122
◆4.01
「ポンコツぅ!」
叫んだてとらが両手を思い切り広げて、姉妹を抱きしめると急反転を試みたようだ。
もうすでに広場には飛び出てしまっているてとらは、〈灰斑犬鬼〉の視界にとらえられているだろう。モンスターが〈冒険者〉や〈大地人〉にどの時点でヘイトを発生させるか、厳密にはわかっていないが、シロエは長い経験から、この距離関係では確実にてとらたちが補足されていると確信する。
身体は動いていた。
てとらは謝っていたがとんでもない。
シロエも、直継も、にゃん太も。その辺りに大差はないのだ。
「シザーッス!」
だがその角度を変えさせたたのは、鋭く発せられた若い声だった。
視線だけで確認したシロエは、直継に「四時ッ!」と方向を指示する。
長い付き合いの盾職は本当にありがたかった。余計な疑義を挟まず右方向に進路を変更した直継とそれに続くにゃん太は、大通り方向からやってきたウィリアムやリーゼとすれ違い、彼らを追ってきた犬に似た亜人の群れに突撃する。
最高速に乗った白銀の重戦士、ディンクロンはその直継とすれ違うように、姉妹を追いかけてきた一群に正面から突っ込んだ。
直継とディンクロンは、ハサミが中心で交差するようにすれ違い、互いの拘束すべきターゲットを交換したのだ。
シザースとは互いに異なる前線を持つ二人の〈冒険者〉、もしくはその一群が、互いの敵を交換する基本的な連携戦術だ。
少しでも心得のある戦闘ギルドであれば当たり前のように練習しているが、遅滞や遺漏なく引き継ぎを完成させるにはそれなりの習熟訓練が必要となる技術でもある。
〈奈落の参道〉で共同作戦をとった直継とディンクロンは、一分の隙もない交差と〈ヘイトエクスチェンジ〉で連携を成立させたのだ。
状況は悪い。
ちらりと見ただけで、ウィリアム一行のレベルも自分たちと同じく三十五であることは明らかだ。シザースを成功させたところで、ほとんどなんの意味もない。シロエたちが四人に迷子が二人。ウィリアムたちも四人。大した時間をかけるまでもなく十の躯が転がることは避けようがない。
シザースをする意味なんてほぼゼロである。
だが、だからこそシロエは一抹の期待をしたし、それはすらりとした脚で駆けつけた金髪の少女軍師の確信に満ちたうなずきによって報われた。
リーゼがシロエに投げてよこしたメモの内容を〈冒険者〉特有の視力で一瞥ざまに、シロエとリーゼは同時に叫ぶ。
「「〈キャッスル・オブ・ストーン〉を!」」
それは〈守護戦士〉を代表する防御特技。
現在レベル三十五であるシロエたちは六十五であるモンスターの攻撃にいくらも耐えられない。直撃を喰らえば、一撃かどうかはともかくとして、二三回の攻撃で戦闘不能になることは間違いない。
それは攻撃を受けるものが防御的な特技を用いようが、シロエが防御に対して付与呪文を投射しようが、あるいはてとらのような〈施療神官〉が回復呪文をかけようが、大差はない。それらは同じレベル帯の敵に対抗するための技術であって、三十も上のレベルのモンスターの攻撃を封殺するためのものではないからだ。
しかし、中には例外も存在する。
〈守護戦士〉の特殊防御特技、〈キャッスル・オブ・ストーン〉がそれだ。全身を大理石の輝きで包むこの防御特技は、十分という長い〈再使用規制時間〉から連発はできないものの、最低十秒の間あらゆる攻撃から受けるダメージを無効化する。あらゆるである以上、レベル差さえも超越するのだ。
シロエはほとんど一瞬でリーゼの作ったメモを把握した。
そこに書かれていたのは大規模戦闘ゾーンと化してしまったいまのアキバに登場するモンスターの種類や特徴、弱点、行動、戦術、そして可能性。
(すごいな)
それは〈エルダー・テイル〉攻略サイトの記事を担当していたシロエから見ても申し分のない情報だった。リーゼの考察や疑問点のメモも添えられている。
「足りますか?」
前置きもなくリーゼは尋ねてきた。
彼女のヒットポイントは四分の一を切っているだろう。頬には煤をこすったような黒い線。ディンクロンはもとより、遠距離攻撃職であるウィリアムやえんかーたんとも、汚れくたびれている。ここにたどり着くまでに、強敵がひしめくゾーンを踏破してきたのだろう。
