134
◆3.05
「主君、なんだかぴりぴりする」
「どうゆうこと?」
アカツキの呟きにシロエが律儀に答えた。
そのことをちょっと嬉しく思いながらも、アカツキは四方をキョロキョロと見回す。本当はもっと忍っぽくできれば格好良いのだが、あたりまえだが地球で専門的な訓練を受けたわけではない自己流なので、周囲を窺うと言っても鮮やかにというわけにはいかないのだ。〈冒険者〉だから体術や身の軽さでは大したものではあるのだが、技術はまた別なのである。
「騒ぎが起きてるわけではないみたいだけど、その前触れのような」
それでも鋭敏になっている耳の良さを活かして、アカツキはとなりの主君――シロエに報告した。
ふたりが歩いているのは〈白砂御所〉と呼ばれる巨大な建造物の敷地の一角、大雑把に言えば西側の方の庭だと思う。
なぜ曖昧な表現なのかと言えば、この〈白砂御所〉と呼ばれる場所は、広大な敷地の中に十幾つもの巨大な建物とそれらをつなぐ朱塗りの回廊、そしてテーマも趣向も様々な庭園を抱えているからだ。アカツキの知識で言うと講堂とか体育館のような造りの建物たちはそれぞれに飾り立てられているし、住み慣れれば目印にもなってくれるのだろうが、今日初めてきた場所とあっては助けにならない。
〈冒険者〉の身体能力の増加は五感にも及ぶ。
アカツキも当然恩恵を受けているわけで、その耳には無数の人の声やざわめきなどが伝わってきていた。
すれ違う女官などは少ないものの、詰めている人間そのものが少ないというわけではないらしい。広大な敷地なので密度が低いだけなのだ。その証拠に、ざわめきは墨色の瓦も鮮やかな講堂から漏れてくる。
シロエもそれには気づいているようで
「準備が忙しいのかな?」などと首を傾げている。
アカツキは一瞬動きを止めてシロエを見上げたが、気を取り直して警戒を続けた。
自分のことを人間の機微に聡いなんて思ってもいないアカツキだ。友達をつくるのは苦手だし、親しくない相手には自分から声をかけるのにも決心が要る。だからこそ〈エルダー・テイル〉においてはソロプレイヤーだったのだ。
シロエも本人談では同じように友達をつくるのが苦手、と言っていたし、それはアカツキからみてもうなずける話なのだが、こういうタイミングでは「主君は本当に鈍感だ」と思わざるをえない。
アカツキは人との付き合い方がわからないが、わからないなりに、自衛の鋭敏さは持ち合わせていると自分では思う。それはつまり、トラブルの気配に近づかないための処世術だ。格好悪いとは思うが人と関わるのがやっぱり怖いから、怖い集団にも、怖い人にも近づかないためにその鋭敏さが必要なのだ。他人を避けるためにも空気を読む能力は必要で、相手がこちらに望んでいることはわからないが、ここに居てほしくないという気持ちや、居たら巻き込まれそうという予測だけは敏感なのである。
そこへ行くと主君シロエは、その警戒心が薄い。
嫌な目にもたくさんあったと困り顔で微笑んでいたけれど、それでも平気で他人に関わろうとする。
もちろんそういうシロエを責めているわけではまったくなくて、その心根がなかったらミノリとトウヤたちを助けることもできなかっただろう。だからその優しさは好ましいのだけれど、危機感が薄いのは困ったものだ。シロエはいま〈白砂御所〉に満ちつつある騒乱の気配を一顧だにしていない。
それでも今回アカツキの任務は護衛である。
護衛としてシロエの身辺警戒をしてその行動の自由を守らなければならない。
実を言えば今回の旅へ出かけるにあたって、直継との密約があったのだ。前回の旅行(北海道のエッゾへのものだ)では直継がシロエと付き合ったので、今回はアカツキに譲ってくれるという。なぜだか老師やてとらまで口添えしてくれて、気を使ってくれていたように思う。
周囲からシロエのそばにいろと激励されたので、この任務を疎かにすることはできない。
もっとも、譲ってくれた理由の半分は直継側の都合もあるのだそうだ。「いい加減進展しないとマリエさんの天然ボケで話がこじれまくる祭り」と拳を握っていた。あれだけ一緒に出かけているくせに、ちゃんと話もできていないなんて、直継の対人能力もたかが知れているな。そんなふうに思ってアカツキはくすりと笑った。
白砂の通路は何度も直角に折れ曲がっていた。
朱塗りの柱に支えられた屋根だけはあるが、足元は砂利だし左右には緑の濃い庭が見える。渡り通路のようなものなのだろうか? ざわざわと騒がしい目的地に向かって、目の前の庭の木立を突っ切れば早いのかもしれないが、曲がりなりにも招かれた場所でそのような無作法を行うのは気がとがめる。
