105 円卓崩壊
◆ Chapter1.01
「待たせちゃったかな」
「そんなことはない、主君」
ちょっと背伸びをしたアカツキから和傘を受け取ったシロエは穏やかに笑う。柔らかい絹糸のような雨に包まれていたアキバは、しっとりとした空気のままに雨上がりを迎えていた。
「大降りにならなくてよかったね」
「そうだな。あまり道がよくないから」
何度か見上げてくるアカツキと二人、〈ロデリック商会〉の小さな研究ビルから出て、細い路地を歩き始めた。
ここ最近、アキバの裏通りはどんどん再舗装が進んでいた。倒木や廃車が朽ちていたとしてもそれらは撤去され、土や落ち葉が掻き出されているのだ。アスファルトらしき地層まで掘り返す工事があちこちで行われている。多くの場合は妥協して、砂利を敷き詰めた後に、レンガやタイルなどなどで設えられることが多い。
もとはといえば下水道への導管が詰まってしまい不便だという意見から同時多発的に始まった運動だった。今更驚くことではないが、高レベルの〈冒険者〉の膂力は十数トンの重量物でさえ運搬可能とする。これらの工事も、専用の重機を開発した大手ギルドが主導してというわけではなく、裏通りに店舗を構える零細の商業ギルドが、雪かきのような週末業務として進めてしまったのである。そんな経緯から、道幅の狭い裏通りは「自分の店の軒先」として整備が進んでいるが、大通りはかえって手付かずであった。
二人が通る道も、レンガが敷かれた小道は小さな水たまりすらなかったが、大通りへ出ると、黒土の地面には薄い水たまりができていた。
「んっ、んっ」
身軽な動きでそれを飛び越えるアカツキ。
問題になるほど深い水たまりがあるわけではない。
穏やかな雨が短時間降っただけ。お気に入りの編み上げブーツが汚れるのを嫌ったのだろう。
地面から突き出た滑りやすい木の根の上で、器用に半回転したアカツキは「優しい空気だな」とほほ笑んだ。
シロエも頷きながら「そうだね」と返す。
梅雨時といえば、なんだか雨が化学物質で汚れているような、灰色の印象が強かったシロエだが、それは都会の空気がそう感じさせていたのだろう。セルデシアにやってきてからの雨は、どこか優しく慈しみさえ感じさせた。
「どうだったのだ、作戦は」
「うーん、ぼちぼち?」
実態は全く進んでいないに等しいのだが、〈ロデリック商会〉との協力体制だけは確立できた。
当初計画では三十二メートル級パラボナアンテナ及びかなりの大電力が必要という話だったのだが、〈呼び声の砦〉の調査を進めた結果、設備は四メートル級のパラボナ及び新開発の八木アンテナで実験できそうだということで、方針が変更された。
現在計画の課題になりそうなものは、高精度のセンサーに必要な電子回路などだ。トランジスタラジオのようなものでは、当たり前だがだめらしい。それはつまり、巨大建築で資金が必要という当初計画から、規模はそれほど必要ないが技術革新が必要な方向にシフトしたということだ。そう考えれば、月との通信という意味では三歩前進二歩後退というそしりを免れない。
シロエはもう決意をしている。
地球とセルデシアに橋を架ける。その言挙げを済ませてしまった。
だから、その事業が長丁場になってしまうことは構わないのだが、それはシロエの覚悟の問題であって、いたずらに長引かせて良いことは何もない。
シロエは現在の平和について、ある危機感を持っている。
〈冒険者〉は確かに死なないが、それは世界がそういうサービスを提供しているからに過ぎない。そのサービスが未来永劫続くという保証はないのだ。〈大災害〉は終わっていないと、ロデリックは言った。
シロエの考えが正しければ、現在の状況は極めて不安定だ。
未来のすべてがそうである通り、それは白いページであり書き込みの自由がある。そしてそれは悪意の黒いインクで塗りつぶすことが可能だという意味でもあるのだった。この平和には、タイムリミットがあるのではないかという疑念がぬぐえない。
「主君。大丈夫だぞ」
「え? ああ……」
気が付けば、すぐ近くにアカツキがいた。
〈呼び声の砦〉の一件以来、護衛の少女は少しだけ落ち着いて芯ができたように思える。ギルドハウスにこもりっきりだった〈大災害〉直後よりも、出かける場所も知り合いも増えて、最近ではシロエがびっくりするような情報を持ってくることもある。
いまもそうだ。ふと目が合うと、生真面目な表情でうなずいてくれた。
その意味をシロエはいまだに察しかねているのだが、おそらく「任務了解」だとか「自信を出せ」というような仕草なのだろう。アカツキにはずいぶん救われているよな、とシロエは思った。心のメモ帳に追加だ。今度何か差し入れなどでお礼をしなければならない。
「あっ」
「……すまんな」
そんなアカツキを荷物で引っ掛けるようにして通り過ぎた団体があった。謝っていたので、アカツキもシロエも気を悪くしたわけではないが、その表情は曇ってしまう。
一団は六人のどこにでもいそうな〈冒険者〉だった。
