063
シロエはこの展開を予想していなかったわけではない。
影の尖兵たちは〈七なる庭園のルセアート〉の生み出した眷属であり、一度戦闘が始まれば、こちらを付け回してくることは予想ができていた。しかしそれは、仕留め損なった数体だという予想があり、天井に広がる染みは広く、影の数は多すぎた。
――黒のルセアートにダメージを与えた人数と等しいだけ、影の戦士は発生する。
そう看破したのはシロエである。
今回の戦闘では、〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉への攻撃を開始した時点、コロセウムから追ってきた影の戦士はすべて討伐を完了させていた。そうである以上、ルセアートにつき従う影の戦士の数はゼロである。
そしてシロエたちは先へ進んだ以上、ルセアートにダメージを与える存在などいるはずがない。ルセアートが影の戦士を再び生み出せる可能性などあるはずはない。影の戦士がこれだけ生まれた理由など――。
そこまで考えたシロエはたったひとつの可能性に至る。
ルセアートは自らを自らの斧槍で刺し貫いたのだ。
そうしてダメージを与え、影の戦士を一体生み出した。
そしてその一体とルセアート自身は再び黒き鎧にダメージを与え、さらに二体の眷属を手に入れる。そしてその繰り返し。自らを生贄に捧げるという、いままでにはありえなかった可能性により手に入れたるルセアートの軍団が通路からしみだしたあの黒き影なのだ。
「前衛っ!」
その思考は一瞬にも満たずシロエを過ぎ去り、口は叫ぶような指示を出していた。
あと少しなのだ。七〇〇秒とは言わない。六〇〇秒もあれば炎蛇イブラ・ハブラを倒すことができる。そうすれば余剰戦力が生まれる。その時間を稼がなくてはならない。シロエは考える。自分たちがこの大空洞に到着するまでどれほどの時間がかかった? 戦闘を開始してからどれほどの時間が経過した? 〈七なる庭園のルセアート〉が約二〇〇秒に一回、影の尖兵を生み出し、その数はネズミ算のように増えていくとすれば、いまその数はいくつになる? 三十一体。多くても六十三体――。計算応答は即座に訪れる。後者であれば絶望するしかない数だが、前者であれば僅かな可能性が残されているはずだ。はずだ、などという思考を恥じながらもシロエは叫ぶ。
「突撃してカイティングを――」
それは自殺命令にも等しい作戦だった。影の戦士を引き連れての逃亡劇を繰り広げよ、というシロエの指示に反応しかけた〈シルバーソード〉の順三だったが、それよりもはやく飛び出した屈強なレイダーがいたのである。
「けあああああ! どけい! 〈ファントムステップ〉!〈ワイバーンキック〉! あああっ! 〈タウンティングシャウト〉ッ!!!!」
空中の何かを足場にしたかのような二段ジャンプを決めたデミクァスは、そのままロケットのように中空に躍り上がり、身体を独楽のように回しながら絶叫を放った。それは戦士職の用いる挑発の雄叫び。一瞬だったが、すべての影の戦士たちがデミクァスに意識を奪われるのをシロエは目撃した。
そんなシロエを含むレイドメンバーが見上げる中、一瞬の静止状態から落下に映る長髪の〈武闘家〉はなぜか憤怒の表情でシロエを探したようだった。あまりにも素早いその移動に姿を見失った瞬間、シロエは姿勢を崩す。
何が起きたかわからないままにシロエは浮かび、圧倒的速度で後方に飛ばされるのを感じた。
「――っ!!」
直継が何かを叫んでいるのはわかる。しかし遠ざかる景色の中でその言葉は聞こえない。
どうやら自分はこの大空洞の中を凄まじい勢いで移動しているらしい。まるで巨大なドラムを持つコインランドリーに放り込まれたように、シロエは急な加速と減速を繰り返した。
影の戦士がいきなり眼前に現れて、驚愕するシロエに大鎌を振り下ろそうとするが、悪酔いしそうな視界回転とともに吹き飛ばされる。それをなしたのは凶悪なシルエットを持つ巨大な脚鎧だった。
「うぜえっ、〈ファントムステップ〉!!」
密集しかける敵の集団を置き去りにしてデミクァスは再度空中に踊り出る。
シロエはそのデミクァスに、首根っこでつまみ上げられ振り回されているのだ。
「なにを――」
「だまってろ、クソメガネ! 〈ワイバーンキック〉!」
頬にぶちまけられた生臭くも温かい血液が、シロエに冷静さを取り戻させた。
ここにきてレイドをむちゃくちゃにしてシロエに復讐するつもりなのか、それともデミクァスなりの勝算があるのか、それはシロエにはわからない。しかし事実、デミクァスはシロエの後ろ首のあたりを掴み、まるで狩りの獲物のように扱っている。
(だけど、この状況。悪くはないか……?)