質問の意味は「この情報で攻略可能か?」という意味だ。
ウィリアムはもとより、このリーゼという少女は名門〈D.D.D〉の作戦参謀、軍師の立場にあったのだ。その大規模戦闘経験は並の〈冒険者〉の及ぶところではない。
これだけのレベル差のある戦闘で勝てないことは百も承知だろう。命を落とすという結果も織り込み済みで駆け抜けてきた。それは、その強行突破で得られる情報が、この戦いを勝利に導くために有用だと――あるいは必須であると判断したためだ。
足りるか、という質問にはその万感が込められている。
同じ指揮官のシロエにはそれがわかる。
「〈大地人〉を見ましたか?」
「見てません」
シロエの鋭い質問にリーゼは間髪入れずに答える。
「戦闘不能者は? レベルは?」
「十数人、全て三十五」
その間にも、前線はじりじりと後退している。
不破の技〈キャッスル・オブ・ストーン〉は最低十秒の安全を保証する。直継やディンクロンは特技の等級を上げることで、その時間を延長しているし、装備品などでも特技強化はされているだろうが、二十秒までは届くまい。時間がない。
「逃げ延びた人は?」
「後ろ姿だけは見ました」
それを理解しているのだろう。ちょっと冷たく見えるほど整った少女の額に、薄っすらと汗が浮いているが、シロエは目的のものを入手した。シロエがここに至るまで行った観察、考察と合わせれば可能性は生まれる。
「勝てます」
勝ちます、ではない。
勝てる。あくまで、可能であるという段階。
だがシロエはあえて顎を引き頷いた。〈放蕩者の茶会〉時代は日常茶飯事だった無茶振りに対する受諾だ。シブヤの一件以来、悪い意味ではないが、あの頃のような受け答えが戻ってきているように思う。
おそらく、夢中で〈エルダー・テイル〉を楽しんでいた頃の熱量が、シロエの中で再び芽吹き始めたからだ。
「結構でございますわ!」
晴れやかな笑顔で答えたリーゼは、宴席に遅れまいとする淑女のような仕草で、大股に一歩進むとウィリアムへの援護を開始する。
「てとら! 〈パシフィケーション〉。その二人を洗濯」
「わかった。シロエさん」
心なしかてとらの返答も凛々しいようだ。
逃げ戻ってきたてとらの両脇には、レリアとリトカの姉妹が抱えられている。
洗濯というのは大規模戦闘用語でヘイトの除去を意味する。〈パシフィケーション〉という〈施療神官〉のヘイト低下呪文に包まれて、レリアとリトカは、また細くふにゃふにゃした声で泣いた。
「ひゃぁーぅ」
「ひゃぁーぅ」
ああそうか。
シロエは独りごちた。
何かに似ていると思ったが、その泣き声は、生まれたばかりの子猫や子犬のあげる、あのか弱い震え声だった。
「どうしたの?」
時間がないのはわかっていたけれど、シロエは地面に膝をつけて、てとらに抱えられたままの二人に話しかけた。この追い詰められた状況の中で、それは必要なことだった。
「ごめんねえ。ごめんねぇ。てとてと、しろしろぅ。リトカばかでごめんねぇ。見つかっちゃってごめんなさいなの」
「申し訳ありません、シロエさん、てとらさん。レリアがわるいんです。見つかっちゃったのはレリアなんです」
なんだそんなことか。
シロエは小さく笑った。
「ね、てとら」
「そうですよ。二人共ばっかですねえ。そんなこと気にしてると人気でないですよ! 銀河を股にかけるアイドルになれないですよ!」
そんなものになりたいかどうかはさておき。
涙に濡れてぐしゃぐしゃになったふたりは、しかし、そんなてとらの言葉が聞こえなかったように悔恨の言葉を続けた。
「ひゃぁーぅ。てとてとごめんなさいぃ。いっぱいいっぱい鱗なくしてごめんなひゃいぃ」
「……え」
不意の言葉に、てとらが息を呑んだのがわかった。
「みんなの鱗いっぱいなくしてごめんなさいなの」
「鱗いっぱいで、地下帝国にみんなが来てくれて、遊んで、楽しかったの……」
そのことではなかった。
鱗を無くした反省ではなく。
(しろしろに、てとてと……)
だとすれば。
「あの……。覚えてるの? ボクのこと?」
