125
◆5.01
「主君は日本茶が好きだ。しかし爺むさいというと落ち込む」
胸を張ったアカツキは堂々と言葉を続けた。
半眼になったその表情は得意そうだ。
「主君はわりと寝坊助だ。たまに寝癖もついてる。ぴょーんってしたのがそうだ」
アカツキは〈典災〉をまっすぐ見つめて口にした。
その横顔は迷いなく真っ直ぐで、言葉を挟むことなんてとてもできない。
――主君はああ見えて甘党なのだ。アンパンを差し入れると喜ぶのだ。
――主君は書類仕事に飽きるとソファーに突っ伏して脚をばたつかせてることがある。ふっ。子供だな。
――主君はおでこのしわを密かに気にしているのだ。『僕目つき悪い?』と聞かれたことがある。
――主君は全然強くない。直継の急所を蹴った次の日、かなり怯えていた。
思い出すように、語りかけるように。
懐かしむように、慈しむように。
そっけない言葉の数々を傍若無人に、アカツキはそれでも大事そうに紡いだ。
「主君は――」
少しだけ目を伏せて、自分の胸の中にある何かを確認するような表情を見せたアカツキは、目の前ではらはらと揺れる欠片に指先を伸ばして、優しく触れた。
主君は――その言葉の続きはない。
ただアカツキの愛しげな横顔だけで、言葉の接穂は薄闇に溶ける。
細片は砕けて消えてしまったが、それはアカツキになんの痛みも与えていないようだった。
ミノリがあまりの痛みに喘いだ、引き裂かれるような自己認識を、アカツキは微笑んで受け入れている。あの紫色の攻撃を受けたのに、ミノリよりも小柄なこの少女は、驚くほど穏やかで動揺するところがない。
「「失望せよ! 汝の崇敬の対象の砕ける様に!」」
それに焦れたのはエレイヌスだった。
巨体からすれば何程もないアカツキとの距離を怒りに任せて詰めると、禍々しいその巨腕を、虫でも潰すように叩きつける。
だがそれでもなおアカツキは冷静だった。
ミノリからみればどう身体を動かしたのかわからないような速度で舞うと、腕をすり抜けたように空中を駆ける。
その小太刀は華麗な斬線を描いた。
先程までとは違う激しい表情で、感情の高ぶりを叩きつけるような剣戟がエレイヌスのぬめ光る巨体に刻まれる。
「崇敬の対象なんていうな! そんな簡単にまとめるなっ! 主君は主君なのだ。そんなナントカなんかじゃない!」
アカツキは舞った。
空中で跳ねるようにその身体をぶれさせ、無重力下の妖精のように斬りつける。
「主君が弱くても私が強ければいい。主君が寝坊したら私が起こせばいい。主君が苦しんでたら私が頑張るし……たぶん直継も働く。それにみんながいる!」
アカツキは〈暗殺者〉だ。
しかも今は本来のレベルではなくミノリと同じにまで低下している。
大規模戦闘ランクのモンスターであるエレイヌスの攻撃を一回でも受けたなら、戦士職でもないアカツキはそれだけで戦闘不能になる可能性が高い。だが、だからか、アカツキはその攻撃を受けない。
足りないはずの能力値で、隔絶しているはずの実力差で、絶えず跳ね踊りながら、その攻撃を躱し、いなし、死線の上で抵抗を続ける。
「「失意せよ! 汝の期待が裏切られる恐怖に!」」
「主君が強くなくても、そんなことは関係ない。主君が強いから仲間になったわけじゃない。主君が助けてくれたからそばに居たいわけじゃない。わたしは――」
その戦いは美しくて、綺麗で、夢のようで。
胸の軋みがミノリに降り積もる。
ただひたすらに純粋で、
ただひたすらに一途だ。
ミノリから見てアカツキはまばゆいばかりで、切なくて、悲しくて、わけもなく泣きたくなる。
ひとつ、またひとつ。
鋭くも麗々たる煌めきが走り、ミノリはだからその決定的な一言を耳にすることになった。
「主君が強かったから好きになったわけじゃない!!」
その宣言は誇り高くミノリを貫いた。
「主君が困ってたら一緒に私も困る! 私はおバカだから、主君がおバカでもちっとも困らない。一緒に悩んだらきっと楽しい。それに、主君が笑ってたらもっともっと楽しい!」
鋼を打ち付ける音も高らかに、アカツキは胸の内を吐き出す。それはまるで刃を鍛える鍛冶師のようで、力まかせに振るう小太刀と〈典災〉の腕の間に生まれる火花が、薄闇の室内を刹那照らし出す。
「主君が強くなくたって、主君がアキバの救い主じゃなくたって、私は主君と一緒にいる権利を自分から捨てたりなんて絶対にしないっ!」
アカツキの強い言葉は〈典災〉と同時にミノリを打ち据えた。
シロエはミノリの大事な先生だ。
それは絶対で捨てることなんてできない。今のミノリを形作る基盤には、シロエが入り込んでいるのだ。それは必須栄養素みたいなものでミノリを育んでくれた。
ミノリにとってのセルデシアはそのままシロエの薫陶の歴史そのものだ。
シロエのようになりたかったし、シロエになりたかった。
そうすればシロエはひとりではなくなるし、きっとミノリはすべての苦難にひるまず負けることはなくなる。
その思いは今も揺るぎない。
だが、アカツキは違う。
アカツキはシロエになろうとは思っていないし、少なくともミノリと同じような意味では、憧れてさえいないだろう。にも関わらず、シロエを温め、共にいる。
何が違うの?