視点を変えてみればシロエはデミクァスに装備された固定砲台というわけだ。
それに気がついたならばやることはひとつだ。シロエは火力が弱いと揶揄される〈付与術師〉の呪文を周囲にばら撒く。
おそらくデミクァスは、本来は敵集団のうち一体に対して使用し、ヘイトとは無関係に自分を狙わせ、そのまま引きずり移動させる特技、〈ドラッグ・ムーブ〉を使っているのだろう。あるいはただ単純に九〇レベルを超えたその腕力でシロエを荷物のように持ち運んでいるのかもしれない。〈冒険者〉の異常な体力であればそれも可能だろう。どちらの可能性もある。
しかし今重要なのは、影の戦士たちをレイドチーム本体から引き剥がすことだった。
「北東側の通路へっ」
「うるせえ、なに指図してるんだっ」
「〈マインドボルト〉っ」
「〈付与術師〉が!」
しかし悪態をつきつつもデミクァスは軌道を変えてくれたようだった。
黒いのっぺらぼうの姿を蹴飛ばし、突き破り、無数の敵に狙われながらも通路側に向かう。シロエは派手に揺れる視界からの情報を合成する。尖兵の数は確認できただけで約二十。視界外を考えれば三〇前後か。立ち止まれば回復呪文の援護があったとしてもデミクァスは十五秒で戦闘不能になる。援護がなければ半分だ。シロエ自身はどうかと考えるのも億劫だが、そんな答えは〈エルダー・テイル〉をプレイし始めた頃からはっきりしている。三秒がいいところだろう。
「シロエ、おいっ!」
襲いかかろうと低い姿勢から迫ってきた影の頭部が膨れ上がり、西瓜のようにはじけた。
ウィリアムの狙撃がトドメの一撃となったのだ。
「こっちへの援護は無用、イブラ・ハブラを倒してください」
「だから、この腹黒っ」
「ウィリアム! 敵を倒せっ!」
自分の声があの誇り高い野戦司令官になにを伝えられたか、なにほどの気持ちを乗せることができたのか、シロエには自信はなかった。それでもウィリアムは気遣わしげな表情で一度強く目をつむると、「全攻撃部隊イブラハブラへ集中させろっ! 〈妖術師〉っ! 構うことはねえ、ぶっ放せ!」と叫んだ。
視界は溶けるように流れ、霜巨人タルタウルガーの棍棒をくぐり抜けた。
後頭部をぞりぞりと擦るその圧倒的質量に首をすくめたシロエは足元に迫る白い皮膜に気がつく。
「〈タルタウルガーの白夜〉だ。移動阻害が来る、火炎を――」
「知ったことかよ、〈リンクス・タンブリング〉ッ」
シロエのアドバイスさえ無視しデミクァスは凍結の呪縛をあざ笑うように駆ける。山猫の身躱しを宿したデミクァスは、打ち下ろされた棍棒を足場に駆け上り、霜巨人の巌のような腕へ、そして肩へとたどりつき、更にその先を求めるのだ。恐るべき冷気のために常に白い息を吐き出すタルタウルガー、その頬を蹴り飛ばすように更に加速する。
安全装置を全部取り外した人力ジェットコースターは、開園初日にすべての来場客を病院送りにするほどのでたらめな軌道を描いて疾走を開始した。
ループ、トルネード、スラローム。ヘイトという不可視の糸に導かれた数十体の影たちを引き連れてデミクァスは恐怖の逃走劇を開始した。
背後で叫び声が聞こえた。なにを言っていたかはわからない。だが激励の言葉だったのではないかとシロエは思った。死地に飛び込む仲間に〈シルバーソード〉なら掛ける言葉は決まっているだろう。
暗闇に満たされた通路に突入し、大規模戦闘の音が小さくなっていく。あの大空洞では今や残り五八〇秒の討伐戦が継続されなければならない。それが終わったならば霜巨人と戦うディンクロンの救出をしなければ。
だから、暗い通路を疾走するふたりは一瞬も気を緩めることはできなかった。
シロエも先程からなけなしの攻撃呪文をたてつづけに発射している。
〈アストラル・バインド〉や〈ナイトメアスフィア〉。行動阻害効果や硬直効果を持つ呪文を叩きつければ、影の追跡を数秒遅らせることができる。巻き込むことができる数は多くないが、追跡者の圧力を減らさなければ、シロエのマントを重く濡らすデミクァスのHPは保たないだろう。HPもそうだが、デミクァスのMPは激減している。無茶な脱出口の代償なのだ。兎にも角にも、下り通路に飛び込めたのは僥倖だといえた。ふたりはまだ生きていて、通路は闇へと続いている。
「〈ワイバーン・キック〉は当分使用しないで」
シロエの要請をデミクァスは黙殺した。
視界には影の戦士たちの先頭がうつっているが、彼らまでの距離は三〇メートルはあるようだった。シロエも射程距離外になり始めた攻撃呪文を諦め、デミクァスへのMP譲渡を中心に援護魔法を駆ける。このような状況になれば、攻撃力よりも機動力だろう。付与術の切り替えに集中するシロエを、デミクァスは暗やみのただ中へと連れ去るようにひたすらに駆ける。
シロエにはそのデミクァスがなぜ自分を連れてかけているのかわからなかった。
結果論的に足止め呪文を駆使した引き回し作戦はここまで上手くいっているが、それがデミクァスの策なのかどうかは確信が持てない。
そもそもこの無法の思考がシロエにはわからないし、共感を持てないのだ。
それは長いレイド生活を共にした今でも、薄れはしたものの、根深い疑念のしこりとなって残っている。
デミクァスはあの荒れ果てたススキノの街で〈大地人〉に圧政を敷いていたのだ。
もちろんデミクァスひとりの責任だとまでいうつもりはない。〈大災害〉の混乱と誤解から、ここがゲームの世界のままだと思い込んでしまったということはあるだろう。恐怖に駆られてそれを誤魔化すために八つ当たりしてしまったという見方もできる。〈ブリガンティア〉というギルドは、〈エルダー・テイル〉がゲームだった時代からそもそもマナーの悪いプレイヤーが集まっていたギルドなのだという話もあとから聞いた。仲間内の強がりから極端な行動が醸成されてしまった側面もあるかもしれない。
シロエはそういった事情のすべてに一定の説得力を感じていたし、理解できる程度の能力を持っていた。しかしそれでも根底部分では納得できていない。
デミクァスは〈大地人〉を虐待しその権利を侵害したのだ。売買さえしたと聞く。
その上セララにつきまといあんなに怯えさせていたのだ。
