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◆ Chapter5.04
「ヘイヘイ。膝ガクガクしてるぜ英雄! マジやってんのか。セントラルパークでチワワ抱えてる婆ちゃんだってもっと気合入ってるぜ?」
「ぬかせっ!」
エリアスはまるで山そのものと錯覚するほど重量を感じる両手剣を振りかぶり、よろめきかけて左足を踏ん張った。まったく悔しい話だがレオナルドの指摘は間違っていない。生まれたての小鹿でも、もう少し立派に歩くだろう。
振り下ろすというよりは、その重さに重心を引っ張られるように、妖精の大剣〈水晶の清流〉を振った。
まるで全身が水に浸かったような抵抗にエリアスは顔をしかめる。その抵抗は一瞬ごとに拘束強度を増し、剣を振り下ろすというただそれだけのことなのに、鉛の中で動いているようだった。その結果、エリアスの攻撃は子供が遊びで振ったような稚拙な一撃となり、それがレオナルドのHPを1パーセントの半分の半分ほど削る。
表情だけはギラギラとした、しかし全身泥と埃で汚れきったレオナルドも疲労の極致のようで、エリアスの攻撃は、斬りつけたというよりはその重量でレオナルドを押しやったような効果をもたらした。不敵な表情を繕って払いのけようとしたレオナルドだが、足元がもつれてたたらを踏む。
「全然ダメージないぞ、〈刀剣術師〉」
「自分のHP見てみろよ、カエル人間!」
ぜいぜいと怒鳴り返し、エリアスは両手剣を岩盤の突き刺した。立っていることもおぼつかなく、体重をもたれて呼吸を整える。
レオナルドのHPは残りわずかだ。
互いに泥にまみれていても、数字だけを見ればエリアスの圧倒的な勝利が約束されているように見える。だがそれは表面的な事実だ。残り二十五パーセントになったHPをここまで削るために、エリアスは一時間以上の攻撃を繰り返した。通常であれば三〇秒もかからないで与えられるダメージを、渾身の力を振り絞り、それこそ魂を燃やすほどの気迫で削ってきたのだ。
残りHP一〇パーセントほどまでは激情で戦うこともできた。
その先は一%ごとが巨大な鋼鉄の岩盤を素手で掘り進むような難事であり、エリアスを動かすものはもはや意地でしかない。
もはや自分が何のためにここにいるかもわからなくなりつつ、エリアスは激流の中で必死に岩にしがみつくように、呪いを越えなければならないという一念のみでここに立っている。
身体の動きは明らかにどんどん悪くなってゆき、その運動能力の低下は我がことながら目を覆うばかりだった。「戦う相手のHPを最大値の二十五パーセント以下にできない」という〈妖精の呪い〉はどこまでもエリアスの動きを制限してくる。
理由はわからないが、今のエリアスはその制限を乗り越えているようだ。現にレオナルドをあとほんの一息というところまで追いつめている。だが同時に〈妖精の呪い〉が解除されたわけではないことも明らかだった。それはエリアスを締め付けるこの不自由さから言って明らかだ。
レオナルドは、そんなエリアスの攻撃をただひたすらと受け続けている
それはおそらく簡単ではない試練だろう。研ぎ澄まされた武術を身に着けた〈冒険者〉たちは、半ば無意識にでも攻撃を回避する本能がある。それを、レオナルドは己の意思一つで無効化しているのだ。
水流が渦巻くエリアスの魔法剣は、岩さえも断ち切る。その前に身をさらすのだ。恐怖を押さえつけなければならないし激痛だって走るだろう。
エリアスにだってそんな事情は分かっている。
ダメージが減衰した限界環境での攻防は数百回続けられたのだ。それはお互いの内心を伝え合うのに十分な回数だった。
「おい、英雄。いつから意識戻ってるんだよ」
「……」
エリアスは言葉に詰まった。
レオナルドの言うとおり、精神の混濁は今やほとんど感じられなかった。
時折頭痛が走るが、自分が葉蓮仙女という女怪にたぶらかされて、仲間にも刃を向けた記憶は鮮明だ。
操られていたのだとしても、操られたことそのものが肺腑を焼くほどの屈辱であり罪悪感だ。さらにいえば、ただ操られていたわけではなく、こぼれだした言葉の数々は胸にくすぶっていたエリアス自身の劣等感だということが、輪をかけて悪かった。
戦闘をやめることができなかったのは、極論すれば意地でしかなかった。
今までの呪いを超えて、自分が与えつつあるダメージに魅了されていたといってもよい。
だが、見透かされたエリアスは、今まで続けてきた攻防すらも手放して、うつむいた。
「レオナルド……」
「別にいいよ。そんな顔すんなよ」
レオナルドは満身創痍ながら胸を張るとそういって、よろめきながら近づいてくると、エリアスの頬に拳を突き入れた。
なっちゃいないパンチだった。
腰は入ってないし、振り上げた拳に親指は握りこんでいるし、ありていに言えば素人丸出しだった。しかしそんなパンチを避けるだけの体力もなく、無様に食らったエリアスは、二三歩よろめいて倒れた。受け身を取ろうにも全身の反応が鈍く、顔から地面に転がる。そんな滑稽な自分に薄笑いが出た。