なぜアカツキはあんなに強くあれるのだろう?
レベルが高いから?
しかしいまこの大規模戦闘で、アカツキはミノリと同じ高さにいる。
肩を並べて戦い、戦列を組み、なのに見えている景色が違う。年齢差であると諦めることはミノリにとって苦痛だった。それはなんの答えにもなっていないではないか。子供だからと涙をのんで痛苦に甘んじていたあの夜から一歩も進んでいないと、それは認めるようなものだ。
「「失望の痛苦に恐怖せよ!」」
だがそのアカツキさえも、限界は有る。どんなに華麗な動きで敵を翻弄してたとしても、ミノリのレベルがアカツキを縛り付ける。アカツキの意地はミノリの限界によって阻まれている。大会議室の大理石のテーブル、その砕かれて跳ねる飛礫にかすられてアカツキはバランスを崩す。
あわや一撃を受けるというところで、ミノリの代わりにアカツキを救ったのは〈ポンコツ姉妹〉の姉の方、レリア=モフールだった。
「「崇敬の位階に辿り着けぬ者共よ、砕け散れ!」」
息を呑むような悲鳴が後ろから小さく響く中、旋風のように飛び込んだレリアは、鋼鉄の装甲に包まれた右足を高々と振り上げて、振り下ろされた〈典災〉の豪腕を受け止める。
すれ違いざまにおみやげの攻撃を残し、脇腹を押さえて吹き飛ばされるアカツキ。
真っ赤な血流が宙を舞って、やはり虹色に消えていく。
ミノリでは届かない。
そしてアカツキさえも退けられた。
もはや追いつめられた〈典災〉との戦いの趨勢に異議を唱える者がいる。
金属的な激突音が響き渡る中、レリアの声は落ち着きを払っていた。
「位階がそんなに大事ですか? それでお猿のリーダー気取りですか……」
妹のことを心配しているけれど、運と巡り合わせが悪くて、ちょっとドジ気味な狼耳の少女の声は、そこになかった。
重々しい。
威厳が有る。
……と言うよりは地獄の底から響くような暗い声。
「わからないでしょうねえ。地元で一番の強者だった〈古来種〉なのに、新人〈冒険者〉さんたちにどんどん追い抜かれる気持ちは」
「あわわわわ!? 大変! 大変! ねー様がお目々真っ黒になってる! 逃げなきゃ、逃げなきゃ!?」
落ち込むばかりのミノリになんだか焦った声も届いてくる。
「――昔は『クエストちょうだい!』って通ってくれた〈冒険者〉さんたちが、どんどん自分たちの位階を追い越して強くなって、ちっとも来てくれなくなっちゃうのです。それはそれは寂しい気分です。毎日玄関の掃除をしながら〈冒険者〉さんこないかなー、来てくれたら何の話しようかなーって待ってる気持ちがあなたにわかりますか」
「「汝ら崇敬の対象たりえ――」」
「位階はっ!」
縫いとめられたように微動だにしなかった姿が、瞬間、ブレるように掻き消えた。移動したわけではない。レリアがその場で綺麗に前転したのだ。先程まで軸だった左足が天高く伸ばされて、振り下ろす斧のようにエレイヌスの腕を打ちつける。
「田舎者!! 位階さえあれば、位階があがれば、強くなれる! 友ができる、みんなが集まってくる! そう思ってるんでしょう!? あなたからはそういう都落ちの匂いがします」
その声は怒りに燃えていた。
レリアは蹴りつけた。
〈典災〉の攻撃の全てを、その鋼鉄に包まれた脚甲で迎撃し続けた。凄まじいまでの体術だ。〈西風の旅団〉のカワラや〈D.D.D〉のリチョウなどの〈武闘家〉の戦闘だってミノリは見たことが有るが、それに一歩も引けを取らない、あるいは上回るほどの武技だった。
そもそも〈武闘家〉とは、目の前の一合のように攻撃を打ち合わせたりはしない。
彼らの長所は高い回避能力で、それは戦士職というパーティーの防衛役でありながら、金属鎧や盾を装備できない〈武闘家〉を支える武器なのだ。それゆえ彼らは敵の攻撃を受け止めず、身を躱すか、あるいはいなす。
そんな〈武闘家〉があえて敵の攻撃を迎撃している意味を、ミノリはそのアイコンタクトから察する。それは半数は倒れ伏しているミノリの仲間を守るためなのだった。
「あわわわわ!! 許して、ねー様! ふしゅん!?」
「リートぉカぁ」
低く響く叱咤の声は、ミノリと同じか年下の少女のもつ響きよりももっと威厳有るそれだった。ミノリはその声を知っている。人は年齢によらず、経験によらず、ただ思いの強さと覚悟によりたどり着ける場所があると、ミノリはたしかに知っていたはずだ。