かと言って通路をたどると庭園をぐるぐると迂回してばかりで、事情を知りそうな人にはなかなかたどり着かないのだ。
そして、やっと出会えた最初のひとりの前でアカツキとシロエは固まった。
「カズ彦さん!」
シロエが固まったのは旧知の友に会えたことが理由のようだがアカツキは違った。もちろんその名前はシロエや直継、にゃん太から〈放蕩者の茶会〉のメンバーとして聞いていたけれど、聞くのと見るのでは大違いだ。
「シロエ」
疲れたように苦く笑うその男性は鋼のように鍛えた体躯の剣士だった。和装に総髪という浪人スタイルよりも、腰元にさげられた刀よりも、鷹のようなその風貌とさり気なく肩幅でやや半身に開かれた足の位置が渦巻くような圧力を放っている。
アカツキは小太刀こそ抜かなかったが全身が一瞬で戦闘態勢に切り替わるのを感じた。
〈冒険者〉ではない。
少なくともその圧力と戦闘能力はアカツキの知るどんな〈冒険者〉とも異なり、むしろ存在としてはシブヤで対峙した〈典災〉に近い。〈冒険者〉がなんでそこまで圧倒的な迫力を持っているのかわからないが、規格外の戦闘能力にアカツキはすくんで後じさりしそうになる。
「やめとけよ」
五メートルほどの、会話をするにはやや遠い距離を残してカズ彦が走らせた視線を感じてアカツキは生唾を飲み込む。
見込みが甘かった。
〈典災〉よりも怖い。
シブヤの戦いも、アキバギルド会館での戦いもこれほどの威圧感は感じなかった。どこかゲーム気分だったというわけではなく、こんな敵相手になら例え負けたとしてもくじけたりしないという、根拠のない確信があったおかげだ。
「班長から聞いてるんだろう? シロエ。アキバに帰れ」
「何故です?」
シロエはそんなカズ彦の言葉にふわりとしたいつもの声色で言葉を返した。鈍感にも程があると思ったアカツキだが、すぐに悔いた。
シロエは変なところで無鉄砲としか言えないようなことをするけれど、それはさっき考えていたように鈍感だからというよりは、選んでそうなのだ。自分が傷つくことに鈍感なわけではなく、何処かで何かを決心した時、最短距離に対して誠実でありすぎる。
カズ彦はシロエの旧友だと言う。
アカツキでさえ知っている〈放蕩者の茶会〉という偉大な団体で肩を並べて戦っていた。思い出を語るシロエの柔らかい声を思い出せば、どれだけ大事にしていたかすぐ分かる。そんな仲間の一人と剣を交えたという、にゃん太老師の言葉を聞いたシロエが悩んでいないはずがなかったのだ。
〈神聖皇国ウェストランデ〉に旅をするにあたって、一番覚悟を決めていたのがシロエだったとしても、アカツキにとって不思議ではない。
それに気づけば足は自然と半歩前に出た。
シロエの後ろで隠れているよりも、シロエの隣にいる方が不思議だけれど怖くない。
「シロエは関わらなくていいからだ」
何百年も地中に埋まっていた岩のように重い口調でカズ彦がそう告げた。もはやその顔に笑みはないし剣気を隠そうともしない。
その言葉にシロエは沈黙を選ぶ。カズ彦の拒絶を気にもせずに、問いかけるような視線で長いあいだ旧友を見つめたあとに、「可能不可能でいえば、そうかもしれません」と述べた。
「でもその先に用事があるはずです」
「わからず屋め」
アカツキは腰の小太刀にそっと意識を移した。シロエの気迫は一戦を辞さない覚悟だが、その「一戦を辞さない」とは斬られる覚悟であって斬る覚悟ではきっとないだろう。だからいざという時はアカツキが動かなくてはならない。
シロエも〈冒険者〉である以上その反射神経や体力は相当なものだが、同じ冒険者だからこそ物理前衛職であるアカツキには大きく劣る。
「カズ彦さんが止めるなら、僕が行く必要あるんでしょ?」
「可愛げがなくなったな」
苦い笑みをこぼすカズ彦だが、冗談めかしたその言葉とは裏腹に微塵の隙もなかった。むしろアカツキを呪縛するかのように鬼気を放って絡め取ろうとしてくる。
「ギルマスになりましたから」
「それでもやめておけ、そう言ったらどうする?」
「|それでも見せてください《、、、、、、、、、、、》。そう応えます」
シロエが大きく踏み出したかのようにアカツキは錯覚した。
実際にその体が動いていなかったが、その発した言葉は宣戦布告に等しいものだ。おそらく悟っていたシロエとアカツキの前で、なんの前ぶりもなく固体状の空気を引き裂く悲鳴のような音が鳴った。
「ふんっ」
それはおそらく牽制混じりの一撃で本気ではなかっただろう。
だがそれだけにアカツキは剣速の凄まじさを感じていた。