「どうだ」
「どうだっ……て言われ……ても」
まるででくの坊のように地面に倒れ、そのまま起き上がる体力もないと諦めたエリアスは、無理やり身体を仰向けにすることだけは成し遂げた。
全身がやけどをしたように熱を持ち、その意味では冷たい鍾乳洞の床は心地よかった。この熱は愚かな自分そのものであり、大地はそれを優しく非難しているように思われた。
「ひどいパンチだ。……素人みたいだ」
「ふん」
我ながらひどい憎まれ口をたたいた。
あんなに迷惑をかけたのに、命まで狙ったのに、悪いのは自分自身でしかないのに、エリアスは素直に謝罪することすらできない。結局、今この時も〈妖精の呪い〉はエリアスを縛り付けているのだ。レオナルドに対して問答無用に襲い掛かり、しかもだとしたところでその攻撃すらも完遂できていない。危害を加えた罪悪感と、危害すら加えきれない劣等感が、胸の中で争っている。
呪いに対する劣等感と重油のように身を焦がす後悔が、いまだにエリアスを闇の底へと縛り付けているのだ。
葉蓮仙女に誑かされたのは本当だが、それが真実の理由でないことはエリアス自身が分かっている。その証拠に、熱狂状態が収まっても、じくじくとうずく膿のような悪感情が消えてくれないのだ。
レオナルドは身体の節々を気遣うような用心深いしぐさでエリアスに近い岩床に胡坐をかいて座ると、太い溜息を吐いた。HP的にみれば、エリアスよりもレオナルドのほうがはるかに「死」に近い。
エリアスは残り一〇パーセントほどだが、レオナルドは二パーセントを切っている。瀕死といってもよい状態だろう。
もちろんHPとは負傷やダメージに耐える体力を表し、スタミナや疲労蓄積とは無関係だ。だから、二人の疲労困憊は直接的にHPによるものではないが、だとしたところでこの限界状況において両者に差異はほとんどなかった。
「なんでこんな馬鹿な真似に付き合ったんだ」
エリアスはそう尋ねた。
レオナルドは、その気になれば、エリアスの命を百回だって絶つことができたのだ。レオナルドのHPの最後の一〇パーセントは、エリアスにとって万里の距離であったけれど、エリアスのそれはレオナルドにとってそうではなかったはずだ。
一撃で、とは言わないがふた呼吸する間にも根こそぎにすることができたはずである。レオナルドは初めのほうこそ武器を構えていたが、最終的にはそれを鞘にしまってまでも、エリアスの自暴自棄に付き合ってくれたのだ。
それは意味不明で、不可解な行動だった。
レオナルドはその問いに、少し目を見開いて、肩をすくめてため息をついた。その態度は「何をアタマの悪いことを言っているんだ」とでもいうような揶揄があって、エリアスは恥じ入る。
賢いとは思っていなかったが、おそらく自分は心底愚かなのだろう。
今回のことでエリアスはほとほと自分という存在に愛想が尽きた。
いままで〈古来種〉の英雄だ、最強の騎士だとおだてられいい気になっていた自分を焼き尽くしたい思いでいっぱいだ。同胞を救い出すことも、〈大地人〉を助けることもできないようなこの身には何の価値もなく、度し難いほどの罪悪だとすら思えた。
だがそんなエリアスは、レオナルドから思っていない言葉を聞いたのだった。
「その〈妖精の呪い〉ってのもう解けてるだろ」
あっけにとられたエリアスは、痛みも疲労も忘れて上半身をはね起こし、あまりの苦痛に悶えながらも「そんなことはない――!」と抗議した。大半はうめき声にしかならなかったとしてもだ。
「こっちのHPを二十五パーセント超えてさらに削っていったじゃないか」
そう言われれば、確かに呪いの一部は緩んだと言えるかもしれない。
しかしそんな簡単なものではないのだ。
レオナルドは何も知らないから――その言い分自体がレオナルドを下に見るような尊大な思考だと気が付きながらもエリアスの心はそういう自己正当化をやめることができない。我ながら卑怯卑劣だとは思うものの、歪められて圧殺されそうな魂が逃げ道を求めるように、そんな言い訳じみた考えにすらすがりそうなのだ。
「あんな速度じゃとても追いつかない……何も為せないじゃないかっ」
だからレオナルドの視線を受け止めることもできず、視線をそらして声高に叫んだ。
追いつめられた敗残者が取る、それはごまかしの態度そのものであった。
「そっか」
レオナルドはエリアスのそんな虚勢を気にもしていないようだった。
どこからか差し込む光は一日の終りを告げる茜色から、もうすでに藍色の帳をしらせている。
光を失いゆっくりと暗くなっていく洞窟の中で、互いの魔法具が放つ戦いの余熱のような不思議な明かりに照らされたまま、二人はただ静かにそうしていた。
どうすれば良いのかもエリアスには分からなかったし、言える言葉など何もなかった。
「――そもそもエリアスの願いは誰かを殺すことなのか? 殺したいエリアスがいて、殺せない呪いを捨てたいのか?」
「……え?」
レオナルドの疑問は、言葉としてはわかったが、その意味がエリアスは捉えそこねた。レオナルドが何を聞いているのか、わからなかったのだ。
誰かを殺したいのか?