そういったセンスはシロエの中にはない。理解できないし、許せるような気もしない。
気に入らない男だ。シロエのデミクァスに対する評価はずっとそうだった。
そんなことを考えているうちに、随分時間が流れたようだ。
シロエの視界には流れていく暗い通路ばかりが続いている。どれほど影の尖兵たちを引き離したのかわからないが、引き離しすぎるのもまずいとシロエは考えた。デミクァスが散々に挑発と攻撃を繰り返したのだ。あの軍団がヘイトを忘れるとは思わなかったが万が一ということもある。あの大空洞に影たちが引き返してしまえばこのレイドは失敗だ。今でさえ、確実にすべての尖兵たちを引きずり出せたかどうかはっきりとはしないのに。
「ストップ、引き離しすぎだ。ちょっと待とう」
しかしデミクァスはその言葉が聞こえないように走り続けた。
かちんときたシロエが叫ぶように停止を何度も呼びかけてやっとその足を止めるほどだ。シロエはそんなデミクァスに気持ちを逆なでされて、抗議の声を上げる。
「なにを考えているんですか、このまま行った……」
その言葉を言い終える前に通路に投げ出されたシロエは転がり、壁に背をぶつけて止まる。通路の壁際で腕をさすりながら薄目を開けたシロエにデミクァスは告げた。
「おい、〈付与術師〉。俺の名前を言え」
シロエは苛立ちにまかせて、デンタルケアさんとでも呼んでやろうかと息を吸い込み、見上げて、沈黙を選んだ。
シロエは今はじめてデミクァスを見るような気分になり、失った言葉の続きを探す。
シロエを覗きこむように上半身を近づけるデミクァスの表情は厳しく、決然としていた。見開かれた両目はこぼれんばかりであり、彼が決して譲れぬ何かを秘めてこの言葉を吐き出したことがわかった。
こんな追い詰められた局面でくだらない質問をするのかという抗議は、その表情のせいでシロエから消えてしまった。
ウィリアムに譲れない願いがあるように、誰にだってそれはあるのだろう。
シロエにだってそれはある。でなければ、シロエは今だってギルド未所属のままであるはずだ。
そしてデミクァスにでさえ、それはあるのだ。
のろのろとした時間の中でシロエは考え、推測して、自分の中にある怒りが自己嫌悪に似ていることを発見した。あの〈大災害〉のなかで何もできないという無力感を感じていたシロエは、それを忌避するあまり、何もできないということに甘えて横暴をふるうデミクァスにあたったのだ。
もちろんデミクァスは許されないことをした。シロエはセララを救出しなければならなかった。しかし、シロエがデミクァスを裁く権利を持っていたかといえば、それは疑わしい。シロエはシロエであり、法ではない。
(それに、よしんば裁く権利があったとしたって――名前を奪うなんてことは、誰にだって許されちゃいけない)
シロエはデミクァスの名前を頑なに呼ぼうとしない自分にも気がついた。
自分はこの無法者とは違う。同じ人間だとは認めない。
シロエがとっていた態度は、つまり、そういうことなのだ。
「デミクァス」
「おう」
「――デミクァス、ぼくはあなたが嫌いです」
「俺もだよ、〈記録の地平線〉のシロエ」
シロエとデミクァスはやっと折り合った。
折り合わないという一点で、折り合ったのだ。
だから、と言いかけたシロエはその先を続けることができなかった。
自分の胸に添えられた無法者の手のひらが、わずかに、しかし有無を言わせず動くと、シロエの身体は冗談のように吹き飛ばされ、再び通路をゴロゴロと転がった。身体を丸めたシロエがサッカーボールの様に辿り着いた先には、冷たく閉ざされた鋼鉄の大扉がある。
「シロエ、お前はその先で死ね。俺はあいつらの相手で忙しい」
シロエの反論を封じるように言い捨てたデミクァスは再び駈け出した。暗い通路の先で緑色の輝きをまとい、さらに二、三度、彗星のように瞬いて、流れた。
言葉にならないような幾つもの想いが重ねられ、シロエは暗闇の通路に一人取り残された。
◆
そして扉の内側はまばゆいほどの光があふれる庭園だった。
シロエの背丈の有に十倍はあるような歯車がゆっくりと回っていた。フレームだけで作られたような歯車は、複雑に絡み合い、はずみ車や昇降機と連動して、巨大な循環を制御している。
この大空間の目的は一目見れば明らかだった。
エッシャーのだまし絵のような導路を、おびただしい金貨が流れてゆく。
歯車やピストン、跳ね車はその金貨の河を制御する巨大機構なのだ。
その巨大機構の間を縫うように白亜の回廊が続いていく。回廊には小川が流れ、緑に溢れ、花が咲き乱れる。時には小さなアーチの橋をわたり、金貨がずっしりと沈んだ池を横切り、シロエは進んでいった。
この庭園はシロエが予想していた黄金の大渦なのだ。
おびただしい数の鈴がなるような音にシロエは視線をやった。バスほどもあるような巨大な鉄の箱形容器が複雑な鎖の動きで傾いてゆく。その傾きのせいで、内容物たる無数の金貨をその下にある円形の選別テーブルへとこぼしているのだ。鈴の音は、何十万枚、何百万枚にも及ぶ金貨が奏でる金属音だった。
驚異という他ない光景だった。
機械的に動いてゆくあの階段のような導路から、麻袋いっぱいの金貨を得るだけで、シロエの資産は倍増するだろう。この庭園にどれほどの金貨があるのか考えようとして、それが不可能であるとシロエはため息を付いた。
想像もできないほど莫大な金貨がここに存在する。
シロエはだが自らの携えてきた一枚の契約書をちっぽけだとは思わなかった。
比べてみれば取るに足りないだろう。去年までのシロエだったら挫けてしまったかもしれない。しかし今は違う。シロエは覚悟をして〈奈落の参道〉をくだり〈パルムの深き場所〉の最深部までやってきたのだ。
「――ようこそ。歓迎したくはありませんが、そう言わなければならないのでしょうね」
あまりにも巨大な黄金の湖、そこに付きだした前衛的な庭園でシロエを待ち構えていたのは菫星に見えた。シロエは目を細め、彼を仔細に観察したが、違いを発見することはできなかった。彼は、水晶でできた天使を背にここでシロエを待ち受けていたのだ。