「はいっ!」
「イズモ騎士団誓言! ひとつ!」
レリアの号令に、直立不動になった妹リトカが答える。
「ひとつ! 〈大地人〉と〈冒険者〉の絆たるべし!」
斜めにかけた鞄から、空き缶、小袋、小さなアヒルの玩具、棒、謎のカード、飴の入った瓶、玩具の仮面を放り出し。
「ひとつ! 弱き者の盾となり希望を運ぶ翼たるべし!」
緑の風呂敷、編みかけの帽子、木製の盾、折り紙の飛行機、両端にフォークの付いた食器を投げ捨てて。
「ひとつ! おやつは三個まで、帰るまでが遠足と心得るべし!」
半べそになりながら、子供用の楽器、胡椒挽き、豪華な筆箱、ミニチュアの馬車をひっくり返して。
「私たちモフール姉妹は――」
とうとう、卵の殻で作った小物入れを取り出したリトカは、そこから翡翠色の種をばらまいた。
「「心震える子どもたちの守護者たるべし!!」」
心怯えて足を止めた大規模戦闘指揮官の目の前で、〈古来種〉姉妹の声は唱和した。自分たちよりもレベルが低い〈冒険者〉を守るために、ふたりは立ちはだかったのだ。
全滅を先送りするだけの虚しい抵抗は戦闘時間を引き伸ばす。
戦闘開始から約四百秒を経過。
膝をつくミノリの前で死闘は無関係に進んでいく。
◆5.02
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は現れぬ。ここは汝らが失意の地なり」
「我らが姉妹の失意を先取りするな!」
それで威圧できると確信したかのような〈典災〉の通告を物ともせず、傷つきくたびれ果てたレリアが、今までで一番良い笑顔で叫ぶ。
「ドジと不運の第一人者、ポンコツ姉妹の姉の方! レリア=モフールは諦めない!」
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は現れぬ。ここは汝らの隔絶の地なり」
身体ごと回転する〈失望の典災〉の、ミキサーのような攻撃に巻き込まれた姉妹、跳ね飛ばされたリトカが、瞳をギュッとつぶってそれでも「〈冒険者〉はぴかぴかなの!!」と反抗の言葉を叫ぶ。
チームを組んだ召喚獣の〈歩行茸〉が胴上げのように姉妹をキャッチすると、リトカはなけなしのMPを削って〈森呪遣い〉の回復呪文を自分たちに投射した。
「リトカは冒険者さんと一番最初にこんにちはこんばんはおはようございますをする〈イズモ騎士団〉永世名誉皇帝?なの! リトカのお仕事をとると本当に怒るよ!! ねー様がっ!」
犬の子供のように、ひとかたまりのお団子となってゴロンゴロンと転がった姉妹は、ぱっと別れると指差していきなり言い合いを始める。
「リトカは私をどう思ってるの?」
「ねー様は怖い」
笑いあって、茶化し合って、モフール姉妹は戦場を駆けた。
多分勝てはしない。
姉妹はレベル六十五のソロ。
〈典災〉はレベル六十五の大規模戦闘モンスター。
考えるまでもなくその勝敗は決まっている。
目の前のふたりは二。比して敵戦力は最低二十四。
計算ではなく、ただ目の前の数字を読み上げた戦力比だ。
音の止まった灰色の光景の中で、エレイヌスの胸の紋章に光が蓄積され、どくん、どくんと心臓のように脈打ち、膨れ上がり、限界に耐えかねたように濁流となる。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象はすでに堕ちたり。その力を失い、地に伏せて腐りぬ!」
苛立ったような大音声に、その一閃する光線に、姉妹の返答はない。何かを叫んでいたかもしれないが、ミノリの耳には届かない。あたりが閃光で包まれたのだ。それは薄暮に沈んでいた会議室に現れた、殲滅の輝きだった。しかしその中で、ミノリが見ていたのは別のものだった。
姉妹が何を叫んでいたのか、叫びたかったのか、溢れ出した欠片がそれをミノリに教えてくれた。
まだ少し幼いシロエが、見知らぬ秘密基地でリトカにパンパンに丸くなった袋を渡していた。
絶望で瞳の光を失ったてとらも同じ袋を渡し、返答を聞いてさらに打ちひしがれていた。
なに食わぬ顔で最初から三袋を渡したクラスティ。
呆れた無表情でしたがう高山三佐。
同じ鎧を着た集団でぞろぞろとレリアをからかうアイザック。
笑顔でニコニコしているソウジロウ。ナズナや見知らぬ少女も秘密基地を訪れて、レリアとリトカに袋を渡している。