たとえば|レオナルドを殺したいのか?《、、、、、、、、、、、、、》
そんなことはない。
ないはずだ。
じゃあ、自分はなんでこの呪いを捨てようとしていたのだろう?
仲間を、民を守るためだ。
何かが奇妙にねじれていた。
上半身を大岩になんとかもたれかからせたエリアスは、泥と血にまみれた傷だらけの手のひらをじっと見つめた。見慣れた、だが汚れはてた手だ。そんなことを言われても、何が何やらわからなかった。戦いの余熱のせいか、レオナルドが何を言いたいのか察することができない。
不器用になってしまった自分に苛立つが、全身の疲労が自由を許してもくれない。
「会ったことはないけれど、妖精ってのはそういうことをするのか? 妖精は何のためにそんなことをエリアスに命じたんだ? |そもそもそれって本当に呪いなのか?《、、、、、、、、、》」
「……呪い……じゃない?」
その言葉を咀嚼してゆっくりと理解したエリアスは、弾かれたようにレオナルドを見た。
それは、一回も考えても見なかった可能性だった。
〈妖精の呪い〉はエリアスの一部なのだ、すでに馴染んで切り離せない構成要素だとすら感じられ、意識すらしていなかった。
では一体、このハンディキャップは何だというのだ?
エリアスを縛り付け失意と喪失を味合わせるこれが、呪いでなくてなんだというのだ?
「そうだよ。俺たちの間じゃ、それは、呪いとは呼ばない。――エリアスの誓いが結晶化したものだ。エリアス、あんたは、殺せないわけじゃない。それを俺は知ってる。どんな相手でも、殺したくないから誓いを胸に秘めたんだ。モンスターだけじゃない。〈大地人〉も〈冒険者〉も〈古来種〉も」
それは、言葉ではなかった。
レオナルドの口から紡がれたものは断じて言葉などではなかった。
もっと高次元の、静かではあるが莫大なエネルギーを秘めた何かだった。
我知らずエリアスは全身に力を込めて、瞳を見開いて、その続きを待った。
「――赤鼻のルビエンス姫のことを思い出せよ。あんたはあの日、彼女の配下の傭兵を全員殺して逃げだすことができたはずだ。それくらい実力差があったんだ。でもあんたは、戦わないで人質になることを選んだじゃないか。エリアス=ハックブレードは、呪いに負けて殺さなかったんじゃない。殺したくないから、殺さなかったんだ」
そうだ。
いつから失っていたんだろう。
その指摘は天啓のようにエリアスを貫いた。
エリアスは不殺を願ったのだ。
誰かを踏みつけて殺すことによる救済よりも、より困難な道を選んだはずなのだ。
エリアスが妖精の剣を学んだのは、その技には相手を殺さずに事態を解決するだけの実力が秘められていると睨んだからではなかったか。
エリアスがレオナルドの言葉で出会ったのは、幼かった自分自身の歩いてきた決意の足あとだった。忘れ去って最初から無かったと思い込んでいたそれは、振り返れば、自分の足元から過去へと続いていた。
「それを俺は知っているよ。あんたの物語を、俺はちゃんと読んでいる。あんた本人よりよりだって、あんたを応援してる」
「あ……。あ゛あ゛っ……」
いつの間にかエリアスは泣いていた。
みっともなく啜り上げていた。
〈最強の古来種〉が憚りもなく嗚咽をあげていた。
だとすればなんという過ちを犯してしまったのか?
だとすればなんという回り道をしてきたのか?