その天使は〈九なる庭園のウル〉。〈奈落の参道〉を守る最後のレイドボスだ。身長こそ四メートルほどと、いままでの敵に比べれば小さいが、その戦闘力はいささかも引けは取らないだろう。それはつまり、〈シルバーソード〉全員で仕掛けるのならまだしも、シロエひとりで戦うのであれば自殺にしかならないという意味であった。
いや、あるいは全員でここに辿り着いたとしても、連戦で疲弊しきったチームでは勝利できないかもしれない。だがシロエはその脅威を一顧だにせず眼前の青年を見つめてる。
(襟章の色が違う、くらいかな。本当に区別がつかないや)
菫星は、あの雪に閉ざされた菫星にもみえたし、アキバの街のパーティーで挨拶をした菫星にも見えた。そしてススキノの街で銀行業務を取り仕切るの菫星にも見えた。
菫星とはそういう人物なのだろう。そして供贄一族とはそういう一族なのだ。
おそらくは〈エルダー・テイル〉時代、銀行員とその責任者であった、専用の制服と専用のモデルを用意された〈大地人〉、それが供贄一族のルーツなのではないか。シロエはそう予測した。そしてその瞳の中にある恐怖と警戒、そして誇りを見て取った。
(そりゃ、こわいよな。〈九なる庭園のウル〉を従えていたって、〈冒険者〉が攻めこんで来たんだから……。僕らから見たら絶望的な戦いだったけれど、あちらから見たって絶望的だったに違いない)
シロエは想像してみようとした。
自分たちの本拠地に、決して諦めない不死の部隊二十余名が雪崩れ込んでくる。
そこで行われるゾンビアタックだ。全滅しようが立ち上がり、少しずつ少しづつ攻略を遂行してくる。こんなに恐ろしい物はない。恐怖も、警戒も当たり前だ。それでもなお立ちはだかるのは、誇りのためだろう。その誇りは、〈大地人〉をヤマトを守るという意思だ。
太祖の言葉を墨守するほどの長きに渡り、供贄一族はヤマトを守護してきたのだ。
その結束力や忠誠心は、現代日本人であったシロエには計り知れない。
「菫星さんに話をするためにきました」
「ここまで辿り着いたあなたの話を聞く義務が我らにはあります」
「……」
菫星の硬い声にシロエは固まってしまう。
予想はしていたものの、それはシロエが疑念をかかえて不要の軋轢を産んだ、その罰であった。シロエが菫星を敵愾の殻に閉じ込めたのだ。だからこそ、言葉を尽くす義務があると白衣の青年は自責した。
「この金貨の流れは、そういうことだと理解していいのですか?」
「……ええ、そうです。約定に従い、私たちはあなたにそれを開示します。ヤマトに存在するすべての金貨は、ここから生まれここに還るのです。我らですら理解も制御もできない超古代の技術で金貨は巡ってゆく。この巨大な濁流の中から、あるいはダンジョンに、あるいはモンスターたちに、金貨は配られてゆく。この機構はヤマトの闇に横たわる秘密。供贄一族が数百年の間秘してきた禁忌なのです」
――その言葉にシロエはもうひとつの事実に気がついた。
供贄一族がこの機構を管理してきたということは、ごく普通の〈大地人〉や〈自由都市同盟イースタル〉の貴族から見て裏切りに映るのかもしれない。〈緑小鬼〉や〈醜豚鬼〉に資金を供与していたと思われかねないのだ。
〈エルダー・テイル〉というゲームを知っているシロエはそうは思わない。これがただの機構であり善悪ではないと理解できるが、亜人間と長い戦いを繰り広げてきた〈大地人〉がどう思うかは確信が持てなかった。この事実が暴露された場合、ヤマト全域で供贄一族の排斥運動が起きるかもしれない。それはあるいは、暴動や虐殺にまで発展するかもしれないのだ。
菫星の警戒は当然のものだった。シロエの思慮が足りなかったのだ。
「僕は、そして僕たちはこのゾーンの真実や存在を口外するつもりはありません」
自分の言葉がどれだけの説得力を持つか不安を覚えつつも、シロエはそう告げた。
「――この場所まで辿り着いたあなたは、太祖の規定どおり、黄金を持ち帰ることができる」
しかしシロエの内心の動きは菫星に伝わったようには思えなかった。変わらぬ固く警戒した声で、練習を重ねたような口上を述べる。
「長い長い歴史の中で、太祖の書き置きの一部は失われました。あなたがここから持ち帰ることのできる金貨が千枚なのか、億枚なのか、それはもはや我ら自身にもわかりません。しかし伝承は太祖の言葉を伝えます」
菫星は今こそ炎のように燃え盛る瞳でシロエを見つめた。
剣を振るうそれではなかったが、これもまた今までくぐり抜けてきた戦闘にまさることはあれ劣ることはない、ひとつの激突であった。
シロエはその視線を全身で受け止めて、乾ききった口内から無理やりつばを飲み込む。そして自分の弱さを自覚した。〈円卓会議〉のときはあんなにもひょうひょうと振る舞えていたというのに、今や膝の力が抜けて座り込んでしまいそうだ。
しかし、吠えるウィリアムの横顔を思いだした。見上げてくるアカツキの心配そうな表情も。冗談めかして笑わせようとする直継の気遣いを。じっと見守ってくれているにゃん太、信頼してくれたミノリやトウヤ、五十鈴にルンデルハウス。
今感じるこれは、弱さではないのだ。
勝たせてあげたいね、と、てとらはつぶやいた。
誰かのために勝利を望み、叶えられなかった時の辛さを思うからこそ、切ないほどに最善を求めてしまうのだ。自分一人のことだからと無責任になれたソロプレイヤーのシロエはもういない。シロエは誰よりも結果がほしいと、いま願っている。他人の気持ちを上手にわかってあげることができない自分には、それ以外みんなに報いる方法がない。
「“供贄の黄金は禍福の財なり。多いなる富は富にあらず。心せよ、汝の飼う獣に。そは世を滅ぼす”」
菫星の言葉がシロエに染み込み、いくつもの解釈を波紋のように広げ、やがて静かになった。
不吉な予言にも聞こえるその詩をシロエは祝福だと受け取った。
ここへ来てよかったと心の深い部分で、シロエはそう思えることができたのだ。
遠く響く無数の鈴の音につつまれて、シロエと菫星は少なからぬ瞬間を過ごした。
シロエはゆっくりと〈魔法の鞄〉から一通の契約書を取り出し、それをふたつに引き裂いた。目を見開いて驚く菫星のまえで、避けた契約書は柔らかい煌めく炎に変わり、群れた蝶のように飛び去った。
そして何もない空中から、黄金が生まれた。