カズ彦の職業は〈暗殺者〉。アカツキと同じだ。装備も東洋風の刀を使うという共通点がある。アカツキは隠密からの奇襲攻撃を得意とする〈影からの一撃〉だが、カズ彦は両手持ちの長剣をあつかう〈討伐者〉だ。そして、同じ職業だからこそカズ彦の底知れぬ強さが分かる。たかだかレベルが五やそこら離れているだけでは説明できない、圧倒的な殺傷力。
〈エクスターミネイション〉だ。
両手武器使用前提だが〈暗殺者〉のもつ攻撃特技の中でも最大級の威力を持ち低確率で即死効果まで備わるそれを、アカツキはよく知っている。自分の職業の技なのだから。しかし、記憶にあるそれとは全く違う軌道を持って、彗星のように襲いかかる剣閃にアカツキは踊りかかった。
文字通り我が身を投げ出すような気持ちで〈アサシネイト〉で迎撃する。〈暗殺者〉の代名詞にして極大ダメージを叩き出すこの技を、相手の攻撃をそらすためだけの利用するなんてアカツキは想像したこともなかった。しかし、それが必要だったのだ。
「インティクスさんが騒ぎを起こそうとしているなら、話して止めないと」
「止まらないからやめろと言ってる」
シロエが流れるような動作で〈アストラルバインド〉をはなつ。魔力で練り上げた鎖で目標の動きを拘束する移動阻害呪文だ。地面から鋭く伸びる鎖を、カズ彦は白鞘の日本刀で一掃する。レベル差があれば抵抗されることもある呪文ではあるが、シロエのそれがここまで容易く弾かれる光景をアカツキは見たことがない。
「でも、それでも会わなければならないでしょう。アカツキ! 突破するよ」
「――おまえにはっ」
飛び込むアカツキの両脇をシロエの援護が支える。〈メズマライズ〉〈アストラルヒュプノ〉〈ブレインバイス〉。いずれも非殺傷型の拘束呪文だが、〈付与術師〉のあやつるそれは強力だ。
しかしそれでも追いつかない。シロエの牽制とアカツキの攻撃をいなし、カズ彦は防戦に陥るということもなく互角に攻撃を繰り出してくる。むしろ、そこには手加減の気配さえある。手数そのものが極端に多いわけではないが、ひとつひとつの攻撃の威力が大きくアカツキ側も大技で迎え撃たなければならないゆえに、手数を増やすことができないのだ。
拮抗がくずれたのは暴力的な旋風が駆け抜けたせいだ。
〈円卓会議〉の紺色の制服の上に、何故か空色の羽織をまとった剣士ソウジロウが地をはう雷蛇のように飛び込んできて、割り込んだ。左手の刀が大地に深く刺さり、裂けたような割れ目を作り出す。ソウジロウの突進の勢いを止めるために、それだけのブレーキが必要だったのだ。
逆手に持った打刀をカズ彦に向けて、ソウジはすべてを噛み殺したような声ではっきりと宣言した。
「シロ先輩。行ってください」
「ソウジっ。おまえも退け」
「引きませんよ。いくらカズ彦先輩の言葉でも、もう止まれません。守られるだけじゃダメなんですよ。僕にもやっとそれがわかったから。――シロ先輩」
鬼気をまとうカズ彦に立ちふさがるソウジロウは、肩越しに振り返った。それはたぶん、シロエに「早くいけ」という合図だったと思うが、その途中でアカツキに笑ったような気もしたのだ。
アカツキはあのルグリウスにソウジがどう立ち向かったか知っている。到底敵うはずもない脅威を前に彼がどう戦ったのかアカツキはアキバでただひとり見ていたのだ。ソウジロウはあの戦いでアカツキに〈口伝〉を見せてくれた。ソウジロウが見つけた彼だけの〈口伝・天眼通〉というだけではなく、「〈口伝〉というもの」を見せてくれたのだ。その輝きと限界を。つまり〈口伝〉のもつ意味を。
アカツキは不器用でよくわからないが、それはシロエを守るために託された剣だ。今もアカツキの右手で支えてくれる〈喰鉄虫・多々良〉だけではなく、アカツキには託されたものがたくさんある。
地面に叩きつけられた広範囲撹乱呪文〈マインドショック〉の吹き上げる紫色の電撃と暗雲をすり抜けるように、アカツキは〈口伝・影遁〉を発動させた。普段は攻撃回避や背後を狙うためのフェイントに使うこの技は、逃走に用いたときにもその威力を発揮する。アカツキが手首をギュッと握ったシロエは、その意味を一瞬で察したのだろう。ふたりは導かれるように〈白砂御所〉の庭に飛び込んだ。
「カズ彦先輩がいくら強くても、足止めくらいならできます」
「無益なことを。おまえを倒してシロエを止めるくらい造作もない」
背後で争いの音がする。
「かもしれませんね。でも、カズ彦先輩にだって、今の僕の剣を僕は見せたいですよ。――参ります!」
それは刃金を打ち合わせるというよりも、寺社の梵鐘を断ち割るような轟音だった。爆風に近い衝撃を背後から受けても、アカツキとシロエは手を繋いだまま振り返りもせずに駆けてゆく。