だがその悔悟は先程まで身を苛む責め苦の如きものではなかった。
道を照らされたものの穏やかな後悔ではあったけれど、それは、この先足跡を継いで未来へ向かうために必要な受容の痛みだった。
「あんたのそれは〈妖精の誓約〉だ。成し遂げるために得たあんたの力だ。……呪いだなんて自分を嫌うなよ」
エリアスの左腕からまばゆいばかりの光が溢れだし、虹色の光の渦となって広がった。岩盤を突き抜け、大地に浸透し、折れた木々を癒やし、傷ついた山の小動物を癒やし、それは暮れなずむ明けの明星を見上げながら空の彼方に浮かび上がっていった。
呪いなど、か細く儚いものだった。
疑いさえすればそれで綻ぶほど、鉄鎖というよりも紙縒りのように脆弱なものだった。
いまエリアスはそれから解き放たれた。
そして最初から持っていた誓約を取り戻したのだ。
◆ Chapter5.05
クラスティと|花貂がその明るい部屋にたどり着いたとき、すでにカナミたち一行は集合を終えた後だった。
その部屋は直線できっちりと構成された地下遺跡の、硬質の壁に囲まれた先にあった。見渡すばかりのホールや狭い通路、何度も折り返しのある階段や、金属で作られた魔法の器具が雑然と積まれた行き止まりで構成された地下のフロアだ。
(何らかの現代的なビルの廃墟、放送局か?)
クラスティはそうあたりを付けた。
中国のそれはたしか「電視台」と呼ばれていたはずだ。
かしましい声に導かれて奥へと向かうと、興奮して遺跡のあちこちを触り倒しているカナミを発見することができた。藍色の髪をした侍女風の少女を連れまわして、壁をたたいたり、机を調べたり、魔法具の前であごに手を当ててポーズをとったりしている。
壁際にはクラスティに襲い掛かったエリアスと緑色のフルスーツをつけた男が疲労困憊という様子で座り込んでいる。
様子を見ていればその四人がカナミの話していた旅の一行なのだろう。それはわかるのだが、女性二人(主にカナミ)の華やかさと、くたびれ切った男性二人のコントラストは残酷なほどだった。
クラスティは関わりを避けるのが妥当だろうと結論をする。
「よう、災難だったな」
「朱桓さまっ」
|花貂が飛び上がって挨拶をした。この野性的な風貌の男は彼女の呼んだとおり、朱桓。クラスティから見ても、こちらのサーバーで数少ない顔見知りである。
「ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしたか? 〈狼君山〉はめちゃくちゃになってしまいました……」
「おう。知ってる。鵺とは俺たちも戦ったぞ」
「ひえええ。すいません存じ上げませず」
花貂は恐縮しきって何度も頭を下げていた。その様子が滑稽で、低く笑ったクラスティだが、目ざとく彼女に見つかって、抗議の視線を向けられる。
「山の外でも何か起きてるのではないですか?」
「おう、そうだがよ。……雰囲気変わったな」
話の矛先をかわすためにクラスティは尋ねたが、どうもその様子すらも朱桓からすれば雰囲気の違いとして受け取られたらしい。バカンスだと思って〈白桃廟〉で怠惰を決め込んでいた姿しか知らなければ、今の完全武装の姿は違和感があるだろう。クラスティはそう受け止めた。
騒ぎは収束していない。
カナミたち一行は興味本位にあたりを探ったり疲れてぐったりしているが、今も朱桓と同じ意匠の鎧を付けた複数の〈冒険者〉が通路から見え隠れしつつ、〈月兎〉《げっと》を狩りだしている。
現れるモンスターの個体それぞれはさほど脅威でもないために、落ち着いて対処をすればどうということはないが、先ほどまでの密度であればかなりの危険といえるだろう。
そんな現状を察して質問をしたのだが、それはクラスティが考えていた以上に鋭い指摘だったらしい。
「ご明察。……ひどいありさまだ。山が崩れて、魔物があふれ出した。大規模戦闘モンスターまで出てきて、紅王閥の連中は全滅だぜ。街の連中も、おっつけこの山に来るだろう。〈封禅の儀〉かと思ったが、それだけでもないみたいだし、いったい何が起きているんだ?」
「さあ」
暗い表情でそう述べる朱桓にクラスティは肩をすくめた。周辺情報はありがたいが、それに対して何らかの考察を持っているわけではない。
〈封禅の儀〉について尋ねてみたが、花貂によれば、地上世界の支配者を天に報告する儀式である。付近を治める王が、仙境の魔法装置で崑崙にそれを告げるのだそうだ。
それは、クラスティの古典知識にある〈封禅の儀〉とほぼ符合する情報だ。おおむね正しいと仮定して問題ないだろう。
とすれば、好都合だとクラスティはほくそ笑んだ。
西王母へと続く道が残されているという意味だからだ。
「仙君さま……」
花貂が呟いた。
不安そうな瞳が揺れている。
「仙――クラスティさま。葉蓮仙女は、その……〈古来種〉さまなんですよね?」
何度かためらった後、意を決して投げかけてきた問いはそんなものだった。
→仙女は仙女である。
→当然だ(トートロジーでしかない)。
→答えは「はいそうです」
→なぜそんな問いを?