鎧の上に雨具をつけて、足早に〈ブリッジ・オールエイジス〉の方向へと去ってゆく。おそらく中長期の冒険に出るのだろう。〈冒険者〉には〈魔法の鞄〉があるために、荷物の量でその旅の長短を窺うかがうことはできないが、昼過ぎのこの時間に出かけるというのは午前中を集まって旅の準備に費やす場合の行動だ。近場へ日帰りで出かけるのならば朝一番に街を出るのが普通である。
「やっぱり気まずいのかな」
「かもしれないね」
一行は〈ホネスティ〉のメンバーだった。
外套の紋章からそれがわかる。
「〈妖精の輪〉の探索って、やっぱり」
「うん。完全に頓挫しちゃったみたい」
〈妖精の輪〉とは、この世界のあちこちにある魔法遺跡の総称だ。多くは森の中にあるストーンサークルや、円形に植えられた木立といった姿をしている。中央にはアクアマリンのように透き通った空間の揺らめきが存在し、遠く離れた場所への瞬間転移装置として利用されていた。
ある〈妖精の輪〉からどこへ転移できるかは、〈エルダー・テイル〉時代、月齢を加えた複雑なタイムテーブルで決定されていた。〈冒険者〉は攻略サイトで転移先の情報を確かめてから長距離移動するというスタイルが常だった。
〈大災害〉後、攻略サイトの参照ができなくなった〈冒険者〉にとって〈妖精の輪〉は非常に危険な移動手段になってしまっている。見知らぬ遠隔地に瞬間移動させられてしまうだけならまだしも、なんらかのトラブルで転移先に「登録」されてしまえば、〈帰還呪文〉でさえ安全確保の保証ではなくなってしまうからだ。
こうして〈妖精の輪〉のタイムテーブル確定は、〈大災害〉後の〈冒険者〉にとって重要な課題となっていた。だが、ギルドメンバーの数から、その調査任務を引き受けていた〈ホネスティ〉の奮闘むなしく、その調査は失敗に終わってしまったのだ。
「〈ホネスティ〉が悪いわけではないだろうに」
「それは、うん。そうだよ。〈円卓会議〉でそこを責める声はないんだけど」
調査の失敗は〈ホネスティ〉の責任ではない。
おそらく現時点ではどのような大手ギルドであってもこの調査を成功させることは出来ないだろうことがはっきりしたのだ。
〈妖精の輪〉のタイムテーブルが、〈大災害〉前とは違い、月齢と時間――つまり一か月を周期としていないことは早い段階で判明していたが、ここに至るまでの長期調査によって、その周期は少なくとも半年以上の長期にわたるものであり、しかも何らかのランダムな要素が加えられているのではないかという暫定的結論が出てしまったのである。
少なくとも現時点において、目的地に瞬間移動するという目的で〈妖精の輪〉を使用するのはギャンブルにしかなっていない。行く先を予想することはほとんど不可能だと、膨大な調査が裏付けてくれた格好だ。
〈大災害〉による影響であるこの変化は、もちろん〈ホネスティ〉の責任だというわけではない。
シロエのような人間にとって「現段階では周期情報を確定できない」というのはひとつの情報であって結果に善悪はない。むしろ、ひとつの結論が出たという意味で、調査は成功だとすら思っているのだが、アキバの一般的な〈冒険者〉にとっては必ずしもそうではないようだった。
〈ホネスティ〉は大所帯のギルドではあるし、その大人数を生かした調査を依頼するにあたり、〈円卓会議〉から多額の予算が流れていたのは事実だ。店舗をつくったり狩りをしたり、はては街路の整備まで自分たちの手でやってしまう〈冒険者〉のDIY精神は旺盛で、〈妖精の輪〉の調査が〈円卓会議〉の行っているほとんど唯一の継続的な公共事業であったのも事実である。
そのせいか、アキバの住民の中には、多額の予算をせしめておいて何ら結果を出せない、〈ホネスティ〉を寄生だと考えている者もいるのだ。
〈ホネスティ〉がアキバ以外の地区で暮らしていた〈冒険者〉や弱小ギルドからの離脱〈冒険者〉を積極的に飲み込み、規模を拡大していった結果、住民との間に軋轢が生まれていたことも、そんな空気を後押しした。
彼らの側もそういう雰囲気を察しているから、街中では居心地が悪そうに群れているか、逆に威嚇するような態度をとることも多いようだ。規模拡大を続ける〈ホネスティ〉のギルドマスターアインスの強硬な発言も目立つようになってきてもいる。
不和というほどではなく、もっと些細な、ボタンの掛け違いのような違和感が積もってゆく。〈ホネスティ〉を取り巻く状況は、そのように変化を遂げていた。
「マリエさんもがんばっているんだけどな」
「そだね」
しょんぼりと肩を落とすアカツキを慰めたかったが、シロエにもかけられる言葉はなかった。むしろ〈ホネスティ〉の台所事情の想像が付くだけに、余計に何も言えなかったのだ。
雨上がりの午後を、二人はギルドハウスへ向かって歩いて行った。
すれ違う人々は、二人と同様に、それぞれ向かう先があるようだ。狩りに行くにせよ、買い物に行くにせよ、誰かを訪ねるにせよ、家へ帰るにせよ。それはささやかだが幸せには違いなかった。そんな時間が続けばいいと、二人は声に出さずに願いを共にした。