「お歌の上手なてとてと! 鱗いっぱいくれたてとてと! すぐもってきてくれた! いつも歌ってた!」
姉妹は、この姉妹は、てとらのこともシロエのことも、つまり、あのクエストも、冒険のことも、覚えているのだ。
シロエは自分が何に衝撃を受けたか、わからなかった。考えてみれば、そんな可能性は当たり前のように存在するではないか。なぜこの姉妹が自分のことなど覚えているはずがないと思い込んでいたのか? その理由をシロエは説明できなかった。
ただ当たり前のように、そして頑なに、覚えているはずがないと信じ込んでいただけ。いいや、覚えているかもしれないという疑問さえ浮かばなかった。
それはおそらくてとらも同じで、その表情には、苦しいような、そして暖かさに触れたような、痛ましい表情が浮かんでいる。
忘れていたのは彼女たちではなかった。
シロエたちこそが、レリアとリトカを忘れ果てていたのだ。
その胸の痛みと、取り戻せた暖かさに、シロエとてとらは同じような感動を覚えた。
だが、まさにその問答でシロエはおそらく最後の鍵を手に入れたのだ。
「よく聞いて。レリア、リトカ」
シロエは二人に自作の冊子を押し付けた。こんなことになるとは思ってもいなかったけれど、それでもいずれ必要になると思って用意していた小冊子。そのページに、リーゼのメモを挟む。
走り書きは一行。それで十分なはずだ。
「二人にお願い。ミノリとトウヤを探し出して。五十鈴とルンデルハウスもだ。〈記録の地平線〉の若手に、この冊子を渡して」
シロエたちはもうすぐ負けてしまう。
それはリーゼとウィリアムたちが覚悟してたように、ことここに至っては不可避の決定事項だ。「タイムアウトっ」という叫びは、〈キャッスルオブストーン〉が切れたことを示す。直継が崩れれば、前線崩壊――そして間髪入れずに〈灰斑犬鬼〉が流れ込んでくる。
「仲間を守って。一緒に戦って」
シロエは〈古来種〉の姉妹に依頼した。
レベル六十五。
紫色の濁ったアキバの大規模戦闘において、ポンコツと呼ばれた二人だけは、その力を全く減じていなかったからだ。
◆4.02
「クソがっ」
まるで投下された爆弾のように、〈鷲獅子〉から飛び降りたアイザックは、その重量級の鎧姿にふさわしい気負いで落下し、全く勢いを殺さずに街路に着地した。
すり鉢上に石畳を砕いたがダメージは無視しうる。
たかが十メートルや二十メートル程度、弱体化さえしていなければ〈黒剣騎士団〉所属の〈冒険者〉にとって脅威でもなんでもないのだ。
頬を切り裂く風も両足に伝わるしびれも、アイザックの気を晴らしてはくれない。むしゃくしゃを叩きつけようにも、敵はいないのだ。
だからせめてもを求めて、アイザックは普段寄り付かない場所、すなわち〈水楓の館〉を訪れた。
目的はすぐさま達せられる。
日中は開かれている鉄製の正門をくぐり、前庭を通り抜けるスロープには、武装した〈冒険者〉が待機していたのだ。お仕着せの衣装はお揃いで、〈D.D.D〉あらため〈D3〉とやらの精鋭、おそらく教導部隊の出身だろう。
ピリピリしたその視線を受けただけで、アイザックは察した。
こいつらもいっしょだ。なすすべもなく敗退したのだ。
揃いの衣装を着た連中は、アイザックを案内しようともしなかったがことさら行く手を遮りもしなかった。
いくらも歩かないうちに、義手と無事な片手を胸の前で組んだ女王然とした一人の〈冒険者〉があらわれる。〈D3ーPG〉《プリンセスガード》の高山三佐。かつての〈三羽烏〉。ここに来れば会えるだろうと予想していた相手のうちひとりだった。
「よう。姫さんは?」
「無事です。いまは待機していただいています」
「そうか」
「〈大地人〉はアレには巻き込まれなかったようです」
アイザックは高山の言葉に頷いた。
そうだと思ってはいたが、確証が得られて肩の荷が下りた。
「いまマイハマにもレザを飛ばしてる。あっちに残した仲間の連絡じゃ、異変はないようだ」
「アキバだけ、ですね」
この〈水楓の館〉の前庭も異変の兆候はない。
まだ昼前のこの時間、整えられた生け垣や噴水に光差し込むこの場所は、あらゆる危険や不穏とは無縁の場所だ。正午に向かって徐々に温度が上昇しつつあるアキバの街は、今日も快晴である。