→花貂は天の官吏である。
→それはつまり仙人の部下であることを示す。
→連座罰への恐怖感?
→ありうる。
→クラスティが〈古来種〉である誤解が続いている。
→豹変して周辺に被害をもたらすかもしれないという不安
↑豹変しないでも結局もたらすのでは?
→可能性はある。
→なんらかの悪事に加担させられるのではないかという危惧
→つまみ食いとか?
↑日常的に行っていた。
→クラスティが〈古来種〉ではないと判明した。
→就職先を失う不安。
↑給与を支払っていたわけではないのでそれはおかしいのでは?
珍しく数秒以上考察を続けてクラスティは改めて花貂を見下ろした。別に悪意はなくても、一メートル以上の身長差のせいで、彼女の柔らかい髪のつむじが視界に入ってしまう。
不安そうに視線を落ち着きなく動かすその表情はどこか逃げ道を探しているようでもあったが、こぶしは握られていた。こんな姿ではあるが、花貂は一族の中ではエリートの立場なのである。不安を押し殺してでも疑問をぶつけなければならないと考えたのだろう。
「これからはクラスティと呼んでくださいね」
「あっ……その、そういう。いえ、クラスティしゃま」
困惑して舌足らずになる少女から、クラスティは視線を切った。
その不安をぬぐうために親切に状況を説明してもいいのだが、どう転んだところで現実は変わらないのだし、彼女が折り合いをつけるほうが健全だろう。――と考えつつ、理由の大部分は面倒だからである。
いざとなればまた甘味でご機嫌を取ればいいだろう。
クラスティは秀麗な美貌の内側で、そんな失礼なことを考えていた。高山三佐がかばった相手なのだから、いずれそれを三佐本人に報告し引き継ぐまで、最低限面倒を見る必要がある。
もしかしてこの〈狼君山〉に捨てていかれるのではないか? このままでは仕える主もなく、野にすむ獣のようにモンスターとなり果ててしまうのではないか? そんな不安で泣きそうになっている花貂にしてみればたまったものではないが、クラスティはそんなことを説明もせずに一人決めていた。
「……ニーハオ。ボンジュール、アロハー。モイ! そしてモイッカ~♪」
踊るようなしぐさで謳うカナミ。
突然息を吹き返した魔法装置が伝える困惑しきった声はシロエのものだった。クラスティはその声に、わずかに瞳を見開いて驚きをあらわにする。
一瞬の間に莫大な量の思惟がクラスティの中を埋め尽くした。
その多くはこの状況が罠である可能性の検討だ。
さきほど花貂に対して行ったのとは次元の違う密度の検討を重ねる。あまりにも不自然だ。偶然巻き込まれた戦いで、偶然再会した古い知人が、偶然動かした通信装置に、偶然別の知己につながる可能性。それは天文学的な確率になるはずだ。
それゆえ何らかの陰謀なのではないか? 背景があるのではないか?
クラスティはそう考えた。
しかしそういった疑いは、やはり漏れ聞こえてきたシロエの一言で粉砕された。
――カナミさんもしかしますけど月にいるんですか?