進む先にはカズ彦によって隠されたものがあるはずだった。
それはもしかしたら醜くアカツキの主君を傷つけるかもしれない。しかし、だからこそアカツキはともに立ち向かおうと思うのだ。たぶんそれが、直継たちに託された役目なのだと確信しながら。
◆3.06
大朝堂と呼ばれる伽藍が|〈自由都市同盟イースタル〉《ひがし》の特使一行を迎える宴の会場だった。〈冒険者〉にとっては広間というよりも、巨大なホールやいっそ体育館のような規模の建物であり、磨き上げられた板張りが飴色に輝いている。
これだけの大規模なセレモニーともなるとその準備作業も膨大なものとなる。事実、〈白砂御所〉は数日前から蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていた。清掃や設営はもとより、様々な調度品の運び入れや、調理の準備、食料の持ち込みなどもある。
そもそも今回の宴は〈元老院〉が主導のものであった。
〈冒険者〉であればそこまで手間を掛けないのが、そもそも言い出したのが見栄を衣にして生きている貴族である。盛大な宴は自分たちの権勢を示すという意識があったし、その予算が今回に限っては〈Plant hwyaden〉から出てくるとあって張り切っていた。一方で〈十席会議〉の〈冒険者〉にとっては、面倒な準備を任せてやってくれるのであれば小遣い程度のはした金として気にならなかったのも事実である。
文官、侍従、従者、女官、出入りの業者、職人、工人を巻き込んでお祭り騒ぎのような準備はかなり以前からずっと続いていたのだ。一時はこの大朝堂の建て替えまで検討されていて、それは予算無制限という言葉に狂喜乱舞した貴族たちの希望であった。そうすることによって、彼らは彼らが指定して参入させた業者から見返りの賄賂を受け取ることもできるからである。
その計画に待ったがかかったのは、決して〈十席会議〉が予算を絞ったからではなく、〈自由都市同盟イースタル〉特使団到着の期日に間に合わなくなりそうだという理由だけであった。
そんな貴族たちの上機嫌が急降下したのはここ数日のことであった。
インティクスと濡羽の関係がいよいよ持って悪化したからである。
〈月蛾〉の事件から、このふたりの仲が険悪なのは〈Plant hwyaden〉上層部の情報を耳にすることができる人間であれば、それこそちょっと裕福な市井の〈大地人〉でも知るところであった。
〈自由都市同盟イースタル〉に積極的に力を貸して飲み込もうとする濡羽派と、むしろ〈Plant hwyaden〉の力を高めて雌雄を決しようとするインティクス派。両者のすれ違いは徐々に亀裂となってゆき関係は疎遠になってゆくばかりである。
しかしその険悪を貴族が憂いているということはなかった。むしろ彼らは歓迎していたのである。太古の昔から、宮中という伏魔殿を舞台として交渉と腹芸で生きてきたのが貴族である。〈冒険者〉が一枚岩であるよりも、仲違いをしていたほうがよほど良い。そのほうがその間で上手く立ち回って漁夫の利を得ることができる。十人いれば九人までそう考える。それが貴族であった。
しかしそれも距離を置いて自由に振る舞えればこそである。
今回の歓迎の式典及び宴は〈元老院〉の仕切りということになっている。
だからもしそこで何らかのトラブルが起きればそれはすべて貴族の落ち度だ。インティクスと濡羽の間で口論のひとつでも起きれば、面子を大事にする彼らの矜持はボロ布のように引き裂かれるだろう。
貴族の中には、猫なで声で、こういう時いつでも頼りになるカズ彦への執り成しを頼むものも居たが、今回に限っては「お前たちの望んだ宴だろう?」とそっけない返事で断られた。いつも頼りにならないKRに至っては「降りる場所を間違えると賭けちゃいけないチップがテーブルに乗るよ?」と相談者を小馬鹿にするありさま。
設営を任されている貴族たちは、従者や文官に怒鳴り散らし、なんとかふたりの間でトラブルを起こさせるなと厳命したが、当の貴族たちにふたりを制止する力がないのに、文官たちにそれがあるはずもない。
お付きたちは無い知恵を絞り、ふたりの案内されるテーブルを離れた位置にするという工夫をしてみた。しかしそうなると、北が上位の上座を表すのだからどちらを案内すべきか? あるいはどちらにどちらを配置しても、貴族たちを、そして肝心のイセルス公子たちを先に紹介するのはどちらにすべきか、決めかねた。
通常であれば、こういう細かい差異付けが貴族社会の中での格につながるわけで彼らがもっとも好物とする仕事ではある。