「これは……」
「いま、契約が結ばれて、完全になりました。〈円卓会議〉は富を求めません」
シロエは淡く微笑みながら菫星に語りかけた。
それはシロエが本当話したかったこと、あの雪のロッジで失敗をしたその続きなのだ。
「ギルド会館の権利でさえ、僕たちには不要です。もう、僕たちには、あのアキバの街で平和に暮らすだけの力があると思います。そのきっかけをくれた機構には感謝していますが、それも終わる時期です。仮にまたなにかトラブルが起きたとしても、それはきっと別の方法で解決をすべきなのだというのが、僕たちの出した結論です。――この契約術式は、結ばれ、引き裂かれることで完全になります」
意味を計りかねて途惑う菫星にシロエは胸を張った。
シロエだけの意思ではなく、それを了承できた〈円卓会議〉の誇りを込めて。
「僕たちは、ギルドホール、大聖堂、商業会館を含むアキバ市街一般の権利をヤマトサーバーそのものに譲渡します。また、契約書の破棄を持ってその譲渡を永遠とします」
ここへ至るまで困難な根回しと長い話し合いの数々があった。
一度買い取った権利を破棄するなど愚かとしか言いようが無いという意見もあった。
しかしさまざまなメリットデメリットをすり合わせた結果、ここへとたどり着いたのだ。ひとたび買い取りが可能でありそれが制裁機能に直結すると判明したゾーン購入は、騒乱の種としか表現ができなかった。
そもそもゾーン購入自体が利益を生むわけではない。いずれ誰かに購入されてしまい不利益を押し付けられる――つまり攻撃されるという可能性がある以上、購入しないという選択肢は存在しない。こうして大神殿、商業施設、アキバの地表の市街ゾーンなどは、〈円卓会議〉会議の予算のほぼすべてと大手ギルドに対する借り入れ金を用いて購入された。
しかし、今度はその維持費が問題になってきていたのだ。
ギルド会館だけであればまだ良かったのだが、アキバ市街を含む〈円卓会議〉の不動産資産は、毎月の維持費だけで金貨一千万枚を超えるほどに膨れ上がっている。これは財政上の大きな負担であった。
攻撃される事による防御が負担を産む構造である。シロエやヘンリエッタを中心とする派閥はその負担を軽減しようと様々な可能性を探り、幾多の議論を重ね、今度の遠征行は企画されたのだった。
「これは……では、この金貨は、それらを購入したときの費用だと?」
「ええ。“すべての金貨はここより生まれ、ここへと還る”のでしょう? 契約が成就したので、購入資金は契約書と引き換えに、僕の足下へと帰ってきたんですね。予想通りです」
「シロエ様はその説明にここまで来たのですか?」
「ある意味はそうです」
「では、融資の話とは――どうなったのです?」
シロエはずれた眼鏡を指先で押し戻した。
「それが本題です。僕たちは、このヤマトの地表すべてのゾーン、森林や、山脈や、湖、近海などのすべてを購入したく思っています。そして、購入した全ては先ほどと同じように、速やかに破棄、譲渡します。今証明したように、購入したゾーンの所有権を破棄、すなわちヤマトに譲渡すれば購入額は返金されます。……ヤマトの大地はヤマトの手へ還るべきです」
菫星は白くなるほど拳を握りしめて、必死に動揺を抑えているようだった。
「建築物サイズのゾーンに関しては手が回りませんし、当面は従来通りで良いと思いますが、少なくともすべてのフィールドゾーンを“所有されることがない”状態に固定化したい。それに……〈大地人〉はゾーン購入ができません」
それは長い間シロエの胸に突き刺さっていた刺でもあった。
「この状況は、異常です。僕たち〈円卓会議〉は戦争の火種になることを望みません。土地の所有を否定するわけではないです。でも、それは人と人の契約で十分だと思うのです。ゾーン購入システムは、今の僕たちには、不必要なんです。だから僕たち〈円卓会議〉に、そのための資金を貸してください。僕たちが僕たちを滅ぼさないで済むように、この流れに返すための資金を、融資してください」
◆
硫黄の匂いのするゴツゴツした岩肌の地面だった。
こんな場所に寝転がるのは馬鹿だけだと思いながら、ウィリアムは天を仰いで倒れている。顔だけ横に向ければ、黒焦げの鏃や得体のしれない色に染まったボロ布が落ちている。誰かの装備かもしれない。散々な有り様だ。
全身が熱で腫れぼったく感じるほど疲労していて、たったそれだけの動きでさえひどく億劫だった。大空洞の中は不気味なほど静まり返り、蒸気の噴きだす音や、水滴の音が、やけに大きく響いている。
臭くて、暑くて、痛くて、だるくて、うんざりするような現在は、至福のひとときだった。ウィリアムは鼻の両脇に流れる液体が血液ではないのを知ったが、それを拭おうとは思わなかった。両腕は弓の引き過ぎでストライキに突入していたし、あちこちに転がってる仲間たちだって、どうせ泣いている。
勝ったのだ。
おびただしい物資を使いきり、戦闘不能になる仲間たちもいた。蘇生呪文と昏倒の繰り返しになった局面もある。全身血まみれになったデミクァスが影の戦士たちに追われ帰ってきたときは敗北がよぎった。しかし、すでに〈三なる庭園のイブラ・ハブラ〉を倒していたことが功を奏したのだろう。今度は第二パーティーを通路での遅滞戦闘に投入し、無理矢理に泥臭い乱戦で薄氷の勝利を収めたのだ。
もう、なにもできない。いま、黒き鎧のルセアートがこの大広間に現れたら、まるで赤子のように苦もなくひねられるだろうという予想は確信だった。メンバーはずたぼろだ。全身汚水まみれの泥だらけで、氷と炎にあぶられ、疲れ果てて――そして輝いていた。
むくりと上半身を起こしたウィリアムは空洞を見回して笑みをこぼした。
笑い声はは小さかったが、やがて朗らかに響いた。
勝ったのだ。
なんてすごいのだろうとウィリアムは思った。
言葉にできないほど嬉しかった。いままでの後悔も自責も不安や失意さえ洗い流されていく。すごいぞ、大したものだ、と快哉を叫んだ。ウィリアムは自分の語彙のなさをちょっぴり情けなく思ったが、それもまた一瞬のことだった。
(なんてすげえんだろう! すげえなあ、俺の友だちは、すげえ奴らだなあ!!)
