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◆ Chapter5.04
もう一度、汽笛は長く鳴らされた。
船は女性に例えられるが、その中でも優美といえるだけの曲線を持った第二世代の〈火蜥蜴式内燃機関〉搭載船〈白銀のポダルゲー〉の汽笛。外輪式の姉たちと違いスクリュー式になり、船体は一回り小型化したが、性能そのものはかなり底上げがされた『彼女』は、貴人の移動を主目的とした御座船として設計されている。その〈ポダルゲー〉は用水路の河岸に身を横たえ女主人を掌中から差し出した。
レイネシアは複雑そうな表情で高山三佐に手をとられると、タラップから一歩を踏み出す。
光の帯を引いて空を舞う二十数頭の〈鷲獅子〉が高空から護衛する中、アキバまでの短い道中を召喚された〈一角馬〉の背に横座りして移動するのだ。
それは、ある種のパレードだった。
戦乙女の装束は、かつて戦場にむかったものと概ね一緒だが、短いケープには〈円卓会議〉の紋章があしらわれている。続く随行の旗も同じ紋章である。それは剣とスパナが交差する、ヤマトの貴族にはない意匠だ。
「その、なんといいますか」
「ご安心ください。大丈夫です」
「……丈が大丈夫じゃないんですけど」
「問題はありません」
私の羞恥心が大問題なんですけど。
そうはいえず、レイネシアは口元をムズムズとさせて、表情を取り繕った。本当は布団があったらかぶりたいのだが、場所はすでにもうアキバのはずれであり、人目もあるこの行列中、顔を伏せてはいけないということは、貴族の子女として十分にわかっている。
「ええ、大丈夫でございますよ……。本当に。バレなきゃよいのでございます……」
メイド服の上にケープを羽織ったエリッサが、高山三佐の〈一角馬〉の後ろから、愚痴るようにつぶやいている。貴族の文化をよく知るエリッサからみれば、この衣装は破廉恥極まりない卒倒もののそれなのだが、全面的な協力を約束した以上、反対もしがたいのだろう。「姫さまの嫁入りが……」とか「ちゃんとお育てしたのに……」などという恨み言が聞こえてきた。その言い振りだと、レイネシアがお転婆で、進んでこのような鎧を身に着けているように聞こえるので反論したい気分だ。
レイネシアの側付きとしてクスクスと笑っているのは〈D3−hub〉のリーゼと櫛八玉。そして新設された〈D3−PG〉の高山三佐。三佐の後ろには召喚馬に同乗したエリッサがいる。
川沿いの道を折れ曲がり、一行はすぐさま〈書庫塔の林〉方面からアキバにむかった。
事前に聞いていた予定通り、そのパレードは次々と参加メンバーを増やしていく。
まずアキバの入り口で真っ先に〈記録の地平線〉のシロエ。一行を連れた白衣の賢者が、レイネシアの後ろに入った。
大きな廃墟の立ち並ぶ商業地区では〈海洋機構〉のミチタカ。〈ロデリック商会〉のロデリック。
それぞれがギルドの代表的メンバーを従えて、レイネシアの後ろに入ると、列は徐々に長くなっていく。
〈西風の旅団〉のソウジロウは純白の衣装で、レイネシアの右後方に入ると、左後方のシロエに「先輩。準備万端ですね」と声をかけた。
〈RADIOマーケット〉の茜屋と〈三日月同盟〉のマリエールが大通りで列に加わり、どこからか柔らかい風がレイネシアたちの上を通り抜けた。
ざわざわと私語を交わしながら見上げてくるのは〈大地人〉たちだ。レイネシアは、手持ち無沙汰になって、微笑みとともに、小さく手を振ってみた。子どもたちが目を丸くして手を差し出してくるのは可愛いのだが、〈一角馬〉の前に身を投げ出してしまっては、と心配になってしまう。幸いにもお母さんたちが抱きしめて抑えてくれたので、大事にはならなかった。
レイネシアはそれを見て、胸の奥が締め付けられるような切ない気分になる。そういう光景が、なんだかひどく貴重に思われて、それを守ることの重大さが身にしみるのだ。
〈都市間転移門〉の広場には、予定通り大きな舞台が作られていて、先客が待っていた。
左には〈円卓会議〉の制服に漆黒の大剣を吊り下げた赤毛の男、〈黒剣騎士団〉のアイザック。
右には同じ制服をアレンジして身軽にした〈第八通商網〉のカラシン。
恭しく頭を下げるカラシンと、面倒くさそうに頭をかくアイザックの間にむかって歩を進めると、絨毯がひかれた即席の階段を、ゆっくりと上ってゆく。
あの日訳も分からずに連れてこられたこの舞台を、今日のレイネシアは自分の意志で進む。懐かしいような、怖いような、理不尽なような……なんだか言いがたい思いが去来する。だが、しかたない、とレイネシアは自分自身に微笑んだ。
この場にはあの見透かしきった眼鏡の妖怪がいないのだ、という不安と寂しさが、いまはなぜかレイネシアを支えている。もちろん隠れてしまいたいほど怖いけれど、同時にコップにほんの一滴垂らした蜂蜜のような優越感があるのも事実なのだ。
(貴方がいないアキバだって、わたしが戦うんですからね。恩に着て下さいますよね? 当然たくさん気まずい思いをしてくれますよね?)
