124
◆4.07
「目標確認、〈失望の典災〉! 単体パターン!!」
鋭く叫んだトウヤは大広間を一直線に駆け抜けた。中央にある巨大な円形のテーブルを回り込むこともせずに、地面を滑るように突出、その表面を滑り進む。机の上に土足なんてマナーが悪いが、今回だけは勘弁して欲しい。
会議の広間には、トウヤの二倍ほどの身長をした黒い魔物がいる。〈失望の典災 エレイヌス〉。肥大した上半身、地面につくほどにの膨れあがった腕の割に、下半身はさほどでもなく、巨人と云うには不格好な姿だ。
六十五レベルで、周囲にお供の姿はない。
ミノリから全員が事前にレクチャーを受けていた中では「単体パターン」と呼ばれているケースに該当する。
トウヤはいつもよりも軽い身体を感じながら一足飛びに太刀の間合いに入ると、唐竹割りに思い切り斬りつけた。〈兜割り〉は〈武士〉の攻撃特技の中でも威力において最大級のもの。普段の六人制戦闘では、むしろ威力とヘイトが高すぎて使いどころを選ぶものなのだが、大規模戦闘では話が違う。
これからトウヤは、この二十四人の第一防衛役を務めなければならないのだ。
普段よりもずっと攻撃力の高まったルンデルハウスよりも、アカツキよりも、その他の誰よりも敵愾心を稼いで、未知の強敵の攻撃を一身に惹きつけなければならない。そうしないと、攻撃が仲間に流れて戦線は崩壊する。
その強いプレッシャーをむしろ心地よく感じて、トウヤは立て続けに技を叩き込んだ。
遠慮は無用だ。
開幕したこのタイミングで、大きくヘイトを稼ぎ安定させなければならない。
「〈浮舟渡り〉!!」
トウヤが叫ぶと、瑠璃紺の魔力光が引き伸ばされてその姿がぐにゃりと歪んだ。目で追いづらいほどの変則的な移動で、トウヤは〈典災〉の左脇に滑り込む。
頭上を追いかけてくるゴリラのような巨腕を太刀で跳ね上げるが、ダメージは免れない。免れないのだが、トウヤの胴体ほどもある腕とトウヤの間にミノリの〈ダメージ遮断呪文〉と、こももの〈反応起動回復〉が滑り込んでくる。どちらも敵の攻撃に反応してダメージを減らしたり回復する特技だ。追いかけてくる緑の明滅はリトカの〈脈動回復〉。
トウヤのAチームには〈神祇官〉、〈施療神官〉、〈森呪遣い〉という三人の〈回復職〉がいる。
性質の違う三種類の特殊回復の援護を受ければ、大規模戦闘クラスの恐るべき攻撃にも耐えられる。……はずだ。
トウヤは攻撃のリズムを途切れさせないように自らのステータスを確認する。
さっきのかすったような攻撃で、ヒットポイントは一割も減っている。〈脈動回復〉の効果でじわじわと回復していっているが、支援がなければさっきの攻撃だけで半分のヒットポイントがなくなっていてもおかしくはなかった。
難敵だ。
ばかばかしいほどに強い。
今のトウヤは普段よりもずっと防御力に優れている。
いつもの狩りであれば、〈神祇官〉と〈森呪遣い〉の二人からしか得られない防御的な支援呪文を、今は仲間たちからダース単位で付与されているからだ。動きのキレや五感だって、普段よりずっと良い
それでもなおこれだけのダメージを受けることに、トウヤは痺れるような感動を覚えた。
大規模戦闘なのだ。
にゃん太に引率されたこともあるし、シブヤの呼び声の砦には参加したから、はじめての経験というわけではない。しかし、こうしてミノリの指示で最前線の第一防衛役として立ち向かうのは、年長者の監督を受けるそれとは全く違った興奮をトウヤにもたらした。
例えて言えばそれはサッカーの公式戦だ。
しかもベストフォー以上の立派なフィールドで行う試合と同じだ。
