054
その同じギルド会館のどこともしれぬ地下の一室で、また別種の戦いがその決着を迎えようとしていた。
色あせた藍色の壁紙は、薄暗い間接照明と相まって夜の海底のような雰囲気を部屋に与えていた。この応接室へ至るまでの迷路を思い出して、レイネシアはごくりと喉を鳴らす。姫としては無作法だが、心のなかには止めどなく怯懦が湧き上がり、止めようがないのだ。
今までもさまざまな貴族と会見をしてきた。
面倒くさいと思うのは毎回だったが、ここまで不安感を覚えた例をレイネシアは知らない。話す内容にではなく、雰囲気に飲まれるとはこういうことなのかと、初めて思いしらされた。祖父セルジアッドや妖怪変化のクラスティに覚える畏怖とはまったく違う、不気味な雰囲気に飲み込まれそうな感覚だ。
膝の上でハンカチを握り締める両手の力を抜こうと意識する。
意識しないとそんな薄布にしがみついてしまいそうなのだ。
そんなレイネシアの肩に、温かい手がそっと置かれた。ヘンリエッタ嬢だ。アキバの誇る才媛のひとり。ほっとするようなその感触に思わず振り向いて感謝を述べそうになるレイネシアだが、意志の力でそれを押さえ込んだ。
今は目の前の、向かい合わせのソファーに座った男、菫星との会話を優先しなければならない。
供贄一族の若頭領は、あるかないかの微笑みを浮かべていた。レイネシアの住まう水楓の館に訪ねてきたとき、しおらしい表情で謝罪を述べていたのはすべて気のせいだったのかと思い直したくなるほどに、それは余裕のある態度だった。
不敵というのとも違う。挑発的であるというのとも違う。
それはこの男の素の表情だろうとレイネシアは確信した。もしかしたら前回の会見では猫をかぶっていたのかもしれない。いつも同じ事をエリッサに指摘されているレイネシアは、それを指摘するつもりにはなれなかったが、それでも気を引き締め直した。
「本当に魔法陣から〈動力甲冑〉への魔力経路を遮断してよろしいのですね?」
「はい」
レイネシアはそう答える。
そのことはアキバにおける供贄一族の本拠地、この地下の館とでも言うべき場所へ訪ねてきたその時から繰り返している。菫星もその要求を入れ、すでに了承をしたのだ。黒い上着をきた供贄の従者たちはすでに遮断作業へとむかったはずだ。
この質問は、最終確認なのだろう。
「魔力供給を停止すれば、都市防衛用魔方陣もその能力を失います。再稼働するためには、十年単位の時間がかかる」
尋ねるようなその視線にレイネシアははっきりと頷く。
「はい。承知しております」
「アキバを守る衛士システムは停止する」
「そうです」
「この都市は無防備になる」
「ええ」
よどみなくレイネシアは答える。
迷っているなんてことは――絶対にある。
あたりまえだ。平静を装ってる今この瞬間も、後悔と恐ろしさで泣き出しそうだ。
なんで自分が、と思う。
どうしてこんなことに、とも思う。
逃げ出せるならどんな謝罪をしてでも逃げ出したい。
そんなことは当たり前だ。当然だ。
でも決めたのだ。そう依頼すると決断したのだ。
いま思い出せばわかる。あの日、この菫星が自分になにをしたのか。
この青年はレイネシアに決断を委ねにやってきたのだ。その荷物をまるごとレイネシアに元に降ろして帰ったのだ。おそらくこの僅かな笑みを浮かべて。それはおそらく計算尽くだったのだろう。
卑怯だ、ふざけないで欲しいとレイネシアは思った。今回の不始末は、供贄一族が起こしたものだ。供贄一族が決断し、供贄一族が責任を負えばいいではないか。他ならぬ供贄一族が、すぐさま事件を解決し被害も弁済すればいいではないかと思った。
そんな都合の良い解決方法がないというのであれば、せめて菫星が勝手に魔力供給を停止すればいいではないか。責任者として。そしていざそれが問題視された時には、アキバのすべての民から石をぶつけられればいいではないか――そうも思った。
しかしそれは、考えてみれば、レイネシアがまさにしようと考えていた行動だった。
レイネシアはこの一件を知ったとき、たとえば祖父セルジアッド公に連絡をしようと思ったのだ。あるいはクラスティへ泣きつこうと考えた。それは彼らへ決断責任を丸投げするような態度ではなかったか? いままでそんな事はしたことがないと、レイネシアには言えない。いいや、レイネシアは、いままでそんな事ばかりをやってきたのだ。
