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◆5.04
その日は誰も厳しいことは言わなかった。
正午になる前から広場には多くの料理が運び込まれ、時ならぬ祭りのような有様となる。〈大地人〉たちは目を白黒させていたが、〈冒険者〉が突飛な行動を取るのはいつものことであり、この日も理由を追求するよりは祭りを楽しもうという空気が優先された。
〈冒険者〉はこの種の騒ぎになると、〈大地人〉からみて理解できないような、利他的行動に出ることで知られている。具体的に云うと、酒や料理をなんの見返りもなしに大盤振る舞いしたりするのだ。
この日もそれであって、運び込まれた料理の多くは〈冒険者〉の個人的な財産から提供されたものだった。料理ができない冒険者も、手近な料理店や宿屋などで温かい惣菜や飲み物を買い込み、広場で知人たちを見つけては振る舞ったため、盛大な宴となった。
中にはこの騒ぎにかこつけて大きく儲けようとする商人もいたのだが、大げさな宣伝などをしなくても商品は飛ぶように売れていくし、相手の足元を見る値段の吊り上げ商売は、このアキバではことに嫌われるために、ほとんどそういうことは起きなかった。
なかには、理由はわからないものの、陽気な〈冒険者〉の雰囲気にアテられて大盤振る舞いをする〈大地人〉料理人などもいて、喝采を浴びている。
そんな侠気のある飲食店には、冒険者が集まり、日が暮れるまで乾杯の声が繰り返されるのだった。
誰かが持ち出したのか、リュートの音が流れ始めた茜色の広場を眺める物陰で、五十鈴はひっそりと座っていた。
戦勝の宴ということで、昼過ぎまでは乾杯に演奏にと引っ張り回されてしまった。五十鈴たちは、今回の〈アキバ強制レベル低下大規模戦闘〉の戦勝チームなのだ。
しかし、それも長引くと疲れてしまう。
そして疲れる以上に、五十鈴の気分は沈んでいて、華やかな祝福の中には居づらかった。
陽気に祝ってくれる〈ブルームホール〉の知り合いに手を振って、五十鈴は、広場に面した廃ビルの影に腰を下ろす。
苔むしたこの街のあちこちには、多くのベンチが設置されていた。現代地球的な都市とは違い、車両の存在を失ったこの〈冒険者〉の街では、裏道であっても道路が広く感じる。そのため、〈木工細工師〉や〈大工〉が作った実用的ベンチが、多くの木かげで居場所を作っているのだ。
広場から流れてくる賑やかな音楽に耳を傾けて、五十鈴はため息を付いた。
先程までは気を張っていたために耐えられていたが、こうして腰を下ろすと、鈍い痛みに泣きたくなってしまう。
五十鈴は知らなかったのだ。
だからひどく残酷なことをしてしまった。
その自己嫌悪は舌を抜きでもしないと癒えないほどだが、そんなことをしてもなんにもならないこともわかっている。
五十鈴は抱えた膝に顔を埋めると、情けなさで虚ろになった気持ちを隠すように身体を揺すってみた。
「なんで私は、こんなにバカなんですかねー」
面目ないというのはこのことだ。
挙句にミノリから逃げて、こんなところにいる。
身体が地面に沈み込むように、重く、疲れている。〈冒険者〉は強靭なので体力のことではない。精神が活力をうしなっているのだ。
陽気なはずの祭りの歌が、なんとも切なく聞こえた。場違いな自分があの中にいても、良いことなんて何ひとつない。
そんな五十鈴に優しい気配が近づいた。
五十鈴は慌てて膝小僧でまぶたをこすったが、顔をあげることはできなかった。何を言っていいかわからないし、自分が彼と話す資格はないようにも思える。
膝を抱えて顔を埋めたままでいる数分が過ぎても、気配は立ち去らなかった。
意固地になった五十鈴は、いっそ我慢比べだとでも云うように、身体を固くしてじっとしていたが、それは不意に動くと、くしゃりと五十鈴の髪に触れた。
「なによルディ」
「やっと声をかけてくれたね」
声の発生源が低く近づいて、しゃがみこんだその前に片膝をついてくれているのを五十鈴は感じた。
きっと穏やかな笑みを浮かべているルンデルハウスを前にして、だからこそ五十鈴は情けなくて顔をあげることができずにいる。
「――祭りが、終わるよ」
「うん……」
気配は身じろぎして、五十鈴の隣りに座ったようだった。
残照の最後のぬくもりを感じさせる緑の風がさっと吹き渡り、五十鈴たちふたりを通り過ぎていった。
興奮した口調で喋りながら通り過ぎる友人たち。まだ幼い〈大地人〉の集団がはしゃぎながら駆け去る足音。料理満載のワゴンを数人で運ぶ掛け声。