手足の神経が切れてしまってバラバラに動いてしまいそうな、わけがわからなくなる緊張感を無理やり押さえつけて、トウヤは丁寧に戦う。
小さい駆け引きが大事だ。
相手が腕を振り上げる。
右足を一歩前に。
重心を沈めて重さを乗せろ。
そこで一閃、攻撃の入れ終わりに〈木霊返し〉。
すかさず〈武士の挑戦〉。
だがそんなトウヤの剣戟に怯むような敵ではない。気にもしてないような動きで、思いっきり拳を叩きつけてくるだろう。
トウヤはその攻撃に肩口から体当たりする。
頭部や刀の横腹などで受けてしまったら「事故」が起きないとも限らない。かと言って、完全に回避し切るのはトウヤの技量では無理だ。だから自分から装甲の厚い部分をぶち当てる。そうすれば、あとは〈回復職〉がなんとかしてくれる。
ほら死ななかった。
それを確認できたトウヤは次の攻防のために目を凝らす。
呼吸も大事だ。
こういう試合ではあっという間に体力が切れる。普段よりずっと疲れるのが早い。
呼吸だ。ちゃんと息を吸わないと、すぐ動けなくなる。
トウヤが開幕、〈典災〉の左脇に飛び込んだのには意味があった。
ミノリから指示があったわけではないが、〈ラグランダの杜〉や数多い狩りの経験から学んでいたのだ。戦いの師、直継の真似でもある。
黒い巨体を持つ〈典災〉はトウヤをもっとも厄介な敵だとして怒りもあらわに攻撃を重ねている。そのために、戦闘開始時よりもその位置は移動し、大広間の入り口には脇腹を晒すように横を向いているのだ。
それは、入口付近に陣取った〈妖術師〉たち遠距離攻撃陣に無防備な側面を向けることであり、事実、氷や炎の豪雨が〈典災〉を滅多打ちにしていた。
アカツキたち〈暗殺者〉も白刃をきらめかせ、背後からの攻撃を繰り返している。
トウヤはそれが可能な位置までレイドボスを誘導したのだ。
もし直継がこの開幕を見ていたら、満点と評してくれただろう、それは優秀な立ち上がりだった。
だがそのまま一挙に削りきって終了、などというような容易い戦いは存在しない。
一番の至近距離にいたトウヤは真っ先にそれを感知した。〈失望の典災 エレイヌス〉は獣のように四つん這いになると、全身を震わせて力をためたのだ。
トウヤは太刀を構えて防御姿勢を取った。
何かが来る。
しかし、何が来るかはわからない。
初挑戦の大規模戦闘特有の情報不足だ。それでも、身構えられたトウヤはまだ僥倖だったのだろう。目の前に光の爆発が広がって、経験のない衝撃を受けたあともなんとか二本の脚で立っていられたのだから。
「おおおおおお!!」
トウヤは雄叫びを上げて〈典災〉につっかけた。
別段、何か勝算があって仕掛けたわけではない。大技を仕掛けられたので、舐められてたまるかと、考えるまでもなく反射的に攻撃をしただけだった。
しかしその咆哮で気を取り直した仲間もいたに違いない。
「〈森呪遣い〉は〈全体脈動回復〉を! デバフ解除は各自〈水薬〉使って」
「ミノリちゃん、〈戦闘不能〉四!」
「〈蘇生呪文〉!! 〈施療神官〉が優先でキャストっ。チームAは第一防衛に集中、後背は後背にまかせてっ」
「火炎ダメージだったよ! みんなー。赤ラベルの〈耐性水薬〉飲んで! 急がなくていい、まだ来ない! リズム乱さないで!」
トウヤは後ろを振り向かない。
目の前にはエレイヌスがいるのだ。そんな隙を見せる訳にはいかない。だから、大規模戦闘部隊全体がどうなっているのかはわからない。でも、ミノリの声が響いているから大丈夫だろう。
乱暴にそう決めた。
ミノリが指示を飛ばしているから、大丈夫だ。
トウヤにできることは少ない。
また丁寧に攻撃をして、ヘイトを高めて、相手をじっと観察する。あのしゃがむ攻撃、あれはまた来るだろう。もう一度来たら、見破って、声を立ててやる。来るぞ、と警告の叫びを上げる。トウヤはそう心に決めて、目の前の攻防に没入した。
