。仙君さまは気難しいから」
そうですかね。と呟いて小首を傾げる。
気難しいのだろうか。
そもそも食事の準備だって、朝食と夕食はクラスティが担当しているのである。従者とはいえ家事は分担とクラスティが考えているせいだ。
クラスティ本人は食事は栄養がとれて最低限まずくなければそれで良いと考えるタイプであるし、別段花貂たちの作る食事に声を荒げたことなど一度もない。さすがに消し炭や色の濁った奇妙な煮汁などは味以前の問題だから改善を求めたが、それを指して気難しいと言われるのも心外である。
とにかくクラスティ自身は花貂たちを責めたことは一度もないのだ。
もっともそれはクラスティの意見であって、花貂たちの視点ではおのずと見える景色も違う。
クラスティは家事分担とあっさり考えているが、自分たちが世話をすべき客人クラスティが毎晩の夕食を作っていること。その料理は見目鮮やかで品数も多く、外つ国の珍味が惜しげもなく供されること。はては夕食の準備とともに翌日の朝食の仕込みまで終わっていることなどは、花貂たち従者にすれば強いプレッシャーを感じるのが当然ともいえる事態だった。
花貂たちは「仙君さまは大層な美食家で、自分たちの作る昼食はいやいや食べているのだ」と誤解をしてしまっているのだ。
このすれ違いの原因はクラスティの使う〈新妻のエプロン〉なのだが、そこに気づくものが居なかったために話はこじれてしまっているのである。
そのうえぼんやりと桃の花を見ながら「昼食は気が向かない」などと言い出すのだから、花貂にすれば内心冷や汗を垂らすのもやむを得ないといえるだろう。
気難しいと思われている
→そんなことはない。世話には感謝している。
→その意思は伝えるべき。
→夕飯は美味しい食事を作るか?
→普段から作っている。
→礼の言葉を述べるべき。
→真面目に受け取られたことがない。
→気難しいと評価による実害は?
→特にない。
→対策コストを支払う必要もないのでは?
特別に対応することでもないか。
一方クラスティは生真面目な表情で箸を置きながらそう結論した。
そもそもこの世に起きる出来事ほぼすべては取り立てて何か特記するほどのことではないのだ。
気難しいといわれて困ったな、どうすべきかと検討したが、考えてみれば困ってはいなかった。そう見えるのは、つまり、そう見えるのだろう。「そうなのか」「そうなのだな」という対応しかとりようがない。それに別段そう思われていても実害はないようだ。
「朱垣さまから食材差し入れがありました」
「それはありがたいな」
しかしそんな考えはクラスティの内部で行われた一瞬の自問自答であって、花貂は気づかなかったようだ。嬉しそうにスカートの裾をふんわりと動かして指折り数えはじめる。
「鶏、猪、鹿、山雉に鴨、鰻。豆腐に青菜、葱に白菜。米に砂糖に辣に麻。真っ白い麦に茶色い麦もありますよ」
「それでそんなににまにましてるんですか」
「してないですよ?」
クラスティが尋ねると、花貂ははっとしたように頬を押さえた。自覚があったらしい。
嬉しいのだろうな、とクラスティは察した。
ここ仙境は非常にのどかな場所であって、桃や杏などの果実は最高級のものがいくらでもとれる。一方で穀物や海産物、獣肉などをはじめとれないものがいくらでもあった。バラエティ豊かでおいしい食事を作るためには、様々な食材が欠かせないし、それらは下界から届けてもらうしかない。
とはいえこの場所も一応は仙境、天宮の一部であるので麓との往来はそれなりに難しい。〈天狼洞〉という魔物の出没する長い迷宮を通り抜けないと行き来することはできないのだ。一般の民間人には難しいことである。
朱垣は〈冒険者〉であり、〈天狼洞〉を安全に利用できるその少数であった。また、クラスティを発見してここへ運んでくれた人物でもある。
「挨拶くらいしましたのに」
「お仲間様がいらっしゃったんですよ。本日は〈大型狼〉を捕まえるそうです」
そうですか、とクラスティは返した。朱垣は一党を率いる立場であり忙しいのだろう。花貂のほうはといえば、いただいた食材のことで頭がいっぱいのようだ。そわそわするその様子はいっそ判りやすいほどだ。
「蜜や卵はありました?」
クラスティがそう尋ねると我慢もしきれなくなって尻尾がぴんとのびてくる。その先は空中に∞のマークを何度も描き出した。
貂人族は甘味が大好きで、昔からの食事は果物が多い。そんな彼らにとって砂糖や卵を使ったこってりとした焼き菓子はカルチャーショックを与えたようだ。一度ふるまってから異様なまでに食いついてくるようになった。きっと今回も菓子を作ってくれるかどうか、気になって仕方がないのだろう。
焼き菓子を期待されている。
→自分は菓子職人でも料理人でもない。
→しかし簡単なものでいいのなら作れる。
→簡単な焼き菓子の候補。
・マドレーヌ
・マフィン
・クッキー(作成済み)
・タルトタタン
↑レシピ上作成は可能だと考えられる。
→簡単とはいえつくる理由はあるのか?