人気の少ないこの場所も、アキバがこれだけ賑わっているために、様々な人が近づいてきて、そして離れてゆく。
「街の声」とでもいうものが、五十鈴を洗い、そして過ぎ去っていった。
むき出しの二の腕に当たる風の温度が、ゆっくりと下がっていく。
帰宅の時間を告げる懐かしい鳥の鳴き声。
夕闇の訪れをまたぐほどに長い間、ふたりは隣り合って座ったまま、遠い喧騒に耳を澄ませていたのだ。
「あのね、ルディ」
「うん」
「わたし――」
藍色の夕暮れが落ちていく影の中で、五十鈴は声を絞り出した。
「ミノリにひどいこと、した」
「うん」
胸を突くような後悔の痛みにふるえながら五十鈴は思い出す。
ミノリはあの戦いの中で、ほんのりと桜色に輝く欠片をこぼしたのだ。
「あんなにシロエさんのことが好きだって、わかってなかったの。ううん、好きになるってどういうことか、ちっともわかってなかった」
溢れそうな宝箱をうっかり傾けたように、それはミノリの周囲に散らばって、大規模戦闘指揮者の指示を追いかけていた五十鈴は、まともにそれを見ることになった。
「ミノリの中のシロエさん、優しい顔してた。ふわって光を放ってるみたいで。あんなに柔らかい表情で記憶されるなんて、すごいね。心臓が壊れちゃいそう。ミノリは、あんな気持ちでシロエさん、見てたんだね」
「そうだな」
ルンデルハウスが、同じそれを見ていたかどうかはわからない。
五十鈴と似たような位置にいたとはいえ彼は後衛だ。それに戦闘の中で位置取りや射線確保をしながらなので、はっきりとしたことは言えない。
でも五十鈴は見たし、それを見なかったことになんてできない。
それほどまでにあれは――胸を突く煌めきだった。
シロエという二十歳すぎの、中規模ギルド〈記録の地平線〉のギルドマスター。そういう五十鈴も知っているシロエであると云うだけではなくて、欠片に詰まっていたのは、ミノリの恋だった。
困ったようなはにかんだような笑顔。
少し遅れて歩く自分を振り返るシロエ。
深夜に一緒に飲んだコーヒー。
教えてもらったことをまとめる、綺麗に整理されたノート。
雨の中で傘をさす、筋張った手首。
使い込まれて飴色の輝きが増した、革のバック。
ミノリの名を呼ぶ声。
五十鈴だって、この一年をひとつ屋根の下でシロエと過ごしたのだ。欠片に映る光景が、シロエやその身の回りのことだというのは見て取れる。
しかし、五十鈴はそれらの光景を、この欠片に込められたような眩しい気持ちで、切なさと憧れではち切れるようなおもいで、見れたことは一度もない。ミノリがあれを世界として感取しているのだとしたら、五十鈴は盲目であるもいいところだ。
「――あれが恋なんだったら、私、何も知らないバカだったよ。知らないくせに、偉そうに、アタックだとか、告白だとか……。あたし、ミノリを玩具にしてた」
「ああ」
ルンデルハウスは否定しなかった。
それが今の五十鈴には、僅かな慰めだった。
そんなことはないなんて言われてしまったら、自分自身のことを一層許せなくなってしまっただろうから。
「ルディはわかってたんだよね。だから止めてくれたのに、わたし……」
思い出してみれば、ルンデルハウスは五十鈴の愚かさがわかっていたのだろう。止めてくれようとさえしたのだ。
なのに五十鈴はそれを遮って、恋せよ、乙女とまで言ったのだ。
五十鈴からだって溢れたのに。
優しく語りかけるルンデルハウスの欠片が。
自分でも気づいていなかった。
心の中の桜色が。
溢れたのに。
それとおなじものを、自分はミノリのそれを茶化したのだ。
「わたし、ミノリにひどいことした! やっちゃいけないことした! どうすればいい、ルディ? どうすればいいんだろう。わたし……」
耐えきれなくなって、顔を跳ね上げて、涙に歪んだ視界で五十鈴は相棒を見つめた。
柔らかい髪のラインに囲まれた、煙るアクアマリンの瞳をもつ王子様だ。五十鈴を真剣に見つめてくれているその表情から、ルンデルハウスの優しさや聡明さが伝わる。
おどけたような態度で、不安や心細さから守ってくれていたことに、五十鈴は気付いてしまった。胸から溢れたルンデルハウスの記憶が、自分でもびっくりしてしまうほど穏やかで、金色の日だまりのようだったから、もうごまかすことはできなかったのだ。
「ミス・五十鈴」
「ん」
「なにも、できない。しちゃいけない。ひとは、自分ひとりだけで開けなければならないドアがあるんだ。そのドアをくぐるとき、ひとはひとりで行かなければならない」
「やだ」
五十鈴は子どものように首を振った。
それじゃあ五十鈴はミノリにどうやって詫びればいいというのか?