こちらが二回斬って、お返しに殴られる。
〈典災〉はときに両手を広げて回転するように近接している大規模戦闘部隊を跳ね飛ばす。それも大ダメージだ。第一防衛役は多種の防御呪文に三種の回復呪文で手厚く守られているが、他のチームの白兵攻撃役はそこまで硬いわけではない。
じりじりと時間が過ぎていく。
大規模戦闘のボスはそういうものだと聞いていたが、とてつもない耐久力だ。二十四人がかりでこれだけ攻撃を加えても、〈典災〉のヒットポイントは一割の半分も減っていない。
今はやり合えているが、勝てるかどうかはさっぱりわからない。だからトウヤは、勝敗も脳裏から追い出した。
だからというわけではないが、トウヤは単純になった思考でひとつの結論を得た。それは、閃きというか、思いつきというか、不定形の確信だったのではっきりとした言語化はできなかったが、あえて云うならば「こいつらは悪いやつじゃないな」という直感だ。
トウヤは目の前のエレイヌスを嫌いではなかった。
もちろん、敵だし倒す。それは変わらない。
しかし、だからといって憎しみをもっているかといえばそんなことはないし、嫌悪感もない。むしろ、この緊迫した綱渡りのひとときを共にする好敵手であるかのような、不思議なシンパシーを感じていた。
〈メイニオン海岸〉。
〈チョウシ防衛戦〉。
そして〈サフィールの街〉。
過去に体験した戦いに感じていた侵攻の意思に比べれば、目前の巨人はずっとマシな存在に思えた。特に西への遠征で見た、空を埋め尽くすほどの〈鋼尾翼竜〉の群れの絶望と、それに続く〈望郷派〉の怨嗟に比べれば、好もしいとすら感じられた。
とてつもなく難しくて、とてつもなく意地悪な試験の化身かもしれないが、憎しみの対象ではない。ミノリではないトウヤは、シロエのいう「世界の公平」をこの時その鋭敏な感性だけで嗅ぎ当てていた。
だからこそトウヤは勝ちたいと望んだ。
今感じたあやふやな理解のその先を、勝てば手に入れられるかもしれないと夢見たのだ。トウヤはその思いを素直に乗せて、〈一刀両断〉を解き放った。
戦闘開始六十四秒。
まだ戦いは開幕を経たばかりだ。
◆4.08
思ったよりもとてもまずいと焦っていたのは五十鈴だった。
チームCは後衛魔法攻撃を主軸とした編成で、陣地最後尾から高威力の攻撃を叩き込むことを任務としている。
今回の大規模戦闘部隊には魔法攻撃職が三人しかいない。しかもそのうちひとりであるアシュリンはレベル五十八とメンバー内で最も低く、チームAで周囲の援護を担当しているため、攻撃は期待できない。アシュリンは〈付与術師〉であり、〈付与術師〉というのはシロエに言わせると「攻撃職の募集に挙手したら周囲から怒られるくらいのダメ攻撃職」という評価である。つまり、もとから数に含めるには難があるのだ。
そして残り二人はともに〈妖術師〉のルンデルハウスとナギ。〈妖術師〉は魔法攻撃職の代表格と云うだけあって、その魔法攻撃力は十二職中最強だ。その二人をまるごと抱えたチームCは、大規模戦闘部隊全体の魔法攻撃を担当する特殊部隊と言っても良いだろう。
その一人、ナギが先程の広範囲火炎攻撃で戦闘不能になった。
さらにいえばチームの〈森呪遣い〉、tate脇も同時落ちだ。
戦闘中のそれは蘇生呪文で回復できるため、犠牲者が出たから、それで即座に壊滅というわけではない。幸いというか、今回の大規模戦闘部隊には回復職が多いため、蘇生呪文に不足はない。