「主君、なんだか騒がしいぞ」
「ほんとだ」
大通りに出てしばらく進むと、騎士風の姿をした〈大地人〉が見物のアキバの人々を割って表れた。エナメル質に輝く黒塗りの馬車を先導して、言葉を発することなく広場のほうへと向かってゆく。
「〈大地人〉の貴族さんかな?」
「あれは、マイハマのコーウェン家の馬車だ。主君。セルジアッド公爵か、身内の方が乗っているんだぞ」
「え? すごい。アカツキよくわかったね」
アカツキは気をよくしたのか、シロエのその驚嘆を受けてふふん、と胸を張った。
「伊達にマイハマに忍んでいたわけではないのだ。女子力で紋章くらい覚えられる」
そっか。そうなのか、とシロエは納得した。貴族は馬車や持ち物などに紋章を入れるというのは確かに聞き覚えのある知識だ。家紋のようなものなのだろう。だが、だとすれば、なぜこの時期にコーウェン家の人がアキバを尋ねたのだろう? 〈円卓会議〉にはそんな情報は来てなかったように思うのだが。シロエは首を傾げた。
後から考えれば、この馬車がアキバに新しいクエストを運んできた運命の使者のものであったことが分かる。しかし神でもなく、むしろ勘は鈍いほうに属するシロエとアカツキは、つれだってギルドハウスに戻るのであった。
◆ Chapter1.02
ほふぅ、とため息をついて、レイネシアはコットンのハンカチで額の汗をぬぐった。この白いエプロンのアップリケはポケットになっていて、小物を入れておくのに便利なのだ。
ミカカゲが分厚い布手袋でオーブンから鉄板をとりだすと、そこには渦巻のような模様を持つパンが綺麗に整列して並んでいる。表面で輝くのは干し杏と干しブドウ。大きな調理台の上に鉄板を下したミカカゲの指示で、レイネシアはトレイに焼き立てのパンをうつしていく。トングを使って丁寧に。今でも慣れたとは言えないけれど、一か月前よりもずっと上手だと自画自賛した。
ここはミカカゲが借り切っている料理工房で、公には〈ロデリック商会〉所有の実験施設のひとつである。ミカカゲは週に四日、この工房で様々な甘味を作っては、アキバの販売所に卸しているのだ。
レイネシアといえば、そのパン工房と売店の両方で毎週水曜日のバイトである。
「いーい匂い」
「美味しそうです」
目をつぶって背伸びをしてすんすんと香りをかぐミカカゲの横で、レイネシアも三角巾のまま同じ仕草をする。焼き立てのパン特有の、心が落ち着くような馥郁たる香りだ。
「シアちゃん砂糖準備して」
「はいっ」
名誉あるミカカゲ工房の従業員として、レイネシアは背筋をピンと伸ばして返事をすると、さっそく棚から砂糖を取り出す。この場合必要なのは風味豊かな黒砂糖でも、輝かしいグラニュー糖でもなく、製菓用粉砂糖だ。この繊細な砂糖は、目が細かいふるいで作られた繊細な代物でとても高価なのだ。特別な製法で作られたために、溶けにくく飾りつけにぴったり。パンの上にこし器でふるってあげれば、新雪でちょっぴり飾られたブーケのような風情に早変わりだ。
――もちろんレイネシアはまだそれを任せてもらえるほどではないので、ミカカゲに砂糖の小袋を手渡す役割である。
ミカカゲの家族、召喚アルラウネのアリーが押してきた小さな踏み台に乗って砂糖掛けが終われば、あとは再びレイネシアの出番である。
合計三十個のパンをひとつひとつ紙の器に入れてゆく。直径五センチメートルほどのお皿型に切り抜かれたパラフィンには、そのひとつづつにアリーの顔がイラストとして描かれている。〈ミカカゲ印の焼き菓子〉はなかなかに人気なのだ。
すべてを個別包装したらそれを大きな木のお盆に乗せる。日本の小売店に勤務経験があるのならば、店内搬送用の木製トレーを連想するだろう。アキバではこの種の木製の容器や家具が豊富だ。わざわざ〈冒険者〉に依頼するまでもなく、〈大地人〉の職人が作ってくれるし、品質も良い。〈大地人〉からしてもアキバ住民は金払いの良い客である。
「いけますか?」
「お任せください! ミカカゲさま」
きりっとしたレイネシアはトレーをしっかりと持って工房を出た。一人ではなく、アリーがお供である。このトレーに満載の「ドライフルーツのディッシュ」が本日三便目のパンであり、レイネシアはこのパンを〈第八商店街〉直営店〈すずなりカフェ〉に納品後、そのままウェイトレス業務もする予定なのである。
そういってしまうと掛け持ち連続勤務のようにも思えるが、パン工房で2時間、移動して2時間程度なので、軽いバイト程度だろう。
「アリーさま、危ないですよ?」
左右によちよちと揺れながらも意外に早い足取りで進んでいくアリーが離れすぎるのを注意して、レイネシア達ふたりは看板の並ぶ小道を進んでいく。ギルド前広場は雨があがって、そこそこの賑わいだ。レイネシアの膝上程度の伸長しかないアリーが、〈冒険者〉について行ってしまっては大ごとだ。