誰もが今よりも貧相で、地味な装備に身を包み、それでも明るい顔で手渡してくる。
憎まれ口なのか、冗談なのか、なかにはリトカに食べ物アイテムを押し付けてくるものもいる。カラシンは水晶球で画像を記録している。「祝! 初レイド!」なんて横断幕を掲げた、どう見ても弱そうな見知らぬギルドのメンバー。
全ては今ではなく、ここではない光景。
紫の光に射抜かれたモフール姉妹から溢れ出た虹色の欠片に映るただの記録。
しろしろはシロエなのだ。
てとてとはてとらなのだ。
ミノリはそれを言葉ではなく事実として納得した。
目の前で淡く空気に溶けてゆく水晶がこれ以上なく、ミノリの心に姉妹の思いを刻みつけたのだ。
〈冒険者〉は星。
シロエも、てとらも、クラスティも、アイザックも――名だたる〈円卓会議〉の偉人たちすべては、欠片の中でレベル五十だった。彼らだって過去のある時にはそうだったのだ。レベル五十九よりも力弱く、装備も恵まれてはいなかった。誤解を恐れずにいうならば、彼らは弱かった。
だがだからといって、ミノリの憧れが誤っていたわけではない。
姉妹が寿いだのは、彼らの進む道。
彼らはあそこから進み、今に至った。
欠片の中から見た現在は確定したのだ。
すでに起きたそれはゆるぎなく〈典災〉がいくら暗い失望に誘おうと惑わされることがない。なぜなら、彼らは今の彼らになり、ミノリはその彼らに惹かれたのだから。
彼らは進み星になった。
それが真実であるならば、
ミノリだってこの先に進み誰かの星になるのだ。
自分自身でさえ信じられないそんな奇跡のような当たり前を、信じて守り続けるのがモフール姉妹の役目であり、その導きの声はいまミノリに届いた。
ミノリが諦めない限り、シロエはいつでもミノリの先にいると、そしていずれはミノリも未来へ行くのだと、銀河のように回転する無数の欠片が声なき声で叫んでいる。
「……兄ちゃん……たち、レベル……ひっく」
「うん」
かすれて笑うようなトウヤの目にも同じ光景が映っている。
「……負けらんねぇ」
「うん!」
蘇生したての弟にミノリはありったけの回復呪文と障壁呪文を重ねる。立ち上がる相棒と並んだミノリは一歩を踏み出した。さっきまであんなにも遠かった敵との距離を今は近く感じる。
手を伸ばせば届くほどに。
一歩を踏み出せばたどり着けるほどに。
「無理すんな。まずは蘇生」
「そして立て直し。わかってる」
「任せてください!!」
意外な声に振り返れば、いつのまにか戦闘不能者の姿は移動し、壁際にまで退却させられていた。〈歩行茸〉とウルフちゃんが戦場から回収してきた戦闘不能者を、セララとゆぴあが立て続けに蘇生していたのだ。
「セララちゃん!」
「今回のチームは、〈回復職〉多いですから! 蘇生呪文使える人、たくさんいますもん!」
胸を張るセララに、ミノリは胸を打たれて泣きたくなる。
ミノリは指揮官をしなくちゃいけないと思い詰めて、攻撃力が不足してピンチに陥ったらどうしようと悩んでいたのに、セララはその同じチームの良いところをちゃんと見ていたのだ。
「ミノリっ。胸!」
「え?」
潤んだ瞳で歯を食いしばった五十鈴の激が目標を伝える。
「胸! あいつのっ。残響でも遅延でもない! これは唱和! もうひとり、そこに隠れてる!」
「「!!」」
陶器のような罅を見せた〈典災〉の胸部。その割れ目から覗くのはもう一体の〈典災〉だった。胎児のように身を丸めた有角の白い塊は〈憧れの典災 エレイヌス〉。
――レベル三十五。
もう大丈夫だ。
五十鈴が敵の仕掛けを見破ってくれた。詳しい仕掛けはわからないが、あのレベルの低い〈典災〉が今回の大規模戦闘の中枢なのだと、ミノリは確信した。
セララと五十鈴が頷いた。
先に勧めと、腕をぐるぐる回してミノリを励ましている。
もう大丈夫だ。
自分は走れる。走るだけでいい。
目の前から霧が晴れた。
視界が自由になり飛翔する。
すべてが色鮮やかになり、何気ない出来事が手を手を取り合い、その隠された意味を教えてくれる。
ミノリは解き放たれた思考のもたらす喜びに身を震わせて、巫女服の袖をはためかせ錫杖を打ち立てた。
「略式!完全管制戦闘っ!」
すでに表示されたAチームの六人六個のウィンドウ。その下にかかとを踏み鳴らし、Bチーム六人を追加する。顔を上げてCチーム六人を。手を掲げてDチーム六人を!
