082
◆27
だがしかし、そうしてヤマトにもどったKRがひとまとめに振り替える思い出とは違い、レオナルドはやはり一人の男であって、その戦いはどこまでも泥臭く不器用なものでもあった。
「カ・ワ・バ・ン・ガーーッ!!」
紅竜から雄叫びと共に飛び出したレオナルドは、石ころのように黒い竜へと落ちてゆくと、触手をからめるように振り回してローブの男と華奢な少女を巻き込んだ。二人は別に特別な騎乗具もなく黒竜にまたがっていただけなのだろう。レオナルドの勢いに流されて、あっけなく空中に放り出される。
もちろん当たり前の話だが、レオナルドに飛行能力など有りはしない。
優れた〈冒険者〉の身体能力で、紅竜の背中から飛び出しただけの彼は重力加速度という物理的現実をかみしめながら落ちてゆくしかなかった。
「こ、こ、怖えええええ」
「オカシナコトヲスル」
「くふふふ。熱き腕に抱かれて、花弁を散らすダリアのよう」
身勝手にうごめく二人に怖気をふるうレオナルドは、とっさの危機感からニンジャ刀を突き刺す。まるで湿った泥に突き立てるような、生理的に受け付けない感触と共に、ローブの姿はどろりと流れた。
悲鳴を喉奥で押し殺すレオナルドの姿が面白かったのか、左手に抱えた少女はころころと笑った。
「あきれましたわ、このニンゲンは。気狂いですの? 勇敢ですの? あの高さからまるでそれは投げ捨てた赤い果実のよう。愉快ですわ。愉悦ですわ」
「黙れよっ!」
何故かしら背筋が凍る様な怖気を感じて、レオナルドは怒鳴りつける。少女が喋ったことに驚いた訳ではない。実際、クエストなどの終盤に台詞が設定されているNPCは珍しくない。それがモンスター種別であってもだ。
また、ラミア種やニンフ種など、女性形の美しいモンスターの存在はレオナルドの知識にもある。
しかし、そういった『モンスター』と眼前の少女は異質だった。おなじ種類の恐怖をローブの中のミミズの群れにも感じるが、こちらの少女は見かけが可憐で美しいだけに、かえってその異常性が際だっている。
(こいつに比べたら、〈大地人〉の方がよっぽど人間らしい――っ)
「あら、どうしたんでしょうか? もしかして、やっと自らの愚行を悔いてらして? 滑稽ですわ。愉快ですわ」
「俺だって百四話『飛べ!フロッガーズ』を見てなきゃこんなに大それたことはしてなかったよ!」
巨大なカボチャのモンスターを打ち破るために飛び出したヒーローたちの雄姿が瞼に浮かぶ。そういえばあのカボチャのモンスター、ツルをうねうね動かして触手みたいだった。このローブの怪人にそっくりだ。いや、汚物めいた匂いと耳障りな粘着音がある以上、こちらのほうがよっぽど最悪だ。
「熱い鼓動。血の馨り。それは響きあう因子の共鳴?」
「寝言は寝てから言ってくれ!」
「嗚呼。つれない睦言。冷淡ですわ。惨憺ですわ」
可憐に、しかし酷薄に笑う少女に気を取られた隙に、レオナルドの捕縛からずるりとローブが抜け出す。さんざんに彼を苦しめた灰色の触手を四方に伸ばすと、急速に迫ってきた木々の梢に幾本も放出したのだ。
目の前にまで近づいてくる緑の枝々。クッション代わりに大地に叩きつけようと考えていたローブの影に抜け出されたレオナルドはうめきを漏らす。
「マイガッ!」
「一度に二人というのは贅沢ですわ。背徳ですわ」
金髪の少女は微笑みに唇を釣り上げると、まるで愛しい人にするようにレオナルドの頬に血の気の通わぬ白い指先をふれさせた。
「あら」
「あら、じゃねぇっ!!」
その瞬間、体感で十度近く低下した体温にはじかれるように、レオナルドは〈ニンジャ・ツインフレイム〉で切り上げる。