たとえば、イセルス公子を濡羽よりインティクスに先に紹介すれば、インティクスのほうが〈十席会議〉で上だという印象を〈自由都市同盟イースタル〉に与えることができるだろう。イセルス公子という自分以外の名を使ってインティクスの歓心を買い、仲介料や便宜了を受け取る。それが貴族たちの収入のうち大きな割合を占めているビジネスなのである。
しかしそれは、あくまで、その贔屓によって濡羽の報復を受けない保証があってのことだ。復讐の対象にならないような小さな舞台の小さな便宜で小銭を稼ぐことが彼らの望みであって、これほどの大舞台ともなれば様子も違う。もちろん大成功させれば、その功績や信用は一生の財産となるだろうが、今回のように二匹の巨大な大蛇が相争うような宴では、どちらにつこうと、あるいはどちらにつかなかったという理由だけでも、一瞬で命も家の存続も絶え果てるような報復を受けるかもしれないのだ。
南北に席をおいて序列をつけるくらいならば、いっそ東西におけば? と若手の文官が声を上げたが、「東などという方向にテーブルを置けば、〈自由都市同盟イースタル〉におもねっているように見えかねんではないか!」というウーデルの一喝で立ち消えになった。
それならば会場東側にイセルス公子および〈円卓会議〉からの親善使節団を置き、西側に〈十席会議〉および〈元老院〉の歴々を配置すればいいわけだが、その配置案がそもそも最初の案であって、それでは濡羽とインティクスが同席もしくは極めて近いテーブルに付いてしまうというのが悩みなのだから一切解決しない。
使節の歓待は治部省の管轄なのだが、降って湧いた利権に多くの貴族がどうにか理屈をつけて自らの部下やコネを持つ商人をねじ込んでいた。官吏や女官たちは、本来の準備作業に加えて、事情の分からぬそういった闖入者への同じ説明を喉が枯れるまで行なうことになり疲労困憊する有様だった。
こういった歓待の宴においては細かな礼物や飾り物さえ意味を持つ。個人の好みなども重要だ。本当の心の中などはわからぬが、濡羽が赤い花を嫌うという情報があった上で赤い花を活けるのならば、それは明確に敵対のメッセージになってしまう。それと同じ理屈で、客人ごとに好みの花などがあり、好みの色や料理があり、かつそれら歓待が古の前例に照らしておかしくはないか、踏み越えてはいないかを確認しつつ決定していくのは、外交使節の歓待を司る治部省であっても即座に解決できるということはない。
結局彼らが見出した解決策は、〈自由都市同盟イースタル〉の特使団を宴席の東側、〈神聖皇国ウェストランデ〉側を西側に配置しつつ、その〈神聖皇国ウェストランデ〉のなかでも濡羽とインティクスの間には〈元老院〉の重鎮たるウーデル公爵とその一派の席をつくるというものだった。
もちろんこの配置によって下級官吏たちはウーデル公爵の不興を買う可能性もあったわけだが、そもそもこの宴の設営をする羽目になったのは、〈元老院〉の貴族が利権を求めたせいなのである。であれば、その〈元老院〉の領袖たるウーデル公爵に責任を求めるのは、筋として間違ってはいないだろう。
だいたいのところ、濡羽とインティクスが角を突き合わせ歓迎の宴が険悪になった場合、それに話しかけられるのは、同じ〈冒険者〉であるカズ彦、KR、ナカルナードなどの強者を除いてゆけば、貴族側ではウーデル公爵くらいしか残らないというのが現実なのだ。
仮にそれで責められるとしても、冷血にして酷薄なインティクスに睨まれるよりはずっとマシだというのが侍女や従者たちの判断であった。
とにもかくにも、こうした波乱の予兆含みで宴の準備は進められた。
時間がぎりぎり間に合わず開始を遅らせるという判断があったにせよ、月の出という本来の刻限には間に合うはずであり、なんとかかんとか、最低限のこだわりを表す歓迎式典は実行可能な流れだと、準備にてんてこ舞いの誰もが思った。
しかしそうはならなかったのだ。
彼らの準備は、床に落とした卵のようにいとも容易く無為にされる。
◆3.07
明るい光の差し込む朝堂に濡羽は足を踏み入れた。
午後の早いこの時刻、隙間の多いウェストランデ風建築には、ケーキナイフのカットのように斜めに光が差し込んでいる。まだ準備が続くこの大伽藍は活気ある雑音に包まれていたが、そのなかには楽師の爪弾く琴の音も確かに含まれていて、それが風に漂う蜘蛛の糸のように濡羽に届いた。
濡羽は僅かに微笑む。
周囲の侍従や出入りの小物たちがそれを見て陶然とざわめいた。
テーブルや椅子を持って移動する男性官吏を、その上を整えるテーブルクロスを抱えた女性官吏が追いかける。視線を遮るための衝立や巨大な花器を運ぶものも居る。そんな人々とすれ違うたびに彼らは彫像になったように動きを止める。濡羽の薫るような艶姿に刺し貫かれたのだ。