そう思えば、勇気に似たような――勇気だとはまだ胸を張って言えないレイネシアのそれが湧いてくるのだ。
まだすくみそうになるレイネシアを励ますように、轟とばかりに突風が通り過ぎた。舞台を舐めるように通り過ぎた〈鷲獅子〉から長い髪をたなびかせたエルフの青年が飛び降り、口元を歪めるように野性的な笑みを浮かべるや、ひとつうなずいた。
「姫さんの護衛任務を引き継がせてもらうぜ。シロエさん」
「ありがとう。助かった」
片手をシロエのそれにうちつけた〈シルバーソード〉のウィリアムは、そのまま舞台の端に加わった。
〈都市間転移門〉。
脈打つような光りに包まれたそれは、舞台から見える広場の中で揺らめきながら多くの人々を吐き出していた。居住地はどこであれ、今日のところは投票可能な、アキバの民を。
再会を祝う声や、不安の声や、歓迎のざわめきにしばし耳を傾けたレイネシアは、ずっとそれを聞いていたいという誘惑を振りきって、息を吸い込んだ。
この街は薄闇に迷ってしまった。
それは別に、なんていうことのない、取るに足りない問題なのだ。
たったひとつ必要なのは祝福で、それがないからみんな不安なのだ。
母サラリヤと、カラシンと、リーゼにヘンリエッタ。そして白衣のシロエの難しい話を聞いて、レイネシアはそう結論した。みんな謙虚だから「それでいいんだ」という祝福を出来なかった。自分がそんなだいそれたことをしていいのかわからずに、他にもっと優れた人がいるはずだと互いに譲りあっていた。
みんなとても優しい人だから。
レイネシアは政治向きのことがわからない。
だから、それならわたしが言葉にしようと、素直にそう思った。
もちろんレイネシア自身も、自分がそんなことをする資格があるとは到底思えなかったけれど、これでも一応(もしかしたら今回のことで愛想を尽かされてしまい、絶縁になるかもしれないとはいえ)コーウェン家の子女ではあるし、周囲の人々はレイネシアをいろいろ買いかぶってくれている様子だったから、自分のことを棚上げすれば、そう悪くないのではないか? と考えたのだ。
誰も言葉に出来ないよりも、誰かが言葉にしたほうが少しはよいのだろうから。
「はじめましてのみなさん。はじめまして。私はレイネシア=エルアルテ=コーウェン。このアキバに住む皆さんの同胞です。この街に住む方々へはすでにご挨拶をしたこともあるかと思いますが、私はこの街で、〈大地人〉の皆さんと〈冒険者〉のみなさんの懸け橋となる仕事をさせてもらっていました。
ここ〈冒険者の街アキバ〉はヤマトにとってとても特別な場所です。
他の多くの街は私たち〈大地人〉が築き住まう場所ですが、ここアキバは〈冒険者〉の方々が築き、そして暮らす場所なのです。その場所に、多くの〈大地人〉を受け入れてくれたことに、まず感謝を捧げます」
すべての心温かき〈冒険者〉に祝福を。
レイネシアはここで言葉を切って軽く目をつぶった。
その仕草に打たれた大地人たちは、広場のあちこちで、もぐもぐと感謝の言葉を述べたり、手を合わせたりしている。その様子は純朴で、少しばかり滑稽だったかもしれないが、優しい光景だった。
「魔物にあふれたヤマトの世界において安全な都市というのは貴重なものです。――私は公爵という貴族の家に生まれ、その危険に巻き込まれずに生きてきましたが、この街で暮らす中で、皆さんがどのような思いでアキバに賭けたのかは少しだけ理解できるようになりました。アキバにやってくる〈大地人〉のみなさんが、この街でどれだけ大きな経験を詰むことが出来るか。それによって身を立てることが出来るか。わずかこの一年の間だけでも、多くの仲間たちが未来をつかみとって羽ばたいてゆきました。この街は〈大地人〉みなさんの夢をかなえる力が、あります。ここに集まった皆さんの夢も、エッゾやシブヤから、そしてやがてはイースタルの隅々からあつまった方々の夢もです」
すべての夢を持つ〈大地人〉に祝福を。
レイネシアは見た。
広場のそこかしこに、必死に瞳を見開く多くの〈大地人〉を。
彼らは何も持っていないから、こんなレイネシアの話の中からすら、将来へと繋がる「何か」がないかとすがっている。レイネシアはうなずいた。その希望はきっとかなえられる。この街には彼らの先輩が沢山いるのだ。
「しかし一方で、この街は〈冒険者〉の方々が作り、暮らす街でもあります。むしろ、それが主体なのです。この街は〈冒険者〉の皆さんが作り上げてきたもので、よそ者である私たちは一時的に庭先を借りた旅人のようなものなのです。