整列した二十四人のステータス。
満身創痍だ。
ヒットポイントもMPもガタガタだ。
しかし気後れも失意もここにはない。広間を満たすのは熱気と高揚感だ。
ミノリの左右に雄叫びが重なる。
まず最初に蘇生した〈回復職〉が仲間を癒やし、〈魔法職〉が強化呪文をとなえ、〈戦士職〉はモフール姉妹を守るために前線を押し上げる。誰に何を言われるまでもなく、いま心の命じるままに動きその動きが戦術となる。
ミノリが指し示す度にさっと人員が交代し、戦場は変化する。
勝てない戦いなら勝てるようにすればいいのだ。それを可能にするだけの仲間が今のミノリにはいる。相手の武器を潰せるものが潰し、その隙を貫ける〈攻撃職〉が後ろには控えている。
だからいま、ミノリはシロエと重なった。シロエが大規模戦闘で何を感じていたのか、眼鏡の奥の眼差しの思いをミノリは自らの気持ちとして理解した。
仲間たちが勝ったから、すでに事実として勝利したから、その因果の過去として、ミノリは勝利を号令できる。
あの微笑みは、驕慢でも策謀でもなく、誇らしさなのだとミノリはたどり着いた。
勝利をつかむ日は、今日こんな日だ。
「全員、紫のラベルの〈水薬〉を服用!」
攻撃の姿勢を崩さない仲間たちが荷物から出した瓶入り飲料を一斉に嚥下する。強い視線を〈典災〉にむけ、互いにかばい合いながら付与効果を重ねていく。
「あの光線は紫! 精神属性攻撃です。わたしたちのMPを抜き出して消耗させる範囲攻撃! 回避不能、抵抗力で勝負しますっ」
ミノリの指示にどよめきと殺到が答える。
突撃が始まった。
聖夜の小剣とぺこぺこピザの戦斧が叩きつけられるのが嚆矢だ。
嫌がるように振り回すエレイヌスの腕に、殴りつけるような鈍い音を立ててデス・ゲイザーの短矢が突き刺さる。
「敵対対象のレベルは六十五。十分射程圏内です! 私たちの先輩が打ち破ってきた数々の大規模戦闘と同じ。私たちに勝てないはずがありませんっ! 五十鈴さん!」
「待ってました!」
勇ましい曲が大会議室に響き渡る。支援専門職〈吟遊詩人〉《バード》。その楽曲の効果は大規模戦闘部隊全てに及ぶのだ。響く歌声は〈小さな貴石〉となって戦域を包み、仲間たちを守る。
「ミルキーさん〈レイザー・エッジ〉! 相手の防御を下げてください! 前衛一斉攻撃の準備をっ!」
「ミス・ミノリ! 歓迎の準備は完璧だ!」
ルンデルハウスが時間を掛けて作り上げた巨大な輝きの銀細工、中心部から花弁のように広がり、レースのような軌跡でもとへ戻る〈循環再帰型魔法陣〉。呪言で作り上げた放射状の魔法陣を圧縮レンズとして用い、広範囲殲滅魔法を単体攻撃ににまで収束する、熟練の魔法使いが用いる魔法技術。
範囲電撃呪文をその魔法陣に流し込んだルンデルハウスは、反動を制御しきれずに指先から鮮血を流す。それほどまでにこの技術は暴れ馬なのだ。
魔力を圧縮しきった爆発的な雷光は、一気に〈典災〉をつらぬく。だが、決定打には届かない。大規模戦闘ボスは通常のモンスターとは違う。数千倍の耐久力をさえもっているのだ。
「『失意せ』よ汝らの崇敬はも『はや』――」
しかしその一撃は、〈失望の典災〉のなにかを確実に傷つけた。動きの乱れたエレイヌスは頭を低く下げ、その双角に明るい炎を纏うと無差別に撒き散らかしはじめたのだ。
だが未来は揺るがない。
「〈神降ろしの儀・知恵の白衣〉!」
ミノリは温めていた呪文を開放した。
それは〈守護戦士〉の〈キャッスル・オブ・ストーン〉や〈付与術師〉における〈インフィニティフォース〉に相当する不破の力。そのクラスをクラスたらしめる、決定的で特別な呪文。すべての〈神祇官〉がレベル五十を超えると習得できるけれど、その対象は選べないという特殊召喚術。
ミノリが差し上げた手に、ふわりとした布が舞い降りてくる。ミノリの身体には不釣り合いなほどに大きい、雪花石膏のように白いマントコート。
裾を引きずるようなそれを空中で素早く翻すと、ミノリは袖も通さずに、巫女服の肩に羽織った。
その暖かさが、何よりもミノリを励ます。
「……似合うじゃないか」
「弟子ですから」
ちょっと不機嫌に響くアカツキに、ミノリは微笑みで返した。
精一杯の強がりだ。
この戦いは、もう終わらせなくてはいけない。
だって本当の決戦がミノリを待っているのだから。
気がついてしまったのだから。
「勝つぞ」
「はい!! 私たちの大冒険を聞いてもらうために! 〈四方拝〉! 守って、みんなを! さあ、みんな、最強の技を!!!」
今ならわかる。凛々しい横顔で叫んだアカツキも星なのだ。
ミノリの未来にあって輝いている。
その場所へ行くための覚悟をミノリはいま手にした。モフール姉妹が「いつかはそこへ行けるのだ」と励ましてくれるのなら、そのいつかは今日だ。
明日という日に、今日のミノリでいることはもうできないからだ。
「ウルフちゃん!」
「〈アサシネイト〉っ!」
傾いた天秤をミノリたちは二度と手放さなかった。
大規模戦闘ボスの武器攻撃の範囲を見切り、〈武士〉と〈武闘家〉はお互いの持ち味を活かした前衛を勤め上げ、その背後には無数の召喚獣に助けられたリトカが中衛型の万能役として援護を続ける。