「〈D3ーPG〉はこの前庭で戦闘をすることになりました」
事務的で冷静な口調で高山は話し始めた。
「レイネシア姫および館の侍女を保護するために強引な移動後、戦闘になったのですが、館は無人でした。幾つかの証言を聴き込んだ結果、あの紫色の空をもつアキバには〈大地人〉は存在しなかったようです」
「おう」
「それに、戦闘で生じた被害がこの庭にはありません」
「てーと、一時的な空間か」
「おそらく」
インスタンスとは〈エルダー・テイル〉を含むMMORPGで用いられる概念だ。多くの場合小規模から中規模のダンジョンなどに適用される。
大規模なダンジョンや一般的なフィールドなどは通常ゾーンだ。これはそのゾーンに複数の〈冒険者〉が入った場合、そのゾーン内部には複数の〈冒険者〉が当たり前に存在する。
一方で、インスタンスゾーンは〈冒険者〉やそのパーティーが侵入する度に、そのゾーンが一時的に生成される。その結果、そのゾーン内部では他の〈冒険者〉パーティーに出会うことはなくなる。そうすれば中にいるモンスターとは戦い放題だし、宝物の取り合いをせずに独り占めが可能だ。つまりインスタンスとは一種の専用ゾーンなのである。
今回のケースは内部で他の冒険者と出会うことが可能だったようだから、特殊な例ではあるが、〈大地人〉が排除されていたことや、ゾーン内で発生した地形変化がこのアキバに適用されていないことから考えて、まず間違いなく一時生成だろう。
「俺らは練兵所で目覚めた。つまりは寝ている間に巻き込まれたみてえだ」
「私たちはギルドハウスからでした。同じく寝ている間かと。夜更かしをしていた仲間は、あの紫色のゾーンには入らなかったようですから確実でしょう」
「あんたから情報聞けて助かったよ」
アイザックは肩をすくめる。
尊大な態度ではあるが感謝は本物だ。
この場所に来れば、ギルド会館に行くよりも手早く情報が集まるだろうと当たりをつけて訪れたわけだが、その予想は正解だった。アキバに異常があれば、〈大地人〉を守るためにも、この〈水楓の館〉がギルド会館に伍する一方の前線司令部になるというのは、レザリックの正しい認識だったわけだ。
そうこうしている間にも二人組を作った〈冒険者〉が、館の侍女を伴って庭から何組も出ていった。
「徒歩で安全確認を急がせています。〈大地人〉は〈念話〉をもっていませんからね」
聞けば、出身地別のコミュニティがアキバの〈大地人〉には浸透しているとのことだ。
アイザックが思っていたよりも、ずっとタフで強かであるらしい。
(まあイセ公の姉貴なんだからそりゃ目はしもきくか――)
「こっちにいましたか。どうです、姫は無事ですか?」
飄々とした態度で歩み寄ってきたのはカラシンだった。
周囲の〈D3ーPG〉が毛羽立った気配を向ける。それはアイザックを追ってきた〈黒剣騎士団〉も同様だ。
「そう怖い顔しないでくださいよ。気持ちはわかりますけど」
カラシンは困ったような半笑いを浮かべた。
「お前んとこは戦闘系じゃないからな」
「ええ、おっしゃるとおり。あっという間に蹴散らされました」
蹴散らされるという結果には大差がない。
差は、それに屈辱を感じるか否かだ。
「ギルド会館は?」
だがそれを言い合っても始まらない。
アイザックは話を変えるように質問した。
「帰還といっていいんですかね。連絡を取ってリストを作成中です。もう、かなり戻ってますよ。生産ギルドの中枢はほとんど、戦闘系ギルドも各個撃破されたのか、五月雨式ですね。なにがあったのか聞き取りも始まってます」
「〈典災〉だ」
「へ?」
きょとんとした表情のカラシンにアイザックは告げた。
黒く滑らかな肌をもつ異様な風体、巨大な前腕に、禍々しい角。胸の奇妙な青い文様は、時刻を表す魔法陣にも見えた。
「〈典災〉だよ。〈失望の典災 エレイヌス〉。レベルは六十五だ」
ぶっきらぼうな返事になってしまったのは、未だ敗北のいらだちが残っているせいだ。
「戦ったんですか!?」
「それを早く言ってください。重要情報ではないですか」
「そうか? 別に、どうにもなんねえだろ」