少なくとも、いままではそうでした。この広場にで私の言葉に耳を傾けてくれる〈冒険者〉の方々は、私達に快くその力と知恵を貸してくださった方々なのです」
レイネシアは言葉を切って、〈エターナルアイスの古宮廷〉を思い出した。あの瀟洒な庭園で、レイネシアは生まれたのだ。意地悪な騎士の介添えを受けて。
「とても幸運な出会いと援助がありました。最初はそのぅ……誤解や、高慢な要請もあったのですが、それでも〈冒険者〉の方々が救いの手を差し伸べてくれたおかげで現在があります」
底意地の悪い保護者を思い出して、首を左右に振ったレイネシアは、頼もしい友人たちを思い出した。何をしてよいか途方に暮れ、責任の重さに打ちひしがれた夜。黒髪の燕のような少女と出会った。
自分の無力に膝を抱えた後、頼ることの出来る友人たちに、頑張ってもいいのだということを教えられた。
「もちろん、一方的に助けてもらってばかりいたわけでもありません。農作物や木材、油、香辛料、鉱物など、私たち〈大地人〉がお手伝い出来たこともたくさんあります。〈冒険者〉のみなさんも、〈大地人〉のみなさんも、いまではこのアキバの大事な住民だと、私たちは考えています」
レイネシアの小さな不安を、赤毛の戦士とキツネ目の青年商人が打ち消してくれた。彼らがひとつ頷けば、広場にいる彼らの一門が、同意を込めて手持ちの武器を掲げてくれるのだ。
「しかし問題もありました。このアキバを治めていた〈冒険者〉による賢人会議〈円卓会議〉は、その構成者がすべて〈冒険者〉であったことから、〈大地人〉の皆さんの声を十分にすくい上げられないという悩みを抱えていたそうです。これは、〈大地人〉の皆さんの声を十分に届けられなかった私の責任でもあります。その問題にたいして、〈円卓会議〉は制度改革を行うべきとの結論に至りました」
レイネシアは言葉を切る。
〈円卓会議〉の新体制についての詳細説明を譲るためだ。
そもそもこんなに長く話すつもりはなくて、自己紹介をして挨拶をした後、レイネシアはシロエに演説をまるなげする予定だったのである。それを思い出して、彼女は頬が染まるのを感じた。
長い杖を舞台にコツコツと打ち付けて、白いマントの長身が視線を集めるように進み出た。〈記録の地平線〉ギルドマスター、“腹ぐろ眼鏡”のシロエだ。
「〈円卓会議〉は新体制へと移行します。いままではボランティアによる非営利組織という建前をお仕立てて責任も権限も薄くしてきましたが、流石にそのような状況ではなくなりました。セルデシアにやってきてから1年。地に足の着いた組織が必要な時期が来たのだと、〈円卓会議〉のメンバーは考えています。議長には〈D.D.D〉のクラスティ氏に変わって、レイネシア姫を迎えます」
ざわめきは決して大きくはなかったが、それでも潮騒のように続いた。
レイネシアは跳ねだしそうな鼓動を抑えて、努めてほほ笑みを浮かべ続ける。
意地悪で妖怪で要領が良くて黒檀のタンスみたいに巨大なクラスティに比べれば、自分の非才はわかるけれど、あからさまに失望されてしまったらそれはそれでショックをうける。そう身構えていたのだが、シロエの言葉は、レイネシアが思っていたよりはずっと穏やかに受け止められたようだ。
あるいはレイネシアが話し始めた時点で、みんなそういう予想を固めていたのかもしれない。
「〈記録の地平線〉〈三日月同盟〉〈RADIOマーケット〉〈西風の旅団〉は引き続き参加。〈海洋機構〉〈ロデリック商会〉も引き続き、生産面を担当して下さいます。〈第八商店街〉は〈第八通商網〉に改名。イースタルの流通安定の立場から参加。〈黒剣騎士団〉は本部移転の上、継続参加を決定しています。さらに」
けっして声を張り上げる事無く、流れるように丁寧なシロエの解説は続く。
「技術顧問としてリ=ガン氏をお招きしました。さらに都市運営の立場から〈供贄一族〉を代表して菫星氏を招聘しております。菫星氏には都市結界解除によって得られた魔力を流用しての、〈都市間転移門〉の運用も委託します。再起動に関してはリ=ガン氏および、ロデリック氏の尽力があったことも付け加えさせてください。ありがとうございます」
その紹介とともに演壇に招かれたのは、二人の〈大地人〉だった。
伝説的な〈ミラルレイクの賢者〉であるリ=ガン。