→ない。
→自分が食べたいか?
→甘味に執着はない。
→作らない理由はあるのか?
→ない。
・手間や時間の浪費考察。
→仙境においては無視しうる。
「いいですよ。夕食には甘味を出しますよ」
クラスティは答えた。
花貂はと言えば声にならないほど笑み崩れる。現金なものだ。
人化の術を使ってクラスティの前に現れるのは花貂や星貂をはじめ数人しかいないが、彼らの働きで〈白桃廟〉が保たれているわけだから、たまに差し入れをサービスする程度であれば拒むほどではないだろう。
どちらにしろこの仙境の生活は時間の流れが緩慢すぎるのだ。
思索の種がたくさんあるとはいえここは退屈すぎる場所だ。月夜に抜け出して鬼を斬ったり、料理番のまねごとをするくらいしか暇つぶしの手段がないのである。
クラスティが箸を置くのをのぞき込んでいた花貂は耳をひくひく動かして感謝の言葉を述べようとしたようだ。律儀な種族である。
しかし感想の言葉を待っていたのだが、声をかけようとした瞬間、緊張の色もあらわに背後を振り返った。くんくんと空気の匂いを嗅ぐその姿に、いつの間にか強まった風に梢が揺れた。
空気の中に湿気がこもり始めたようだ。雲海がせりあがってきたのかもしれない。そしてその気配の変異は来客を伴っていたようだ。
視線だけで素早く左右を伺い少しおびえて見える花貂に、クラスティは「ごちそうさまでした。シーツを代えておいてもらえませんか?」と助け舟を出した。
花貂はその言葉を幸いと「かしこまりました」と廟のほうへと走り去る。
クラスティは四阿の長椅子の上で、軽く身だしなみを整えた。
仙境はアキバにくらべて確かに退屈な場所だ。しかし、ここを訪れる客はどの一人をとっても変わり者ぞろいである。面白い相手と、面白くない相手を思い浮かべたクラスティは、薄い笑いを浮かべたまま来訪者を待ち構えた。
◆ Chapter1.02
五分と経たないうちに現れたのは妙齢の美女だった。
暗色のベールをつけたその容貌ははっきりとはしないが、黒くつややかな髪と赤い唇、柔らかい曲線を描く身体が鮮やかな翠玉色の道服に包まれている。甘いがどことなく古めかしい香を焚き染めた女性は、どこからともなく現れて、気が付くと四阿の中にいた。
「ごきげんよう、クラスティ様」
「ええ、おかげさまで。|葉蓮仙女《ルビ:ようれんせんにょ》さまもお変わりなく」
「葉蓮とお呼びくださいといっておりますのに」
おかげさまとは言ってみたものの、クラスティはおかげもさまも取り立てて恩を感じていない。しかし礼儀正しく返事をした。人間というのは礼儀正しくしておけばたいていは満足してくれるものだということを、クラスティは学んでいる。
いいや、そもそも礼とは一種の同族確認なのだ。
猛獣と道ですれ違った場合、いきなり頭からがぶりと食らいつかれるかもしれない。異種族とはそういうものである。猛獣であるならばまだいい。蛮族であった場合、同じ人間なので見かけでは区別がつきにくいが、常識が違うのでいきなり血まみれの両手斧を叩きつけられるかもしれない。同族だと思っていて不意打ちを受けてはたまらない。しかし、道を歩くときすれ違う誰彼を一人残らず警戒するのはとても難しいし手間がかかる。
礼とはそれを省くための手段だ。
わたしはあなたと言葉が通じる同族ですよ。
いきなり頭蓋骨の中身に興味を示したりはしませんよ。
そういう確認をするための儀式なのだ。