もっともそんな心配は杞憂で、本来、この納品作業はアリーが一人で行っているものなのである。レイネシアが手伝いに来ていない曜日は、ミカカゲが工房でどんどんとスイーツを、助手アリーが店舗まで運んでいるのだ。今もアリーは世間知らずのレイネシアが転んだりぶつかったりしないように、少し先行してきょろきょろとあたりを見回していたのだが、それはレイネシアには通じていなかったようだ。
レイネシアといえば、引き受けた任務を重く考え、生真面目な表情で慎重にトレーを運んでいる。ひざ丈のスカートにブラウス、太いネクタイ、その上のエプロン、三角巾。姿だけ見れば、バイトに背を出す女学生そのものだが、レイネシアはこのアキバでは有名人である。通りがかる〈冒険者〉もそれを知っているために、遠巻きにして邪魔をしないように、そしていざとなったら助けに入れるように息を詰めているのだが、レイネシア本人はそれに気が付いていないのだった。
なんでレイネシアがバイトをするようになったのかといえば、もちろん様々な要因があるのだが、最大のものはひと月ほど前にさかのぼる。〈エターナルアイスの古宮廷〉で行われる領主会議に参加する途中という名目で、レイネシアの友人アプレッタとフェヴェルが〈水楓の館〉に立ち寄ったことがきっかけだった。
彼女たちはレイネシアと同世代であり、確かひとつかふたつは年下のはずだったのだが、婚約の証である指輪をその手に宿していたのだ。
別にそれに対してショックを受けたとか嫉妬をしたという事実はないのだが、考えさせられなかったかと言われれば嘘になる。レイネシアとしては珍しく悩んで、迷って、相談をして、その結果としてバイトを始めることにしたのだった。
レイネシアの現在の公的な肩書は、〈マイハマ領駐アキバ相談役〉ということになる。マイハマ領、と名前はついているし、事実レイネシアの生活費及び〈水楓の館〉の運営諸費はマイハマ公爵家から出ているのだが、同時にマイハマ公爵家は〈自由都市同盟イースタル〉の盟主という立場であるため、実際にはマイハマ領だけの相談役というだけではなく、イースタル各領主や、イースタルに本拠地を置く商人たち〈大地人〉すべての相談業務が、レイネシアの仕事である。
アキバに何かを売りたい。
アキバから何かを買いたい。
アキバで何かを学びたい。
アキバに住みたい。
そんな相談が日夜レイネシアのもとには持ち込まれる。現在、アキバは東ヤマトにおける改革の中心地であり、心臓のような役割を果たしている。日夜新しい技術が開発され、新商品が生まれるのみならず、〈冒険者〉の旺盛な購買欲に支えられた一大消費地でもある。
そのためレイネシアに持ち込まれる商談や、紹介の仲介、相談はことのほか多い。
レイネシアの現在ついている相談役というのは、イースタル貴族の中でも珍しい肩書である。
例えばマイハマで商売をしたい場合、その相談をする相手は、商売の規模やコネにもよるが、セルジアッド公を頂点とするマイハマ貴族であり官僚である。理屈でいえば、アキバで商売をしたいのであれば〈円卓会議〉に相談するのが最良であろう。
しかし〈冒険者〉へ直接コネを持つ〈大地人〉は少なく、両者の間には文化的に大きな隔たりがある。子供のような〈冒険者〉でさえたやすく魔獣を討伐するのだ。〈冒険者〉を怒らせてしまった場合〈大地人〉はなすすべがない。そのため、事前にアドバイスをえられたり、信頼ある取引先を紹介してもらったりできる「相談役」という新しい仕組みは、〈冒険者〉よりも〈大地人〉にとって大きな価値があった。レイネシアに赴任を命じたセルジアッド公の思惑を超えるほど、求められていたのだ。
需要があるというのはそこに商機が生じるということでもある。事実、レイネシアの仲介や斡旋は、手数料をとったとしても十分成立できるものでもあった。吝嗇な文官がこの役職を得たのであれば、この一年間でマイハマに大きな屋敷を構えられるほどの手数料――もしくはわいろを受け取ることができただろう。
しかしレイネシアはどこまで行ってもレイネシアであり、そんなアイデアを思いつきもしないまま、一年の間勤勉に義務を履行したのであった。もっとも御付き侍女のエリッサは「マイハマの姫たるものが、特定の貴族や商人からはした金を受け取るだなんて、公平性を疑われる品のない行為でございますよ」などと言っていたわけだから、意識的に拒絶をしていたとみることもできる。
ともあれ、レイネシアは、実際の労働はしているにもかかわらず、まったくお小遣いとでもいうべきものをもらえていない状態にあったのだ。
大領マイハマの姫と生まれ、実を言えば今まで財布も持ったことはなく、ドレスはすべて出入りの職人が城まで採寸し献上に来るという生活を行っていた。食品もアクセサリーも自分で買ったことなどない。ごくまれに行う買い物らしい買い物など城下町で指をさしただけで城まで届くのが当たり前だった。