そして伝説そのものといえる〈供贄一族〉の菫星。
いままでヤマトの歴史に深く刻まれてはいても、政治の表舞台には決して顔を出さなかった両名を、シロエはどういう手段を使ってか口説き落としたのだ。「〈大地人〉を含んだアキバ及び周辺地域の自治」という名目が、ただの名目ではなく、本気で実施するという覚悟をレイネシアと〈自由都市同盟イースタル〉に示したのである。
「――ここに集まってくださった方のうち、ご存じの方も多いでしょうが、ご存知では無い方もいらっしゃるでしょう。今日はこの街、〈冒険者の街アキバ〉にとってとても重要な日です。そしてヤマトにとってはそれ以上に重要な日となるでしょう」
レイネシアはそのシロエの覚悟を思った。
〈冒険者〉は、優しい。
アキバに集う〈大地人〉は、健気だ。
もちろん中には歪んで利己的な人間もいるのだとは思うが、レイネシアの出会う人々は、運良くみんな善い人ばかりだ。中には、無口だったり、わかりにくかったり、陰謀家だったり、しつけが厳しかったり、要求水準が高い人もいるが、皆その心根は善である。善であるといいなと、思う。
二人の〈大地人〉を招聘したシロエのその考えは、多分祝福なのだろう。クラスティがあの夜〈鷲獅子〉の背中を許してくれたのと同じように。
二人は力があるので、その祝福はすぐさま周囲の景色を変えたが、力がないレイネシアがお返しをしなくていいということにはならないはずだ。
「アキバの未来を選ぶにあたって、斎宮家の認めたアキバ公爵アインスさまの率いる〈アキバ統治府〉と、わたしレイネシアを議長とする新生〈円卓会議〉のどちらが支持を集めるのか、投票があるからです。これはアキバの未来を決めるとともに、少なくとも東ヤマトの今後を占う、重要な投票となるでしょう。――難しいかもしれませんが、恐れないでください」
レイネシアは声を張り上げた。
すこしでも誰かにたどり着くように、ありったけの願いを込めた。
「みなさんの気持ちが、皆さんの未来を決めます! 私にとっては初めての経験ですが、それは、アキバの街に未来を夢見てやってきた皆さんにとっては、すでに一度くぐり抜けた当然のことのはずです。遠慮をせずに選んでください! そしてつかみとって、羽ばたいてください! 私たちは、結果がどうなっても、皆さんを応援し続けます」
アキバに問題があろうと、ヤマトに不幸が迫っていようと、そんなことはなんの問題にもならない。
気がついていないだけで、ここにいる全員は、その程度の危難は軽々と飛び越えてきているのだ。レイネシアから見れば、貴族も、平民も、〈冒険者〉も、〈大地人〉も、みんなすごいのだ。昼寝ばかりしたがる何処かの手抜き令嬢とはちがい、誠実で勇気がある。
みんな、本当は出来るのだ。俯いているなんて似合わない。
必要なのは、小さな応援だけだと、レイネシアは思う。
未来を夢見るすべての人々に祝福を。
レイネシアはそのためにここに立ったのだから。
◆ Chapter5.05
投票終了と開票開始は夜半になった。
即座に総数はわからなかったが、七万票を超えると両陣営は考え、事実その予想はかなりの精度だった。アキバを本拠地とするすべての〈冒険者〉や〈大地人〉にくわえ、予測されていた周辺地域の〈大地人〉が参加したのだ。そのうえ、大半の予測を裏切ってエッゾやシブヤ、さらにその北方の〈冒険者〉や〈大地人〉も参加していたため、票数は膨れ上がった。
開票は両陣営からだされた担当者が相互監視をしつつとなった。
ギルド会館の銀行前大広間は臨時で接収され、厳重な警備で物々しい雰囲気となり、そこで投票に使われた二色のメダルが数えられる。正確な割合はわからなかったが、ざっと見た限り「思ったより拮抗しているな」というのが、声に出さない関係者全員の思いだっただろう。
見ただけで勝敗がはっきりわかる結果だろうと考えていたアキバ公爵アインス陣営のショックは小さくなかった。
集計にはとても時間がかかりそうなことがすぐさまわかった。
選挙委員の経験など、両陣営殆ど無かったのに加えて、不正防止のために両陣営の係員が同時に、一つ一つの投票箱をチェックしていくという方法を採用したからであり、このペースで行けばおおよそ丸一日は時間が必要だと誰もが考えた。
そう考えていた夜明け、事態は急速に動いた。
アキバ公爵アインスが〈アキバ統治府〉の設立を断念したのである。
――さんざん巻き込んでおいて、ここで撤退?