寝転がったままのフェデリコが、こっちへ向かって手をふっていた。
ディンクロンは片手を水たまりに突っ込んで冷やしている。前髪がでろでろで色男も台無しだ。
オーディソがうつ伏せのまま、バスガイドの振る旗のように細いロッドを動かした。突然現れた小さなアルラウネが怯えておろおろしたあと、荷物から水筒を引きずり出してはみんなに配っていく。
身動きできるメンバーはほんの少しで、彼らでさえも座りなおしてぐったりする程度がせいぜいだった。誇張なく言えば〈シルバーソード〉はただいま全滅寸前である。
しかし、全滅寸前であっても、勝利は勝利なのだ。
(ああ、すげえなあ、本当に)
ウィリアムはバカのひとつ覚えのように、心のなかですげえすげえと繰り返すことしかできなかった。キラキラと眩しくて、それがやけに目に染みて仲間をじっと見ることさえできなかった。涙が目に入ってるというわけでは断じてないと思った。
「勝ったぞ」
「おう」
「勝った」
「勝ちましたぞな」
広間にはそんな小さなつぶやきと応答が繰り返されている。
それを聞いたウィリアムは嬉しくって仕方がなかった。自分はたしかに口べただが、仲間たちのつぶやきだってハンコで押したように一種類である。大差がないと楽しくなってしまったのだ。
「おい、ギルマス」
「なんだよ」
ウィリアムはフェデリコのしわがれた声に答えた。フェデリコも半病人のような動きで起き上がると。「あれだよ、あれ」と顎先で宝物の山を指し示す。炎蛇イブラ・ハブラと霜巨人タルタウルガーの残した財宝だ。金貨の山、宝石などの換金アイテム、数十個はある素材アイテム、そして幻想級の武器や防具。二体のボスを撃破したため、かなりのボリュームだ。
装備品のほとんどは譲渡不可能である。一時的にレイドリーダーであるウィリアムが預かり、メンバーに分配しなければならない。
アイテムの分け方には様々な方法がある。いままでのレイドへの出席状況をまとめてその功績ポイントで競りを行う方式、あるいはそのアイテムを装備可能なものの間で順番を決めるといった方法、あるいは希望者でじゃんけんをするという運任せなまで――これらの分配方法は、レイドを行うギルドすべてが試行錯誤を繰り返す共通する課題だ。
幻想級のアイテムは強力で、しばしばその取得を目的としてレイドが行われる。他に入手手段のない特別な銘と性能を持つ逸品は、サーバーからの敬意を集め、時には〈黒剣騎士団〉の名前のようにギルドの誉れとなることすらあるのだ。
報酬の分け方で崩壊していったギルドは数多い。それだけに、どこのギルドもその手法と管理には細心の注意を払っている。
〈シルバーソード〉はゲーム時代からポイント制を採用していた。レイドへの参加回数による功績ポイントで、アイテムを落札する方式だ。しかし、いままで一回も倒したことのない未知のボスを倒した場合、そのアイテムはポイントによる分配ではなく、ギルドマスターであるウィリアムに権利を一任するという慣習である。ポイント制による分配は公平感がありメンバーから不満が出にくい。その一方でポイントさえ消費すれば欲しい人の元へ、つまり、戦力上昇から見たら最適解ではない持ち主の元へとアイテムが行く可能性もある。
ウィリアムによる指名分配は新しく得た強力な装備を適正者に渡し、それ以降の攻略を効率的に進めるための取り決めなのだ。
やっと回復してきた身体に鞭を入れ、ウィリアムは立ち上がると、財宝の山に近づいた。取得ウィンドウが多重に開き情報が開示されると、そこには今回のレイドボスがドロップした数々のアイテムが並んでいる。どれひとつをとっても、名前だけでその威力が伝わるようなものばかりだ。
それもそうだろう。レベル九〇を越えたレイドに正面からぶつかり、それを突破したヤマトサーバー初の戦果なのだ。憧れていた頂に登り、ウィリアムの気持ちはびっくりするほど静かだった。
〈リュンケウスの瞳〉
〈絶火氷刃〉
〈無限蛇の紅鱗〉
どれもが魅惑的だった。これらの情報は、大規模戦闘に参加した参加者全員の手元でも確認できるはずだ。それぞれが身体を起こし、虚空に浮かんだウィンドウを確認したり、ウィリアムの方を見つめている。期待に満ちた視線の中、しばらく考えた銀髪の青年は、振り返り、仲間たちに告げた。
「〈月桂の華護り〉。こいつだが」
それは、入り組んだ彫金が施された金属製の護符だった。
意匠化された四つの花弁が円形のフレームの中でどこか誇らしげに咲いている。
「俺は、これを、腹黒眼鏡にやりたいと思う」
そのとき、周囲から急速になにかの気配が薄れていった。それは張り詰めたある種の敵意でありこのゾーンにはいった時から感じていたピリピリするような緊張感でもあった。
フェデリコは空気の匂いをかぐように鼻をひくひくとさせた。そして「なんだか暖かくなったな」とつぶやいた。
誰に説明されるよりも明確に、レイドチームの面々はこのゾーンの攻略が終わったのだと言うことを理解した。本来であれば〈七なる庭園のルセアート〉の討伐が残っているのだが、それはもはや必要がなくなった。このゾーンからウィリアムたちに対する敵意が消え、安全なエリアになったのだ。
「あの人がなんかやったらしいな」
ディンクロンが汚れた前髪を掻き上げてそう言った。
まさしくその言葉の通り、シロエが予告していた交渉を成功させたのだろう。やり遂げるとは思っていたが、やはり成功させたのだと思うと、ウィリアムは再び笑みが浮かぶのを感じた。
「いいか、こいつは良いアイテムだ。耐性も能力値上昇も一級品だ。だから、シロエ……にやる。あいつは〈シルバーソード〉じゃないけれど、一緒に戦った戦友だからな」
大空洞に響く答えは承諾であった。
とても誇らしげなその唱和を聞きながら、ウィリアムは次の戦利品の分配に取りかかるのだった。
◆
ウィリアムたちと別れてから四日。
シロエたちは緑の覆われた高架道路に飛び降りた。時間制限超過で飛び去るグリフォンに手を振ったシロエと直継、てとらは、神代のアスファルトの上をゆっくりと歩き出した。
「もうっ。直継さんは冷たいなっ」