広範囲の魔法攻撃のネタは看破した。紫の光線攻撃は回避不能だが、思い切り下がれば届くことはない。周期を計測して、〈回復職〉の半分を常に安全圏に退避させる。低下するMPは精神属性対抗の水薬で軽減する。
あとは火力だ。一気呵成の攻撃で、〈典災〉の膨大な体力を削りきる。
緩やかに、霜の落ちるように、一切の反撃を許さず、確実に。〈失望と憧れの典災〉のヒットポイントはすり潰されていった。
数百の斬撃と数百の魔法の果てに――。
戦闘開始約六百二十秒。
冒険者の都を襲った理不尽なレベル低下と〈典災〉の侵攻は、アキバに所属する若手冒険者有志の突発的大規模戦闘部隊によって鎮圧される。
ミノリたちは、勝利したのだ。
◆5.03
その日、〈大地人〉からすればアキバはどことなくそわそわした、浮ついた雰囲気に包まれていた。彼らにとっては何か変わったことがあったわけではなく、普通の目覚め、普通の挨拶、そして仕事が始まる日常の朝であり、しいて言えばいつもより雲が少なく晴れやかな日というだけであったが、どうやら〈冒険者〉にとってはそうでないらしい。
物々しい、というほどではないがそこはかとなく緊張の表情をもって、互いに言葉をかわし合ったり、普段より念入りに装備を整える〈冒険者〉が目立ったのだ。
そんな冒険者一行のひとりてとらは、いつものように直継にじゃれつきながら、アキバ中央の大広場までやってきていた。
ギルド会館前のこの広場は、やっと整備が終わって、〈大災害〉直後よりもずっと美しくなっている。あちこちに残る古代樹はそのままに、くちた倒木や廃車は撤去して、苔に覆われた地面はアスファルトを掘り起こし、くすんだ桜色と褐色のレンガで再舗装されたのだ。
色鮮やかな緑と苔に覆われた遺跡都市は、様々な生活設備が充実していることでイースタルきっての暮らしやすい街だと評判だったが、雨が降るとぬかるむ足元だけが不満の種だった。特に大通りはアキバの生活を支える大地人の馬車の往来も多く、幾重にも刻まれた轍は流通阻害の原因にもなっていた。
それも徐々に改善が進んでいる。
そうやって都市を整備することは、この異世界に骨を埋めることを納得してるように感じられてしまい、割り切れない住民も少なくはない。しかし、そういった人々も歩きやすくなった道に文句をつけることはしなかった。元〈ホネスティ〉の〈冒険者〉たちが暇つぶしにと、土木作業に参加した成果でもある。
「どないしよ、どないしたらええかなあ?」
おろおろと取り乱すマリエールに、困り顔の直継が「まあまあ、落ち着いてマリエールさん」となだめる。
「でもそないゆうたって、直継やん。うちの子たち、そんな大規模戦闘なんてまだ経験ないんよ。はじめてなんよ」
「おおー! いいですね。初めての大規模戦闘! 燃えますね!」
直継の肩鎧からにゅるんと顔を覗かせて、てとらはにっこり宣言する。幅広くて安定したこの場所は、目立ちたいてとらにとって格好のステージだ。
ギルド会館前のその広場には、多くの〈冒険者〉たちが集まってきていた。
彼らにすれば謎の事件の直後である。
眠りについて目覚めれば奇妙なゾーンに拉致され、わけも分からず戦いに巻き込まれた。統制の取れたギルドであればパーティー単位で行動もできるが、大規模戦闘部隊を形成できたところは大手戦闘ギルドでも稀だ。結果として、逃げ惑いながら個別に撃破された者が大半。
アキバに滞在している一万人強の冒険者。その殆どが二時間と保たずに戦闘不能となり、寝入った場所で目を覚ました。
夢ではない。それは低下した経験値が教えている。
「そんな気楽いうたかて……。まだレベル六〇いってない子もおるんよ」
残されたのはレベル六十五を境にしてそれ以下の〈冒険者〉だけだったようだ。
〈チョウシ防衛戦〉につづく夏季合宿からして、アキバは低レベル者のレベルアップには一貫して協力してきた。アキバ所属の冒険者において五〇レベル以下は存在しないという、一応の達成を見たのも記憶に新しい。そんなアキバにおいてレベル六十五以下という指定は、アキバで最も未熟な〈冒険者〉をほとんど名指ししたようなものだ。
結果論だが、そのレベル帯に該当する〈冒険者〉は〈円卓会議〉設立時に取り沙汰された悪徳ギルド〈ハーメルン〉に拘束されていたものが多く、当然その受け皿となった〈三日月同盟〉の若手が事件に巻き込まれていた。
「先輩のところのトウヤも、トウヤのお姉ちゃんも、元気に戦ってましたよー」
無邪気な声をあげるのは日だまりのように微笑むソウジロウだった。
「ボクもやられちゃったんで最後までは見てませんけどね。トウヤの部隊と、元〈ホネスティ〉の部隊と、ギルド会館で戦えてたのはその二つですから、どっちかが勝つと思いますよ。ねえ、先輩」
「レベル三十五のままでそこまで見届けられるソウジにびっくりだよ」
「僕の口伝は防御特化ですからね」
ニコニコとシロエに答えるソウジ。
肩をすくめるアイザックに、腕を組んだまま仲間の話に耳を傾けるウィリアム。この広場には〈円卓会議〉のメンバーが徐々に集って、ギルド会館を見上げている。