自分のコレと同じものを抱えたミノリの背中を、五十鈴は突き飛ばしたも同然だ。
ルンデルハウスの厳しい言葉に、五十鈴の視界はまた歪む。
「誰もついていくことはできないんだ。どんなに親しい友人でも。頼もしい親でも、姉弟でも」
そんな五十鈴に、ルンデルハウスは辛抱強く語りかけてくれる。自分が子ども扱いで諭されていることで五十鈴は大きな反発心を覚えるが、でも、自分がしでかしたことは子供扱いされても仕方ないほど浅はかなことでもあるのだ。
「僕たちはそのドアをくぐる勇気を得るために日々を生きる。大好きな人に、一緒にいてくださいって告げるのは、ミス・五十鈴がいったとおり、戦いだ。……でもその戦いへは、人はひとりで行かなきゃいけない」
「でもっ! ミノリをけしかけて! わたし、アカツキさんがいることだってわかってたのにっ」
自分がけしかけたのに、一緒に戦うこともできないなんて。
責任すらとれないなんて辛い。
ルンデルハウスの言葉は残酷だ。でも、間違っていないと、心の何処かが囁いてもいる。
「ミス・ミノリはわかっていたよ。わかっていなければ、ミス・ミノリの欠片は、あんな色で輝かない。ミス・ミノリは戦士だ。正しい道を選ぶ強さがある」
そしてきっと、こうして諭してくれるルンデルハウスを、自分が大切に思い出すのだろうということも、もうごまかしようがないほどわかっているのだ。
ミノリの戦いなのだから、かき回すな。
それは、そのとおりなのだ。ルンデルハウスは正しい。
でもそれだけでは寂しくて切ないと、五十鈴の心が叫んでもいる。
「……」
「そして、五十鈴。君も」
乱れてみっともなくなってしまった五十鈴の前髪に、ルンデルハウスの指先が触れた。
「気まずさや罪悪感や、ましてや意地なんてつまらない感情で、ミス・ミノリの手を離しちゃダメだ。一緒にいるんだ。友達だろう?」
「うん」
そうだ。
一緒にいなければいけない。
自分が抱えたこの気持を、わんこだって馬鹿にしていたルンデルハウスに告げるわけにはいけないし、彼自身だって気が付きはしないだろうけれど――。
今大事で、ひとりにしておけなくて、きっと苦しんでいるミノリと一緒にいなければいけない。五十鈴の考えが正しければ、もうミノリは戦いへ行ったに決まっているからだ。
五十鈴にも告げず、ルンデルハウスが語ったまま、たったひとりで。
「では、戻ろう。なに、このルンデルハウス=コードがとりなすさ。これでもボクは社交界のスナネズミだったのだ。手間はかかると言われたがね」
「もうっ。ルディ、そんなこと言われたら、落ち込んでいられないよ」
五十鈴は強がって無理やり笑った。
泣く資格だってあるかどうか怪しかったのだ。いま、戦っているのは五十鈴の大好きな親友なのだから。
勢いをつけて立ち上がった五十鈴は相棒を従えて我が家へと歩きだす。
せめて同じ場所で、同じ夜を過ごすのだ。
それができる限りの小さな精一杯だったとしても。
◆5.05
青白い月が優しく抱きしめるアキバの街では、どこからかまだ弦楽器の音色が流れていた。〈冒険者〉の身体は強い。興が乗れば宴はどこまでも続く。その弾むような旋律が、木々の梢を渡り遠くからとどく。
すっかりと日は沈み、農夫であれば明日のために寝床の中で夢の世界に遊ぶ頃。〈冒険者〉であっても夕食と入浴を終え、夜着に着替えるころ。
椅子の背中をぎしりと揺らして、シロエは執務室の机の前で伸びをした。
夕食前まで広場の打ち上げに付き合っていたのだ。
ミノリやトウヤを始め、自分のギルドの若手が成し遂げた大規模戦闘の戦果である。もちろんシロエは諸手を挙げて祝福した。大規模戦闘の勝利は嬉しいものだ。ハードルが高いだけ、その喜びは深い。ましてやそれは生まれて初めて自分たちの力で成し遂げたものであり、他のチームがまだ突破していない未踏大規模戦闘なのだ。誰もが味わえるものではない。
〈黒剣騎士団〉や〈西風の旅団〉、〈D3〉、〈シルバー・ソード〉などの名だたる戦闘系ギルドがこぞって(あらっぽいひともいたが)祝福に訪れたのは、彼らこそがその喜びと価値を誰よりもわかっているからだ。
にゃん太とセララが協力して腕をふるった差し入れで、年少組は大喜びだった。トウヤに大食い勝負を挑んだてとらは途中でお腹を抑えてギブアップしたが、涙目になったレリアが仇をとっていた。
大規模指揮者を努めたミノリはひっぱりだこだった。ひっきりなしに祝福され、引き抜きなども受けていたようだ。
詳しい話はまだ聞いていないが、それもわかる。
大規模指揮者は少ない。レベルとは関係ない把握能力や指揮能力が必要になる。周囲からは作戦参謀だなんてもてはやされているシロエだが、実を言えばその点自信なんてまったくない。シロエは作戦を考える役であって、統率そのものはカナミなどのほうが得意なのだ。偉そうに号令をかけるというのが、どうしても躊躇われる。
(本質的に小心者なんだろうな……)
そう考えれば、ミノリの将来のほうが楽しみだ。
打ち合わせの手順、一応の基本的な知識、五〇から七〇レベルまでの大規模戦闘仕掛けを記した小冊子を手渡したし、〈D3〉の才女リーゼの残した攻略メモも添えた。
いい線を行くとは思っていたが、初見突破が確実だとまで思っていたわけではない。
(そういう意味じゃ、僕のほうがダメダメかあ……)
今回の一連はシロエにとって反省点が多い。
確かに敵対対象のレベル見込みは当たっていたが、まさかレベルの強制低下を伴うとは思わなかった。アキバの戦力の殆どが、非戦闘力化されてしまった形だ。