白い見かけは陶器のような感触を予想させるのに、少女の指先は乾ききり、枯れ枝かミイラのような感触を伝えてきたのだ。レオナルドの眼球を抉りだそうという意図を示す節足類のようなうごめきの指に、強引に刀を差し入れる。そのために少女からは手を離してしまったが、もはや地面を目前でありレオナルドにもそれを気にする余裕はなかった。
抜きはなった双刀が子供の胴体ほどの太さの木の枝を両断する。わずかに緩む速度。それをあてにして、レオナルドは手に届く範囲の枝の全てを刈ってゆく。
杉のような大木の梢から大地に至るまで四秒。
「逢引の終わりは大地の抱擁ですの」
「一人でハグでもしていやがれ、この変態っ!」
「うふふふふ、死が世界を満たすまで」
「うわぁぁぁっ!!」
少女もやっと対応運動を取ることに決めたようだ、ぞっとするほどの冷気を唇から漏らしてレオナルドを痺れさせると、蜘蛛のような奇怪な動きで大木の幹に掴まった。
耳を覆いたくなるような無残な音を立てて、少女の爪が剥がれ指が折れ曲がり、おろし金に掛けられたかのように白い肌に血が浮く。
しかしそれに同情している精神も、またその暇もレオナルドにはなかった。レオナルドもまた、幾つかの枝を切って殺したスピードに賭けて、丸めた身体を木の幹にぶつけ、思い切り方向転換をする。
(死ぬっ! 死ぬっ! こんなの死ぬっ!?)
しかし、レオナルド自身が思っている以上に、〈冒険者〉の肉体は頑強だった。あるいは〈暗殺者〉の特技のひとつ〈羽毛落身〉の効果があったのかもしれない。レオナルドは生き延びた。しかも覚悟していたよりも、そのダメージはずっと少なかった。
そしてそれはレオナルドの敵も同じだったよう。
地上五メートルの枝の上で対峙した少女ラスフィアは、腕を一振りするとその身体を包み込むような半透明の幻像を振り払った。幻は、空気に解けるように薄れて消える。そのベールの中からラスフィアは可憐な、そう無傷の姿を現したのだ。
「マイガッ……」
鋭くにらみつけるレオナルドの視線に、少女はいたずらめかして両手を広げると微笑んで見せた。風になるアオルソイの鬱蒼たる針葉樹林の梢の頂で、レオナルドと〈降霊術の典災〉ラスフィアは対峙したのだった。
◆28
「なっ!?」
エリアスが口をあんぐりと開ける先で、まるで風に舞う木の葉のように二匹の竜は交差した。
峡谷を震動させるような鳴き声が、びりびりと響き渡る。
もつれ合う二本の螺旋から、黒ずんだ固まりが流星のように空を走ってくる。それは峡谷の上空を渡るようにエリアスたちの方に近づいてくるや、木々の梢をゆらして落ちた。
「高確率で敵首魁かと思われマス」
コッペリアの言葉に促されるまでもなく、エリアスもそう感じていた。彼の視力には、黒い竜を駆るローブの男と少女に体当たりをして共に落ちてゆくレオナルドが、はっきりと見えていたのだ。
「カナミっ!」
「判ってるぅ。うっわ。けろナルドったら、ずっこいなぁ! 一番美味しいトコロ持っていく気だったわけだ。それはそれはっ! そういうことなら、一言くらい言っておいてくれてもっ! いいのにっ!」
カナミはそう言いながらも、錆付いたソードを叩きつけてきた〈灰斑犬鬼〉の脇腹に拳をひと当てする。剣撃をそらされた〈灰斑犬鬼〉が猛り狂うその寸前に、今度は鋭い吐気とともに可憐な脚を突き入れた。
まるで大型ダンプに衝突でもされたように吹き飛ばされるモンスターを追ってエリアスは走る。
戦場に開いた空隙を見逃す手はない。エリアスはサーフボードほどもあるような水晶の大剣を振り回した。
エリアスは制限によって彼らを倒すことができない。「とどめを刺せない」のだ。しかし、エリアスの攻撃力は強大で〈灰斑犬鬼〉たちはそのHPの大半を失っている。