人間というのは他人の内面などにそうそう興味を抱かないものである。それ故最低限の保証、つまり自分に対して唐突な危害を加えないということさえ分かれば後は鷹揚なのだ。
まあ人生そうそううまくはいかないものだ。突然の災害、突然の豹変、突然の狂人。人生の本質は実はそちら側であるとクラスティは考える。いや、知っている。基本的にこの世界は理不尽な混沌のサーカスなのだ。何でも起きうる空間だ。
そこへ行くと目の前のこの女は面白みに欠けた。
普通に俗事をたくらむ凡骨だ。
もちろん信用できないのではあるが、かといって嫌うほどかと言えばそういうわけでもない。突然目を血走らせて襲い掛かってくるほどの意外性がないのだ。その意味では期待はずれである。
どこにでもいるのでどうでもよい。それが偽らざる感想だ。
面倒くさい。できればかかわらないでくれればいいのだが、残念ながらこの仙女を名乗る女性は、自分なりの世界と目的がある。つまり、話を聞かないタイプだ。
「お身体の具合はどうですか? ご記憶は?」
「特に問題はないですね」
肩をすくめて答えた。
中国サーバーに飛ばされて意識を取り戻してから身体の調子は良くも悪くもなってない。〈魂冥呪〉と名づけられた一八〇レベルバッドステータスもそのままだ。
――HPの自然回復は停止する。
――回復呪文および施設、物品などの手段よるHPの回復は不可能になる。
――念話機能は停止する。
――サーバーを越境しての移動は不可能になる。
――記憶は失われる。
バッドステータスの効果内容は多岐にわたり深刻だ。欠損のある記憶に照らしても、ゲーム時代にはあり得なかった内容であることがわかる。
巨大な犬狼、求聞に背負われてこの仙境にいたったクラスティだが、そのクラスティを助けた朱垣も花貂も青ざめていた。前代未聞の恐ろしい|呪い《ルビ:バッドステータス》なのだそうだ。怪我をして失ったHPが帰ってこないのだから、言われてみればそうなのだろう.
クラスティの現在のHPは五千三百といったところ。最大時の約半分だ。
警告するようなその表示は禍々しい赤色を持っていた。しかしクラスティは特に動揺も痛痒も感じてはいない。
もちろんHPは半減しているが、別段それは大騒ぎするほどのことでもないように思えるからだ。HPというのは戦闘におけるリソースであり、強敵と戦う場合のこちら側の耐久度を表す。つまり、敵と戦う道具だ。
今クラスティは排除しなければならない明確な敵がいない。
つまりHPがいくらあっても無駄だし少なくても問題がないということになる。
また仮に敵がいたとして、その敵と戦うためにHPが一万必要だとしよう。その場合生じるのは「どうやってHPを一万まで増やすか?」、「どうやってHP五千でその状況を打破するか?」という新しい課題であって、それは悩みでも痛苦でもないように思える。
不便か? と問われれば、そうかもしれない。そうかもな、程度には思う。
だがしかし問題があるか? と問われれば、特にないだろう。
「問題がないなどと、気丈なお振舞……。痛ましく思います」
どちらかというと気鬱に感じるのは眼前のこの女性だった。
薄絹に目元を隠したままだが、クラスティを見上げるように声色でクラスティに話しかけてくる。この会話は、心配の意思表示なのだろう。何らかの反応を期待されているのだろうとはクラスティも理解できる。
→なぜ心配をされたか?
→善意。
→可能性は薄いのでは?