半年前の濡羽ならば宮中ですれ違ってもそうはならなかった。同じ美貌であっても世界のすべてに興味を失った死んだ瞳は、見とれられたり憧れたりされることさえ拒絶していたからだ。しかしここ数ヶ月の濡羽はまるで羽化した蝶のようなきらめきを放っていた。濡羽はただ人々の支配者だった。
見とれて呆然としたり、我に返ってバネ仕掛けのように頭を下げる〈白砂御所〉にたいして濡羽は軽く会釈を返しながら進んだ。宴が始まるのはまだ先だが、いまのうちに会場を一巡して準備者をねぎらうというのが一応の理由である。
本当のところは、ただの好奇心。そして確認。
実を言えばリラックスしているとはいい難い。大勢の人々の前に姿を表すのは未だに苦手だ。心のどこかに引攣れたような痛みがあり、こんな場所に自分は不釣り合いだと、早く逃げたいと呻いている。
しかし一方で濡羽は勝利しつつあった。
インティクスが何やら蠢き、膨張が厳しいためにその活動すべてを把握することはできないが、その末端の動きはほぼ把握済みだ。彼女に肩入れする貴族たちの動向も、〈冒険者〉グループの活動も、濡羽の監視下にある。何か事を起こすにしてもその徴候は確実に補足できる。
インティクスが〈Plant hwyaden〉の財政を司っているとはいってもそれはその部門を司っているだけであり、時間をかけて動かせる額が大きいとはいえその痕跡はどこかに残るし即応できる資産ではない。
またインティクスは――その点では濡羽もいっしょなわけだが、私的な兵力と言うものをもっていない。〈Plant hwyaden〉に属する一万超の〈冒険者〉はたしかに一大兵力だが、それはインティクスに個人的忠誠を捧げているわけではなく、現時点ではむしろ濡羽への崇拝が大きいだろう。
個人的なお抱え戦力という意味ではカズ彦やKRがいるはずだが、彼らでは濡羽の守りであるロレイル=ドーンを抜くことはできない。以前は都市結界内部のみの戦力だったロレイルだが、〈動力甲冑〉の改良によりイコマ離宮ですらその活動範囲としている。恐れる必要はない。
第三勢力である〈元老院〉だが、警戒すべきはウーデル公だけであろう。しかし、あの老人の企みのすべては今や濡羽の知るところとなった。〈元老院〉子飼いの諜報部隊でさえ、その指揮系統に「冷血のメイド」が位置している以上、濡羽の手駒と読んでも良いほどだ。
つまり濡羽は〈Plant hwyaden〉を賭けた権力争いに勝利しつつある。そのことを人々の崇拝で確信したくて、宴の会場へと足を運んだのだった。
「退きなさいインティクス」
だから彼女が近づいてくるのを知ってはいても止めなかったし、逃げなかった。
〈十席会議〉の第二席。鋭角の眼鏡の奥に酷薄な瞳を秘めた〈Plant hwyaden〉の宰相であり軍師。今日の装いは細身のシルエットのロング丈フィッシュテールのドレスだった。女性として平均的な身長のインティクスではあるが、高いヒールと細身の体型が相まってとても背が高く見える。見下ろすようないつもの冷笑を浮かべたエルフの〈妖術師〉は遠慮のない足取りで濡羽に近づくと言葉を区切るようにはっきりと告げた。
「随分な言いようね濡羽。陽気に誘われてねぐらから這い出してきたの?」
「迷い言を。そんなことを言うためにギルドマスターに声をかけたの?」
胸が早鐘を打つ。
どんなに安全でも、どんなに有利になっても、濡羽は自分の怯懦を制しきれない。今だって口の中には金属的で不快な味が広がり、喉が不自然になりそうになる。そらしたくなる視線を必死で抑えて濡羽は強がった。インティクスにできることはない。彼女には大きな資金も兵力もない。こんな衆人環視でできることなど何もないのだ。せいぜいが嫌味をいうだけ。それだって濡羽に勝てないからの負け惜しみにすぎない。
「ふふふふ。そうなの? そうなのね。濡羽。お飾りでしかないあなたが、薄汚れたドブネズミのあなたが、その身を支える糸を切って自分の心で踊りだすと、そういうのね?」
「――」
だから濡羽はただ睨みつけることで返事とした。
鳴りそうになる奥歯を噛み締めて。
インティクスの言葉はすべてはかりごとだ。濡羽の失言を引き出そうとしているに違いない。滴るような悪意と害意をベッタリと相手に塗りつけて、不快にすることだけを狙っているのだ。そんなやつに怯える必要はない。何度も。何度も拳を握って濡羽はインティクスの圧力に抗した。
「ええ。嬉しいわ。あなたが逆らってくれて私は嬉しい」
粘着くような声色が蠱をはらんだ。