結果としては年少組が初見突破という最高の形になったが、大規模戦闘経験の豊富なアキバ〈冒険者〉を腐らせたまま、事件が長期化してしまった可能性は低くない。
何にせよ、シロエは読みが甘く、ミノリたちに負担をかけてしまった。
予測可能性から考えても誰かに責められるほどのミスとはいえないが、気持ちを引き締める必要はあるだろう。
「引き締めようにも、手が足りなくてそれどころじゃないんだけどね……」
書類が山積みになった執務机の一角を占める浅い木箱。
その木箱にまとめられたものは、ミナミ及び〈Plant hwyaden〉についてまとめられた情報であり、その一番上には『親善使節団派遣計画』と第された冊子がある。ヘンリエッタの力作だ。
現在〈円卓会議〉ではいくつかの課題をかかえており、〈神聖皇国ウェストランデ〉及び〈Plant hwyaden〉との関係改善は優先度の高いものであった。
様々な予備交渉がもたれ、一時よりはずっと人も物も交流するようになっているのだが、それを一層加速させるために企画されたのが、親善使節団――言ってしまえば会談チームの派遣だった。
メンバーに関しては確定ではないが、少なくとも〈自由都市同盟イースタル〉の代表として誰か貴族が必要だろう。セルジアッド公爵と交渉をしたが、現在はイセルス公子が最有力候補だ。交渉は形式的なものになるだろうが、〈神聖皇国ウェストランデ〉の有力者や、場合によっては〈元老院〉あるいは斎宮トウリと会談を行うのであれば最低限その程度の格が必要となる。
イセルス公子はまだ幼いため、そうなれば護衛と助言団は当然必要となるだろう。
一方〈円卓会議〉側だが、代表者を勤めているレイネシア姫はいささかまずい。〈自由都市同盟イースタル〉代表となるであろうイセルス公子との距離が近すぎるし、そもそも〈ユーレッド大陸〉への遠征がある。
そもそもの話、〈神聖皇国ウェストランデ〉との交渉、つまりこの親善団から|遠ざけるためにわざわざ《、、、、、、、、、、、》遠征チームに組み込んだのだ。レイネシア姫はヤマトの情勢からしばらく切り離すべき、というのがシロエとカラシンの結論である。
そしてそうなると〈円卓会議〉代表として、誰か適当な人間を選ばなければならず、ミチタカ、あるいはシロエという話になる。じゃんけん勝負にしてもいいが、あまり勝てる気はしないシロエだ。
使節団として乗り込むにせよ、あるいは留守番としてミチタカを送り込むにせよ、ただ人を送って挨拶をしました、ではあまりにも意味はない。そんな程度の戦果でいいのならば、そもそもイセルス公子を送り込む意味などないのだ。
KRの話では、意固地になったインティクスが〈Plant hwyaden〉の強大化を推し進めているという。
アキバでも手を焼いている月への通信システム。それを〈Plant hwyaden〉では新技術を用いた「月へのマイクロゲート開門」で解決しようとする動きがあるようだ。その成就のためには人材が必要で、インティクスは〈Plant hwyaden〉の拡大を望んでいるらしい。
KRの言葉を借りれば「全ての〈冒険者〉の集結を夢見てる」という。
無茶な話だとシロエは渋面を作った。
しかしそれが本当ならば、当然その「全ての〈冒険者〉」にはアキバのメンバーも入っているのだから、インティクスとはきっちり話をつけなければならないだろう。〈放蕩者の茶会〉解散時の騒動で、多分嫌われてしまっているシロエとしては気が重いが、それでも昔の仲間であるのは違いない。シロエが尊敬するプレイヤーのひとりでもある。
だから、ちゃんと話したい。当時逃げてしまったことにも向き合いたいのだ。
もちろんその中には、甘苦しいほどの魅惑に満ちた、ただ一度の邂逅でシロエのなかに自分を刻み込んだ〈Plant hwyaden〉の支配者、濡羽との対決も含まれている。今回の西への旅は彼女と再会し、話し合い、何らかの合意を得るためのものでもあるのだ。
そんなわけで――。ここ最近のシロエはとても忙しかったし、根回しや関係各所への挨拶にも追われていて、余裕がなかったのは事実なのである。
ミノリたちに負担をかけた言い訳にはならないのだが。
〈Plant hwyaden〉から受け入れの返答が来た以上、使節団派遣の実務を本格的に開始しなければいけないだろうし、この先も今以上に多忙になると思うと、ため息が漏れる。
就職前からブラック労働をしている気分だ。
――コンコン。
そんな風にドアが鳴って、どうぞ、と声をかけると栗色の髪を揺らしてミノリがひょこりと顔を出した。
随分深い時間なのに大規模戦闘をやっていた戦装束を解きもせずに、凛々しくも少女らしい姿で静々と入ってくる。
「どうしたの?」
考えてみればミノリはいつもそうだった。
シロエの執務室に入るときは、どことなく申し訳なさそうに、足音を忍ばせるような仕草を見せる。そんなに遠慮することないのになあ、とシロエはいつも思うのだった。
「今日の大規模戦闘の、報告書を作ったので」
「早いね。明日でも明後日でも構わなかったのに」
「いえ、その。時間をおいたら忘れてしまうかもしれなかったですから」
「そっか」
受け取った紙束は薄茶色の用紙十枚程度だった。
アキバ外界のエリアで遭遇した〈灰斑犬鬼〉、〈鎖吐蝙蝠〉といったエネミーの能力や攻撃方法、遭遇シチュエーション、有効だった撃退方法。
ギルド会館に入ってからの合流、大規模戦闘部隊編成について。気をつけたこと、実際利益のあったこと、失敗したこと。
〈典災〉との遭遇。その発言。能力。攻撃方法。耐久力。