→善意だとしても一方的である。
→交渉の一環。
→こちらが困窮しているという言質を欲している。
→困窮はしていない。
→一般論ではしてるのでは?
→そこから助力を売りつけてくる。
→前回の会話からして蓋然性が高い。
→情報収集。
→記憶欠損の程度確認?
→確認ができるような知己なのか?
→知己かどうかの記憶も怪しい。
→動機を推し量るほどの興味があるのか?
→興味を持てるほどの動機なのか?
→循環論法。
そんなわけでクラスティも併せて肩を落としてみせた。
別に落胆しているわけでもなんでもないが、雰囲気に合わせるという処世術だ。おおよその場面はこの対応で問題ないと経験済みである。
求聞の耳の後ろを掻いてやる方が前向きだし建設的だと思うのだが、話の最中にそれをやると礼を失したことになるらしい。花貂などは露骨に不機嫌になる。
「実際不便は感じませんよ。ここは穏やかな場所ですし、日がな一日、桃の花を眺める生活ですしね」
「――記憶がないというのは恐ろしい事ではありませんか」
仙女の言葉にクラスティは言葉を切って検討した。
言うほど恐ろしい事だろうか?
記憶がなくなったならばその記憶を取り戻そうという動機も同時に無くなるわけであって、とりたてて取り戻さなければならないという気持ちにはならないようだ。自分は世間でいう薄情な人間なのだろうな、と思う。いやいやいや。リソースを管理しているだけなのではないか? という疑問もある。結論を出す必要のない問いだ。こんなことを考えていられるのも、要するに暇なのだろう。
クラスティは「そうでもないようですね」と小さく笑った。
「なにが面白いものですか」
今度こそ仙女を落胆させてしまったらしい。
滑稽なことだとクラスティは内心思う。
「クラスティ様」
手を取ろうとした仙女の白くほっそりとした指先をクラスティは避けた。
「その呪いはだれにも治せぬ未知の呪い。放置すればどれだけの災禍を招くかわかりませぬ」
クラスティがこやかな表情のまま見つめると、仙女は何度か受けた治療の申し出を繰り返した。
「わたしはこれでも治癒の仙術をつかさどるもの。月に住む西王母さまからその術を授けられました。クラスティ様さえ許していただければ、仙丹を煎じてさしあげたいのです」
「苦いのは苦手ですから」
クラスティは微笑んだまま謝絶した。
だれにも治せぬ未知の呪いなのに仙女の煎じた薬で治るというのか。
それでは「治せぬ」ほどでもない。
そもそも仙人だの仙術だのがうさんくさい。
いや、クラスティとしても仙女の言葉を頭から否定しているわけではない。そういう超常の技というのはあるのだろう。一年中実る謎の桃があるような秘境だ。その程度のことは存在しうる。クラスティ自身からして、周囲の言葉によればその仙人とやらの末席のようではあるし、それはよい。
しかし、葉蓮仙女の弱みを確認してきてから善意を押し付けてくるやり方がきな臭い。声を荒げて非難するほどの熱はもたないが、積極的にかかわりあいたくもないものだ。
この女性につきまとう芝居めいた雰囲気もつまらない。その雰囲気の奥に何かがあるかと言えば、多分、無いのだ。この芝居めいた雰囲気、考え方そのものが彼女なのだろう。つまり仙女はその善意が――善意なのだか利得なのだかはわからないが、通じると思っている。ほかの人にも認めてもらえると思っている。そのやり方で事を為せると思っている。
クラスティが同意すると思っているのだ。
穴だらけの記憶では女性というものの多くはそうであるので別段仙女だけを差別するつもりはないのだが、退屈ではある。同意することを目的とするのならば、素直に同意書なり契約書なり渡せばいいのだ。条件が妥当なら簡単に話が進む。
その段階へ進む前の有利を求める言質の取り合い。社交ではあるのだろうし、必要なことでもあるのだろうが、腐臭がするのも事実である。
どこにもつながっていない感じとでもいうだろうか。