――ふざけんなよ、クソ糸目。
――結局あたしらを助けてくれる気はなかったんだね……。
――守ってくれるんじゃなかったの?
――アインス様に全財産賭けて販路を確保したのに!
――もうおしまいだっ。
――〈妖精の輪〉も〈統治府〉も捨て逃げかよ。
――ミナミから金もらえりゃなんでもいいんだろ?
――ギルメンを捨て駒にしやがって。うまい汁は自分だけか?
――アキバ公爵がアキバ捨ててどうなるのよさ。
そのニュースがアキバを駆け巡るや、アインスに対する期待は百八十度反転して、街は騒乱に包まれた。〈大地人〉の多くはこの決定を「アキバはヤマト皇族に見捨てられた流刑の土地となった」と受け取り、深く失望した。
しかしアインスに対する侮蔑と怒りがより強いのは〈ホネスティ〉のギルドメンバーだった。自分たちの地位を向上させ、良い生活を約束してくれたアインスは、結局〈円卓会議〉を破壊し、アキバの街をかき回した後逃走を選んだのだ。自分たちの居場所がもはやアキバにもないと感じたメンバーたちは、アインスを憎んだ。
側近たちはやむを得ない状況の変化を訴えたが、「アインスを擁護する火消しの犬」と蔑まれ、衛兵の自動出動もなくなったアキバの街で暴力事件が起きた。
アインスに対する事情説明の要求という名の私刑もどきが何回も企画され、危険を感じたアインスと斎宮トウリ、マルヴェス、そして少数の側近や侍従たちは、拠点を転々とすることとなった。
「完全に街を敵に回してしまいましたな」
「すまなかったな。アインス」
意外にも沈痛な斎宮の声に、アインスは「いえ」と短く答えた。
拠点を移しているとはいっても、〈ホネスティ〉はかなりの大規模ギルドだったのだ。アキバで所有している物件は二桁に及ぶし、ここはその中のひとつ。それなりの調度は整った部屋である。
「予想できることではないでしょう。〈都市間転移門〉が起動するなど」
「うむむむ。あれだけは、まずいのである」
マルヴェスが歯ぎしりをして唸る。
「……ウェストランデは過去に実績がある。〈都市間転移門〉を利用してナインテイルの中心地、ナカスを侵略した過去がな。その体験があるゆえ、アキバが〈都市間転移門〉を手に入れたいま、自分たちの本拠地に攻め込まれるという想像を振り払えぬのだ。この状況では、我らはアキバを獲れぬ」
表面上は変わらないように見える斎宮は、それでも疲れをにじませた声でつぶやくようにそう述べた。
「我が権勢は未だに〈元老院〉の風下にある。〈元老院〉が自らの兵を費やすことなく〈自由都市同盟イースタル〉の勢力を削ぐという名目あればこそ、我の東征は黙認されていたのだが……」
〈神聖皇国ウェストランデ〉における斎宮家の立場は、それほどまでに危うい。傀儡として存続を許された斎宮家は、本来であれば一欠片の自由もないのだ。現在の状況は〈冒険者〉の登場による混乱と〈大災害〉が、弧状列島ヤマトのパワーバランスに与えた間隙をついたものである。トウリ本人の野心や見通しはともかくとして、〈神聖皇国ウェストランデ〉全体から見れば、それは危機感を覚えた〈元老院〉のはなった捨て駒まがいの一手に過ぎなかったのだ。
「〈都市間転移門〉が再起動したいま、トウリ様がこれ以上力をつけるのを〈元老院〉は認めぬということですね?」
「〈元老院〉と、それに連なるインティクスたちが、だな」
アインスの確認に斎宮トウリは苦く微笑んだ。
「〈都市間転移門〉を独占する|〈Plant hwyaden〉《プラント・フロウデン》は、われらが水運商人をも閉め出し、流通を独占するつもり。奴らに先んじてアキバの〈都市間転移門〉を手に入れる、これはまたとないチャンスだったのでは!?」
「投票に勝ったとしても、〈都市間転移門〉を自由にするには時間がかかる。ましてや技術者は〈円卓会議〉側にいるのだ。そしてその時間が我らには与えられまいよ。アキバを支配できても、ミズファあたりが出張ってきて我らは傀儡にされよう。……この地に住まう優しき民草の血を絞りとることになるのは、しのびない」
アインスはその言葉を咀嚼し、溜息をつく。
〈円卓の十一人〉だったアインスは、アキバのギルドマスターたちが〈都市間転移門〉を用いて侵略を企むとは少しも思っていないが、あちらから見ればそう見えても仕方ないだろう。
そしてそれ以上に〈元老院〉が恐れたのは、斎宮に――正確に言えば斎宮家の権力と結びついた新興勢力アキバに戦略兵器である転移装置をあたえること。アキバ公爵という首輪付きの郎党を増やすことは認められても、自らの権威の源泉である斎宮家そのものが飛躍することは、恐怖があるのだ。