崑崙。
その何気ない疑問は、何よりも雄弁にシロエもまたその答えへ至ったことを示していた。
クラスティの口から低い笑い声が漏れていた。
だとすれば、理解できないことでもない。どうやらゴールもしくはゴールを示す限りなく重要な道標には「月」という印が刻み込んであるようだ。同じ場所を目指して歩けば、結局は出会うことになる。偶然ではなく、このルートが正解であるということなのだろう。
クラスティの知る限り、シロエは〈円卓会議〉の財政問題に取り組んでいたはずだ。いくつもの対症療法的な施策が〈三日月同盟〉や〈第八商店街〉から提案実施される中で、シロエが根回しに奔走したのは根源的で夢想的ともいえる作戦だった。
〈供贄一族〉と同盟を結び、ゾーン賃借システムの停止あるいは資金自動回収を猶予することにより、〈円卓会議〉の財政支出を抑制する。言葉にすると計画はそう言ったものであったが、だれがどう説明を聞いても荒唐無稽であるという印象を抱かずにはいられないものであったのも、事実である。
そのシロエがアキバに戻り、大規模戦闘を率いて戦っているのであらば、おそらく策はなったのだろう。あの苦労性の青年は、またひとつ偉業を成し遂げたようだ。
(だれにも認められない日陰にとどまってるんでしょうけどね)
ただ、シロエがその困難な交渉をやり遂げてなお月を目指すというのであれば、アキバにも変事が起きているのだろう。あるいはクラスティの何か知らない情報がもたらされている可能性もある。クラスティはそれを無理に知ろうとは思わなかった。
意識を向ければ、半透明のウィンドウには今でも明滅する呪いが残っている。
追加記載によってその効力を緩和したとはいえ、呪いそのものは健在なのだ。〈典災〉ブカフィがクラスティより上位者であることは事実であり、その実力差からバッドステータスを付与することそのものは正規の手順にのっとっているのだ。その内容がレベルさよりもさらに強欲であったために内容の一部を改変できただけであり、〈魂冥呪〉そのものは生きている。サーバー境界を越える移動も不可能だろう。さらにいくつかの追記ができる余地も感じるが、うかつにそれをしてしまえば将来緊急の時に対応できない可能性もある。
カナミは輝くような笑顔を浮かべていた。
大げさに手ぶり身振りを交えて語るそのしぐさは雄弁で魅力的だといっても差し支えないだろう。だが、その内容はクラスティから見ても梯子の段どころか、ビルのフロアを一段飛ばしにしたように突飛で鼻白らむほどだった。
「あれ、なんですか? 仙君さま」
「あれは災害ですよ」
「ふぇ?」
「近づくとろくなことにならない女性です。花貂が気にしている葉蓮仙女なんていうのは彼女にくらべたら小物もいいところですからね。食べられないように注意したほうがいいですよ」
「た、食べ!?」
また簡単に騙された花貂は青ざめて飛び上がると、クラスティの後ろに逃げ込んだ。
まあ、それでいいだろうとクラスティは思う。
どうせしばらく、ヤマトサーバーへの帰還はできないのだ。
サーバー境界を超えることを禁じる呪いがあるせいというだけではなく、楽しい課題が見つかった今、それを片付けずにアキバへ帰るなどもったいないというのも事実である。
記憶は取り戻したが、西王母にはこの呪いを押し付けられたという借りもある。せっかく招待状をもらったのだ、パーティーには参加させてもらわなければ嘘だろう。
「しかし、これでこちらの居場所は向こうにも伝わったことになりますね。――迎えは来るんでしょうね。リーゼか三佐か。どちらですかね」
クラスティは首をかしげた。
意識をしないようにしていたが、記憶を取り戻してみれば〈D.D.D〉のメンバーがクラスティを取り戻しに中国サーバーへ来るのは明白だ。
だとすれば、その迎えが早いか? それともクラスティが〈封禅の儀〉の謎を解いて西王母のもとへ殴り込むのが早いか、競争ということになるだろう。
あるいは朱桓に合力して、ギルド戦争に乗り出すのが一番早いかもしれない。ゆっくりと骨休めをしたせいか、ずいぶんと騒がしく楽しい時間が巡ってきたようだ。
そんな物思いをかみしめていると、突然小さな爆発音がした。
◆ Chapter5.06
ふざけたような軽い爆発音とともに、突然流れる音声に雑音が混じり始めた。慌てたカナミは腰の高さにある演説台のようなテーブルを撫でまわし、あちこちのつまみを引っ張ったり回したりしてみるが解決しない。
「あ」という小さな声と何かが折れる音がしたのは同時だった。
黒いレバーのような破片を持って振り向くカナミから、藍色の髪の少女を除く全員が視線をそらしたため、カナミはじんわり涙目になって、本格的に魔法具を責め始めたようだ。
今回の件では多大な迷惑をかけた負い目のあるエリアスは、ただ事態を見守るしかない。長い人生の中で、さほどの時を共に過ごしたわけでないにもかかわらず、カナミのこういった蛮行を生暖かい気持ちで眺めるのが、すっかり習慣になっているのが不思議だ。