この関係を温めたところで、クラスティは何ら新しい知見を得られないだろうし、利益はともかく損失すらも得られないだろうという予感がする。
や のようにからかって楽しい訳でもない。
クラスティは肩をすくめて桃の花の舞う遠景に視線をやった。
山を下りようとするのは自殺行為だと言われているためまだ試してはいないが、この調子であればどこまで本当だかわからないものだ。ひととおり傷も癒えて周囲の事情も学び終わった今、この仙境は退屈に過ぎた。
そろそろ何かが起きなければ生あくびをかみ殺すだけで時間が過ぎてしまう。とはいえ下界に降りても当てがあるわけでもなく、そうなると記憶がないのは不便なものかな? と思った。しかしより考えてみれば中国サーバーに知己などもとよりいないのだから、記憶の有無など問題にならない。やはり不便だというほどでもないようだ。
仙女は誠実そうな声でクラスティに話しかけているが、クラスティは片手間にそれへと答えながら求聞の耳の後ろ、柔らかい毛並を掻いてやっていた。
あわてなくてもいずれ騒動が巻き起こることを確信しながら。
クラスティの人生で退屈が半年続いたことなど、記憶にはないのだから。
◆ Chapter1.03
「肉食スタイルっ」
くるくると回って両手の骨付き肉を構えるカナミにレオナルドは「静かに食えよ」と答えた。
この国の空は広い。
ひとつの空に青空と夕焼けと紫の薄暮が同居できるほどだ。
毎日のように訪れてその実一度たりとも同じ色にはならないのそのグラデーションの下で、カナミ率いる一行は今日も極寒の冬空の下、野営中である。
商人ジュウハと合流し、そのあと分かれ、北へ、南へ。実に様々なことが起きる旅だった、レオナルドはそう思う。いいや油断はできない。旅はいまも現在進行形なのだ。
「毎晩毎晩愉快な食事ですね」
まじめくさった表情の春翠は大地に敷物を敷いただけの上に腰を下ろし、椀から汁ものをすすってそういった。〈楽浪狼騎兵〉に所属する巡廻師の女性〈冒険者〉だ。今では毛皮を着てもこもことした姿になっている。
「カナミに落ち着けといっても無理というものだ」
袖で磨いた乾果を白い歯で齧ったのは〈古来種〉英雄エリアス=ハックブレードだ。そのエリアスにも甲斐甲斐しくスープを給仕するメイド服の少女は、〈施療神官〉のコッペリア。
ふくらみの少ないパンをほおばるレオナルドと合わせて、この五名が現在の旅の一行であった。
「落ち着きがないとは思ってたけど、ここまでとはなあ」
「北に助けを求める声あらば向かって悪漢にパーンチ。南に貧しい村があると聞けば向かって凶作にキーック」
凶作にキックしてどうするんだ。バカじゃないか。
レオナルドは胡乱げなまなざしでカナミに釘を刺した。
言葉の方は脱線して戻ってくる気配がないが内容自体は悪い意味で真実である。中央ユーラシア、アオルソイでの冒険を終えた一行は、今度こそスムーズに東の果て、ヤマトを目指すのかと思いきやそうもいっていない。
〈列柱遺跡トーンズグレイブ〉の一件が九月だから、もうかれこれ三か月の間荒野をふらふらしているのだ。
まあもっとも、シルクロードの旅というのは半年一年かかることも珍しくはなかったというから、その意味ではかかりすぎと断じることはできない。
旅をし続けるというよりも、立ち寄った村では三日や一週間滞在して休息をとることも珍しくはない。一緒の方向に行くキャラバンがあれば同道するために十日やそこらの時間を合わせるのは常識だ。
そういった行動は〈大地人〉にとって荒野の自然やモンスターの危険から身を守るための知恵だが、〈冒険者〉であるレオナルドたちにとってもバカにはできない。
確かにレオナルドたちは〈大地人〉の数十倍の戦闘能力を持っているが、〈テケリの廃街〉の一件もある。荒野や周囲の地勢に対する知識がないというのは致命的な結果をもたらすことがありうるのだ。仮に命にかかわらないとしても、曲がりくねった渓谷で道に迷えば容易に数週間の時間を無駄にしてしまう。