「お気持ちは察します」
言いたいことはあったが、アインスはそれを飲み込んだ。
長い雌伏の時を超えて乾坤一擲の勝負に出たのは、アインスも斎宮トウリも一緒である。それが土壇場でひっくり返された無念は、多少は分かるつもりだ。
「しかし、これもあの白衣の賢者の謀略か?」
「このような偶然、そのようなことあるはずがありません」
「偶然ではないのでしょう、ね」
こめかみをほぐしながらアインスは応える。
「〈都市間転移門〉起動の鍵は大量のマナであるという報告は〈円卓会議〉でもなされていました。わたしはそのようなリソースは非人道的な手段でしか用意できぬと諦めていましたが……」
「ちがった、ということか」
「〈都市防御結界〉のマナ出力が――〈衛兵システム〉を失った、デメリットであったはずのあの事件の影響が〈都市間転移門〉再起動につながったのです」
どこから読んでいたのか……。斎宮の詠嘆に、アインスはしかし少し違ったことを考えていた。
敗着手は、おそらく〈アキバ統治府〉という名乗り、名前そのものなのだろう、と。
アインスは新しい統治体制を考えるに当たり、〈アキバ統治府〉という名を選んだ。それは、〈冒険者〉の街であるとはいっても〈自由都市同盟イースタル〉の勢力圏内に、ウェストランデの権力者斎宮家を導き入れることへの反発を恐れたからだ。
あくまでアキバという街ひとつの問題なのである。町の住民が街の行く末を選ぶのだ。そういう意思表示として〈アキバ統治府〉という名を、あえて名乗った。〈自由都市同盟イースタル〉への野心を持たない証明としてだ。もちろんその裏付けとして、コーウェン公爵家への挨拶も行ったつもりである。
その判断が間違っていたとは思わないが、その一方で、そういう判断をした結果、マイハマ領以外の東ヤマトのことを考慮から外してしまったのも事実である。
アキバの問題である、とアインスは〈円卓会議〉で宣言したが、シロエたちが何もそれに同調する必要はない。あえて言えば、アインスの勝手なルール設定だったのだ。
その隙を、突かれた。
シロエは最初からもっと遠くの、たとえばエッゾとの関係やシブヤの再生、あるいは広く東ヤマトの〈大地人〉全体――さらにいえば〈元老院〉や内部分裂しつつある〈Plant hwyaden〉のことさえ考えていたのだろう。そうでなければ、この決着は想定出来ないはずだ。
「……〈元老院〉の存在がトウリ様にとっても、私たち陣営にとっても、狙うべき弱点なのだとシロエ君は見通していたのでしょう。私たちは負けたというより、勝たせてもらえなかった」
「勝たせてもらえなかった、か。……負けるよりも、惨めだな」
返す言葉のないアインスは、小さく頷く。
「優しげな風貌に似合わぬ老獪な手を指す。あのような者が我が手にあればな」
「そう思います」
「……”東の外記”。そう贈り名しておこうか。我が手になくとも、その存在はヤマトにとっては重いのであろう」
軽やかな音を立てて扇子を閉じる斎宮に、アインスとマルヴェスは低い声で首肯した。普段は開け広げた態度のトウリだが、このような時の言葉には有無を言わせぬだけの威厳があったのだ。
「そしてアインス。すまぬな。その方に泥をかぶらせた」
斎宮は軽く頭を下げた。
それはこの世界の高位貴族としては破格な行動だったが、マルヴェスが泡を食ったようにたしなめるのを見ても、アインスはうまく反応を返せなかった。
斎宮が詫びているのは、結局アインスだけが悪者になってしまった点だろう。アキバの噂すべてを把握しているわけではないが、いま、アキバにおけるアインスの評判は最悪である。
裏切り者。道化。無能者。強欲で邪悪なギルドマスター。アキバを売り飛ばした売国奴。詐欺師。身の程知らず。
そういった悪口を、一番声高に叫んでいるのは〈ホネスティ〉のメンバーなのだ。シゲルや菜穂美といった側近以外のすべてのメンバーは、いまやアインスの敵に回った。
〈妖精の輪〉の探索という、徒労のクエストにギルドメンバーすべてを巻き込んで、アキバの転覆を企み、私腹を肥やすためにギルドメンバーを奴隷化し、アキバをミナミに売り渡そうとして失敗した男、アインス。
投票からたった二日で、一時は千五百名に迫っていた〈ホネスティ〉のメンバーは数十名を残すのみとなっていた。〈ホネスティ〉は事実上、滅びたのだ。