菫星は、レイネシアにそっくりだった。
そして黒衣の少女が街へ飛び出した。
あの時、レイネシアは思ったのだ。
ああ、都合がいい、と。
もちろん今回の事件が〈冒険者〉の歴々に知られてしまったら、〈大地人〉と〈冒険者〉の間に深刻な対立が起きる恐れはある。それはコーウェンの娘として、ヤマトの貴族として絶対に阻止しなければならない。でもその一方で、いつもの様にうなだれていたら、〈冒険者〉の少女が勝手に事件に飛び込んでいってくれた、都合よく解決の糸口が現れた。しかも盗み聞きで、レイネシアが決断するまでもなく事態が進んでくれた。
そんな風に一瞬考えたのも、本当のことなのだ。
だからこそレイネシアは気づいてしまった。菫星がレイネシアにまんまと押し付けた責任は、レイネシアが生まれてから今までの間、耐えることなく周囲に押し付けてきた責任なのだ。目の前の青年に感じるいらだちは、そのままそっくりレイネシアが自分に向けるべき感情なのだ。
もちろん今回の件はリーゼやヘンリエッタに相談した。彼女たちを通じて〈円卓会議〉へも報告がなされてるはずだ。しかし決断したのはレイネシアだ。菫星から押し付けられた責任を〈円卓会議〉へとそのまま押し付ける訳にはいかない。自分がされて不愉快だったという理由だけではない。
どんなに言い繕おうと、菫星は〈大地人〉であり、レイネシアも〈大地人〉だからだ。それを〈冒険者〉にただ押し付ける訳にはいかないではないか。
〈冒険者〉と〈大地人〉は別種の存在だ。
言葉を飾らずに言えば、〈大地人〉は〈冒険者〉より力の弱い存在だ。だがだからこそ譲れない一線がある。力が弱いからといってすべてを委ねてしまえば、それは力が弱いだけではなく、劣っていることを認めてしまうことになる。それでは手を取り合うことができなくなるのだ。――友だちには、なれなくなる。
エリッサの言葉が耳に蘇る。
レイネシアは自分を偽るのを止めて、菫星を睨みつけた。
「今回の件は供贄一族のみならず〈大地人〉の犯した失策です。十分な警備が取れなかった失態です。それははっきり認めなければならない。その上で今できる最善は、魔力供給の停止だと判断しました」
「……」
「〈冒険者〉のみなさんにお詫びするためには、私たちができることは私たちがしなければなりません。今回それは、魔法陣の停止なのです」
「より大きな迷惑をかけるかもしれない」
その指摘にレイネシアは言葉に詰まる。
当たり前だ。レイネシア個人に、この事件をきっかけとしたすべての影響の責任を負う力などない。いや、そんな責任を負える存在などいるのだろうか? かけがえのない人命をいくつも掛け金とするような決断の責任を。レイネシアは神なんて言葉を口の中でつぶやいてみた。つまらなくて、寂しい言葉だ。
でも、負えない責任を負うのが貴族である。
時にその身が磔にされようと勇気を示すのが貴族である。
レイネシアは尊敬する祖父からその薫陶を受けてきたのだ。
その教えは神への信仰と同様実体を持たなかったが、レイネシアの中では確固として手触りのある真実なのだ。レイネシアは油の切れたような首を動かして、数回頷いた。みっともない仕草だった。
「ご心配には及びません」
しかしそんなレイネシアを励ますよう背後に立つヘンリエッタは声をかけた。〈円卓会議〉の正使を表す制服にケープをまとった彼女ははっきりとした声で告げる。
「今回の一件はすでに〈円卓〉も知るところです。魔法陣の停止にはわたしたちの同意もあるとお考えください」
「〈円卓会議〉の後ろ盾もある、と」
「後ろ盾ではありません。アキバの街に暮らす同居人として事態収拾へ向けて協力をしているだけです。そしてその同居人には供贄一族も含まれていると考えていますが――その認識に誤りがあるでしょうか?」
「そのレトリックはシロエ殿から?」
「いいえ」
最後のやり取りで、ヘンリエッタの声がこわばるのがわかる。
どんな意味のあるやり取りだがわからなかったが、レイネシアは一歩も退かないという覚悟で、ずっと菫星を睨みつけていた。
「……分かりました。今回の一件、原因はあれども供贄一族が警備に失敗したことは確かです。わたしたちが誇る、魔法陣運用と防衛の数百年に渡る歴史に汚点を残してしまった。大陸からやってきた天の災いに気を取られ、西の脅威を過小評価してきた罪は、すべてわたしにあります」