戦闘の経過については、ざっくりながらも時系列でまとめられていて、わかりやすい。
「うん、わかる。ちゃんと書けてるよ」
「良かった……」
〈円卓会議〉の資料部にあった、大手ギルドの書式を真似したのだろう。重要な情報が過不足なくまとめられた、見事な報告書だった。
表や図が多めで、地の文は少なめ。
しかしこれは、ミノリたちの勇戦を封じ込めた一片の冒険小説なのだ。
「総評を聞こうか。勝てた要因と、みんなの活躍を」
「勝てたのはみんなが頑張ったからです。トウヤも堅実に支えていました。中盤戦線が崩れたときはレリアさんの回避盾が立て直しに寄与しました」
報告書にもある通り二枚盾といわれる基礎戦術で戦ったようだ。当初から予定していたというよりは、立て直しを模索する中での連携だが、できたということは、正しい準備をしていたということだ。
「今回のチームは〈回復職〉が多かったんですが、豊富なMPによる厚めの回復と蘇生呪文は、不慣れなメンバーの士気を保つ上で助けになりました。その分負担をかけてしまったのは薄めの〈攻撃職〉で、中でもルンデルハウスさんには数人分の仕事を押し付けた形で申し訳なかったです。〈近接攻撃職〉ではミルキーさん、聖夜さん、忍道さん、デス・ゲイザーさんたちの連携連撃が強力でした……」
確かに報告を見ていても、攻撃力は不足しているようだ。
バランスが良く、防御よりも攻撃に重点を置いている大規模戦闘部隊であれば、半分の時間で攻略できただろう。――前衛が持ちこたえ、回復が足りている限りにおいて、防御は少なければ少ないほど良い。というのは大規模戦闘の基本である。この大規模戦闘の事前情報が十分にあれば、それが正解のひとつだ。
しかし、情報不十分の中、手持ちのカードで勝負をした今回、編成のアンバランスさは減点の対象ではないというのがシロエの評価だった。いやむしろ、〈回復職〉の多さに危機感を持ち攻撃指示を出したり、立て直しでは後列に下げた蘇生役を組織したりと、特筆できる戦術が多い。
経験の多い大手ギルドならば日常的な連携も、編成して即日の部隊が行ったとなれば、その評価を同じくする訳にはいかない。
「私は、あんまり活躍できませんでした」
「そうなの?」
うつむくミノリは細い声で告解を続けた。
「……一度、戦線を崩壊させてしまいました。〈典災〉のMP吸収攻撃が強烈で、座り込んでしまって。セララちゃんや五十鈴ちゃんがフォローしてくれなかったら、立て直しに失敗していたと思います。……大規模戦闘指揮者失格です」
「そんなことはないよ」
それは、報告書でもわかる。
未知の状態異常か、MP吸収による虚脱感か、前線が崩れて戦況が膠着する。たしかに、ここに巨大範囲攻撃をくらっていたら全滅していただろう。
しかし、それはシロエからみれば当たり前だ。
大規模戦闘なんて負けるのが普通なのだ。
指揮者がどんなに自分を責めても、そういう全滅は起こりうるし、だからミノリは自責すべきではない。
しかし同時に、シロエはミノリの気持ちがよくわかった。
やりたいと思ったのだ。
やれると考えたのだ。
それはつまり、自らの足で立ちこの大規模戦闘の責任を負うと誰にでもなく自分と約束したということだ。このくらいの実力はあるだろうと、自らの中で到達すべき目標像があるから、そこに届かなかった時、自らを責めるのだ。
昔日のシロエが、ミノリの中にいる。
「指揮者はさ、ひとりじゃ勝てないよ。大規模戦闘は誰であっても、ひとりじゃ勝てないけれど、指揮者は特にひとりじゃ何もできない」
シロエはミノリに語りかけた。
「どんなに情けない気持ちでいても、仲間が『良い指揮だった』って褒めてくれるなら、それを信じないと。褒められたんでしょう?」
「……はい。『助かった』って。『指示が振ってきて安心した』って。『編成どおりにやったら大丈夫だった』って」
その言葉は、今のミノリにはあるいは自分をフォローするために無理に紡いだ言葉であるように聞こえているのかもしれない。ミノリを責めないために作った理屈のように。
でもそうでないことをシロエはよく知っている。
長い経験でそれを学んだし、今日、ギルド会館前の広場にいれば馬鹿でもない限りわかって当然だ。ミノリの仲間たちは、あんなにも勝利を喜んでいたのだから。
「一緒に戦う仲間の戦闘を信じたのに、その祝福を捨てちゃだめだよ。それは、ひとつのものだからさ。片方だけを受け取るなんて、しちゃだめだ。任せたのもミノリで、褒められたのもミノリだよ」
「……はい」
小さな拳をきゅっと握ったまま、ミノリは囁くように返事をした。
「『また行こうね』って言ってもらいました」
「よかった。それはミノリのものだよ。ミノリは、きっとみんなの憧れになるよ」
――なれますか? なんて必死な表情で訪ねてくる少女に、シロエは大きく頷いた。
「もちろん! なんで泣きそうな顔してるのさ」
きっとミノリはなれる。
どんな大手戦闘系ギルドの指揮者よりも素晴らしい指揮者になる。
シロエなんて軽々と飛び越えるほどにだ。
自分の弱さと無力さを知り、言葉を尽くすことの意義を知る者が、善い導き手になるのだ。それは大規模戦闘であっても、それ以外でも、どんな環境でもだ。それはシロエが〈エルダー・テイル〉から受け取って、頼りにしてきた真実だった。
ミノリは、なんにだってなれるよ。
シロエはそう言って笑った。
なんにだって、だれにだって。
どんな願いでも叶うよ。
シロエはミノリの瞳に滲んだ涙と決意を見てそう思ったし、そう信じた。
「私は――シロエさんが好きです」