「いいえ。わたしが選んだことでもありますからね」
「そういうことだな。失った財は取り戻さねばならぬであろう? あろ? あろ? 再出発をするためにもイオの湖へ帰ろうではないか!」
全く空気を読めぬマルヴェスが、その不気味な顔をグイグイと迫らせてアインスに詰め寄ってくる。失ったのは信頼とギルドメンバーで、それを財と言い切られるのに苛立つアインスなのだが、考えて見れば、商人貴族としていまの立場を金で得たマルヴェスにとって、信頼も民も、財であるのかもしれなかった。そうかんがえてみれば、先の言葉は、この怪人なりの気遣いなのかもしれない。
「んー。イオはいい土地だぞ。酒もンまいし娘はいい匂いだ。お前には嗅がせてやらんが」というつぶやきが全てを台無しにしたのだが、アインスは苦笑で済ませた。
考えればこの一ヶ月で、一年以上の時間を生きたような気さえする。以前は激昂したような言葉を受け流し、我ながらしぶとくなった。
「そうだな。アインス。……付き合ってくれるか?」
「ええ。わたしが選んだことですからね」
アインスはうなずいた。アキバを離れる時が、来たのだ。
◆ Chapter5.06
このセルデシア世界において〈冒険者〉は死なない。
「死」はあるが、それはマナリソースの喪失と大神殿への移動であり、ペナルティではあっても生の終端としての「死」ではないのだ。
それゆえ、執拗な罵声を浴びせてきた〈冒険者〉たちも、ほんとうの意味でアインスにとどめをさせるとは考てはいなかった。彼らは彼らの中の苛立ちや憤怒のはけ口を求めていただけだったのだ。
それ故、そういった人々はアキバ近郊を境に姿を消し、斎宮とアインスたち一行は少人数でゾーン境界を越えていくことになった。
騎馬のまま胸を張り堂々と先頭をいくのはマルヴェスだ。何を考えているのやら、この一行の主は自分であるとでも言いたげな様子で先導している。その後ろには数人の護衛と荷駄馬車。少し間を置いて斎宮トウリとアインス。もちろん〈召喚馬〉に乗っての移動だ。
斎宮という言葉のイメージでは馬車であるとか輿がふさわしいのと思ったアインスだが、尋ねると「よせよせ。あんな老人臭い代物乗ってられるか」と拒否され、このような隊列となっているのである。
その斎宮とアインスの後ろには、わずかに残った〈ホネスティ〉の側近と大きなマジックバッグを装備した〈白色硬角犀〉が続いている。荷物運び担当だ。
早朝アキバの街を出発した一行は、〈エターナルアイスの古宮廷〉を左手に見て、午後過ぎには〈八の運河のハイコースト〉近郊にたどり着いていた。今回の旅で、マルヴェスの精霊船はヨコハマに待機している。夜までには到着したいが、もし不可能なようであれば野営も視野に入れているため問題はない。
会話は少ないが、さほど居心地の悪い旅ではなかった。
貴人の頂点といえる斎宮だ。今回の敗北で荒れ狂い、マルヴェスやアインスなどに当たり散らし、言いがかりのように斬首を言いつけるかもしれないとさえ考えていたが、それは杞憂だったようだ。むしろアインスたちを慰めるほどで、生まれ持っての血筋というものは隠せるものではないのだな、とアインスは妙な関心をしたほどである。
その鷹揚さと同情すべき立場の不安定さは、アインスが彼を助けるためにアキバを離れる決意をしたことと、無関係ではなかった。
神代に発展しきったこのセルデシア、そのなかでもひときわ廃墟の多いヤマトにおいて、陸路における旅とは、神代に整備された古道をたどることとほぼ同義である。関東圏に住んでいた者なら首都高横羽線と呼ぶであろう基幹道路――正確にはその廃墟である、高架道路が斜めに朽ちたその下道を、一行はさして急ぐでもなく進んでいった。
「何奴だ!」
「騒ぐなよ」
ぶらりと現れたのは、円卓のコートをまとった赤毛の戦士、アイザックだった。巨人に打ち砕かれたような巨大なコンクリートの円柱に腰を掛けて、一行を待っていたのだ。
「アイザックさん」
「そうカリカリすんな。見送りだ」
手を掲げてマルヴェスを制したアインスは、複雑な気持ちで口をつぐんだ。
最強ギルドの一角〈黒剣騎士団〉の主催ともあるアイザックが、アキバに残してきた元メンバーのようにアインスを罵倒するとは思えなかったが、だが、アインスはアイザックと親しくしていたわけではない。わざわざこんな場所にまで彼が来るような要件を思いつけなかったのだ。
「そうですか……」