カラシンの言葉には邪険そうに手を降ったアイザックだが、高山三佐の言葉には皮肉ながら答えた。同じ戦闘系ギルドで同じ相手に敗れた共感がそうさせたとも言えるし、いずれにせよカラシンとは戦闘方面の信用が違う。
アイザックの投げやりな態度に目を細めていた彼女は、数瞬してから僅かに瞳を見開くことで理解を示した。
「……!」
「そうだよ。俺らはあのインスタンスから弾かれて、少なくとも当面はあそこに戻れない。再挑戦規制ってやつだ。そして、あの中にいる連中には〈念話〉を含めて連絡ができない。たしかに重要な情報かもしれねえが、必要なやつに届けることができないんじゃ、いま急いで話すことでもねえわけだ」
「必要な人間、ですか」
そう呟く女性レイダーの気持ちを、アイザックは察することができた。どうすれば勝てるのか? どうすればその糸口を見つけることができるのか、それを考えているのだろう。
大規模戦闘挑戦者ならだれでもそうだ。
アイザックだって、この瞬間にも、あの敗戦の理由と打開策を考えている。
「今回の〈典災〉はやっかいだ。強くはないが、俺たち〈黒剣〉じゃ勝てねえだろうよ。相性が悪すぎた」
そしてだからこそ、勝利が難しいことがわかる。
とてつもなく苛立つ認識ではあるが、一回それを飲み込まない限り先へは進めないこともまたレイダーとしての経験が教えてくれるのだ。
「〈D3〉は八方手をつくしゃいけるかもしれねえが、専用編成すんのにゃ時間がかかる。〈西風〉もダメだ。〈シルバー・ソード〉も難しいだろ」
「悪かったなあ」
強い声がかかる。
漂白したように枯れた金髪の若いエルフ、ウィリアムもここへとやってきたようだ。〈シルバー・ソード〉のメンバーを引き連れて威圧するような気を振りまきながら迫り、話に割り込んでくる。
「そんなこたあ、わかってる。だけど、大規模戦闘はそれだけじゃねえさ」
不敵に笑うウィリアムに、アイザックは少し感心した。
ただ闇雲に噛み付いて回るよりも多少は落ち着いたらしい。
「――どういうことだ?」
「私たちは伝えるべき人に情報を残してきましたから」
そのウィリアムの影に隠れていたボリュームある長髪の少女、リーゼが口を開く。
そういうことか、とアイザックは僅かにため息をついた。
〈シルバー・ソード〉とこの気の強そうな女は、どうやらあの奇天烈なインスタンスの中で、〈黒剣騎士団〉よりも大きな戦果を上げたらしい。
それは確かに手柄だ。
一般に大規模戦闘の功名争いは、討伐したモンスター、クリアしたゾーン、手に入れた希少な宝物で語られる。だが、それは周囲から見て成果が確認しやすく、比較しやすいからでしかない。アイザックたちのように大規模戦闘を専門で行う集団にとって、それはあまりにも大雑把な尺度だ。
ただ勝った負けたではなく、そこにたどり着くためには、様々な紆余曲折や試行錯誤があるものである。
敵の強み、弱み、やること、やらないこと。
地形や勢力、戦術の確認、物資の調達。
勝つという結果のために積み重ねるものがある。
〈黒剣騎士団〉と〈シルバー・ソード〉、そしてついでに言えば元〈D.D.D〉。アキバを代表する三つの戦闘ギルドは、今回の挑戦において等しく敗者となった。
同じ敗者ではあるが、しかし、ウィリアムとリーゼはそのなかで僅かな、しかし確かな働きをしたということだ。
それは大規模戦闘を外から眺めているような野次馬にとって、理解したり語ったりできるような差ではないが、アイザックたちにとっては看過しえぬ差異ではある。
「大手は軒並み全滅だ。可能性があるのは――」
アイザックは顔をしかめて言葉を濁す。
可能性のある連中はいる。
しかしそれはとてつもなく薄い。そもそも大規模戦闘なんて縁のなかったような連中だ。西へと去った糸目がそこまで下を鍛えていたとは思えない。〈黒剣騎士団〉へ短期修行に来てたような腑抜けは、すくなくともそうだった。
「更にその下か――?」
「下と言ってしまっていいのでしょうか?」
アイザック、ウィリアム、高山三佐、カラシン、そして済まし顔の軍師リーゼ。その五人が囲む話の中で、リーゼだけが何か確信を持つかのように薄っすらと微笑んだ。