「ちーがーうのっ。俺は鎧が重いから、二人乗りはグリフォンが嫌がるのっ」
「またまたあ。そんなこと言っちゃって。本当は誰か専用とか思ってません?」
「痛っ。痛っ。なんだそのつっこみっ」
「ふふふーん。ボクはアイドルですからねっ!」
楽しげにはしゃぐふたりの声を聞きながら、シロエは空を仰いだ。
穏やかな冬の好天だ。季節から見ておそらくあと一時間二時間ほどであろうけれど、太陽の光がシロエたちの行く手に降り注いでいる。
ウィリアムたちとはあのあと合流し〈パルムの深い場所〉を抜けてススキノまで同行した。旅の始まりとは打って変わった和やかな雰囲気で同道することができた。
デミクァスは何か大きく気持ちを変えたようだった。ぶっきらぼうな態度は相変わらずだが、〈シルバーソード〉の面々に突っかかることはなくなった。シロエたちとは相変わらず会話はないが、それでも構わないとシロエは思っていた。
その〈シルバーソード〉のメンバーとは帰り道の夜の度に様々な話をした。その多くは至って実用的な話だ。〈大災害〉後に起きた様々なことへの情報交換である。
アキバの現在については〈シルバーソード〉もほとんどのことを押さえていた。念話のあるこの世界の〈冒険者〉にとって、知り合いさえいれば遠隔地の情報を得ることは難しくはない。しかし、生産や発明の最新ニュースについては〈シルバーソード〉もそこまで詳しくはなかった。隠すようなことでもないとシロエはその辺りの成果の共有に努めた。〈シルバーソード〉の方からは、エッゾ帝国のレイドで見かけた新素材などの情報がもたらされた。
両者が一番時間をかけて語り合ったのは今回のレイドで手に入れた大量の素材アイテムについてだ。一部はシロエが受け取ったが大部分は〈シルバーソード〉の手元に残ることになった。もし彼らが望むのであれば〈第八商店街〉や〈グランデール〉が取引にエッゾまで赴くことになるだろう。〈シルバーソード〉はこの戦利品を元手に消耗した物資を補充しなければならないからだ。
各自の身の上話や悩みを話し合ったわけではなかった。
毎晩焚き火を囲んで、残り少なくなった食料を食べながら、戦利品のあれやこれやを語り、新しく生産できる可能性のある装備を語り、今後の方針を語り――つまりそれは〈エルダー・テイル〉がゲームであった頃とまったく変わりのない話をしただけであった。
しかし、シロエを始め参加者は深い満足を覚えていた。
とても苦しい大規模戦闘を勝ち抜いたのだ。
余計な話はいらない。これでいいのだ。
直継は鼻歌を歌いながら新しく得た装備品を磨き、てとらは岩に座り足をぶらぶらさせながらにこにこと笑い、デミクァスさえ口をへの字に結んで気だるげに肘を枕に参加をしていた。シロエはそれを見ては再び〈シルバーソード〉との話し合いに戻った。短い旅の間に残せる土産はそれだけだったからだ。そしてそれは満たされた凱旋だった。
ウィリアムとは短く言葉をかわした。
彼はこのままススキノに残るといった。エッゾにはフィールド・レイドとして巨人族が現れる。それは〈エルダー・テイル〉時代と一緒だが、時折その襲来に新しいモンスターが混じるのだという。それらを撃退しながら戦力を回復し、さらなるレイドに備えると“ミスリルアイズ”は拙い言葉でシロエに告げた。ススキノが心配でもあるのだと、ウィリアムは最後に付け加えた。
シロエはその言葉に頷いた。その判断にはなにも異を唱える部分はない。ウィリアムは立派なギルドマスターだし、シロエもその判断はもっともだと思ったのだ。
「俺をフレンドリストに登録してくれ」
とウィリアムは言った。フレンドリストは互いに一方通行なのだ。自分が登録しているからといって、相手が登録してくれているとは限らない。自分の側で登録してあれば連絡をとることは可能だから、普通、相手に登録を求めたりはしない。登録した自分から連絡すれば会話は出来るからだ。
だからウィリアムの言葉は「何かあったら連絡しろ」という意味だとシロエは理解した。
照れくさいのかもしれない。ウィリアムは普段よりいっそう気むずかしい顔をしていた。
「もうしてあるよ」
シロエは答えた。
ウィリアムは「それならいい」と答えて、片手を上げた。
それで終わりだった。ウィリアム率いる〈シルバーソード〉とは、あっさりと別れた。
〈エルダー・テイル〉において、レイド攻略を行うトップグループのプレイヤーは多くはない。大規模ギルドがどんなに大規模であっても、その中の最先端攻略グループというのは数が限られる。ヤマトサーバーにおいては五〇〇人に満たないはずだ。別れを惜しむほどの人数ではない。いつでも隣を走っているし、いつでもまた一緒に戦える。シロエは、ウィリアムの無言のメッセージを告げられたような気持ちになったのだ。
おそらくそれはここが異世界になっても変わらない。地球で暮らしていたあの時でさえもシロエが知らなかっただけで、そういう関係はあったのだとシロエは思った。シロエが感じられないだけで、シロエと同じように戦っている多くのまだ見ぬ仲間がいる。それはシロエにとっては小さくない発見の驚きだった。
ススキノまで戻った最大の目的であるリ=ガンといえばすっかりと宿屋に馴染んでその屋根裏部屋から資料を溢れさせていた。どこから持ち込んだのかわからない書籍と、自分で書いたのだろう意味不明な書付けに囲まれてずいぶん興奮しているようだった。
リ=ガンはもう暫くの間ススキノを離れられないらしい。都市間トランスポートゲートに関する研究は進んだようだった。シロエたちはそんなリ=ガンにも別れを告げて、ススキノを旅立った。いずれ他のゲートも調べなければならないというリ=ガンは、アキバで合流できる予定だ。別れの挨拶は不要だった。
そして〈鷲獅子〉による空路の旅をつづけて、やっとレスウォールまで辿り着いたのだ。〈鷲獅子〉の持続時間があと三〇分や一時間もあれば余裕でアキバの街までつけたのだが、少しだけ足りなかった。かといって野営をして明日に回すというほどの距離でもない。