「……菫星様?」
半眼に目を伏せた目前の青年が語りはじめた言葉のほとんどはレイネシアには意味が図りかねた。言葉は謎めいていて、なにかを予感させたが、そのほとんどはレイネシアの指先をすり抜けていった。
(だって、この人……供贄一族って〈大地人〉と何かが違う……)
「確かにおっしゃるとおり。わたしたちもわたしたちに出来る何かをしなければならないのでしょうね。拒絶ではなく、新しい一歩を。前回は試すようなことをして申し訳ありません。そしてこの一件は借りとさせていただきたい、レイネシア様」
顔を上げた菫星は真摯な表情をみせる。それはレイネシアが初めて見るものだった。しかし彼は、意味の掴めないあの笑顔に変わると「もっとも借りは別の方へ返すことにしたいと思いますが」とうそぶく。
どうやら菫星は彼女を試したらしい。
レイネシアはやっとそのことに思い至った。前回の会見は、菫星がレイネシアに行った試験なのだ。その目的も結果もわからぬままに、レイネシアはそう理解した。それはとても困ることだった。レイネシアはさっぱり向いていないにもかかわらず、この菫星も、妖怪心のぞきも、白い眼鏡の悪魔も、レイネシアに重い荷物を背負わせようと画策するのだ。
「用意が出来たようです」
一族の若者が菫星へ耳打ちをすると、彼はレイネシアに告げた。
レイネシアはその答えを返すため、初めて肩越しに振り返りヘンリエッタを見上げる。蜂蜜色の髪をゆらした眼鏡の才女は遠くを見つめる独特の表情をした。小さな声で単語をいくつかつぶやく。
「あと一〇……、五……。わかりましたわ。一分で」
おそらく念話から醒めたのだろう、頷くヘンリエッタを確認して、レイネシアははっきりした声で告げた。
「ええ。正式な依頼を行います。このアキバを守る都市防御用魔法陣、その魔力供給経路を遮断して下さい」
一分後、アキバの街には巨人が漏らしたささやかなため息のようなさざ波が広がった。
絶対無敵を誇った〈衛士〉システムが停止したのである。
◆
「一〇メートル……、五メートル……接触!」
可愛らしい声が路上に響いた。
突然現れた石造りの巨体を、アカツキはまるで知っていたかのように回避する。灰色の花崗岩で作られた機関車にも似た〈巨石兵士〉は、自動車にも匹敵するサイズの豪腕を振り下ろした。
さすがの殺人鬼もその攻撃を受け止めるという判断は出来なかったようだ。鮮やかに回避をする。そもそも〈巨石兵士〉の攻撃は範囲が広く貫通力はあるものの、速度そのものはさほどでもない。回避をすることはたやすいのだ。
しかし、それもアカツキの計算の内だった。
〈巨石兵士〉の攻撃を回避した殺人鬼の脇腹を狙って〈フェイタルアンブッシュ〉。待ち伏せの名を冠したこの技は、発動時間、通称タメ時間が長い。速度の速い相手に当てるには苦労する攻撃特技だ。その攻撃を〈巨石兵士〉を目隠しに使ったコンビネーションで死角から発動させる。
難しい攻撃を決めた報酬は殺人鬼へと与えるダメージという形で報われた。
怒り狂う鍔鳴りと吹雪をアカツキは身をよじって躱す。わずか数十センチの回避。とてもではないが吹雪という範囲攻撃を躱すには足りないそれを補ったのは、やはり〈巨石兵士〉だった。アカツキはその巨大な影に入ることで冷気をやり過ごす。
しかしその代償として〈巨石兵士〉がひび割れるような音を発して凍り付いてゆく。
巨体を誇る〈巨石兵士〉はそのイメージどおり大きなHPを持っている。しかし、大きな、というのはあくまで〈召喚術師〉が召喚する従者の中では大きい、という意味である。これら従者クラスの召喚生物は、同レベルの〈冒険者〉の三分の一程度の戦闘能力しか持たない。つまりそれはHPも三分の一であることを意味する。〈巨石兵士〉が防御とタフネスに偏っていたとしても、そのHPはアカツキにすら届かない。
しかし、殺人鬼の攻撃に五秒耐えることは可能だし、五秒あればアカツキたちは次の行動に移れる。
「〈ハートビート・ヒーリング〉……。ほいっ」
箒にも似たロッドを構えたミカカゲが、朽ち果てた軽自動車の残骸のボンネットから〈森呪遣い〉固有の特殊回復呪文、脈動回復をアカツキに付与する。鮮やかな緑色の輝きがアカツキの心臓部分で、とくんとくんと守護を開始する。アカツキの体力がそのリズムに合わせて徐々に回復してゆくのだ。