控えめに言ってもレイネシアは世間知らずであり、にもかかわらず駐アキバ特使として〈冒険者〉の文化を学んでしまい、しかもそのうえ同年齢の友人が相次いで結婚するというニュースに触れ……動揺してしまったのである。
自分の将来を考えたとき、どうも明るい展望が見えない。
そんなレイネシアにもたらされたのが、〈三日月同盟〉所属のヘンリエッタが語る素敵な職業婦人思想や、〈桃色賽子〉の姉妹が語る職人は世界を救う思想である。何回かのパジャマパーティーを経て浸透したそれらの考えの結果、レイネシアはお小遣いと将来設計のために、バイトを開始することにしたのだった。
レイネシアの世話をする侍女長は当初難色を示していたが、毎週一回のバイトがレイネシアの早起きに効果があるとわかるとあっさりと手のひらを返した。とはいえ、レイネシアを放置するわけでもなく、今では一緒にバイトをこなしている。〈すずなりカフェ〉で先にウェイトレスをしながら、レイネシアを待っているはずだった。
その侍女長もそうだが、レイネシアの生活も少しずつ、だが結果的には大きく変わった。相談役の仕事は多すぎて毎日多くの時間を勤務に充てても求められるほどこなすことはできないし、レイネシアはもちろん毎日ゆっくりだらだらと、できれば昼寝とおやつの世界で過ごしたい。
そういった環境は、結局、貴族的な慣習で消費されてしまう時間を圧縮する方向へレイネシアたちをうごかした。貴族の生活は何かと格式や気品、そして余裕を要求する。
貴族の多くは早起きだが、それは早く起きて何かしなければならないことがあるわけではなく、目覚めた後ゆっくりとお茶を飲みくつろいでから、着替えや身だしなみ、さらには朝食の準備を行うためなのだ。レイネシアとしては、早朝のお茶をするくらいなら、もう一時間多く寝ていたい。
あいにく、早朝の黒薔薇茶の習慣から逃れることはできなかったが、着替えの習慣は何とか軽減することができた。
「アリーさまだって自分でお着換えしますものね」
レイネシアのまえでお尻を振りながら歩いていた幼子のアリーは、レイネシアを見上げると、自分の胸元のスカーフリボンをに視線を落として、こくんこくんと頷いた。
貴族の着替えは多い。
それが女性ともなればなおさらだ。
一般的な貴族令嬢は、通常でも日に四回は着替えを行う。外出や、お茶会、夜会などと人と会うことが増えればその回数は五回、六回と増えていく。貴族文化において、服装というのは意思を伝えるための重要な道具だ。相手にどんな敬意を持っているか、どんな関係を望んでいるか、色の組み合わせやちょっとした小物遣いでそれを表現する外交手段である。そのうえ、一回の着替えにかかる時間もかなりのものとなる。装飾品はノートで管理され、衣装も季節や行事、相手の身分や時間によって着て良いものが厳密に規定される。毎日着替えと身だしなみだけで六時間近くをとられていたと告げた時の、アカツキの顔がレイネシアにとってもショックだった。
もちろんそんな文化は〈冒険者〉相手にはほぼ無益である。
抵抗の強かったマイハマ侍女隊ではあるがこのアキバが特殊な任地であるということを認めてくれて今では着替えにとられる時間も圧倒的に短縮された。〈冒険者〉風の衣装は、レイネシアひとりで着付けできるものすらあるのだ。軽くて、温かく、身動きしやすく、汚れにくく、皺になりにくく(レイネシアに言わせればそれゆえごろ寝しやすい)最高の衣装である。
もちろんその背景には、レイネシアという素材を得て発想を飛躍させたアキバの〈裁縫師〉たちのプレゼントや、大手ギルドのなにくれとない差し入れがあったことも忘れるべきではないだろう。
「姫さまぁ!」
そんなエリッサが〈すずなりカフェ〉のドアの前で手を振っている。
「そんなに慌てなくても、レーズンのディッシュは逃げたりしないわ。それともお客さまが待っていらっしゃるの?」
「いえ違いますよう。違いませんけど」
混乱したエリッサは落ち着かない調子でおろおろとした挙句「お客というか来ていらっしゃるんですよ、早く戻らないと」などと要領を得ない調子だ。
「落ち着いて、エリッサ」
「落ち着いてませんよ。これが落ち着いていられますか。ああ、そんな姫さまがそんなことって」
エリッサは、決して軽々しく取り乱すようなメイドではない。
レイネシアのことをほんの幼いころから面倒を見てきてくれた、使用人というよりも姉のような存在だ。そもそもの話、レイネシアが女性の独り身で、アキバへ特使として駐在するなんて言う生活ができているのも、彼女が身の回りの世話のみならず、侍女隊を掌握し、館の管理運営や予算運用まで手配してくれているおかげである。
そう考えれば〈灰姫城〉の文官たちよりも、もしかしたら腕利きなのかもしれなかった。
そのエリッサが青ざめて唇を引き結んでいる様子は、さすがにのんきなレイネシアでさえも、何か変事があったのだと悟らずにはいられなかった。
「いったいどうしたの?」
「姫さま、〈水楓の館〉にお戻りを。サラリヤさまがお見えなんですよ。ああ、マイハマから出ていらっしゃるなんて!」