走りながらでたらめに振り回しているように見える大剣だが、その刃には無数の水流がまとわりつき、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげている。エリアスの用いる固有特技のひとつ〈トリビュータリィ・ブレイド〉だ。大剣を回避した〈灰斑犬鬼〉も、死角から襲いかかる水の刃は躱せない。
命を失うことはなくとも手足を切り裂かれ、あるいは打ち抜かれた獣人達は射すくめられたように動きが鈍る。
「行くぞっ!」
「まーかせてっ!」
エリアスの後を追うようにカナミも走り出していた。
彼女は猫のような動きで素早いステップを踏みながら、左右の敵を撃破していく。〈灰斑犬鬼〉はその頭部が現すように、ハイエナやジャッカルに近い習性を持っている。すなわち、群で行動して連携を武器に獲物を狩るのだ。エリアスが切り裂いた彼らの群は混乱している。そうなればカナミによる各個撃破は最大限の効果を上げるというわけだ。
ただし、カナミは〈武闘家〉である。〈刀剣術師〉であるエリアスとは職業の特性が違う。剣技も魔法も使用可能な、まさに「勇者」としてデザインされたエリアスと違い〈武闘家〉は範囲攻撃手段が乏しいのだ。
その欠点を埋め合わせるために、カナミは戦場を高速で駆け巡る。エリアスが〈灰斑犬鬼〉の群を切り裂く青銀の剣だとすれば、カナミは閃く萌葱色の稲妻だった。
「マスターに対して、反応起動回復および斬撃プロックを投射しました」
「了解! コペちゃんっ。これで勝ったぁぁ!」
テンションが上がっているカナミをフォローするように、コッペリアも前進している。呪文には射程距離が存在する。エリアスとカナミに引き離されてしまえば回復呪文が届かなくなる可能性がある。
それにもましてコッペリアは〈施療神官〉だ。回復職である以上、撃破能力は高くない。戦場の中で孤立してしまってはピンチになるだろう。三人は一丸となって、敵中深く深くに進んでいった。
レオナルドが落下したとおぼしき緑の濃い木立からは、メキメキといやな音が響いてくる。何が飛び出てくるかは判らないが、決定的な瞬間が訪れる前に出来る限りの〈灰斑犬鬼〉を倒しておきたかったのだ。
そしてエリアスのその懸念は正解だった。
「なんですか、あれっ!?」
カナミが驚愕したのも無理はない。現れたのは異様な存在だった。あえていうならば、木製のフレームに収まった人間、だろうか。おそらく木立をへし折ったのだろう。人間の胴体ほどの太さの樹木を組み合わせて作った、枠組みだけのサイコロ。一辺が二メートル程のそれの中に、ローブをまとった男が収まっている。
「マスター、ロード・エリアス。前方の対象は――」
「判ってるっ」
――人間ではない。
人間ではあり得ない。
ローブの姿は、くたびれたかの様に猫背になり萎れて見えた。
虚ろなその姿からは、藍色とも茶色ともつかないおぞましい触手が無数にうねくり、身体の四囲の木枠に繋がっている。いや、木枠そのものが触手によって保持されているのだ。
「八十九レベル、ノーマルランク。名称パプス」
コッペリアが確認するように呟く。
場違いのようだが、渓流の流れる音が身に染みた。
木立から現れたこの奇怪な存在に、エリアス達はもとより〈灰斑犬鬼〉たちもが気を飲まれていたのだ。
「ヤハリナヲヨムカ。コノカイノトクシュノウリョクナノダナ」
「――っ」
その一言でエリアスは察した。
眼前の触手の塊はやつらの眷属なのだ。
「こいつ……」
「――〈典災〉っ!!」
「ソノナヲシルカ。セイゾンシャヨ」
落ち着いた声はそのままフェイントだった。いや、フェイントだという意識はないのかもしれない。彼らはそういう存在なのだ。接触と会話と敵対がほとんどシームレスにつながっている。区別がない。触れただけで浸食されるような生命を持つ狂気。