戦闘不能には「戦闘不能の間一切行動ができず、戦闘参加人数が減る」という直接的なデメリット以外にも、様々な悪影響がある。蘇生したとしても経験値を失う、装備の耐久度が低下するなどだ。その中でも大規模戦闘において影響が大きい要素のひとつが、MPの喪失である。
戦闘不能状態から回復しても、戦闘不能になる以前のMPは、半分ほどしか取り戻すことができない。
回復呪文で比較的たやすく補充できるヒットポイントにくらべて、MPは回復が難しい。戦闘中に回復できる手段といえば〈付与術師〉の支援呪文か、〈吟遊詩人〉の援護歌くらいしかないと言われている。
五十鈴のそれは〈瞑想のノクターン〉だ。
普段からMPを底抜けに使う相棒のために、最優先で強化をした自慢の特技であり、その階級は〈奥伝〉だ。何を隠そう、五十鈴の特技の中で最もお金をかけたのもこれである。
しかし、だとしたところで、失われたMPがもりもり回復するようなものではない。戦闘中は減る一方のそれの負担を和らげるという程度のものだ。
卑下するわけではなく、それはそれですごくありがたいという言葉をルンデルハウスからももらっているし、事実強力な特技だとは思うのだが――戦闘不能で失われたMPを即座に回復できる奇跡では、決してない。
「MP低下、戦闘不能の影響でぇ!」
五十鈴は叫んだ。
自分ではどうにも解決できないし、そんなことを言えば誰かに解決できるとも思えないが、とにかく叫ばなければならないと思ったのだ。
大規模戦闘中の報告の仕方なんて知らないから、なんだか悲鳴のようになってしまった。声が震えるなんて演奏者として恥ずかしい。
「tate脇さん下がって付与呪文かけ直しを、ナギちゃんは冷気属性の単発呪文に集中して!」
ミノリの叫びが答える。
それしかできない、という指示だったが、それでいいらしい。
五十鈴はほっとして、周囲の仲間に声をかける。
「聞こえた? 焦らなくていいから立て直そ。ナギちゃん、射程ギリギリまで下がって。私の影でいいよ、盾にしてね!」
「あい!」
ナギは素直に従い影に隠れると〈フロストスピア〉の呪文で連続攻撃を開始する。すべての特技には〈再使用規制時間〉があるために、一種類の特技だけを連射すると、待ち時間が発生してしまうためダメージ出力は大幅に目減りする。
だが、ナギはあえてそれを選択した。多種多様な呪文を矢継ぎ早に送り込むにはMPが心もとないのだ。ナギは雀の涙ほどしか効果のない〈MP回復の薬〉をくぴくぴ飲みながら、消費の少ない補助呪文の組み合わせを必死に探している。
「死にゲ引きずってこい! 蘇生!!」
「なんでこんな軽装で突っ込むぅう!?」
他の戦闘不能者も蘇生が進んでいるようだ。
蘇生そのものは、多分、間に合うだろう。
五十鈴は悩んだ末〈シフティングタクト〉をアシュリンに投射した。〈再使用規制時間〉を短縮するこの特殊な特技は、迂闊に使ってしまえば対象のMP消費をふやしてしまう。素早い連打が可能になれば攻撃呪文をばかすか撃ってしまうルンデルハウスのようにだ。
でも相手がアシュリンであればその危険は少ないだろう。MP回復の呪文も――五十鈴は名前を覚えていないが、多分使ってくれると思える。
「四つん這いになった! 来るぞ、全体攻撃っ」
早い。
困る。
間に合わない。
トウヤの叫び声に、五十鈴は反射的にそう考えた。
まだ体勢が立ち直りきっていない。
ダメージを受けたままの人間もいる。
全滅はないにせよ、いまあの全体攻撃を受けてしまったら、また犠牲者が出かねない。本当は援護歌を〈虹のアラベスク〉に変更すべきなのかもしれない。そうすれば火炎属性のダメージに対する抵抗力が上がるからだ。だがその場合〈瞑想のノクターン〉を諦めることになる。それはできない。