ミカカゲの足下で、ミカカゲそっくりの身振り手振りをする小さな少女、アリーからも魔力が放たれている。植物精霊アルラウネは、他の従者召喚と同じように戦闘の補助を行う能力も持つが、それ以上に召喚主の回復呪文の効果を上げる特殊能力を持つ。内気なアリーは目をぎゅっとつぶって小さなオタマを振り上げる。それは恐怖からではなく、主を必死に助けようとするけなげな姿だ。
脈動回復呪文に加えて、範囲回復呪文、即時回復呪文――ミカカゲはさらなる回復呪文をアカツキに連続投射する。幾つもの回復呪文を組み合わせる〈森呪遣い〉特有のヒールワークで、激戦に傷ついていたアカツキを癒そうとするのだ。残りのMPを顧みない献身的な行動が、アカツキのHPは八割程度まで回復させた。
アカツキは感謝を述べない。述べる余裕もない。
いまアカツキが負っている任務は殺人鬼の攻撃を一身に集め、中央通りを疾走することだった。その任務を完璧に果たすことが唯一の感謝の道なのだ。かつてない集中した精神の中で、アカツキはそれを十分に理解していた。
アカツキの知覚範囲は広がり、水面のように冴え渡り、周囲の状況を把握している。
後ろを併走しているマリエールは、反応起動回復を途切れさせないように唱え続けてくれている。遊撃を勤める〈武闘家〉の少女と相棒の〈施療神官〉は、〈西風の旅団〉からの参加者だ。
ちりりと肌を焼く感触に、アカツキは〈武闘家〉の少女と逆方向へと跳ねた。
先ほど〈巨石兵士〉を召喚して隙を作り出してくれた〈召喚術師〉の白虹が、巨大な魔法陣から〈神槍の乙女〉を呼び出したのだ。純白の乙女鎧をつけた精霊が、七つに分裂した輝く槍を投げつける。〈戦技召喚:ソードプリンセス〉の亜種呪文だったはずだ。〈召喚術師〉の最大攻撃呪文は、しかし殺人鬼に致命的なダメージは与えられない。それは当然だ。いくら強力であっても個人の攻撃呪文で片をつけられるほど大規模戦闘は甘くはない。しかし途切れぬ攻撃は、岩をも穿つ。
立て続けに攻撃呪文と回復呪文を放つ二人組、ミカカゲと白虹のエリアをアカツキたち一行は駆け抜けた。足を止めるわけにはいかない。アカツキたちは殺人鬼を目的の場所へ誘導するという役目があったし、ミカカゲと白虹だってあんな勢いで呪文を投射していては2分たらずですべてのMPを使い切ってしまうからだ。
「がんばって!!」
死闘の場にふさわしくない、明るい声援が届く。悪鬼の形相を浮かべ迫り来る殺人鬼の肩越しに、ちぎれそうなほど手をふるミカカゲの姿があった。アカツキの胸が温かくなる。それはきっと〈ハートビート・ヒーリング〉のせいだけではない。
「更新っ。あと一〇メートルっ」
マリエールがサポートしてくれる声を背中に受けて、アカツキは月を切り取るように宙で舞う。“ミカカゲと白虹のエリア”は通過した。次のエリアまではあと一〇メートル。それは幾つものアトラクションを巡る冬のパレードのようだった。ルグリウスは五〇メートル以内に存在する〈冒険者〉の数に応じて能力を増大させる。それゆえ、五〇メートル範囲には小人数しか配置できない。
しかし、戦闘時間が長引けば、その少人数はMPを消費して疲弊してゆく。また少人数ではダメージ出力が足りず、戦闘時間が必然的に延びるだろう。それゆえ余計に消耗が加速する。それは悪循環だ。
それを打開するためにリーゼが考えたのが今回の大規模戦闘戦術だった。五〇メートルの球範囲に重複しないように、アキバの街に複数のエリアを設置する。そのエリアをアカツキを中心とした小部隊が殺人鬼を引きずり回し、エリアに配置されたメンバーの火力と回復能力で補給と攻撃を同時に行う。
残りのエリアを考えながらアカツキは走る。
朝までだって走り続けると誓う。
マリエールの励ましが、さっきから少なくなってきているのはわかる。攻撃職のアカツキは残りのMPに応じて特技を出し惜しみしながら戦える。ダメージそのものは下がるだろうが、それは戦闘が長引くだけだ。しかし回復職のマリエールは違う。マリエールが回復呪文の出し惜しみをすれば、それはそのままアカツキの死に直結する。
だからこそ、その重責を任せているからこそ、アカツキはみんなを守りたい。負けたくない。アカツキの身を包む装備も、アカツキを支える保護魔法も、アカツキを回復するさまざまな術法も、すべてアカツキのものではないのだから。
貸してもらった宝物を返すために、アカツキは前に、前に突き進んだ。