フン、と鼻息を荒く鳴らしたマルヴェスは関係ないとばかりにさっさと街道を進んでいった。涼し気な視線をアインスに投げた斎宮トウリも、そのマルヴェスのとなりに並ぶ。
こちらを気にしてチラチラと振り返る護衛の後に続くように、アインスはアイザックと二人で最後尾を進むことになった。
見送りに来たのならば、何か喋ればいいものを、アイザックは相変わらず不機嫌そうな仏頂面で、気だるそうに戦馬に任せている。
生来的に波長が合わないのだ。
アインスはどちらかと言えば学者タイプで、理性と規律を重んじる。直感と反射で生きている労働者タイプである、あえていえば脳筋一族のアイザックとは所属するコミュニティが異なる。そのひつようもないのに威圧するような気配を四方に放つこの男とは、馬があわないのは当然だった。
短くない距離を会話もなく進んだ。
五月の午後の煌めくような海風が、雑木林の梢ををざざんと鳴らせば、地球世界のそれとは比べ物にならないほど美しい、青い海が廃墟の彼方に広がっていた。
「なぁ、おいアインス」
唐突に、アイザックが声を掛けて来た。
返事をする程でもなく、アインスがそちらに視線をやれば、アイザックは木々の隙間から見える海に目を細めているようだった。
「――俺の知り合いのお調子者がよ、言ってたんだ。『人間には、頑張って、頑張ったら、頑張ったねって言われる場所が必要だ』ってな」
それは、自分に言い聞かせるような、しかし独り言にしてはいささか大きな声の言葉だった。
「俺はさ、なるほどなっ、て思ったよ。たしかにそういう場所があれば、腐る奴なんて出ねえからな。そんな場所をたくさん作るのが大将の役なんだろうな」
ギルド名の由来ともなった巨大な剣を背負ったまま、アイザックは誰にともなく、確認するように、言葉を区切る。耳を澄ませば、夕暮れ迫る空の高みでは風が出たようで、ちぎれた雲が眩しく駆け去っていった。
「俺はよ、今回の勝負はお前の勝ちだと思うぜ」
弾かれたようにそちらを見るアインスの視界の中で、アイザックは海の彼方だけを見ていた。
「だって〈ホネスティ〉の連中は、いま、〈大地人〉を助けて、感謝されてるじゃねえか」
アインスは胸が詰まった。
崩壊した〈ホネスティ〉の元メンバーは、いま、アキバの街で〈大地人〉を助けているはずだ。あの選挙戦の一週間、彼らは街の人々を助け、流入する食い詰めた人々の受け入れに奔走し、食料や住居の斡旋で寝る暇もないほどだった。
そして、感謝されたのだ。
〈大災害〉から一年以上の間、だれとも触れ合わずくすぶっていた彼らは、アキバの街と初めて対面して、自分たちにも出来ることがあると悟って、これからはそういう生き方ができると考え、裏切ったアインスを罵倒し、いまあらためて、アキバの町の名も無き〈冒険者〉として、新しい〈円卓会議〉に協力しているはずだ。
そうでなければならない。
アインスがあれだけ望んだ夢なのだ。シロエを敵に回し、斎宮を巻き込み、アキバのすべてを騙してまで叶えようと思った願いなのだ。〈ホネスティ〉のメンバーが新しいアキバで幸せに暮らせなければ意味が無い。
悲しさと嬉しさで歪みそうになる表情を、アインスは前を向くことで必死に隠し通した。
「お前の勝ちだ。アインス。――同じことを言ってたシロエの、これは餞別だとよ」
口をへの字に結んだまま、アイザックは腰元の小型バッグから、筒状に結ばれた羊皮紙の束と、白銀のカードをアインスに投げ渡した。
ゾーン契約開放の書類と〈供贄の黄金〉を扱うための三枚のカードのひとつ。それは、この世界における最も得難い宝物だ。〈幻想級〉など足元にも及ばない、ほんとうの意味での秘宝だ。
言葉を失ったアインスは、それでも「これは」「どうすれば」と絞り出した。直視しては滲んでしまうのが明らかな視界をぎゅっと締め切り、アイザックに問いかけた。
「しらねえ。好きにすればいいと思うぜ。俺も好きにするしな」
だが帰ってきたのはぶっきらぼうで無責任ないらえだけだった。
それでよかった。
今の自分には優しい言葉も冷たい言葉も、毒にしかならないだろう。
ここにシロエがいたら詰ってしまった。クラスティがいたら呪ってしまったに違いない。
アイザックでよかったのだ。
淡い潮風に吹かれて長い影を引いたアイザックが、別れ際に残した最後の言葉はいつまでもアインスの中に残った。
「誰も損してねえ。これから幸せになるやつばっかりだ。――だからお前は、ギルマスだ。また会おうぜ」
西へ向かうアインスは救われた。
祝福はここにも、あったのだ。