インスタントゾーンは別の空間として構築されているために、見上げている遺跡ビルが直接戦いの舞台というわけではない。あくまで複製されたダンジョンが存在するというだけだ。
しかし、とはいっても普段銀行やギルド業務に利用している、いわばアキバの心臓部と云うべきこの建築物が、事件の舞台となっているのだ。眼差しが真剣になってしまうのも無理はないだろう。
「みんな怪我してへんやろか」
「そんなの問題ないですよ。〈エルダー・テイル〉は発売当初、限界レベルは五〇レベルでしたし、当時はみんなその最高レベルで大規模戦闘やってたもんです。大規模戦闘のデビューはレベル五〇が相場ですよ。元服ですよ、ゲンプクー」
マリエールは心配なようだが、そんなことはないと思うてとらだった。小学生で大規模戦闘デビューなんて当たり前。子役だってそんなものだ。心配するほうがどうかしている。
「ええー。そうなん? それ常識なん? 直継やん?」
「あー。常識と言えなくもなくもないような……。こら、てとら。不安を煽ってどうするんだ祭り」
「直継さんとの大規模戦闘の絆をアッピールするんだぴゅん!」
「あ、あーっ! くっついた!」
てとらはこれみよがしに直継に擦り寄った。
高性能な〈エルダー・テイル〉ほっぺた(自前)が、むにゅんむにゅんと形を変えるのを存分に楽しむ。
「今頃気づいたんですかー。むっふーん。直継さんはボクのことがだーい……」
「断じてノー!」
「最後まで言わせてくださいよ!?」
途中で遮られて抗議を入れるのも忘れない。
「そもそも、この大アイドルてとらが育てたみんなですよ! 半端なボスなんてフェロモン一発メロメロにして瞬殺KOして流れ星に決まってます!」
負けたら負けたで再起を誓って大特訓すればいいだけのこと。
心が折れるなんててとらは微塵も考えていない。〈記録の地平線〉の家族はみな鋭い牙をもっている。ゾンビ上等。勝てぬなら勝てるまでやるのが狼の流儀だ。
そのとき、ギルド会館の黒大理石のような外壁が緑の光で縁取られ、次の瞬間には、正面のエントランス扉から、まだ若い少年少女たちが吐き出されてきた。
それと同時に、アキバに満ちていた強い気配がどこか緩んだ。青空から振ってくる虹色の粒子は経験値の返還なのだろうか? そんな光景は、どんな説得よりもはっきりと大規模戦闘の終了と勝利を告げるものだった。
「みんなあ〜!」
直継を巡って引っ張り合いを演じていたてとらとマリエールだが、マリエールはその光景にあっさりと争いを放棄。梯子を外されてたたらをふむてとらをひょいと投げ捨てて、〈三日月同盟〉の子どもたちに突進すると、両手をいっぱいに広げて抱きしめる。
もうそういう歳でもないのか、真っ赤になって嫌がる男子たちにもお構いなしに、ひとりずつ抱擁をするマリエールは、ヘンリエッタも呆れ顔の欣喜雀躍ぶりだ。
「勝ったよ!」
「大勝利!」
「勝ったですう」
小さなアシュリンを抱え上げて、ワルツみたいにぐるぐるし始めたマリエールの横を、〈記録の地平線〉の年少組はすれ違うように抜けてきて、シロエの前に集まった。
てとらも直継も、そして駆け寄ってきたセララに少し驚いたにゃん太も彼らを出迎える。
「勝ったなの!」
「勝利したぞ、ギルドマスター」
「勝ったぜー師匠〜!」
輝かしい笑顔で凱旋報告をしてくる仔狼たち。ふたりばかりはその表情がこわばっているのに気がつくてとらだったが、あえては触れなかった。
「〈失望と憧れの典災 エレイヌス〉レベル六十五、大規模戦、突破しました」
そのかわりといってはなんだが、ミノリの報告にばんざーいとジャンプして喜ぶ。本当は自慢したくてほっぺたをヒクヒクさせながら、意地になって無表情を保とうとしているアカツキと一緒にだ。
「待て、てとら。私は今回祝われる側だ」
「引率だったんだから固いこと言わないの!」
アカてと! とユニット結成を夢想してみるが、即座に構想を放棄する。アカツキは美少女だが愛想がなさすぎる。
「大丈夫だった?」
「シロエさんの攻略メモで編成、できました。〈三日月同盟〉のみんなとセララちゃんが助けてくれたから、〈典災〉との戦いも勝てました」
シロエの問いに、誇らしげにでもどこか固く表情を引き締めたミノリが答える。その姿は、汚れてはいてもこの一日だけでひとつ二つ歳を取ったように凛々しかった。勝利が彼女を育てたのか、それとも恋が彼女を育てたのか、てとらにはわからなかったし、そこを追求するつもりはない。
直継はマリエールと結ばれるだろうから、からかって遊んでも許されるが、ミノリやアカツキはそういう対象ではないのである。からかって遊んでいいのはシロエの側であって、本気の乙女は遊ぶものではなく、守るものだ。
もうひとり視線を落として思い詰めている五十鈴も気にかかるが、こちらはそれこそてとらの担当ではないだろう。からかうのは楽しいが、馬に蹴られる趣味はないのである。
「そか。詳しい話はゆっくり聴くね。いまは、おめでとう!」
気の利く誰かが金管楽器を吹き鳴らした。
――出たぞ! 確定だ!