命綱を手放すかのように、ちょっと悲しくなるほどの笑顔で、ミノリはシロエにそう告げた。
多分それは、今日ミノリが戦うべき本当の決戦だったのだ。
◆5.06
「トウヤとふたり、初めてのゲームで声をかける友だちがいなかった頃から、素敵な人だなって思ってました」
声を振り絞り、ミノリは胸をはった。
無理矢理なのは見て取れたがそれが彼女の挟持なのだ。
「〈ハーメルン〉から助けてもらった時、なんてすごい人だろうって思いました」
小さな白いコブシをきゅっと握った姿は、白い巫女装束をまとって、触れれば雪の欠片になりそうなほどに儚くも凛然としていた。
「一緒に過ごすようになって、どんどん格好良いところがわかってきて、優しくて、穏やかで、好きが膨らんでいきました」
思いだすような遠い瞳に、決然とした口調は、ミノリがどれだけの覚悟をもっているのか、人間関係の機微に疎いシロエにさえ悟らせるに十分で。
「シロエさんが貧乏くじを引いているところを見るとなんだか胸が痛くてつらい気持ちになります」
まだ幼いと思っていた少女にとって、自分がどんなふうに見えていたのか。シロエは考えてみれば、そんなことすら今までろくに想像してこなかった自分に気が付き、悪態をつきたい気分になる。
ただひとつ、今何よりも痛切にわかるのは、これがミノリにとって特別な、本当に特別な瞬間なのだということだ。
「わたしはまだ子供で、教わることしかできていないけれど――シロエさんが好きです。先生だけど、大好きです」
同じものから逃げたシロエにはわかる。
ミノリはすごい。尊敬すべき少女だ。
誰にも頼らず、ごまかしも時間稼ぎもせず、ただまっすぐに飛び込んできた。そうするべきだったのだと、あとで気づいたシロエの情けなさとは大違いだ。
先生だなんて言われて舞い上がっていたのが恥ずかしい。
ミノリは、シロエよりもずっと強くて、覚悟を持っている。それはシロエにとって眩いばかりだった。
言葉にならない時間が流れた。
シロエは幾つもの返答を思い浮かべては切り捨てていった。
巫女服の少女が、その小さな体から振り絞った勇気と決意に匹敵するものを、シロエは自らの中に探し、しかし淘汰されていった。
それらは決して間違ってはいなかったが、言葉を尽くすことでは、ミノリの気高さに及ばないのは自明であるように思えた。
どんな説得もミノリに届くことはないし、そもそも説得で気持ちを納得させようだなんて傲慢不遜なのだと、シロエは知った。今この場にふさわしいのは、どんなに不格好でも真実だけなのだ。
それがシロエとミノリの間にあると、シロエがまだかろうじてあると信じられる、微かな信頼へ応えられる唯一の解だった。
「ごめん」
頭は下げなかった。
ミノリの表情から一瞬でも目をそらすことがためらわれたからだ。今この特別な瞬間において、それは万死に値する怯懦だと思えた。
「好きな娘が、いるんだ。別に付き合っているわけじゃないけれど――好きなんだと思う。一緒にいると良いな、って思うんだ。街が綺麗に見える。時間がゆっくりになる。この先どうなるかわからないけれど、僕は多分、その娘が好きなんだ」
ミノリの凛々しい宣言に比べて、自分のそれはなんとも情けなく、言い訳がましく聞こえた。しかし、この拙い羅列が、いまシロエに差し出せる精一杯。
ミノリの真実に応じられる、シロエの真実なのだ。
「だから、ごめん」
シロエは告げた。
自惚れてもよいのであれば、この謝絶はミノリを傷つけるかもしれない。けれどそれさえも彼女の得る正当な報酬なのだ。
シロエが自身の臆病さゆえに、〈彼女〉から手に入れられなかった答えがそれだった。だからこそ、シロエははっきりと言葉にした。
ミノリは涙をこぼさなかったし、その肩が動揺で震えるというようなこともなかった。ただシロエをまっすぐに見て、全てを記憶に残そうとでもするかのように見つめて「はい」と短く答えた。
ミノリは、シロエよりずっと正しい。
そして素敵な淑女なのだ。
シロエにとって、今のミノリはなんだか眩しく見えた。
(ミノリにとっては、どう見えてるのかな……)
そう考えれば苦笑に近い思いがこぼれる。
ミノリの告白のなかで、シロエは自分自身から見たってちょっと上方修正され過ぎな描写をされていた気がする。でもだからって、それを笑ったり茶化したりしていいものじゃない。
「大丈夫です! シロエ先生を困らせてごめんなさい! 私はこう見えてもかなり根性があるのでっ。トウヤにだって負けないくらいなので、大丈夫です」
きっと憧れだったのだ。
シロエが〈彼女〉にそうだったのと同じく。
それは神聖な感情だとシロエは思う。憧れも失望も、究極的には持つ者の宝なのだ。たとえ思いを向けられる本人にだって、否定してよいものではないのだ。
拳を握って胸の前に構え、ほほ笑みを浮かべるミノリの勇気は眩い。無理やり張り上げてかすれた声も、鼻の奥が痛くなって湿ってしまった言葉も、かけがえがない。
会話を続けることはできなかった。
それが正しいとは思えなかったのだ。
「おやすみなさい! いっぱい書類書いて、ちょっと疲れました。シロエ先生は毎日いっぱいこんなに書いて、やっぱり働きすぎだと思います。おやすみなさい!」
腰から九十度に勢い良く頭を下げると、少女の小さな足音がドアの向こうに消えて、しばらく立ち止まったあとに駆け出した。
シロエはその音に耳を澄ませて、執務机の前で身じろぎもせずにいた。
少女の大切な真実に釣り合う何かを、自分は持っていたのだろうか? 夕暮れの図書室で、下校時刻の鐘に怯えていた子どもだった自分は、あそこから何か変われたのだろうか?