エリッサが天を仰いだのを見て、レイネシアは突如、お布団をかぶって三日ほどは閉じこもりたくなった。サラリヤが城からわざわざアキバにやってくるなんて、初めてのことだ。
セルジアッドよりもフェーネルよりも厄介なことになる。この悪寒は絶対外れないトラブルの予告だとしか思えなかった。
◆ Chapter1.03
エリッサがすでに店主に断りを入れてくれているということもあってレイネシアたちはさっそく〈水楓の館〉に引き上げた。なんでもカラシンから直接心配の念話が届いていたそうで、仕事に孔を開けるところを逆に心配までされてしまった。
〈冒険者〉のフットワークの軽さからいえば(その影響を受け始めたレイネシアも最近はそう考えがちだが)、早速客間へ行って、もうすでに待っているという母サラリアと会うべきだろう。
しかし、面倒だが、貴族である以上そうはいかない。相手がアキバの〈冒険者〉であれば省略できる作法でも手を抜くわけにはいかないのだった。
レイネシアは怠惰な彼女としてはできるだけの速度で自室へと戻り、クローゼットを開けるも、途方に暮れてしまう。自分自身では、何が礼儀に叶うかもはっきりとはわからないのだ。そこへ追いついてきたエリッサの手配で室内用のドレスが選ばれ、手早く着替えが行われた。
軽くて暖かい〈冒険者〉特製の外出着に別れをつげて、午後の来客対応用の淡い色のオーガンジーを身に着けて、髪の毛を結わえなおした時には、時刻はすっかり夕暮れになっていた。
先ぶれを出して訪れた客間には、母サラリアが穏やかな笑みを浮かべて待っていた。
「ご無沙汰しております、お母様」
「この街で健やかに過ごしているようですね。レイネシア。うれしく思います」
やわらかい口調での挨拶。そこから近況の報告へ移る。
レイネシアとしてはそんな前置きは飛ばして本題に入りたいのだが、これも貴族流の会話術なので省略するわけにはいかない。常に優雅で隙なく、相手の立場や両者の関係を考えて、含みを持たせる。それが貴族の社交の基本的な形態であって、なにを隠そう、それをレイネシアに教育したのが母サラリアであった。
貴族は、特にそれが高位であればあるほど、自らが子育てをするということはない。教育方針を定めて、乳母や家庭教師に任せるのが一般的だ。マイハマ公爵家は、レイネシアが聞き及ぶところによると、それでもずいぶん家庭的なのだという。週に数回は家族での食事があった。しかし、それは貴族という枠組みの中のことであって、レイネシアの記憶の中でサラリアに甘えたりわがままを言った記憶はない。それをぶつけていたのは、どちらかといえば乳母替わりで教育係であったエリッサに対してだ。
サラリア=ツレウアルテ=コーウェン。
コーウェン家現当主セルジアッド公爵の長女であり、レイネシアの母だ。
今年で三十六歳になるはずだがそれよりはずっと若々しく見える。少女のころは、その聡明さと落ち着きによって年齢よりも上にみられることが多かったと聞くが、いまの母はその才知に年令が追いついたのだろう。娘レイネシアからみても、清楚な可憐さを持った美しい女性だった。
若いころから才媛として知られ、領民には〈イースタルの真珠〉とあだ名されていたのだという。まだ少女と呼べる年の頃から父であるセルジアッド公の政務を手伝い、殊にその外交センスや政治感覚は優れていたらしい。セルジアッド公、つまりレイネシアの祖父は、若い時分なにかにつけては「サラリアが男であったならば」とこぼしていたそうだ。
もちろん貴族社会である〈自由都市同盟イースタル〉では女性領主など認められなかった。〈大災害〉によって〈冒険者〉と交流が生まれた現在と違い、時代はより厳格だったのだ。また祖父セルジアッドも娘に女性領主といういかにも風当たりの強い立場を強制しようとはしなかった。
結果として、サラリアは貴族の子女としてはやや遅れた時期に、マイハマの治水事業で頭角を現していた青年フェーネルと結婚することになった。レイネシアの父である。
母サラリアこそがセルジアッドの、つまりはこのヤマトに四つしか生まれたことはなく、今や二つが残るのみの公爵家であるコーウェンの血を、最も濃く継ぐ存在なのだ。
「レイネシア」
「はい?」
レイネシアはそんな母の来歴(ほとんどはエリッサに聞いた若き母の武勇伝だ)を思い出して、疲労を覚えた。我が母ながら、有能すぎて困ってしまう。比べられる身にもなってほしいものだ。
それをごまかすために曖昧に微笑めば、サラリアはあからさまに不審そうな問いかけの視線を向けてきた。たぶん「話は聞いてましたか?」のような意味合いなのだろう。レイネシアも対抗して愛想笑いを浮かべた。
レイネシア自体は誤魔化しの気持ちしかないのだが、小首をかしげて小さく吐息をつくその笑みは、〈水楓の館〉の侍女たちや〈大地人〉には〈民の未来を憂えて沈む冬薔薇の蕾〉と呼ばれる表情である。
サラリアは諦めたかのように嘆息すると、話の方向を変えることにしたようだ。