「調子悪いな、この! このこの、いうこと聞け。パンチだ、キックだ! えい! 〈タイガー・エコー〉ぅぅぅぅ」
「ちょっとやめろ、おい。カナミ! このバカ! マイガッ!?」
レオナルドと名乗る青年が叫び声をあげたが、自棄になったカナミがレモンイエローの魔力光をなびかせて激突するほうが早かった。
エリアスは困ったように瞼の上から眼球をもむ。
予測通りの気の抜けたような破壊音とともに、予測を上回るほど牧歌的なパステルカラーの煙が噴き出した。
当たり前だが、魔法装置は完全に破壊されて沈黙している。
「急に壊れたみたい」
真面目腐った表情で腕を組んで振り返るカナミに飛び蹴りを入れたのはレオナルドだった。素直に蹴られるカナミではなく、その横顔にカウンターでフックを入れて、あっという間に喧嘩になる。
「おまえはそれでも一児の母かっ」「なにいってんのうちの娘は天使なんだよっかわいーんだよぅ」「なら壊すなあ!」「自動的に壊れちゃったんだって!」
口では相手を非難しながら、互いの手も止まっていなかった。高速のパンチで応酬しながら、受け止めたり交わしたり喜劇じみた一幕を演じている。
「治癒をご所望ですか?」
「コッペリア……。いや、いいんだ」
エリアスは視線を落として微笑んだ。
その笑みの中に苦さはあったが、それを上回るほどの満足感があった。
「コッペリアは、エリアス卿のHP低下を指摘します。最大値より七十二パーセントも下回ります。治癒をご所望ですか?」
「コッペリア。この傷の熱が引くまで、僕には己を顧みる時間が必要なんだ。……治さなくてよい傷も、あるんだよ」
「そうですか」
コッペリアはそう答えて、所在無さそうに立ち尽くした。
彼女の仕えるべきカナミはレオナルドとのやり取りで忙しかったし、そうなると、そもそも人見知りの気がある彼女にとって自発的に話しかける相手は少ないのだ。
「コッペリアは、エリアス卿がレオナルドを倒してしまうのではないかと思っていました」
「そっか」
「なぜそのようにしなかったのですか?」
エリアスはその問いに答えようとして、浮かんできた答えを改めて自分の中で確かめてみた。いくつもの言葉が浮かび上がってきたが、それらはどこか気取っていたり、格式ばっていたり、建前であるような気がして、答えるのにためらわれた。
エリアスの旅の仲間であるこの少女は無垢であり、それは、特別な事情を抱えたメンバーの中でもある種特別な扱いを受ける特質だ。エリアスだけの話ではなく、カナミも、春翠も、レオナルドも彼女の成長に特別な配慮をしてきた。そんな彼女の真摯な問いかけに、エリアスは真剣に考えて、やがて残った言葉を告げた。
「男同士の戦いは、心が強いほうが、勝つんだよ」
「……?」
「レオナルドは気高い英雄だった」
首を傾げた態勢で固まっていたコッペリアは、やがてその言葉に納得したのか「そうでしたか」とうなずいた。彼女がその小さな額の奥で何を考えたのかエリアスにはわからないが、前髪の隙間から覗いた夜明け色の瞳は、満足そうな光をたたえているように見えた。
「すいま゛ぜんでした」
「反省すればいいんだ」
ひと段落したのかしょんぼり謝るカナミにたいして腕を組んで胸を張るレオナルドの奥に、青鋼の鎧を付けた偉丈夫が見える。葉蓮仙女に惑わされて襲い掛かってしまった〈冒険者〉クラスティだ。謝罪しなければならないと考えて立ち上がった瞬間、空気が変わった。
虚空にできた直線から、漆黒の魔力が奔流のように噴き出してくる。
周囲の音が途絶えたわけではないのに、空間が凍り付いたように張り詰めていった。すさまじい圧力を受けてコッペリアがくらりと後ずさる。
エリアスは逆に前に出た。
心の炎が真っ赤に燃えて、邪悪な気配を跳ね返している。
この気配をエリアスは知っていた。〈死の言葉〉――その呪言を聞いた仲間たちを凍れる眠りに誘い込む、冥府の言葉。あの気配だ。〈虚空転移装置〉で強襲をかけるはずだった、〈終末の大要塞〉の景色がちらりと見えた気がした。
「なにがおきているんですっ」
「危険でス」
前に出ようとした春翠をコッペリアが制止する声が後ろから聞こえる。それを薄く意識しながら、エリアスは水晶の両手剣を油断なく構えた。
空中に青白いスパークをまとった亀裂が口を開けた。
縦に裂けた空間はしばらく蠕動していたが、やがてそこから優美な衣の袖先がぬめやかに出現する。金糸銀糸で縁取られたその華麗さは、ただし衣のみだった。
金色の絨毛に覆われた指先は確かに女性的な曲線を備えていたが、歪なまでに研ぎ澄まされた鉤爪がすべてを裏切っていた。鵺のそれに似てはいたが、直に見てしまえば見間違えるものはいないだろう。見たものに訴えかける禍々しさにおいて、それはそれほどまでに格差があった。