この戦闘が始まる前、ミノリに頼まれたのはMPの維持と支援だ。白い炎の範囲攻撃は、悔しいが誰かに任せるしかない。犠牲者を出したくないという気持ちと役目を果たさなければという気持ちの板挟みで、重心が前にかかる。
そして五十鈴の願いはたしかに伝わったようだった。
「しろしろとてとてとの分、リトカがやるの!! 出てこい出てこい、ウロコのおへび! 今こそにょろにょろ大集合っ!」
最前線に飛び出した〈ポンコツ姉妹〉の妹は、両手に鞄を構えて振り上げると、それを思いっきり振り下ろした。いつも大事そうに抱えていた肩掛けの帆布鞄だ。遠心力ではためいたそれは、滝のような――比喩ではなく、正真正銘滝のような勢いで真っ白い欠片を吐き出した。
キラキラと輝く、白亜のウロコを。
豪雨のような音を立ててあっという間に小山を作るそれは、白い輝きのままにむくむくと大きくなり、立派な四肢を供えた二本脚で立ち上がる巨大なトカゲになった。
「蛇じゃないよ?」
思わず呟く五十鈴の声は、リトカの誇らしげな声で遮られる。
「行けぇい! トカゲ大王ぅぅぅ! ぼこぼこなの!!」
「トカゲって自分で言ってる!!」
トカゲは野太い牛のような叫びを上げると重量感のある動きで〈典災〉に突撃した。もうなんの動物かわからない。
巨大といっても見上げるほどではない。
身長は三メートルほど、〈典災〉とほぼ互角だ。リトカが身軽な動きで背中を駆け上がったトカゲ大王は、相撲そっくりな構えで、〈典災〉の腰をがっしりと抱きとめた。
ももう、ももう。
何を言ってるかわからないが(多分意味のあることではないのだろう)雄叫びを上げる緊張の数秒後、五十鈴は気がついた。
「四つん這い!」
「どうしたんだ、ミス五十鈴。コントはあの姉妹だけで十分間に合ってるんだが……」
「違うよルディ、あの〈典災〉、低い体勢で構えないと、角から火を出せないんだよっ!!」
「チャンスです、白兵攻撃は〈典災〉背後から強襲!」
五十鈴の叫びに一瞬の空白が訪れたが、いち早く事態を認識したミノリは指示を下した。聖夜や忍道などの手持ち武器を持つ攻撃陣が一挙に群がる。
「今のうちダメージを! トカゲさんに回復は……無理。出来る限り援護を!」
巨大トカゲ王はミノリたちの回復呪文の効果が薄いようだ。どんどんとヒットポイントゲージが目減りしていっている。それも無理はない。あのトカゲ、図体は大きいが本来は従者ランクのはずなのだ。その戦闘能力はどう見てもトウヤの半分程度。身体が大きいからエレイヌスの動きを阻害できている。それだけなのだ。しかし今は、それだけのことがとてもありがたい。
「大丈夫! トカゲ大王はウロコのパワーで絶対無敵なの!」
放り投げて広間の片隅に輝く小山を作った鞄から、リトカはいつの間にかせっせとウロコを運んでは、巨大トカゲ王の背中に貼り付けている。あれがどうやらトカゲのヒットポイントを回復する専用手段らしい。
いつのまにやら湧いて出てきた膝丈サイズの〈歩行茸〉《マイコニド》たちが一列を作って、バケツリレーでウロコを運び始める。なぜかウルフちゃんも混ざっている。
「ヒットポイントが怪しい人は下がって回復、魔法攻撃職はMP温存で効率優先!」
再起動した五十鈴は叫んだ。
貴重なチャンスだ。
いまは優勢に見えるけれど、〈失望の典災〉のヒットポイントは三分の一も減っていない。立て直し優先が正しいはずだ。
五十鈴が思い出していたのは体験した唯一の格上の大規模戦闘。シブヤでの攻防戦だった。あの激しい戦いの中、〈召喚の典災〉は二回も姿を変えたのだ。〈失望の典災 エレイヌス〉はあれよりもレベルはずっと低いけれど、このまま何もせずに倒れるはずがない。五十鈴はそれを確信していた。