穏やかな確認の問いかけの言葉とともに、槍のように鋭い触手がエリアスに突き出される。弾くのは簡単だったがエリアスはそれを嫌った。
「〈アクア・ソリトン〉ッ!!」
突き立てた大剣から大地の上を細い流れが走る。その清き流れから何重にも突き出すのはウェーブ状の水の槍だった。宙を飛ぶ触手を大地から突き立つ槍の群が迎撃する。
のたくるように吐き出された汚液があたりに白煙をまき散らした。切断された触手から洩れているのは強酸だ。目に染みるような刺激を伴う煙が昇る。
その煙に目を細めたエリアスが見たのは、その白い煙のなかへと風を巻いて突進するカナミだった。
「いっちばーん! 頂きますっ!」
いつの間にそんなところに移動したのか、常緑樹の梢を利用して三角飛びをしたカナミは、ひねりを加えたキックを触手の怪人にたたき込む。
「ひゃぁっ!?」
「どうしたっ」
「こ、こいつっ! ぐにょっとしたっ! 気持ち悪いっ」
カナミの一撃に効果があったのかどうかは不明だが、怪人は身体の周囲にある材木の枠を回転させた。カナミはその鋭い回転に巻き込まれないように、宙を跳ねる魚のような動きで飛び退る。
「オカシナクミアワセダナ、〈コライシュ〉ヨ。キサマタチヲイカシテオクベキデハナイ。ランクⅡヨ。ショリヲスル」
触手の怪人パプスがそう宣言をした途端に、溢れるほどの触手がエリアスとカナミに降り注いでくる。
仲間の仇、と魂を震わせる感情をエリアスは噛み殺した。
この存在は世界を奪いに来た外敵である。怒りを解き放つのはまだ先だ。〈古来種〉の存在理由のすべてをかけて、エリアスはパプスを迎え撃つのだ。
◆29
エリアス。
カナミ。
そしてコッペリア。
パプスと戦う三人はだがしかし、その戦いのみに没頭することはできなかった。
得体がしれないとはいえ、パプスはノーマルランクのモンスターに過ぎない。
本来であれば、ほぼ同レベルの〈冒険者〉と〈古来種〉、エリアスたち三人にとって鎧袖一触できる相手である。
レオナルドとは違いエリアスの傍らにはカナミとコッペリアが居るのだ。数だけを比較するならば単純に三倍だが、エリアスを筆頭に前線で防御と攻撃をこなせる二人の白兵職と、後衛で回復を担当できるコッペリアがそろっている。攻守のバランスが取れたパーティーは、そこに参加する個人の能力合計を上回る戦闘能力を持つことが常識だ。同レベルのノーマルモンスターに引けをとるような三人ではないはずである。
「くぁっ! またっ!!」
「マスター。右翼はお任せを」
コッペリアが構えた盾を振りかぶる。重量級カイトシールドである〈白魔鋼の盾〉をカウンターウェイトのように使って、自らの方向を転換すると勢いに任せて〈灰斑犬鬼〉に叩きつけた。左翼から襲来した〈灰斑犬鬼〉には、カナミがあたる。
そうなのだ。戦線が膠着した理由は〈灰斑犬鬼〉の波状攻撃にある。
襲いかかる獣人の後頭部には、まるで奇妙なお下げのように、一本の『尾』が生えている。それらは陸に揚げられた魚のように身をくねらせ、〈灰斑犬鬼〉の脳へと食い込み、パプスの指令を伝えているのだ。
パプスの触手に寄生された〈灰斑犬鬼〉たちは、皆一様にその瞳を汚れた黄色に濁らせ、おびただしい唾液をこぼしながらエリアスたちに襲い掛かってくる。凶暴性を増した〈灰斑犬鬼〉。それがエリアスたちの苦戦の理由だ。
左右に分れたコッペリアとカナミは、互いにカバーし合いながら〈灰斑犬鬼〉を良く防いでいる。決して楽な戦況ではないが、二人はそれぞれに意にも介せず戦いを進めていた。
コッペリアは淡々と。
カナミは意気揚々と。
本来範囲攻撃が少ないはずの〈武闘家〉だが、カナミはその欠点を克服しているようだった。得意の連続攻撃特技を周囲のモンスターに振り分けるのだ。