「昨年末の事件、〈エターナルアイスの古宮廷〉での領主会議でも、話題になりましたよ」
「そうですか……。その」
じわり冷汗が浮かぶレイネシアは、それを押さえつけて必死に穏やかな表情を浮かべた。穏やかである、落ち着いている、嫋やかであるというのは、レイネシアの場合、もはや無意識にそういう態度をとれるほどの修練の結果である。何もなくとも他者の視線さえあれば、身体が条件反射で猫をかぶってしまうのだ。
そんな体質に対して感謝をするのが今のような状況である。
内心では冷や汗を流していても、表情と口先だけは礼節に従って当たり障りのない言葉を並べてくれる。とはいえそれが内心の平安さを保証してくれるかといえば、そんなことはない。
年末の事件、つまりそれはアキバを騒がせた殺人鬼エンバート=ネルレスをめぐる一連の騒動のことだ。
その事件の中にあって、レイネシアは目を瞑り続けていた今までどおりの貴族の姫をやめた。少なくとも自分ではそう思っている。アキバに住む乙女たちの友人として、できるだけの責務を果たしたいと思ったのだ。
レイネシアは政治も統治も素人の、お飾りの姫だと言われてきたしその自覚もある。気を張って歩き始めては見たけれど、いまでもあの判断が正解であったと胸を張って言えるほどの確信などない。祖父や母のような自信なんて、一生持てないのではないかと思う。
だから母の言葉に慄きが止まらない。
不安はいつだって溢れるほどにあるのだ。
「安心なさい。この街は〈冒険者〉の街です。最終的な判断に〈冒険者〉の支持があるのであれば、領主会議はレイネシアを非難したりはしませんよ」
「ええ、その……。ありがとうございます」
だからその言葉には救われた思いだった。
自分が間違わなかったという罪悪感の払拭ではなく、アキバに住まう友人たちに、〈大地人〉が発端となる面倒ごとが、今のところこれ以上持ち込まれないことが嬉しかった。
「〈円卓会議〉はその後、イースタルの各地においてゾーン解放運動を行っているようですね。直接的な影響は大きくありませんが、未来の災いを取り除けるのであればそれはマイハマにとっても、ほかの領地にとっても利益になります」
サラリアは白磁の茶器から黒薔薇茶を一口飲み、「あら美味しい」とつぶやいた後、そんなことをレイネシアに教えてくれた。
レイネシアはその辺の経緯を思い出してみる。
殺人鬼事件の裏側で進行していたもうひとつの隠された事件があったのだ。それは、〈水楓の館〉に集まる乙女たちの中では「供贄の黄金事件」あるいは「腹黒メガネの大恐喝」と呼ばれている。なぜにそのような不名誉な呼ばれ方をしているのかレイネシアにはさっぱりわからなかったが、友人であるアカツキが自慢そうに胸を張っていたことから考えると、〈冒険者〉の中では悪名に属する呼ばれ方ではないのかもしれない。
とにかく、その事件を通して〈円卓会議〉はヤマト各地を〈天綱解放〉することが可能となった。その全容は、レイネシアにも、そしてアキバの〈冒険者〉の大部分にもまだはっきりとはわかっていないのだが、〈円卓会議〉はそれによって資金的な負担が軽減され、ヤマトの大地の多くが〈冒険者〉の支配を受けないようになったということだと聞いている。
レイネシアと〈円卓会議〉が下した決断により、アキバの街には守護結界がなくなってしまった。衛視の力の源泉である〈動力甲冑〉に対する魔力供給は途絶え、この街の防備は、ほかの〈大地人〉都市と同じ程度に落ち込んでしまっている。そんな不利を、この街の〈冒険者〉は「他と同じになっただけじゃないか」と笑って済ませてくれた。レイネシアはその飾らない笑顔を忘れない。
「〈冒険者〉の動きによって、各領地には新しい交易路が生まれてもいるようです。空路などが利用されている場合、われらには直接利用することはできませんが、希少な品の交易や、郵便に利用されているとか」
はい、と答えてからレイネシアは首をかしげた。
話題の接続がよくわからなかったのだ。
少し考えてみると、それは、〈天綱解放〉で各地をめぐる〈冒険者〉が新しい寒村を見つけたり、地図を更新したりした結果なのだと気が付いた。
そのせいで各地の結びつきが強くなっているのならばよいことだろう。
「〈グランデール〉のウッドストック様のお仕事ですね? お便りを運んでくださっていると聞きます」
レイネシアは答えた。
特使として、〈大地人〉はもちろん〈冒険者〉の問題解決にも助力をしているのだ。クラスティに浚われた(誰が何といってもあの暴行は誘拐のそれだとレイネシアは考えている)あの一夜以来、〈冒険者〉の従える飛行生物に乗る機会は何回かあった。
リーゼによれば、協力で長時間飛行可能な〈鷲獅子〉は〈冒険者〉でも持つものは少ないそうだが、そういった財産をもつギルドのひとつが〈グランデール〉であり、現在は郵便事業を行っている。領都に早馬を走らせる余裕もないような山間の村は、ヤマト東北部にたくさんあり、そういった村々に、血縁の手紙を運んだり、生活必需物資を輸送したりするこのギルドは〈大地人〉にとって感謝の対象なのだ。