シロエはそう自分に問いかけるのだった。
◆5.07
息を詰めて、足音を殺して、ミノリは廊下を渡った。
明かりの落ちた階段をおりて、誰にも会わないようにダイニングホールのドアを開けて、通り抜け、エントランスをくぐり、夜の中へと歩き出した。
足元の湿った露草がつま先を濡らす夜のアキバを、ミノリはひとりで進んでいった。
目的地はない。
ただ急かされるようにミノリは地面を見つめたまま、夜を歩いた。
口を引き結び漏らす吐息は最小限に抑える。
油断をすれば、痺れたような鼻の奥から声が溢れてしまいそうなのだ。
どろどろと渦巻くそれは、気を抜けばありとあらゆる醜さをもってミノリから吹き出すだろう。その圧力に耐えるために拳を握り、ミノリは前へ、前へと進んだ。
〈蛍火灯〉の穏やかで親密な明かりを、誘うような方舞曲の旋律を、繰り返される乾杯のざわめきを、ミノリは避けるように夜の暗がりを辿っていった。
ゆく場所を探すためというよりも、ただうつむきたくはなくて、ミノリは前方の夜を見つめ続けた。
シロエが大好きで。
告白して。
振られた。
それだけのことが、ありふれた筋立てが、予測していた結末が――肺腑を焼くほどに苦しい。
珍しいことが起きたわけでも、予想外のことが起きたわけでもない。なのになぜミノリの胸は悲鳴を上げているのだろう。
なぜ噛み締めた唇が痺れるほど痛いだのだろう。
自分は間違っていない。
ミノリは心のなかで、そう叫んだ。
告白をすれば、こうなるのはわかっていた。
アカツキがいたからとかではなく、シロエが自分のことを恋愛の対象としてみていないことを感じていたからだ。シロエと交際がしたいのなら、時間を掛けて女性としてみてもらうべきだったかもしれない。そのほうが利口な行動だっただろう。
しかしそれはできなかった。
今日この夜に告白するのがミノリにとっては正しかったからだ。
ミノリはシロエのことが大好きで、そして戦場に立つことを望んだからだ。師弟の関係に甘えて、リングサイドの応援席で勝利を恵んでもらうことを望まなかったからだ。
自分は正しいことをした。
いまでもそうミノリは言い切れる。
それなのになぜ血の流れる音が轟々と耳鳴りのように響き、抱え込んだ胸は石炭を押し付けられたかのように焼けただれているのだろう。
答えのない自問が降り積もり、鎖となってミノリの両足に絡んだ。
前へ進むはずのそれは、活力の全てを失い、拘束されたかのようにぎこちなく、やがて動きを止めた。
アキバの外れの川沿いの小道で、ミノリは一歩も動けなくなった。
中心部から外れて楽の音もまばらな闇の中で、それでも足元に落ちる影を見つけたミノリは、宙に煌々たる月を見つけた。
こんなに苦しいのに、月の光は優しいのだと、ミノリはその皮肉を恨みたくなった。
「ミノリー。発見!」
「こんな夜更けに、淑女たるものが不用心すぎるじゃないか」
どれくらいの時間を立ち尽くしていたのだろう? 月は中空にかかり、夜露に湿ったミノリにそんな声がかかった。
「トウヤ、ルンデルハウスさん……」
震えるような低いいななきと共に現れたのは馴染み深い二頭だて馬車だった。あの辛かったサフィールへの旅を支えてくれた、デニッシュとクロワッサンが引く、ミノリたちの馬車だ。
御者席にはにこやかに手を振るルンデルハウスと、その横で安心させるような表情のトウヤがいる。
ごとごとと近づいてくると、幌の上には出会った頃から変わらない色鮮やかな薄着のモフール姉妹がいるのがわかった。
「こんな夜更けに出歩いていると怖いお化けが出てきますよ」
「お化け!! 怖いねー様!」
「白くておっきくてうねうねしてる……」
「トカゲ大王!!」
ひとかたまりの毛玉のように身軽に飛び降りた姉妹は、あっけにとられているミノリに駆け寄ると、ふたりでヨイショと抱え上げた。
「ひゃー捕まえた!」
「ひゃー捕まえました!」
人さらいを非難できないような掛け声を上げたふたりは、ミノリを頭上にまで持ち上げて、お神輿のように運ぶとそのまま馬車の幌の中へと投げ込んだ。
「ミノリはおなかすいてると思います」
「みのみのこれあげる!」
食べかけのクッキー袋をミノリの手に押し付けた姉妹は、とても優しい表情でミノリの頭を交互になでると幌の上へとよじ登る。そこが彼女たちの指定席なのかもしれない。
後部座席に放り込まれたミノリが何か尋ねたり発言する隙間もないほどに、馬車は早速出発した。