一撃目の右拳は剣を構えた〈灰斑犬鬼〉に。二撃目の左掌底は杖を振りかざし、今にも呪文を発動しようとしている〈灰斑犬鬼〉の術士に叩き込む。
拳や剣を交える戦いにおいて、攻撃が出る角度やタイミングは重要な要素だ。たとえばボクシングなどは、右の拳を突き出すか左の拳を突き出すしかないような格闘技である。それでいてその角度やタイミング、軌道を工夫してあれほどまでに芸術的な技術体系を確立している。これは格闘技術において攻撃技法の些細なバリエーションが、相手を幻惑し命中精度や威力に繋がるという証左だろう。
カナミの場合、ただでさえ豊富な〈武闘家〉の連続攻撃をモーションによる任意起動によって、その構成や入り方タイミングなどを爆発的に増やしている。想像しただけでも目がくらむほどの組み合わせを、周囲の敵の数や状況に応じて変幻自在に繰り出すカナミは、まるで楽しげなダンスでも踊っているかのようだった。
複雑に構築された連続攻撃を連鎖起動しつつ、周辺の〈灰斑犬鬼〉にばら撒いてゆくカナミ。しかしその姿は沈思黙考という風情から程遠い。おそらく修練によって身につけた身体の記憶と本能だけで複雑な戦闘をこなしているのだろう。エリアスはそう理解していた。
そしてエリアスと言えば、眼前で回転を続ける触手の主パプスと対決していた。
「クベバブッ! ゴブブゴブクプクッ」
沸き立つ泡のような不快な音で笑い声をつむいだパプスがエリアスに襲い掛かる。
パプスは無数の触手をエリアスに伸ばしてくるが、その触手は最強の称号さえ得たことのあるエリアスにとっては見切ることが出来る程度の数と速度でしかない。しかしそれらの触手を回避すれば、近くにいる〈灰斑犬鬼〉たちが犠牲となる。つまりそれは、パプスの手下を増やすだけの行為でしかない。厄介な攻撃だった。
それを防ぐため、エリアスは迫り来る触手を両手剣で切り落としてゆく。討ちもらした触手を即時発動の〈アクア・リッパー〉で迎撃し、背後まで迫ったパプスにその剣をたたきつけた。
「エキモナイ」
「っ!! 災厄の申し子めっ!! 妖精剣に賭けて、お前を倒すっ!」
「ヨウセイケン? ブクプクッ。プクワババババッ」
高速回転する、丸太の構造体がエリアスを跳ね飛ばす。
重いダメージを腹部に受けながらも、即座に距離をつめ反撃に移るエリアス。彼の中距離攻撃呪文は、パプスの操るあの防御に阻まれて届かないのだ。
近接戦闘における剣攻撃のほうがまだしも勝機があると判断したエリアスは、その身体に宿る水の精霊の守護を信じて突き進む。
それは判っているだろうにパプスはその接近を受け入れた。
近接距離で交わされる、触手と水流の乱舞。
エリアスの両手剣、〈水晶の清流〉はパプスの操る木製の砦に食い込み、力比べとなって硬直する。
「――ッ!」
「シッテイルゾ」
「何――をだっ」
「キクンノシュゾクノシュウマツヲ」
エリアスの見る景色が紅く染まる。
「キクンノナカマハメザメタカ? ソウデハアルマイ。ナゼキクンハシズマヌ。ナゼキクンハコゴエヌ。ワズカナ〈エンパシオム〉。キクンハ、ナゼウゴケル?」
判っていた。
この触手の異形を一目見たときから感じていた。
こいつはやはり〈典災〉。全界十三騎士団の半分を滅ぼしたあの軍勢の末端なのだ。エリアスの脳裏に飛来するのは、望まぬ転移により異空の戦場へと旅だった仲間たちとそれを襲う異形の軍勢だった。
血が燃える。
ずきずきするこめかみに、怒りが集まってゆく。
眼前の怪物は、エリアスの同胞を滅ぼした一派なのだ。抑えようと思ってもその憤怒が水の魔力を沸騰させる。
「やめろっ!!」
「ナゼキクンハテイシセヌ」
「その口を閉じろっ!!」
エリアスは咆哮した。