そんな計画に協力できた誇らしさを込めてレイネシアは微笑んだ。
「レイネシアは事業の規模や影響をどう考えているのです? これがどれほど地方領主の助けになったか」
「事業、ですか?」
そのレイネシアにサラリアは、困惑したような表情で問い直す。
レイネシアは再度小首をかしげて考え込んでしまう。
口調からして、何か問題を起こしたわけでもないと思うが、サラリアが呆れたようにため息をついたのが気にかかる。何か見落としがあるのかもしれないが、企画そのものは〈グランデール〉が立てたものなのだ。レイネシアは相談に乗って、「連絡が付きにくい村に、月に一回でもいいから空からお手紙が来たらすごくうれしいと思います」といっただけだし、母が持て余したような仕草をしているのも、わからない。
仕方なくレイネシアは肩を竦めてうつむいた。〈悲嘆にくれる湖畔の乙女〉と呼ばれる仕草である。母が何を考えているか全くわからないので、ごまかせる可能性が高い反応をしてみたのだ。
視線を落としているためはっきりとはわからないが、レイネシアの上に母の視線がじっとりと注がれているのを感じる。
かといっていまさら路線を切り替えられるわけもなく、また何か賢い答えを思いつくわけもなく、我慢比べのように時間が流れると「コホン、コホン」という咳が壁際から聞こえてきた。
有能なエリッサのサポートがなされたのだ。
(エリッサ、感謝しますわ)
ふうと大きなため息で母が気持ちを切り替えたのが分かって、レイネシアはやっとそちらを伺うことができた。できたのだが、そんなレイネシアを待っていたのは、思いもかけない不意打ちだったのだ。
「……クラスティ様は、領地を離れていらっしゃったのでしたね」
「げふっん……」
淑女だとはとても言えないような反応を、レイネシアは長年にわたる訓練で必死に抑え込んだ。左右に走ってしまう視線を押さえつけて、茶器を持ち上げるが、カップとソーサーが触れ合ってカチカチと音を立ててしまう。
もしかして、先日訪れたアプレッタとフエヴェルの口さがない追及が、母の耳にも入ってしまったのだろうか? そんな疑問が生まれる。母との会話はそうなる確率が高いのだが、今日はいつにもまして話題が飛び跳ねて、心臓に悪かった。
幼いころは貴族としての落ち着くを鍛えるために突飛な話題を振って娘を動揺させようと試しているのだと思っていたけれど、ここ数年の経験で、これは母の社交術のひとつである上にもともとの性格もあるのだと、遅ればせながら理解した部分でもある。
「んん。んっ……。こほん。それが何か?」
「いえなにも」
無軌道な母の話術に、レイネシアは非難するような視線を送るが、サラリアは静かに黒薔薇茶を味わうばかりでまるで取り合ってはくれない。
いったい何のための訪問なのか? 母サラリアが告げたいことは何なのか?
レイネシアは動揺を押し殺して考えた。だが、自分でもそちら方面の能力は自信のないレイネシアである。さっぱり心あたりがない。
母の来訪という知らせを聞いて、何か失敗をして怒られる可能性が高いとは思っていたのだが、ここまでのところそのような会話の流れでもないようだ。
レイネシアが悶々とした疑問の回答は、やはり唐突にもたらされた。
「レイネシア」
「はい、母様。なんでしょうか」
「婚約の話が二週間後にあります」
「え?」
あまりに予想外の言葉を聞いて、レイネシアの思考の表面をサラリアの言葉は滑り落ちてしまった。レイネシアはその意味が分からなくて、拾い集めた後に組み立てなおし、理解するのにわずかだが時間を要した。
婚約というのは結婚の約束である。
つまり、結婚を約束するのを婚約というのだ。
誰と誰が?
「お申し込みをくださったのは、斎宮家トウリ様。……当主となりますね。レイネシア」
もしかして、これは身近な人の話なのではないだろうか?
必死に逃避するレイネシアはそんなことを考える。
唐突に、キルトの掛布団が脳裏に浮かんだ。アルバイトをして得たお給料で買った、目下、レイネシア一番の宝物である。暖かくて、やわらかくて、色鮮やかで、レイネシアを(文字通りの意味で)夢の国へと連れて行ってくれる優れものだ。
今晩もあのキルトの布団でゆっくり寝よう。エリッサには悪いけれど、明日の朝はゆっくりにして、朝ごはんもお昼ごはんと合体するブランチというものにしてみたい。ハチミツトーストを食べるというのは、ことに優れたアイデアに思えた。
「はい……」
だがしかし、レイネシアが身に着けた貴族霊場としての訓練は、レイネシアの頭を従順な仕草でひとつ頷かせた。貴族の子女が、両親から婚約を告げられた場合、返せる返事はひとつだけ。
「準備をしておきなさい。後悔のないようにね」
壁際からエリッサの詰まったような声が漏れた。
レイネシアは後でのど飴を二人でなめなければ、という、どこか他人事のような気持で聞いていたのだった。