「〈Plant hwyaden〉はあなたの思い通りにはならないわ。ミナミだってそう」
「ええそうね。でもそれはあなたも同じ」
光差し込むはずの広間がいつの間にか冷え切り凍りついたかのように無音となっている。大勢の侍女や従者たちは、まるで命を抜き取られたように、だがその瞳に意志を宿して濡羽とインティクスを見つめていた。この街を支配するふたりの権力者の直接対決に口を挟めるものなどいない。触れれば消し飛ばされるのは自分たちなのだ。しかしそこを離れるわけにも、目をそらすわけにもいかない。それだけのことで、不愉快だと首をはねられるかもしれないほどの恐怖がそこには見える。
まるで人形にくり抜いた深淵のように、熱も、視線も、意志も、善悪も吸い込むような空虚がインティクスとしてあった。裂けた三日月のような笑みを浮かべ、値踏みするような蔑みの視線を隠そうともしない悪意のかたまりがそこにあった。
「イン――」「ねぇ」
突き放すための決定的な一言を放とうとした濡羽に、インティクスは粘ついた声をかぶせた。
「ねぇぇ、濡羽。あなた自分のことを知らない。いいえ、忘れてしまった。自分がなんなのかね。覚えていれば暗いドブで隠れ潜んでいたはずでしょう? ねぇぇ濡羽。忘れちゃったのね」
「――ぁ」
その瞳に飲み込まれて濡羽は言葉を失う。
ずっと昔からそのアドバイスめかした脅迫の口調にがんじがらめにされてきたのだ。振り払ったはずの恐怖が溺死じみた切迫感と生って濡羽の舌の動きを縛り付けた。
「〈十席会議〉の二席を預かる〈炯眼〉インティクスがここに告発する
! 緑なす大地ヤマトをしろしめす天神地祇よご照覧あれ! この女濡羽はヤマト支配の欲望を持ってギルド〈Plant hwyaden〉を立ち上げ、まやかしと虚偽をもって数多の命と財産を吸い上げたのです!」
突如天を仰いだインティクスが大音声を上げた。
「なにを……言いだすの……」
気を呑まれた濡羽がまるで居ないかのように背を向けたインティクスは、スラリと長い腕をひと振るいして聴衆の視線を集める。
「ナインテイルのプレイヤータウン、ナカスの街は現在〈神聖皇国ウェストランデ〉の支配下にあります。なぜか!? 〈大災害〉の直後強行された〈元老院〉の騎士団と初期〈Plant hwyaden〉の〈冒険者〉による強制移住作戦はなぜ行なわれたか? それは〈元老院〉の西ヤマト支配の野望に濡羽が〈冒険者〉を売ったから――」
血が冷えた。
インティクスが何を言っているのかよくわからない。
がんがんと響く破鐘のような轟音で聞き取れないのだ。
だが濡羽の両手から何かこぼれていくような気がする。
やかましい騒音に遮られながらも濡羽は手を差し伸べた。インティクスを静止するためにだ。
「え?」「そうなのか?」「まさかそんなわけ」
何を言っているかわからないにも関わらず、そんな囁き声だけは耳元で聞こえた。歪んだような広間の中でのろのろと掲げられた自分の指先が、すぐ近くにいるはずのインティクスとは数百メートル離れているように感じる。
「証拠ならある! あたしがそれをやったんだからねえ! ウーデル公爵の命をうけて! 濡羽のそそのかした〈冒険者〉の支援を受けて! ナカスに住みたいと言い張る〈冒険者〉の住処に火をかけたのは、この私だ! そしてその功績で“東跋将軍”の名を賜ったってわけさ。なあ、公!」
濡羽には見えないところで重い金属音と打ち伏せられるような打擲音が響く。そちらに視線をやれば、赤毛の女軍人が斬りつけるような笑みで軍刀をさげていた。
この匂いは覚えがある。
錆びたようなぬるい香り。
「貴様! 取り立てた恩も忘れ! 栄えある〈ウェストランデ皇王朝〉をなんだとこころえる! だれぞ、だれぞある! この狼藉者を、〈元老院〉に逆らう餓狼を! めし捕らえ――ッ!!!」
断ち切られた。
濡れた何かの落下音。
沢山の悲鳴。
そして静寂。
「……そんな名の国はない。死人の夢さ」
ヤマト最高峰の権威をゴミ屑のように呟きに、濡羽は一歩前に出た。釣り込まれるように、誘われるように。何が起きているのかわからない。何を言われているのかわからない。
でも何か決定的なものが失われていくような気がして、何かを言わなければならないような気がして、濡羽は必死だった。
耳元の轟音さえなければもっと冷静に対策を練れるのに。
呪歌なのか? 不定期に暴れるダムの放流音のような、闇夜の豪雨を受け入れた大河のような雑音に眉をしかめて、「皆さん聞いてください! 私はっ――」と濡羽は声を張り上げようとした。
「何だこの匂いっ」
「鼻が曲がりそうだ」
「どうしたの? 何が起きたの!?」