「――シブヤの大規模戦闘でも、ちゃんと戦えていた子がいます。たしかに大規模戦闘の経験はレベルが低いと積みにくい。でも〈茶会〉の血脈は、やはりあるのだと感じました」
アイザックにはわからない。
が、わからないなりにも頷いた。
リーゼやウィリアムから見れば、まだあのインスタンスの中には逆転を期待できる〈冒険者〉が残っているということなのだろう。
「様子を見るしかないんでしょうねえ」
諦めたようなカラシンのつぶやきに、アイザックたちは頷いた。
「俺たちはな」
「待つのも、立派な大規模戦闘だろ」
事態はアキバに戻ってきたアイザックらの手から離れているのだ。あるいは、すべての高レベル冒険者の手からすら離れているかもしれない。
ウィリアムの言葉はある種の真理でもあった。
すくなくともいま、あの紫色の空の下で戦っているのは、アイザックではない。〈黒剣騎士団〉ですらないはずだ。しかしそれを責めるほど狭量ではないつもりだ。
ランキングは大規模戦闘の華である。アイザックたちが飛躍をするために、ライバルは欠かせない存在だ。
今この瞬間。
初陣を迎えている若武者がいるのならば、それはそれで痛快なことだと、アイザックは男らしい表情に笑みを浮かべるのだった。
◆4.03
ミノリたちのチームがこの事件の中である程度理性的に行動できたのは、言うまでもなく初期の情報量が多かったからなのだが、それを支えた要素はふたつある。
ひとつはミノリの蓄えていた多種多様な消費アイテムで、もうひとつの要素はアカツキの存在だった。
「今度は、〈風妖精の雫〉……」
ミノリは〈魔法の鞄〉から取り出した小瓶の蓋を慎重に緩めると、中のスポイトで薬液を自分の瞳の塗布した。
このアイテムは遠距離を見渡す力を使用者にもたらすが、それは視力が良くなるというわけではない、五キロメートル先の視界を与えるにすぎない。視界に直接望遠鏡をくくりつけられるようなものである。
「視界切り替わりました」
「周辺警戒は任せろ」
アカツキの保護に身を委ねて、ミノリは身体を縮めるような気持ちで、ギルドハウスの屋上からの遠距離偵察を続行する。
〈風妖精の雫〉は視界を切り替える魔法薬の一種で〈調剤師〉が作り出す消耗アイテムだ。調合レベルや素材が高レベルというわけではないのだが、そこまで需要が多いわけでもないので市場においてはなかなか目にかからない、珍しいアイテムだといえる。
ミノリが持っていたのはたまたまと言うよりは貧乏性のゆえで、珍しいアイテムを見かけるとひとつくらいはと買ってしまい、捨てることも苦手だという性格ゆえだった。MMORPGのゲーマーの中で、このような志向の人間は少なくはなく、聞いてみればシロエやアカツキも同じようで、〈魔法の鞄〉やギルドの部屋内にある〈アイテムボックス〉は、あちこちで集めた雑多な素材で溢れているのだそうだ。
ともあれミノリは先程から立て続けに使った視力確保系アイテムによって、温度視覚、移動視覚、追跡視覚、魔力視覚を次々と切り替えて実際には移動することなく情報収集に努めていた。
朝、目覚めて部屋の中で着替えをしていたミノリは、ギルドハウス内部の激しい物音でホールに飛び出したが、騒動の原因は結局わからなかった。
レリアとリトカ姉妹が寝ぼけたのかと思ったが、シロエを始めとした年長組が姿を見せないことから、すぐに何らかの事件が起きたのだと察する。〈念話〉が通じないことからそれは明白だった。
幸いにして、トウヤ、五十鈴、ルンデルハウスの三人とはすぐに合流することができた。四人で額を突き合わせて今後の行動を検討しているところに姿を表したのがアカツキであり、以降は情報収集を重視した行動をとっている。
「……〈冒険者〉の人、見えました」
「こちらでも見えてる」
ミノリはゆらゆらとエメラルドグリーンに燃える魔力光を瞳からたちぼらせながら、報告を続ける。
アカツキとミノリはたしかに同じものを見ている。大通りを南側に走って接近中の〈冒険者〉三人組だ。木々で時に隠されるが、追いかけるのは犬の頭を持つ亜人モンスターである。
しかし同じ冒険者を見ていても二人の視界はかなり違う。