「「汝崇敬の対象なりや?」」
突然〈典災〉が言葉を発した。
人形であるからその可能性はあったわけだが、今まで獣じみた動きだけを見てきたせいで五十鈴は一瞬、その言葉の出処を掴み損ねた。
「「汝崇敬の対象なりや?」」
リバーブやディレイというよりは和声のようなその響き。
意味について考えるよりも前に、エレイヌスは大きく両腕を掲げて、二つの拳を握り合わせ即席のハンマーを作り出す。
「っ! 〈護法の障壁〉」
「守って!!」
五十鈴の脇で戦況を見守っていたラディープが躊躇いなく〈神祇官〉最大範囲の障壁呪文をCチームに投げかけた。五十鈴やナギたちに半透明の壁が立ち上がる。
ミノリが同じ呪文を投げかけたのはDチームだ。〈神祇官〉をもたず、今最もエレイヌスに近接している攻撃職は、確かにそれで守られた。
〈失望の典災〉は振り上げた拳を叩きおろし、旋風のようにそれを振り回した。火炎ほどではないが広範囲攻撃! 漆黒の豪腕に大規模戦闘の仲間が、ゴム鞠のように跳ね飛ばされる。
「「汝ら崇敬の対象ならず……」」
やはり痛烈な一撃を受けたが、重量ゆえに踏みとどまった巨大な白トカゲに顔を向けたエレイヌスは言葉を続けた。
〈失望の典災〉に目鼻はない。
その顔は黒いビニールで覆われたように、不気味なのっぺらぼうだ。
しかし五十鈴ははっきりと視線を感じた。
エレイヌスが自分たちの一人ひとりを見つめているのを感じた。
ゆらりと紫色の燐光をまとったエレイヌスは、その拳をトカゲ王に突き刺した。先程までの拮抗が嘘のように、拳はトカゲ王の胸の中心を穿ち貫く。
「「汝ら崇敬の対象をもつや?」」
雰囲気の一変した〈典災〉からの攻撃に備えて、全身を緊張させていた五十鈴たちの耳に、新たな問が投げ込まれた。
ゆらゆらと紫の燐光を立ち上らせる巨体は、独特の重なり合う震え声で沈黙は許さぬとでも云うように詰問する。
「「汝ら崇敬の対象をもつや!?」」
その大音声は、エレイヌスの胸にある幾何学模様を輝かせると、周囲を一気に漆黒の闇へと塗り替えた。
驚愕と自失のどよめきが広がる中、〈失望の典災〉はとうとうその真の牙をむき出しにし始めたのだ。
戦闘開始百九十七秒。
戦いは中盤戦を迎えた。
◆4.09
――汝ら崇敬の対象をもつや?
その問いを耳にした時思い浮かべるのはなんだろう?
果たして大多数は尊敬して崇拝するような対象をもっているだろうか?
そんな疑問を浮かべたミノリは、無音無圧の突風のような何かを受けて、身を震わせた。衝撃波ではない何かが身体を通り過ぎて、心の一部が小さく砕ける。
「シロエ……さん……?」
ふいに浮かんだ困ったような表情の面影を探して指先を上げるが、ミノリから浮かんだ虹色は、不意に薄れて消えてゆく。
不思議な喪失感に襲われたミノリは、差し出した手のひらを見て、胸元を見て、そこに光る雫を発見した。
流した涙の意味もわからずに、それを視線で追いかけるミノリを、トウヤの叫びが打ち据えた。
「防御姿勢! 前を見ろ!!!」
ミノリはその声で必死に自分を取りまとめた。トウヤの叫びは特別だ。それだけは守るように、もう二度と手を離さないように、ミノリはその鍛錬だけは欠かしていない。こんな奇妙な異世界で、生き残るために必要だったと云うだけではなく、二人っきりの姉弟なのだ。
だがそれはミノリの思いでしかない。トウヤの叫びをぼんやりとした苦痛の表情で聞き流してしまう仲間もいる。何かが奇妙だ。正体不明の攻撃を受けている。
ミノリはとっさに錫杖を構えた。
混乱しながらもアイコンを追いかける。
なぜ戦闘中に気をそらしてしまったのか?