高貴な袖に包まえていても、それは悪獣の前足そのものなのだ。
――この地を統べる力の証明、まことに重畳。ここに汝らの封禅を認め、迷える羊より羊飼いとして取り立てようぞ。
陰々と響くその声は、鼓膜ではなく、その場にいるすべてのものの脳裏に響いた。嫋やかな、それでいて歳経た肉声によらない声は、自動翻訳の機能を借りないでも、はっきりした侮蔑と拒絶の意思を感じさせた。
「――西王母……さ……ま……?」
震える声が貂人族の少女の唇から漏れる。葉蓮仙女を退けたとしても、その背後にはこのような存在がいるのか。エリアスには相手の戦闘位階が図れなかった。それは世界最強の称号を持つ彼にとって、数えるほどしか経験のないことであった。
そして過去の経験に比べても、目の前に現れた手の持ち主の実力が桁違いであることだけは確実だ。
「こいつは――」
「補助呪文よこせ。このままじゃ退却さえできねえぞ」
「障壁を」
騒然となる背後の〈冒険者〉を守るために、瘴気の渦にたった一人で挑むエリアス。しかしその警戒するエリアスの横から、ためらいなく前に出たのは剣を交えた歴戦の〈冒険者〉であるクラスティだった。
「早速のご挨拶、幸甚の至り」
狂気にかられたあの戦いで思い知ったその剛力。そして静けさ。
凄惨な笑みを浮かべて恭しい言葉をかけると、クラスティはその舌の根も乾かぬうちに一瞬で巨大な両手斧を振りかぶっていた。
この男は、強大なる魔に微塵の躊躇もなく挑めるのだ。
無茶だ、とは思った。
だが止めようとは全く思わなかった。
それでこそだ、と言葉にせずに叫んだ。レオナルドといい、このクラスティといい、〈冒険者〉はエリアスに加護されるだけの存在ではないのだ。それが分かった今、エリアスは二度と〈死の言葉〉などにとらわれることはないだろう。
今も身体の中をめぐる熱い血潮が絶望を跳ね返している。
エリアスの魂は、カナミの言葉により目覚め、今はレオナルドの言葉に守られているのだ。〈妖精剣の後継者〉にもはや死角はない。
呼吸を合わせるようにエリアスも〈水晶の清流〉を振り下ろす。あと追いかけるようにレオナルドとカナミが飛び込んでくるのが見えた、そして後ろに続く大規模戦闘を意識した多くの〈冒険者〉たちも。
各々は最強の一撃を加えたのだろう。轟音、重なるように放たれた魔法や飛び道具。鋼鉄を打ち付けた衝撃。多くの魔力光で沸騰した空間が静けさを取り戻した時、あの恐ろしい存在の袖先も呪われた亀裂も見当たらなかった。
警戒するような視線を走らせるが、あたりには異変の名残すらない。
「ただの挨拶だったらしいな」
双刀を鞘に納めながら、エリアスの友人が肩をすくめた。
もちろん背中に冷たい汗が伝わってはいるが、恐怖そのものはなかった。最初から何か幻影の詐術にでもかけられたのではないかというように、そこには何の痕跡もない。
「なんだろね。様子をみにきたのかな?」
「ホラー映画みたいなやつだよ、なんだありゃ」
「確かに実体を備えていたようでス」
コッペリアは腰を折って戦場からひとつの仰々しい冠を拾い上げた。翡翠や琥珀の埋め込まれた古代のそれは、おそらくあの恐るべき敵からの贈り物なのだろう。
「柄じゃないさ」
コッペリアから手渡されたそれを、レオナルドは嫌そうな表情で隣のカナミに手渡した。
手渡されたカナミはきょとんとして、そのあと意地悪そうなにやにや笑いを浮かべながら指先でくるくると二三度回すと、「パースパーッス!」とはしゃぎながら、騎士然としたクラスティに投げ渡す。
彼は酷薄そうな半眼でその冠を指先で受け取ると、まるで汚物でも見るような瞳で「与えられるもので満足するならば最初からこんな場所にはいませんよ」と、弾いた。
冠は空中でくるくると舞った。
仲間たちは興味無さそうに扱ったが、それは確実に〈幻想級〉な魔法の品だろう。桁違いの魔力を秘めていることは鑑定しなくてもわかる。打倒していないとはいえ、あの魔物が所持していたものであれば、大幅な戦闘力のアップが望めるはずだ。
もしかしたら、それは〈妖精の呪い〉のハンデを埋めて、なお余りあるほどかもしれない。
エリアスは苦笑して、腰だめにした透き通る剣をほとばしらせた。
ガラス質の澄んだ音を立てて冠は失われる。
どんな魔法の品でも、偉大な秘宝でも、〈妖精の誓約〉の代わりにはならない。それに、仲間との旅にそんなものは必要ないのだ。
エリアスはエリアスの力で、仲間と一緒であれば、それだけで願いをかなえることができる。
「行こう、カナミ、レオナルド。コッペリア!」
エリアスは胸を張った。痛みが全身に残っているが、それが今はエリアスの手に入れた新しい力を実感させる。
レベルはひとつも上がっていない。
しかしいま、エリアスは過去一度も超えることのできなかった壁を越えて、確信をもって笑うことができるのだった。
クラスティ;タイクーン・ロード 了
→コッペリア;ティアード・アイランド