三体のマジックライトに照らされた、クッション山積みの後部座席で、ミノリはセララと五十鈴に、両脇から抱きしめられていたのだ。投げ込まれたときから、ふたりはミノリを両側から支えてくれていた。
馬車の揺れに対抗するためというよりは、どこか必死なそのしがみつきをなだめようとしてミノリは失敗した。
セララも五十鈴も涙をこぼしていたからだ。
心配かけてごめんね。
用意しておいたその言葉を喋ろうとして、ミノリの喉は不器用に呻きを立てると、びっくりしてしまうほど簡単に決壊した。
泣いたりなんかしない。
この程度のこと耐えられる。
最初から覚悟していた。
そんな薄っぺらいミノリの言い訳をあざ笑うように、ミノリ自身にも自由にならない衝動によって、大粒の涙が勝手にボロボロと溢れて、情けない声が意味につながらない音として口から出てしまうのだ。
「ミノリちゃん……」
「ごめんね……。ごめん、ミノリ」
ミノリの頭部を抱え込むように五十鈴が、なんでそんなに必死に謝っているのかわからなかったけれど、ミノリはその声を耳にしていよいよ本格的に嗚咽が止まらなくなってしまった。
頭の中はぐちゃぐちゃだし、鼻は詰まるし、お話することすらもままならない。
幼児に戻ってしまったような情けなさの中で、ミノリたちはひとかたまりに抱きしめあったまま、わんわんと泣いた。
「ちゃんと……好きって」
「うん」
「好きだって」
言ったのだ。
それは届かなかったけれど、ミノリはちゃんと告げたのだ。
「憧れじゃ……なくて……わたしは……」
ちょっと格好いい先生とおつきあいをして、おしゃれをして、デートをして、大人ぶった会話をする。そういうのに憧れていなかったわけじゃないけれど、それだけじゃないのだと。
「ちゃんと好きだって……」
胸を張るために。
「偽物じゃないって……」
シロエに告げるために。
間違いじゃなかったのだと。
賢くて、不器用で、優しくて、鈍感な、ミノリの初恋の人に、差し出せる限りの胸の真実をみせるために、理解したその日のうちに、思いを告げるのが正しかったから、ミノリは正しいことをしたのだ。
それは幼い憧れだと、いずれ失望に変わるのだと、技量に対する尊敬を勘違いしただけだと、命を救ってもらった恩なのだと、いずれ誰かにそう否定されるかもしれない。
いいや、ミノリ本人でさえ、未来の何処かで自信を失い、あれはやはり恋ではなかったのだと記憶をすり替えるのかもしれない。そんなことは卑怯だと思ったから、それだけは違うと思ったから、ミノリは思いを告げたのだ。
それは柔らかくて未熟で、上手などとはとても言えなくても。
「大好きですって……」
恋なのだと、ミノリは思った。
馬車はアキバを抜けて川沿いから海へと向かった。
夜更けの一番深い闇の中を、淡い光で照らしながらゆっくりと、しかし止まらずに進んだ。
泣き疲れてちょっとうとうとしていた間も、御者席のふたりは荒れた街道を丁寧にやりすごし、夜明けの遠い藍紫の澄んだ空気の中を先導してくれた。
朝もやの中で目が覚めたミノリに、セララは「これくらいしかないんですけど」と十人前以上のごちそうを、〈魔法の鞄〉から次々に取り出してみせた。幌の上からひょこひょこと顔を覗かせる姉妹は、心配半分食欲半分のようで、串焼きを奪っては慰めの言葉をくれるのだった。
ミノリのお願いで五十鈴に少し歌ってもらった。
泣きすぎて荒れてしまったガラガラ声がおかしくて三人で笑ってしまったけれど、言い返されて自分も歌ってみれば、もっとひどい声なのだ。
三人とも目の下が真っ赤だし、鼻はぐずるし、とても大人とはいえない有様だ。笑って突きあったが、幸いにも有能な男子ふたりは、そんなミノリたちを茶化さないでくれたようだった。
「わたしミノリのこと好きだよ」
「わたしもですよ! ミノリちゃん!」
「うんっ!」
今日という日の初めの明かりが、水平線を金色の針金のように縁取る中、馬車は海沿いの廃路を進んでいた。夜明けのドライブなのだ。そしてミノリのそばには、トウヤも、大好きな五十鈴やセララも、頼れるルンデルハウスも、そして助けてくれるモフール姉妹もいる。
だから、きっと大丈夫なのだろう。
夜が明ければ自分は立ち上がれる。
ミノリは柔らかさに包まれてそう思った。
今はまだ少し無理だけれど、いつかきっと今日の日を胸の痛みとともにではなく、懐かしさと誇らしさで思い出せる日が来るはずなのだ。
手を繋いだ三人が、かすれた声で囁くように歌うのは、星への恋に身を焦がす、夜啼鳥の唄だった。
ログ・ホライズンEp13
夜啼鳥の唄 了