もっと鋭い踏み込みを、もっと疾い一閃を求めて。
アカツキの中で何かが噛みあった。
心持ち身体を沈めるような姿勢で呼吸をわずかに止める。その態勢をきっかけにしてよみがえるイメージがトリガーとなって特技を発動させる。〈追跡者〉のもつ〈隠行術〉だ。通常コマンドメニューからしか起動できない特殊技能を、アカツキは体術に条件付けて発動可能なまでに修練していた。
墨色の衣装に包まれた身体から、まるで生気が抜けるかのように、存在感が拡散してゆく。アカツキが薄くなる。
アカツキ自身も自分がどこにいるのかわからなくなる。固定された視界の中には踊りくる妖刀の攻撃がくっきりと見える。命中する攻撃の前に身を晒すアカツキ。しかし、別の場所からそれを眺めるアカツキもいるのだ。〈隠行術〉は〈影遁〉にまで到達し、分離した生気が戦場を直線的に移動する。
凍えるような吹雪を撒き散らす殺人鬼の攻撃の中を、アカツキが駆け抜けてゆく。
「アカツキに見える影」と「アカツキの主観」は別の場所に存在するのだ。
その証拠に、チラリチラリと明滅を繰り返すアカツキの影は、吹雪にかき消されるようにその姿をぶれさせて、まるで幻影のようにあらゆる攻撃を無効化している。
圧倒的な加速感の中、アカツキは殺人鬼の背後にたどり着いた。
この状態は長時間維持をすることができない。
アカツキが呼吸を停止させ心を凍てつかせている僅かな間だけ起動される特殊技能なのだ。通常は潜入工作やモンスターの知覚を逃れるために用いる技能を、戦闘中に強引に発動させる技術。それがアカツキの得た口伝。
――くだらない。
アカツキは飛燕の速度で小太刀を振るう。
背後から突然振るわれた攻撃は殺人鬼の首筋を浅く傷つけた。多重幻惑から急所攻撃につないでも、致命傷を回避することができるなんて。殺人鬼の能力は底知れない。でも。
――くだらない。
アカツキの心に口伝を得た歓喜はない。
再び呼吸を詰めて〈影遁〉を起動する。即座にあらわれる影身をめくらましに妖刀の三連突きから飛びすさる。
その突きとともに吹きつける大粒の氷塊を受け流し、アカツキはなお加速して、殺人鬼の刃の上で舞う。
手に入れた口伝は、あの妖刀と同じだ。
〈エルダー・テイル〉を超えた外法の理で駆動する技。
アカツキが願っていた力は、あの吹雪に狂った鬼と同じモノなのだ。それに憧れた幼い無邪気が今はなんとも恥ずかしく思える。
アカツキの胸には緑の鼓動が宿り、その身体を金色の鱗粉が包む。
両手に嵌めた籠手に力がこもり、まとった黒い衣装がアカツキを守る。
なによりちぎれそうなほど振ってくれた手が――。かけてくれた言葉が。小さな頷きが、アカツキを暖める。
口伝とは〈エルダー・テイル〉におけるシステムを理解し、〈大災害〉の変化を越えたその先で、個人が努力によっていたるひとつの境地だ。それは些細な工夫でもあるし、修練の結果でもある。結局アカツキは、リーゼの伝授してくれた〈D.D.D〉の把握している八つの口伝のひとつすら覚えることが出来なかった。たとえばにゃん太の料理が、にゃん太のサブ職〈料理人〉とにゃん太本人の実際の技量の結合であるように、あらゆる口伝は気づきと本人の研鑽で完成する。
誰かから口先で解説を受けたから使えるようなモノではない。
ゲームシステムから許可されれば、レベルアップのように一瞬で身につくものではないのだ。
口伝は口伝を得ようとは思わず、ただひたすらに悩み、己を鍛えたその先にある。
“口伝をくだらないと言えることが本当に口伝だぁね”とナズナは言った。その言葉がアカツキに刻まれる。それはこれで上級の〈冒険者〉だなどといたずらに誇るための力ではなく、もっと大事な、あの日に触れたなにかの欠片なのだ。
それを示すためアカツキは駆けた。力を願った己の甘さを屠るべく、アカツキは小太刀を鞘走らせた。たとえこの身が引き裂かれようと、あの妖刀を砕かずには済まさない。
アカツキの口伝〈影遁〉の正体はサブ職〈追跡者〉の〈隠行術〉である。戦闘中には起動できないはずのそれを〈大災害〉後のリアルになった世界において強引に起動し〈幻惑歩方〉や〈鬼門変幻〉と組み合わせて分身を作り出す特殊な移動方法。アカツキが作り出した、アカツキだけの翼。
弾けるような音を立てて刃がかみ合う。