やはり現地の街道や通行に詳しい〈大地人〉の知識は無視できない。
もちろんそういった「普通の」事情によって旅が長期化しているのは確かなのだが、だが一方で、カナミの人助け癖というかトラブルを探知する才能のせいで旅程が遅れているのも事実だった。
ツルクールでは大河を支配して暴れていた〈砂亀妖〉を倒し、名もなき寒村ではスイカの種にコッペリアが祝福を与えて畑を作った。
黒風山では邪悪な狸の妖怪、黒狸族がカナミのホットパンツを盗むというとんでもない騒ぎに巻き込まれた(霊力がこもっているのだと思ったそうだ)。黒狸族の首魁、黒狸大王のおなかの毛を白くする霊薬を作るために、七つの材料を集めることになったのだ。……レオナルドが。
(オーマイガッ)
思い出しても頭が痛くなる。
カナミが突貫して、コッペリアが無表情に続き、エリアスが引きずられてついてゆき、レオナルドが後始末をする。炎上プロジェクトの敗戦処理係か。こんなひどい話アベニューでも聞いたことがない。
カナミと一緒にいる限りトラブルの導火線が尽きる気配はしないが、今日は、今晩のところは、どうやらもめごとも品切れのようでやっと穏やかなキャンプというわけだ。それだって十分に騒がしいが。
「草原の都までずいぶん近づいてきたかな」
「そうですね」
指先についた脂をなめた春翠は頷いた。
「このまま山脈沿いに進めば一週間もかからずで到着します」
それが〈楽浪狼騎兵〉に所属するこの女性冒険者と旅を共にしている理由だった。草原の都こそは中央ユーレッドの終点、中国側から見れば本格的なシルクロードの起点ともなる街だ。西側から見るのならば、その先はいわゆる「中原」だといえるだろう。つまりこのあたりは、現実世界でいえばモンゴルだとかそのあたりに位置するはずである。
ヤマトを目指すカナミ一行(不本意だがレオナルドもそこに含まれる)からすれば、草原の都は東を目指すマイルストーンであり、春翠からすれば帰還を目指すギルドの本拠地でもある。
道案内を求めるカナミたちと帰還戦力を求める春翠の思惑が一致した結果である。
とはいえレオナルドとしては、どうやら混迷の度を深めているこの地の状況において、大手ギルドには所属していないよそ者の自分たちに〈楽浪狼騎兵〉が関心を持っている――はっきり言えば監視なのではないかとも思っている。
もちろん監視とはいっても別段それだけで反発を覚えるような類のものではない。誰だって自分の置かれた状況の中で不確定要素があれば調べようと思うし、バグがあるかどうかわからないコードでも「なんだか処理がどこかでつまりそう」だという勘が働くのがエンジニアだ。カナミなんて言う地雷を抱えていると、警戒されて当然だとも思う。
それにレオナルドたちだってこの近くで何かトラブルに巻き込まれれば〈楽浪狼騎兵〉を利用する気はあるのだ。こちらが利用するつもりなのに相手にそれを認めないというのは、フェアな態度ではないだろう。
「草原の都かあ。そこまで行ったら馬欲しいね」
「馬欲しいのか」
「うんうんっ」
カナミは勢い良く頷いた。
乗馬ができるなんてエスタブリッシュメントなんだな、とレオナルドはつぶやいたが、エリアスが教えたのだそうだ。
KRの件で味を占めたのかもしれない。友人を乗り回すとか嫌な感じだが、あれについてはKRのほうも悪ノリしていた風情があるので、レオナルドは態度を保留した。
「馬、ですか」
思案顔の春翠に、エリアスが「何か問題でもあるのか?」と尋ねる。
春翠は軽く否定をしてから話し始めた。
「馬も、〈馬召喚の笛〉のアイテムも入手は可能です。しかし魔物の溢れるこの地ですからね。もしかしたら狼のほうがよいかもしれません」
「狼ですカ?」