――〈記録の地平線〉と〈三日月同盟〉の混成部隊だと!
――レベル六十前後だってよ。ひゃああ!
――ったく俺らの出る幕がないな。
古参の賞賛の言葉が雨あられのように降り注ぐ。
「やったな、嬢ちゃんたち」
「事前準備の賜物でしょうねえ」
「やっぱりミノリちゃん移籍しませんかグェっ」
生産系ギルドのリーダーは祝福に現れ、アイザックのような戦闘系ギルドもやや不機嫌に「やりやがったな」と背中をどやしつけた。
それは良くも悪くも、ランキングに殴り込みをかけた新集団に対する扱いだ。大規模戦闘の世界に飛び込んだ新人に対する歓迎でもある。
かつて〈黒剣騎士団〉も〈D.D.D〉も、さらには〈放蕩者の茶会〉もこんな声を受けて、大規模戦闘初勝利を飾った。
てとらもそうだったのだ。
「みんな。大金星だぞー!」
もみくちゃになってる年少組をそろそろ救出しようとてとらが近づくと「てとてとー!」と歓声をあげて、姉妹が飛び出してきた。恥ずかしげもなく耳をひくひくさせた姉妹はてとらにしがみつくと、得意そうに尻尾を揺らす。
「勝ったよー! 白ヘビ大王ががおーん! ってして、ねー様がいっぱいキックして勝った!」
「蹴り飛ばしてやりました!」
「むむむ、そうですか! やっぱりボクの教育がいいと勝利が転がり込んできちゃうんですよねー! ふふん! でかした! おめでとうだよ!」
「うん、てとてとのおかげー」
そうやって懐いてくれば可愛いものだ。
考えてみれば彼女らも〈狼牙族〉である。野生も威厳も残ってはいないが、狼と言えなくもない。
過去のいきさつ――ウロコ事件については未だに納得しきれない思いがあるものの、教え子の末席として認めてやろう。
てとらはそんな寛大な気持ちになっていた。
「だから、またウロコちょうだいねー」
「え?」
頬を紅潮させて、ちぎれるように尻尾を振った妹リトカは、にへらっと緩んだ笑顔でそんなことを告げた。
「大規模戦闘でねー、ウロコ使っちゃったの。十万枚くらい」
「十万枚……?」
「すみません。リトカが召喚の触媒に使ってしまって……。あ。その! 無駄遣いじゃなかったですよ? ちゃんと必要だったですよ……。たぶん……」
ほんと? とてとらが首を回して視線で問いかければ、トウヤやミノリ、五十鈴、ルンデルハウス、セララ、おまけにアカツキまで順番にこくん、こくん、こくんと肯定する。
「うんっ! てとてとまた集めてきてー。ちゃんと袋持って帰ってきたからー」
「え、あ……。ウロコ集め、再び?」
自分の膝がいつの間にか地面についているのを自覚したてとらは、目の前がグルグル回るような気分を味わう。
ポップ待ち。
抽選ドロップ。
討伐のための行列。
あれをまた、十万枚?
「あのねー、リトカもねー様もギルドに入るの、許してもらったのー!」
「シロエマスターが『自分たちでウロコ集めてくるなら、いいよ』って! てとらさんに連れてってもらえるということで」
悪びれない姉妹の申し出に、てとらはぷつんと何かが切れる音を聞いた。
「シロエさんっ!? 裏切りましたね!? ボクは銀河の一流アイドルなのにぃいい! シロエさぁぁぁん!!」
アキバに生まれた新しい大規模戦闘覇者を祝う音楽がながれ、気の早い誰かが祭りを宣言する明るい広場に、怒号と悲鳴が響き渡る。
アカツキが守ろうと、ミノリが妨害しようと、今日という今日、てとらはシロエに思い知らせてやらなければならないのだ。あの艱難辛苦、苦行の限界と言えるクエストを押し付けるとは何事か。家長としての慈愛はないのか?
謝罪しながら逃げ惑う丸眼鏡のギルドマスター。彼を追いかけるてとらの後ろを、新しくできたふたりの子分が楽しそうに真似をしてついて回る。
その光景は、アキバの住民にまた新たらしい噂を提供することになったのだ。