あれだけの補助魔法をうけ、これだけの支援をもらって、なおアカツキの力は殺人鬼に遠く及ばない。獣欲に狂った吐息を浴びせかけられながら、鍔迫り合いはアカツキにのしかかる殺人鬼によって押し切られる。
――距離を取って一撃離脱をしなければ。
作戦を再確認したアカツキは、目の前の痩身を回避させるために貫通力増大からの〈ステルスブレイド〉を放つ。何度も見せたその技を殺人鬼は左半身で回避、その隙にアカツキは距離を取るはずだった。しかし。
「こうか? なあ、こうか?」
無防備に脇腹を貫かせた殺人鬼は歓喜に耐えかねた表情で笑う。HPを失ってまで間合いをつめた悪鬼から地獄のような冷気がしみ出してきた。吹雪は瞬間的に凝固する氷となり、アカツキの愛刀ごと殺人鬼は己の傷口を凍てつかせた。
アカツキは唯一の武器をうしない、振り払った男の腕に轢かれて打ち据えられた。
◆
「大丈夫だ」
アカツキは立ち上がった。
一瞬の油断でHPは瀕死状態。もう残り五%もない。でも、まだ生きている。
駆け寄ってくるマリエールの回復魔法も今ひとつ効果が薄い。もうMPが苦しいのだ。
「ごめんしてな。ほんと……ごめんして」
苦しそうなマリエールの声に胸が痛む。マリエールが悪いことなんてなにひとつない。初めての大規模戦闘なのに、アカツキと組んだばかりに第一ヒーラーの役割を押しつけられてしまっただけではないか。アカツキはマリエールを慰めたかったが、上手い言葉が見つからなかった。だからありったけの気持ちを込めて繰り返した。
「大丈夫」
それは強がりの言葉ではあったけれど、それだけではなかった。好きな人を安心させたいというまごころから出た言葉だった。虚勢ではなく、アカツキはマリエールに感謝を伝えたかったのだ。伝わったかどうかさえ確認のしようもない短いやりとりを振り切って駆け出そうとするアカツキに、短い棒状のものが回転しながら投げつけられた。
「ちょうどいいから、もってけ」
工房から顔を出した二十五人目の少女は、ゴーグルをずりあげながらアカツキに言った。
受け取った鞘が、まだ温かい。ともすれば吹雪の中でかじかみそうになるアカツキの両手のなかで、まるで生まれたばかりのように熱気をほとばしらせている。
「――〈鳴刀・喰鉄虫〉」
「じゃない……。〈喰鉄虫・多々良〉。打ち直し」
よく見れば長さが違う。握りが違う。アカツキに、合わせてある。なによりも、アイテム鑑定で表示される、来歴が違う。
「こんなの、払えないっ」「勝って」
泣きそうになるアカツキに、〈アメノマ〉の刀匠・多々良はかぶせるように言った。いつものぼんやりした眠いような声ではなく、強い響きだった。
「わたしの刀で、あれを倒して」
彼女の指さすその先では、遊撃を勤めていた〈西風の旅団〉のカワラが戦っている。
氷雪の乱舞を受けて切り刻まれ、鮮血にまみれながらもその咆哮は雄々しく、勇戦している。殺人鬼の第一ターゲットはアカツキだ。いまでもその視線はアカツキへと向かっている。だがその殺人鬼から倒れたアカツキを守るために、少女は〈武闘家〉の技を駆使しているのだ。
「アカツキやん。準備、できた」
アカツキに回復呪文をかけ続けていたマリエールは頷いた。時間が来たのだ。
もはや、言葉はいらない。
アカツキは弓から弾かれた矢のように一直線に地をかけた。〈影遁〉の分身を飛ばして一撃。持ち替えた新しい小太刀をふるって〈アクセルファング〉。殺人鬼が受け太刀に使った〈霰刀・白魔丸〉と〈喰鉄虫・多々良〉が噛み合う。まるで噛みちぎるような音を立てて削りあう鋼の嵐の下でアカツキは、ぶれて、消える。
その背後から現れたアカツキが殺人鬼の頭部めがけて〈ヴェノムストライク〉。毒を与える一撃を側頭部ではじき返した男は、強引に身体を割り込ませて空中にあるアカツキに必殺の剣をほとばしらせる。
致命傷にしかなり得ないその攻撃を、アカツキはまるで足場でもあるように難なく回避する。助け手が現れたのだ。
「詰めが甘いのはシロエそっくりだよっ」
弾丸のように飛び込んできたのはナズナだった。
高下駄をはいたままとは思えないような華麗な動きで半身を回転させると、そのまま宙に舞い上がった。柔らかい身体を丸めると、殺人鬼の刀を蹴り上げて距離を取りアカツキと併走を始める。グラマラスな身体に視線を感じたのか表情をゆがめるが、その視線は油断がない。