「ええ。〈中国サーバー〉では一般的な騎乗アイテムですよ。普及版は〈乗用狼召喚の笛〉でしょうか。巨大な狼を呼び出して乗ることが出来ます。〈楽浪狼騎兵〉は狼に乗ることで有名なギルドなのです」
カナミは瞳を輝かせて「でっかい狼!」と叫んだ。
レオナルドたち一行は彼女の呼び出した灰色の毛並みの狼を旅の間に何度か目にしている。乗用馬を持たない一行の歩調に合わせて普段は召喚していないが、旅の途中の危地にて何度か活躍を見たのだった。
たしかにあの召喚術であれば荒野の旅には最適かもしれない。移動だけを考えるなら馬だろうが、馬の場合肉食のモンスターに襲われた際の自衛能力や、環境適応能力がやはり問題になるだろう。
「あー。春翠。その狼の笛アイテムって売ってるのか?」
「売っていますよ。ギルドにはつくることができる職人もいます。ただ……」
「ただ?」
「一口に狼召喚の笛とはいってもかなりの等級と種類があるのです」
レオナルドはなるほどと頷いた。
それはそうだろう。〈エルダー・テイル〉における騎乗生物召喚アイテムは多岐にわたる。飛行可能な超高級アイテムを除けば、そのほとんどは通常のユーザーでも入手可能なものがほとんどだ。だが、そのほとんどであってもレベルによって使用制限がかかっている者がほとんどだ。レベル二十の〈冒険者〉には二十レベルのアイテム。レベル五十の〈冒険者〉には五十レベルのアイテム。呼び出される馬も大きさや頑強さ、色などが違う。もちろん性能だって速度や使役可能時間などで隔たりがあった。
「皆さん九十レベルですから、市販の召喚笛では物足りないでしょう。その場合は、クエストを行うことになります」
それもまた納得のいく話だった。
クエストの結果召喚アイテムそのものをもらえることもあるし、高位アイテム作成のためのカギとなる中核素材を手に入れられることもある。
「この付近だと、〈天狼洞〉というダンジョンがあります。高レベルパーティー向けダンジョンですが、狼に類するモンスターがかなり多くの種類出ます。そのうちの数種類から中核素材が手に入れられます。サブ職業が〈調教師〉であればモンスターを調教して直接召喚アイテムをもらうこともできるのですが」
「おい、みんな。サブ職なんだ? 俺は〈配達屋〉」
「はーい! わたし〈料理人〉!」
「コッペリアは〈戦司祭〉でス」
「妖精の技くらいしか使えん」
よし、全員無関係。とレオナルドは総括した。
結局その〈天狼洞〉とかいうダンジョンに潜ってモンスターをしばらく狩るべきかもしれない。
いや、そうすべきかどうかを考える以前に、カナミは完全にやる気に満ちたモードとなって「うーん。狼かあ。名前考えないと! ウル……ウルフさん?」などと呟いている。
こうなってしまっては抵抗は無意味だ。
旅の仲間たちはそれぞれに頼りになる能力を持っているが、可愛らしいコッペリアはカナミを制止する役には全く立たないことがわかっているし、「妖精馬ではないのか……」と顎に手をやるブロンドイケメンは見かけよりずっとポンコツなのも思い知っている。
乗用狼を手に入れるというのは既定路線だといえた。
もっともだとしたところで問題はほとんどないといえるだろう。荒野であてどなく北へ南へとうろつきまわるより、ダンジョンにこもるほうがよほど気が楽だ。時間だって長くて一日程度だろう。レオナルドはそう思った。
その程度で足が確保できるのならラッキーそのものだ。
そんな決断が、ユーレッド中央部での第二の冒険のきっかけになるのだと、レオナルドはうすうす気が付いていた。
しかし誰にだって自分を慰めてみる権利はある。
特にそれがまだ見ぬ未来である場合、「今回はトラブルもなく平穏無事に進みそうだな」と夢想するのは自由というものだ。
あらゆるプロジェクトでそれを実践して、もちろん毎回失敗してきたビッグアップルのコードライターであるレオナルドは、性懲りもなく今回も楽観視してみるのだった。
冒険するニューヨーカーはタフでなければ生き残れないのだ。