何らかの攻撃を受けたのだ。それ以外にはおもいつかない。しかし、周囲が影色に沈むこの部屋の中に異常なものは見当たらない。少なくとも敵の援軍ではないようだ。
「ガッ」
無理やり呼吸を吐き出させられた呻きをこぼしてトウヤがよろめき後退した。
真っ青な表情は、敵の一撃が尋常なただの打撃ではないことをミノリに教えた。障壁の欠片が、花の散るように剥がれていく。トウヤを守るために素早く呪文を更新しながらも、ミノリの危機感はとどまるところを知らなかった。
仲間が倒れている。
紗をかけたような青い薄闇につつまれた大会議室の中ではぱっと見ただけで十人ほどが膝をつき、あるいはぐったりと倒れている。
いまトウヤが受けた一撃と同時に、近距離の大規模戦闘隊員も攻撃を食らったのだろう。
それはメンバーのほぼ半数。壊滅といって良い状況だ。
「リトカさんっ。脈動回復を、もう一度!」
「ひゃう」
薄っすらと涙ぐんでいるリトカを励まして、ミノリは回復の指示を出した。続けてこももの反応起動回復を。トウヤが落ちれば陣形そのものが破綻してしまう。
しかしそんな祈りも虚しく〈典災〉のぬめるように黒い腕は疾走り、再びトウヤを捉えた。
「ああっ」
「とーやー!」
心配の声援も虚しく、トウヤは無様に転がる。明らかに動きがおかしい。今の攻撃も、普段のトウヤなら〈叢雲の太刀〉でうける。少なくとも〈武士の挑戦〉くらいは返すはずだ。
「師匠に……? なんだ、これ……?」
「「汝ら崇敬の対象をもつや!?」」
崇敬の?
「「汝ら崇敬の対象をもつや!?」」
見えた。
それは〈失望の典災〉の胸の紋章からほとばしる紫色の光線だった。極めて早いそれを回避するのはほとんど不可能だろう。指よりも細いその光線が、周囲を薙ぎ払うように一閃する。
胸の高さほどの光の扇が貫いたのは、幸い先程よりもずっと人数が少ない。というのも、その範囲内の仲間たちの多くは地に伏しているからだ。それゆえ、攻撃は彼らの頭上を駆け抜けたに過ぎない。
回避しきれない。
だからミノリは目を凝らしていた。
その光線が自分の胸を輪切りのように撫でていくことも、それが肉体的にはなんの損傷も与えないことも、すべて知覚していた。
「シロエさんっ」
そして理解した。
先ほどトウヤの周りに砕け散ったのは障壁などではなかった。それは厚さを持たない水晶の欠片だった。心に保存された時間の積層が剥離して砕け溶ける様だった。
シロエの思い出が、ミノリから漏れて、輝いて、儚く昇る。
「汝の崇敬の対象を理解し感取した」
「汝らの崇敬の対象を理解し感取した」
幾分多弁になった〈典災〉がこもったような音声でミノリに告げた。戦場を挟んで、ミノリと漆黒の巨人は見つめ合う。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は現れぬ。ここは汝らが失意の地なり」
「そんなこと……っ!」
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は現れぬ。ここは汝らの隔絶の地なり」
「それがなんだよっ」
ミノリよりも短気だったのはトウヤだった。
獣のような動きで〈典災〉に飛びかかるが、その動きには精細がない。連携もない。周囲には倒れ伏した仲間が傷ついたような瞳を向けている。
それは、無理だ。
ミノリはそう思った。トウヤの蛮勇では届かない。大規模戦闘なのだ。第一防衛役がしゃにむに突進しても、部隊の支援がなければ継戦できない。
「あああああっ!」
自分でもどこから出るのかというような声を張り上げて、ミノリは呪文を解き放った。〈千手法の秘儀〉で詠唱速度を加速させる。初手に選ぶのは〈石凝の鏡〉。すべてのダメージ軽減を増加させる防御系の大規模呪文。そこから激情のままに〈勾玉の神呪〉。
ミノリの周辺を飛び交う勾玉が発生し、増え続け、光の小流星となって敵へと向かう。
もう一度!
もう一度!