「さぁって。シロエの後輩ならあたしの後輩みたいなもんでもある。ソウジロウに心配かけないように、こっからは一肌脱ごうか」
アカツキは頷いた。
殺人鬼が戦車のような迫力でおってくる中央通りを曲がると、両脇の煉瓦が迫ってくるようなビルの狭間だった。狭い空間で圧縮された吹雪をナズナの障壁呪文で散らしながら、アカツキとキツネ耳の美女は疾走する。
「どうしたんだい?」
化け物に追われている状況だとは思えないような優しい言葉に、アカツキはナズナを見上げた。悪戯でもしそうな、そして優しい笑顔に「泣いてるじゃないか」と言われて、アカツキは目尻をぬぐう。なんでもない、とは言えなかった。アカツキは嬉しかったのだ。
あんなにも死に迫ったのに、今だって恐ろしい敵が迫っているのに、もう、なにかが失われてしまいそうな恐怖はアカツキからは去っていた。大勢の知己に囲まれて、アカツキはいままさに大規模戦闘を戦っていた。生まれて初めて、肩を並べる戦友の暖かさを感じていた。
今アキバの夜は一個の戦場であった。
アカツキとレイネシアたち水楓の乙女の舞台だった。
そしてそれはシロエに対する思慕さえも更新するほどの衝撃だった。アカツキはいままでもちろん自らの主と定めた、あの優しくて聡明な青年が大好きだったけれど、いまはもっと深く彼を想える自信があった。他の誰かの居場所を用意するというのは尊いことなのだ。誰かが笑って過ごせる場所を作るというのは、とても難しい。そしてその難しさと大切さを知っていたアカツキの主人は、アカツキが思いを寄せるに足る相手だった。
「接触!」
その叫び声で、ナズナとアカツキは同時に飛び上がった。狭い通路の正面から、電撃をまとった無数の矢が殺人鬼に突き刺さる。狙撃を専門にした〈暗殺者〉の〈アサシネイト〉は、アカツキのような隠密ビルドのそれとは規模の違うダメージを与えたようだった。
狂ったように吼え猛る追っ手を引き離すようにナズナとアカツキは空中を走る。足下には五センチメートル四方の薄い水色の板が幾つも浮かんでいる。それは〈天足通〉と呼ばれるナズナの口伝だった。
〈神祇官〉が用いる基本呪文〈禊ぎの障壁〉を、自由な空間に配置する技だ。ダメージ遮断呪文というバリア障壁は、ナズナの指定により展開する。どんな小規模な攻撃ですら遮ることが難しいこの文庫サイズの力場は、防御と回復のための呪文を、移動に用いるという発想の転換により作られた。なにもない空中に発生する文字通り「足場」なのだ。
転び出るようにしてたどり着いたのはアキバの中央広場だった。アキバ駅と高架線、ガードや複数の巨大ビルに囲まれたここは、アキバの街の心臓部といっても良いだろう。その空間にたどり着いたアカツキは漆黒のビルの前で振り返り、殺人鬼を待ち構えた。
大きく吸い込んだ冬の冷たい空気がアカツキの胸を焼く。それは肺の痛みではあったけれど、その冷気はアカツキの頭を冷やして意識をくっきりとさせた。
アカツキが足を止めたことを察したのか、殺人鬼は鋼の輝きを宿す具足の響きを立てて、ゆっくりと広場へと進入してきた。アカツキのHP、残り二割。殺人鬼のそれも、ほぼ同様の割合だ。絶対値には百倍以上の差はあっても、アカツキは初めて殺人鬼を迎え撃つために、新しい愛刀を構えた。
〈大災害〉以降、何千回、何万回繰り返したかわからない正眼の構えだ。
「逃げるのは、やめたのか」
引きつった笑みと共に語られたその問いかけにアカツキは頷く。
「じゃあ、そろそろっ」――死にな、と続くその言葉を振り切るように接近した殺人鬼は、凍てつく吹雪と氷で巨大化した〈霰刀・白魔丸〉を振り下ろす。〈アマノメ〉に飾られていたときは同じほどの大きさに見えていたふたりの武器は、いまや小枝と大樹ほどの差を見せていた。
しかし、その大上段に振り上げた〈霰刀・白魔丸〉に、はるか天空から瀑布のごとき巨大質量が襲いかかった。
アカツキの脳裏には、この広場を囲む仲間たちの姿が見える。広範囲を知覚する索敵能力がそれを教えてくれる。もし殺人鬼の五〇メートル以内に入ってしまえば、ここまでやっとたどり着いた労苦も一瞬で覆されてしまうだろう。五〇メートルという範囲は、すべての魔法攻撃呪文や回復呪文の射程より広い。つまり、範囲外の仲間は戦闘に参加できない。
そこに、盲点があった。
地上一五階のさらなる上、高さにして、五〇メートルよりの少しだけ外。