だが三度遮られ、パニックのように揺れて割れる人垣から、垢じみて汚れた一団が吐き出される。
「ご紹介いたしましょう。彼らは秘密を知り、あるいは手を汚し、あるいは都合が悪くなり――濡羽によって〈大神殿〉に閉じ込められていたものたち。すべてが濡羽の悪行の証人! この薄汚れた溝鼠の! 本来であればこんな光さす伽藍に足を踏み入れることさえ許されぬ下賤な生まれの! 生まれも育ちも卑しい私生児の――犯した許されぬ大罪の告発者!!」
わかった。
濡羽の耳元で鳴るこの轟音は、濡羽の鼓動と血流の音。
饐えたように香る濡羽自身の恐怖の音。
「違うっ――。違っ」
濡羽自身も気づかぬうちに召し出された、それは審判の場だったのだ。わけも分からぬまま濡羽はひとり残されて、身を守ることもできぬままになぶり辱められている。
異議を唱えるために張り上げる声は掠れ、だからこそインティクスによってたやすく千切られた。
「違わない! この女はたまたまおきた〈大災害〉で心傷つき振るえていた皆さまの不安を逆手に取り、甘言をもってその財貨と自由を奪い取ったのです! 覚えがありませんか? 皆さんが〈エルダー・テイル〉で手に入れた貴重な魔法の品や素材、ギルドのためだと供出をしてはいませんか? 〈Plant hwyaden〉に奪われはしませんでしたか? 望んでも居ない隷属を強いられてはいませんか」
舞台女優のように軽やかに歩きながら、あちらの侍女、こちらの従者とインティクスはその瞳をじっと覗き込む。その威圧に耐えかねて、こくり、こくりと頷いてゆく姿に、彼女は満面の――魔女のような笑みを浮かべて次の賛同者を探す。
「違うっ」
場末の酒場の打ち捨てられたチラシのように薄く破れた濡羽の否定の声に応えること無く、いまやインティクスは自分の告発に耳を傾ける聴衆だけに向かって語りかけていた。
よく調律したその楽器を愛でるような、限りなく酷薄で尊大な視線で、インティクスはひとりひとりから同意を買い付ける。彼らは彼ら自身も望まぬ陪審員なのだ。
そしてその一票は、現実のナイフがそうであるよりもずっと深く濡羽を傷つけた。
「この女は色香をもって邦衛の一族をたぶらかし、キョウの都の首元に〈スザクモンの異界〉をつきつけて脅迫さえした。偽りの脅威で自分たちを認めさせようとしたのですよ」
「それはウーデル公爵の――」
「すまないね。公爵はもうしゃべれないとさ」
悲鳴のように濡羽が上げた弁明は、蹴飛ばされてゴロゴロと濡羽に向かって転がってきたボール状の一部で中断させられる。濡羽はそこでやっと自分が地に手をついていることを自覚したのだ。
鳴り響く鼓動の轟音と歪んだ視界の中で、濡羽は血まみれで恨みを飲んだウーデル公爵の生首に見上げられていた。
「自分のためになら誰にでも股を開く――」
「違うっ……うっ……ううっ……」
こみ上げる吐き気なのか悲鳴なのか、嗚咽なのか。
「そうですか? ねぇ。濡羽」
「あ。……あぁ」
ただひたすらに喉元にせり上がる苦しみをこらえて、濡羽は黒い影を見上げた。凍りついたような狂気の笑みを浮かべるインティクスは、いっそ優しいといえるほどに甘く腐りきった声色で、言葉という刃物を、濡羽に深く差し込んだ。
「ねえ、あなたの砂のお城。居心地良かったかしら? 壊れないと思った? あなたのお城は丈夫でも、あなた自身はどうかしら、ねえ?」
「やだ。やぁ……」
自分のものとは思えない子供のような泣き言を噛み殺してこらえる濡羽の前髪を掴んだインティクスは、濡羽が想像もしていなかった、しかしそうあるしかなかった最後の一言を告げた。
「ごらんなさい。後ろを。……ほら、お迎えがきたわ」
斜めに歪んだ床が続く出入り口への一直線は、インティクスの不興を恐れた人々の動きで切り開かれていた。遠いはずなのに近く、近いはずなのに遠い狂った遠近感の中で、濡羽が見つけ出してしまった人は凍りついている。
本来ならとても優しい瞳をしたあこがれの人。
濡羽が将来の対峙を誓った約束の人。
まるで四角い額縁のような戸口に立ち尽くしている黒髪の青年は、シロエだった。濡羽と視線が交わった彼は、困惑したような、苦しいような表情を浮かべている。
そして濡羽は弾けた。
自分でもわけの分からない感情に突き動かされて、手足を振り乱し、突き飛ばし駆け出したのだ。
濡羽は逃げた。
〈自由都市同盟イースタル〉の使節団を迎える記念すべき歓迎式典と宴の場から、仲間による告発を受けて、だらしのない悲鳴を上げて、すべてを放棄して逃げ出したのだ。
そしてその逃亡によって――彼女の罪は〈神聖皇国ウェストランデ〉の万民によって確定した事実となった。