アカツキから見れば、おそらくだが、それは豆粒のような、かろうじて人間だとわかる小さな影が移動してくる様子だろう。
しかしミノリの視界では、三人の装備や焦る表情、そして苔むした古代樹の街路を転げるように走ってくる姿そのものが手に取る用にわかる。
「……レベル三十五。全員一緒です。やはり不自然です――こんなに同レベルの〈冒険者〉がいるなんて」
「そもそもアキバには五〇レベル以下の冒険者はいないはずだ。〈円卓会議〉でそういう修行を指導してたんだから」
「そうですよね……」
もちろん、ミノリだってアキバの冒険者すべてを覚えているわけではない。遥か彼方を逃げている三人の〈冒険者〉が、例えばミナミやエッゾの方から流れてきて、アキバに到着した途端この事件に巻き込まれたという可能性は存在する。しかし、この二時間ほどの観察で見かけたすべての冒険者のレベルが三十五だというのは不可解だ。なんらかの仕掛けや攻撃の結果だと考えたほうが、よほど納得行く。
「ヒットポイント低下……。あの人たちも、勝てそうにありません」
「そうか……」
アカツキの声も硬い。
街中にあふれているモンスターというだけで気持ちが沈むのは、〈殺人鬼事件〉をくぐり抜けたアカツキであっても変わらないようだ。
数多く見かけるのは犬頭人身で様々な武器を持つ〈灰斑犬鬼〉と鉄錆色の翼を持つ蝙蝠、〈鎖吐蝙蝠〉。ほかには少数の|〈貪り食う汚泥〉。黄土色のヘドロの塊のようなモンスターだ。彼らのレベルは六十五である。その点から現在のアキバは六十五レベルの大規模戦闘ゾーンであると推定できるわけだが……。
「やっぱりシロエさんたちは」
「引き離されたと見るべきだろうな」
アカツキの言葉は苦い。
おそらくミノリもそうだろう。
遠距離に視線を固定しているため、鏡を見ることさえできないが、自分の声が少し震えているのは自覚できる。
「合流すべきですよね」
「……おすすめできない」
アカツキの返答に胸が痛む。
トウヤたちはギルドハウスの中で資材をかき集めている最中でよかった。風が強いこの屋上にはミノリとアカツキしかいない。
アカツキに尋ねたのは肯定してほしかったからだ。「合流すべきだ」と。でもそれが正解ではないことは、ミノリにだってわかっていた。
「レベル、下げられちゃったんですよね」
「おそらく」
アカツキは頷く。
二人共、先程から言葉が短い。会話が膨らまない。胸いっぱいにあふれてせり上がりそうな不安を必死で我慢しているからだ。長く喋ればそれが口から溢れてしまう。涙ぐみながら、その場にいるという理由だけで相手を責めてしまう。だから、こらえているのだ。
「わたしは今日の引率係だったから。昨晩からミノリに〈師範システム〉を使っている」
だから、と目を伏せるアカツキのレベルは五十九だった。
ミノリと同じレベル。
格下の〈冒険者〉とともに戦闘を行うために、相手のレベルまで自分のレベルを引き下げる。それが〈師範システム〉だ。ミノリとトウヤ、五十鈴にルンデルハウス、そしてセララ。本日狩りに出かけるはずだった五人のなかで最もレベルが低いミノリのレベルに同期したアカツキは、ミノリと同じ五十九レベルになっている。
だがその低下したレベルが、今アカツキが、そしてすなわちミノリたちが持つアドバンテージなのだ。
本来のアカツキのレベル、九十四に比べれば今のアカツキのヒットポイントも攻撃力も四分の一以下だろう。九十四レベルであれば、アキバを我が物顔でうろつきまわるモンスターを、薄紙を引き裂くように撃破できるに違いない。
しかし、もしアカツキが九十四のレベルを持っていれば、そのレベルは引き下げられおそらくだが三十五レベルに落とされてしまったと推測できる。そのレベルは、このゾーンの敵からみれば狩りの獲物というほかない。
アカツキはレベルを下げたからこそ、今このゾーンにおいては比較的その能力を保っているのだ。
六十五レベルのモンスター相手に三十五レベルの〈冒険者〉が対抗したり逃げ切ることは難しいが、五十九レベルの〈冒険者〉が逃げ切ったり忍びすれ違うことはそこまで不可能ではない。