アカツキが感知できる索敵範囲ギリギリに、キョウコの保持を命綱代わりにしたリーゼがいる。広範囲攻撃魔法〈フリージングライナー〉、氷混じりの水流で敵を押し流してしまうと言う〈妖術師〉の攻撃魔法。ダンジョンやフィールドで使うのならその射程距離は二〇メートルもないその魔法は、巨大なビルの上から自由落下で殺人鬼へと襲いかかったのだ。
そしてその攻撃は、殺人鬼の放つ桁外れの冷気を食いつぶす《、、、、、、、、、、、、》。その凍てつく温度をエサにして、殺人鬼に浴びせかけられたその瞬間から凍結してゆく《、、、、、、、、、、、、》。
「なっ。……っ!!」
殺人鬼は身をよじり逃れようとした。しかし、もはや膝から下も刀をもつ巨大な籠手も、氷の柱の中に閉じ込められようとしている。目の前の少女を一刀両断にしようと〈白魔丸〉を振り上げていたことも災いした。上空から降りかかる大量の冷水に、〈白魔丸〉を突き立てる形になってしまったのだ。
ダメージそのものはたいしたことがない。最大HPの一%をもうしなうことはないだろう。しかし、これほどの巨大質量の氷に閉じ込められてしまえば、動きを拘束されるのは避けがたい。殺人鬼はそれを嫌って転移をしようとし、今度こそ愕然とした。
彼は知るよしもなかったが、その光景はギルド会館の地下から帰還したレイネシアも食い入るように見つめていたのだ。
残りのHPなど関係なかった。
殺人鬼をここまで誘導してきたのは戦闘能力を削ぎ、その手札を見極め、増長させるため。その能力を逆手に取った巻き毛の軍師の戦術で身動きの取れなくなった殺人鬼に、アカツキは軽やかに近づいた。
最初の一撃は変哲もない〈デッドリーダンス〉。腰を落とした低い姿勢からすくい上げるように攻撃を繰り出す、白兵攻撃専用の特技。威力はさほどでもないが、再使用規制時間が1秒と非常に短く――そして連続で命中させるたびに威力が増大してゆく。
氷の棺から突き出された〈白魔丸〉を鍛えるような連続攻撃。
もともと〈鳴刀・喰鉄虫〉は打ち合った武器の耐久度を減少させるという特殊能力を持った大規模戦闘産譲渡可能武器だ。対人戦などで効果を発揮する武器破壊能力を秘めた、高性能の小太刀である。その〈鳴刀・喰鉄虫〉を打ち直した〈喰鉄虫・多々良〉。その能力は幻想級には及ばないが、それでもアカツキのいままでの武器とは比べものにならない。だが、その攻撃力がアカツキを励ましたわけではなかった。
もっと儚くて、ささやかで、大事な物がアカツキを守っている。
――無口で無愛想な使い手のためだけに、アマノメが刀匠、多々良が鍛え直す。願わくばあの生真面目な娘が折れず歪まず進んでいけるように。邪悪な呪いも世の悲惨も跳ね返し、人が刀を、刀が人を支えられますように。
来歴に書かれた無意味な文章がアカツキを守り、暖める。
それは込められた意味や想い、歴史、系譜、伝説。
無意味なものなどひとつもなかった。
それはそれを読む人の裡にあって最初から重要で、かけがえのないものだったのだ。かけがえがないからこそ、殺人鬼には悲劇が起こり、アカツキはそれに助けられた。
重なる剣の響きは次第に力強く、夜明けの群青に響き渡る。
帰るべき居場所を見つけた燕の一途さをもって、無心に繰り返される剣撃は二十を越える。
まだ太陽の見えない黎明にあっても、もう、アカツキも仲間たちも勝利を疑わなかった。
駆け付けたミカカゲも、小豆子も、ヘンリエッタも、マリエールも。どこにぶつけたのか鼻の頭を赤くしたリーゼも、キョウコに抱きかかえらてしがみつくレイネシアも。皆が見守る前で砕かれた呪いの刀と、崩れ落ちた殺人鬼を囲んで息を呑んでいた。
勝利の歓声はなかった。それよりもほっとしたようなさざめきが拡がり、広場に集まってきた少女たちはくすぐったさそうに微笑みあった。誰もがこの難しい戦いの中で弱音を吐き、仲間を頼った。醜態をさらしてしまった娘も多かった。
だがそれが水楓の乙女たち最初の実戦だったのだ。
ささやかで小さな討伐隊はその任務を果たした。
彼女たちの勝利はアキバの街における〈第二次大災害〉の幕開けを告げる鐘の音でもあったが、それ以上に踏み出した新たな祝福でもあった。
疲れているはずの少女たちが、レイネシアの客間と執務室を占拠して、昼過ぎまでパジャマで騒いでいたのは、エリッサだけが知るエピローグである。
「ログホラ6 夜明けの迷い子」 end of log.