速度を増す呪文投射で〈勾玉の神呪〉を繰り返す。
錫杖を振り回し、みっともなく自分を鼓舞しながらだ。
「ああっ」
泣きそうな声が漏れる。
またあの紫の光を受けたのだ。
暖かくて優しいものが引き剥がされる痛みに心が震える。
――シロエと一緒に西洋箱柳の並木道を歩いた。
――真面目な顔で質問をして、メモを取った。
――鞄いっぱいにアイテムを仕入れて興奮した。
――屋台の玉ねぎスープをふたりで飲んだ。
キラキラと煌めきながらシロエとのデートが否定されてゆく。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象はすでに堕ちたり。その力を失い、地に伏せて腐りぬ」
嘘だ。
シロエはそう簡単に破れたりしない。
優しい表情で良かったじゃないかと毎日の報告を聞いてくれる。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象はすでに堕ちたり。汝らに助けはなくこの地に朝は訪れぬ」
嘘だ。
シロエは強いし、聡明だ。
ミノリが知っている中で一番強い人だ。
誰も助けてくれなかったどころか、存在を知ってもくれなかった〈ハーメルン〉の夜のなかに、ただひとり「助けるために動いているよ」と〈念話〉を届けてくれた人だ。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は力を失い我が前にひれ伏したり。汝らは全てから遠く薄暮の帳に包まれる」
周囲から光や音が遠ざかる。
必死の剣戟を繰り返すトウヤの姿が歪んだレンズで見るように奇妙なまでに遠く見えた。自分の体が自分のものではないような違和感にじわじわと心が苦しくなる。
あんなに練習した動きなのに、普段一緒に過ごしてきた五十鈴やルンデルハウスたちへの支援呪文も、もたつき、無様に失敗してやっと拙く成功する。
助けて欲しいのに、叫びがどこにも届かない凍りつくような諦観が、じわじわと手足を冷たくしていく。
ミノリの周りで薄れ行く欠片は、四月の桜のようだった。
風に待ってはらはらと舞い、空気に溶けてゆく。
その一片一片がかけがえのない宝物だから、ミノリは子供のように泣きたくなる。
「失意せよ。汝らの崇敬の対象は力を失い我が前にひれ伏したり。汝らは遺棄されたのだ」
ついに攻撃を投げ出して伸ばした指先の先で、ちょっと困ったような表情で頬を掻くシロエが映る欠片が、淡い光とともに消えた。
「「汝らの崇敬の対象は英雄たる位階を失ったのだ」」
嘘だ。
そんなのは嘘だ。
シロエはミノリの憧れの人だ。
声にならない叫びで胸が潰れそうになりながら、ミノリは視線で、それだけはしがみついても離さないという覚悟を込めて〈典災〉を睨みつける。
戦果に満足したのだろうか。
誰もが満足に動けない戦場を睥睨した〈典災〉は、腕の一振りのもとにトウヤを跳ね飛ばすと、ミノリに向かって一歩を踏み出した。
ミノリは動けなかった。視線が縫い止められたように離れない。
シロエを侮辱されたままは死ねないと、心が石のように固まって、身体は忠実に従ったようだった。他人のそれにように冷たく凝り固まった手足は、攻撃のためにすら動かない。
「シロエ先生は、絶対に……! 〈神降ろしの儀――」
目の前にまで迫った〈典災〉は遥かに巨大に見えた。
そびえ立つ死の壁だ。
その影に飲み込まれそうなミノリは抵抗の声を上げた。
叫んだつもりだったが、その声はかすれた呟きだった。
「「低い」」
だからこそエレイヌスの一撃にあっけなく遮られる。
何もせぬままに攻撃を受けて、無様に倒れ伏す。
だがそれで済まさぬ仲間もいたのだ。
天井から降り注ぐような鋭い銀光が、影の世界をニ等分する。
音が遅れてやってくるような疾さでもって割って入った影は、その小ささにもかかわらず、巨大なエレイヌスを弾き飛ばし、ミノリの前に立ちふさがったのだ。
「主君は最初から、そんなに英雄じゃなかったぞ」
苛ついた、しかしそれでも鈴音のように凛々しい声はアカツキだった。一振りの小太刀を構えた少女は〈典災〉に言い放った。メンバーの大半が倒れても、体力の大半を失っても、屈することのない姿はは歴戦の戦士と呼ぶにふさわしい。
アカツキは不敵な無表情で〈典災〉を睨みつけたのだ。
戦闘開始三百四十一秒。
戦いはついに終盤戦に突入する。