朝一番で合流しそこねたのも、アカツキがギルドハウス周辺の警戒をこなしてくれていたせいだ。その実地偵察で幾つかの交戦と、シロエたちが逃亡した痕跡が見つかっている。
そしてそれこそがミノリたちがシロエとの合流を最優先するべきでない理由だ。
いま、シロエたちはレベルが下げられ、おそらくモンスターに追われている。そんなシロエたちに、助けてくれ、指示をくれとすがるべきではない。
もちろん、ミノリたちのほうがレベルが高くなっている現在、救援に向かうというのはひとつの選択だ。何らかの役に立つ可能性は十分にあるだろう。しかし、相対的にレベルが高いとはいえ、この大規模戦闘ゾーンでなんとか戦闘がこなせるといった程度の実力でしかない。追いかけてくるモンスターをマントのように引きずってシロエたちを探して回るわけには行かないのだ。
ギルドハウス屋上から長距離偵察を行い、もしシロエや知り合いを見つけたら、ピンポイントで救出するなり、連絡をつけるなりする。もちろんその間にも、今後の展開に備えて、ギルドハウスから物資をかき集め、出撃の準備をしながらだ。
それがミノリたちのたてた当面の行動指針なのである。
いまシロエたちはシロエたちのことで精一杯のはずだ。にも関わらず、闇雲に合流したいというのは、ミノリが自分自身の不安を抱えきれないからに過ぎない。
そんな気持ちの動きは、ミノリにもわかっている。
もちろんアカツキだってわかっているだろう。
だからあんな問答になったのだ。
「っ! レベル六十五! レリアさんとリトカさんです!」
一時間以上の間、神経の張り詰める監視を続けた二人は、ようやく目当ての情報の一つに触れることができた。
ミノリの視界にギルドハウスの客人となっていた〈古来種〉の姉妹が映った。朝からの騒動で姿を見失い、探していたうちの二人だ。雫系の目薬は、いくら魔法の品とはいえ目薬であることに変わりはない。いろんな方向へと視界を拡張してくれるが、聴力は変化しないため、二人の声は聞こえない。
二人は思い詰めたような表情で、しかし、はっと視線を上げると、ミノリの方を見て口を開いた。
距離は遠い。たっぷり二キロメートルはあるだろう。
しかし〈古来種〉の能力がわからないミノリにとって、それが遠すぎるとは断言できなかった。現にふたりは、ミノリを指差して手を降っている。
「行こう!」
アカツキも二人の潜む苔むした廃車を察したようだ。鋭く一言を告げると、ミノリの背中を叩き、その身体をビルの上から踊らせた。
ミノリもまぶたをこすって魔力の残滓を拭うと、ビルの縁に駆け寄る。〈記録の地平線〉のギルドハウス屋上、地上二十メートル以上から飛び降りるだけの度胸は、まだミノリには持てないが、隣のビルの崩れかけた昇降階段目指してであれば問題ない。その程度にはミノリも〈冒険者〉慣れしてきている。
〈神祇官〉としてさすがに〈暗殺者〉の身体能力には遠く及ばないミノリが、アカツキに数分遅れで追いついた路地の角では、周囲の視線に怯えるような妹のリトカと、それを庇うような姉のレリアが待っていた。
「ミノリ!」
「ミノリ!」
「アカツキ!」
「アカツキ?」
決心したような、奇妙に胸をつく切実さで確認を重ねる姉妹は、何よりも大事な宝物のように一冊の小冊子を取出すとミノリにそれを手渡した。
見覚えのある薄い抹茶色の表紙には、あとから書かれたような太い筆跡で「大規模戦闘入門」とある。最近シロエがまとめていた資料だ。内容は知らないが、その作りと色合いだけは覚えている。
「しろしろが言ってたの!」
「シロエさんからいいつかったのです」
二人の声はいつも通り幼いのにミノリの耳にはお告げのように響いた。二人の――〈イズモのポンコツ姉妹〉でも、高名な〈古来種〉の言葉でもなかった。二人が語るそれは、ミノリのよく知る響きを持っていた。
「この冊子を渡してって!」
「そんでもって戦ってって!」
大規模戦闘だ。
ミノリが戦うべきそれがやってきたのだ。
ミノリの最も信頼し敬愛すべきギルドマスターが、姉妹の口をかりて、いまミノリのもとへ訪れた。
薄っすらと光を放つようにさえ見えるその小冊子は、ミノリがこの先挑む冒険の、水先案内人だった。