蒼と銀のサーコートに包まれた両腕が膨れ上がり、妖精の加護を受けた魔法回路を呪われた血流が駆け巡る。幾重にも撒きついてくる触手を、そのオーラだけで跳ね飛ばしたエリアスに、だがパプスはその聞き取りにくい音声に悪意をこめて、滴るように告げた。
「シッテイルゾ。〈コライシュ〉――イヤ〈ダイチジン〉ノスベテモ。キクンラハスベテ〈ニンギョウ〉――イシナキクグツ、ジンカクソフトウェアニスギナイト」
記憶がはじける
それがエリアスたち〈古来種〉の半分を眠りにつかせた『死の言葉』だった。夢のない、再び目覚めることのない『眠り』。それは死という概念のない〈古来種〉にとってきわめてそれに近い『別離』の異名だった。
人形である、と。
その強制認識は十三騎士団を、疫病のように食い荒らした。
その言葉にあるものは狂い、あるものは絶望し、またあるものは全てに対する興味を失った。無事な者もいたが無事なものこそはこの世界から失われた。
現に最強と呼ばれたエリアスでさえ、この言葉の前に『夢のない眠り』についたのだ。自らの使命のばかばかしさ、その虚ろさ、あまりもの真実に耐えかねてエリアスは自らを閉じた。
「ニセモノトシテホロビヨ。キクンラニハテイシコソガノゾマシイ。ムカラウマレタモノハ、ソノタイムラインヲテイシセヨッ」
死の言葉が木霊する。
妖精の剣技を学んだ〈古来種〉の英雄などはどこにもいない。
妖精などはいないのだ。
〈古来種〉などいない。
守るべき〈大地人〉もいない。
世界は、無い。
耳を澄ませば思い出せる妖精郷のさざめきは偽りだ。手に握る剣も、サーコートも、風も、大地も、すべては偽りなのだ。エリアスの知る全ては偽りであり、世界とはすなわち虚ろな器だった。
そしてエリアス自身でさえ。
「んなわけっ!! あるかぁぁーっ!!」
光は、突然生まれた。
木立をなぎ倒しパプスの防御陣もその触手の群れも突き抜けて、流星のように打ち抜いた跳び蹴りの姿勢を崩さずカナミは吠えた。
「バカ言うなっ! エリエリはちゃんといるっ! ここにいるっ! これから先、一杯楽しいことをするっ! 勝手に持ってくな。お前なんか自転車チューブ男のくせにっ!」
貫かれた木立から差し込むアオルソイの黄金の光の中で、彼女は誇り高い女王のように雄叫びを上げた。
エリアスを眠りの淵から蘇生させたあの日のように。
「カナミ――」
「倒すよっ! エリエリっ!」
「承知したっ!」
エリアスは頷いた。
剣を握る両手に力が戻る。
魔力があふれてくる。カナミの信頼が物理的な温度に変換され、高揚感と使命が舞い戻ってくる。
「せいっ!」
「ああっ!」
〈水晶の清流〉へと体内の魔力や闘気を流し込み、エリアスは白虎のように駆けた。放たれた攻性の水流はまるで無数の槍のようにパプスに襲い掛かる。大地の上から迎撃のためにのぼってゆく触手と、それは向き合う槍衾という絵だった。しかし天から落ちるエリアスの水槍は光を透かし輝き、大地から迎え撃つパプスので迎撃するパプスの泥濘の槍は、光と闇の一対である。
両者の拮抗に風穴を開けたのは一塊の打撃だった。
〈巨人殺しの籠手〉の籠手がうなりを上げる。〈マンティスアクション〉から〈エアリアルレイブ〉で空中に跳ね上げたパプスの身体を〈シャドウレスキック〉が突き放す。それは空中に浮かんだ格好の的だった。
エリアスは信じて構えていた両手剣に万感の思いを込めて振り下ろす。
「去れッ。お前の住処へ!」
本体は脆かったのだろう。粘着質の音だけを立てて、パプスの胸元から上半身すべてにわたるほどの大穴があく。身体の自由も触手の防御もうばわれたパプスは、やはりノーマルランクのモンスターでしかなかったのだ。
荒い呼吸をはいてパプスの亡骸をにらむエリアスは、剣を払った。それは〈古来種〉エリアス=ハックブレードが再誕し、〈典災〉との戦争を始める最初の一撃だったのだ。