しばらくは体をほぐすために歩いて、馬を召喚すれば、夕暮れ過ぎにはアキバの街にたどり着くことができるだろう。それがわかっている直継とてとらも気楽な様子だ。
「うわ、ちょっとまて登るなよっ」
「待ったら登っていいんですか? 返答を要求しますよ」
「お前は子供か祭り」
「子どもはこんな甘い匂いさせてませんよ。ふふふ」
「そーゆー台詞をどこで覚えて――あ、へ? お、おう」
てとらとの漫才を突如打ち切った直継は、ごめん、わるかった! てとらを放り出して、そのまま召喚馬を呼び出すのももどかしく走りだした。尻餅をついたてとらは、小さな口を尖らせて、不満顔でシロエの隣にやってくると、くるりと回る。
「なかなかうまくいきません。魅力不足ですかね?」
「からかうのもほどほどにね」
「ほどほどだったら面白くありませんよ」
輝くばかりの自慢顔で胸を張るてとらにシロエは肩をすくめる。
「男の子だってのはいつ言うのさ?」
「そりゃ直継さんが気がつくまで内緒ですよ。そのほうが楽しいですからね」
「そういう意味では大事な時期なんじゃないのかなー。直継は」
マリ姐との件で。
とシロエは心のなかで続ける。本人は口をつぐんでいるつもりらしいのだが、直継とマリエールふたりの仲が進展中であるというのは、シロエとにゃん太の間では暗黙の応援事項なのだ。といってもお節介するつもりのない精神的声援である。
「了解ですっ、お任せくださいですよ!」と満面を笑みを浮かべるてとらに、シロエはわかっているんだかわかっていないんだか、とため息を付いてみる。実際には空気を読めるタイプなのは知っているが、読めるからといってそれに従うかどうかは本人の意志ひとつなのだ。
勢いだった部分がなくはないが、ギルドへ入るのを認めたのはシロエ自身である。直継に厄介事を増やしてしまったような気がしなくもない。
とはいえそれ以外の部分では人格的にも技量部分でも断るような人材でないのは確かなことだ。本人の強い希望もあったし、予想はしていた友人からの推薦もあった。
「ボクはべつにカズ彦さんの指図でススキノにいたわけじゃないですからね」
「そのへんは信用しておく」
「シロエさんなら――ボクより人助けできそうですしね」
「〈記録の地平線〉は慈善団体じゃないんだけどなあ」
「でも無関係許してくれるほど世の中ってドライじゃないんですよね。こまりますよほんと」
全くそのとおりだ、と妙に世慣れたてとらの意見にシロエは頷かざるをえない。
アキバの街をまだ見ぬ騒乱から守ろうとギルドホールの買収を進めた。
それだけでは解決しないとより多くのゾーンを買い占めた。その維持費を払いきれず、それならいっそ契約を解除して私有禁止ゾーンにしようと考えた。どうせならこのヤマトサーバー全体の所有権を未来にいたるまでシステムから開放をしようと計画した。
はじめの発想はさほどおかしくはなかったはずだ。
あのゾーン所有システムは将来に禍根を残す可能性があり、それは誰の目から見たって明白だったと思う。最初にそれを利用した自分にはその後始末をする責任があるとシロエは考えたのだ。
しかしそれを実行するために長い時間がかかり、様々なかかわり合いがあり、エッゾ帝国や地の底へまで赴くことになった。まったくこの世界は一筋縄ではいかない。
(とはいえ、それはいつものことだよな)
考えてみれば〈放蕩者の茶会〉時代からそれは大して変わりがない。
動き出せば予想外のことがたくさん起きる。そのなかで力不足を思い知らされるのだって、思い起こせば久しぶりではあるけれど、毎回のことではあった。そういう星のもとに生まれたんだよ、諦めなって! という無責任なKRの言葉を思い出す。
「あーっ!!」
高架道路は崩れかけて危なくなった側路帯と瓦礫の山を回りこみ新しい視界へと辿り着くと、てとらは前方を指差し興奮して駈け出した。その先には、様々な色合いのコートを来た一団がシロエに向かって手を振っていた。てとらは猛烈な勢いでそれに突進していき、必死にいいわけをする直継となにか騒動を起こしているらしい。
シロエは苦笑をしながらも、温かい気持ちでゆっくりと歩き続ける。
わざわざ出迎えに来てくれた班長やミノリにトウヤ、ルンデルハウスに五十鈴。〈三日月同盟〉のメンバーもいる。マリエールとてとらに両側から抱きつかれて大混乱の直継。優しい笑みで黙礼をしてくれたヘンリエッタ。にゃん太の隣で幸せそうなセララ。小竜に飛燕。
手を降ってくれる皆に近づこうとしたシロエは気配を感じて振り向く。
「少し、背が伸びた?」
「主君はひどいな!」
ちょっとした感想でどうやら怒らせてしまったアカツキは、しかし、本当に少し大人びて見えた。見たことのない忍装束の上に肩掛けを羽織った姿は、渚で別れたその時よりも、確かに凛々しく優しく見えるのだ。
それがなぜだかわからなくて、シロエは可愛らしい小さな顔をじっと覗きこむ。「ぶしつけな真似をするな、主君」とアカツキはシロエの後ろに逃げ込んでしまう。脇の下からそのアカツキを視線で追いかけたシロエは、今までと変わらないその一幕だったのに、不意に気がついてとても嬉しい気分になった。
アカツキもアカツキの戦場で戦っていたのだ。
あの白い砂浜で確認したように、きっとアカツキもなにかを取り戻したのだろう。
そして少しだけ強くなった。
世界は動いているのだ。
シロエが頑張っていた間、シロエの仲間もまた別の場所で同じくらい戦っていた。シロエがウィリアムに感じたように、目には見えなくても、隣を走っている無数の仲間がいる。それは心強く、救われるような認識だった。長い旅をしてきたシロエはいまアキバに帰り、シロエを待って戦っていてくれていた仲間と再びひとつになった。
気がついたその気持を伝えたくてシロエは言葉を探したが、静かな喜びで上手く見つけることができなかった。だが焦らなくても、伝える時間はまだ沢山ある。
「ただいま。アカツキ」
「おかえりなさい。主君」
いまはただ、互いの戦利品を見せ合う子どものような笑顔で、帰還の挨拶をかわすのだった。
これにて7話目の「供贄の黄金」終了です。応援感謝。八話目は年少組の予定で動いてるよ!