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◆ Chapter5.01
「うぉおおおっせい!!」
「いいね、いいね! ドン賭け倍だね!」
「調子のいい姉ちゃんだなあ、おい! 春翠」
「ですが腕は確かかと」
もちろん、葉蓮仙女が戦域から姿を消したとはいえ、戦闘が楽になったわけではなかった。相手は十二人規模戦闘クラスの魔獣、|鵺。葉蓮仙女に付き合ったクラスティと、エリアスとの決戦に挑んだレオナルドを欠いたカナミとコッペリアはたった二人。敵うまでもない。
しかし激しい戦闘の魔力光と地形の崩落はこの地に援軍を呼び入れた。
「〈天剣馬娘絶頭断〉!!」
「いいからどんどん接近だ、埋め尽くせ!」
現れた春翠と歴戦の雰囲気を漂わせる戦士風の男が、攻勢に出ていた鵺の脇腹に不意打ちの一撃を加えたのだ。
カナミは戦士職でコッペリアは回復職である。この二人では時間稼ぎはできたとしても、攻撃力が足りず、鵺を討伐するには無理がある。しかしそこに九〇レベルを持つ春翠とその仲間たちが加わった。負けはなくなったといえるだろう。
「ところでこの人だれ?」
「〈楽浪狼騎兵〉の万騎長、朱桓ですよ。そこで合流したんです」
「紅王閥の連中が大規模戦闘モンスターにやられたんだ。その後をたどってきたら〈常蛾〉だの〈月兎〉だの見慣れない怪物が出てきて大騒ぎ。ギルド戦争かと思えば、それよりひでえ」
「拾い食い禁止っ」
重い音を立てて回し蹴りを入れたカナミは何も考えていないのだろうが、コッペリアは推論での補足を試みた。現在交戦中の鵺は外部でも戦闘を行っていて、その痕跡をたどって討伐部隊が到着したということらしい。その討伐部隊のリーダーは春翠の上司に当たる朱桓のようだ。
それは好都合な幸運である。
マスター・カナミ率いるコッペリア達一行はこのユーレッド大陸において情報入手のためのコネクションが極端に少ない。刻一刻と移り変わる社会情勢の中で旅を続けるためには、単純な戦闘能力は当然のことながら、情報や所属勢力の加護が必須であると思い知らされた。
カナミたち(つまりコッペリアを含む)一行と春翠のギルドは相互独立関係にあるため、その利害が常に一致する保証はないが、それでも一定レベルの協力は可能だろう。
ただし、朱桓と呼ばれた男性の言葉に「紅王閥」という言葉が登場したことには注意を要する。コッペリアの記憶が確かならば(人間的慣用表現だ。コッペリアの記憶は連続し欠如がないため確かではないという事態がない)、「閥」という言葉は政治的なコミュニティを示す。朱桓の語調からすれば、春翠の所属する〈楽浪狼騎兵〉と敵対あるいは対立していた可能性が高い。
このような場合コッペリアの予想によれば、カナミもその対立に巻き込まれる可能性がある。
しかし当面は保留して問題はないだろう。
ここで〈楽浪狼騎兵〉と共同戦線を貼ることにより未来、何らかの不利益を被る可能性は否定出来ないが、現在正面戦力が八十パーセント以上不足しているのも確かなことであり、コッペリアの計算高い部分はこの戦闘だけでも援助を受けるべきだと考えている。
一方、旅の間に芽吹き成長してきた部分では、〈楽浪狼騎兵〉と共同戦線を貼ろうと貼るまいと結局マスター《カナミ》は何らかのトラブルに巻き込まれるのだから、それを支えるだけであると、諦観とも決意ともつかぬ気持ちを感じてもいた。
決してサンプル数が多いとはいえないが、そもそもの話、ここまでの旅で収集した事例によると、カナミがトラブルと接触する可能性は、他のどんな要素よりも時間に比例するようだ。つまり単位時間あたり一定の回数のトラブルが派生するわけであり、努力によってトラブルを回避できた事例はない。
戦闘は激しさを増してゆく。
メンバー間の連携が十分に取れていない大規模戦闘の場合、まず第一に重要なのは敵の攻撃を一手に食い止める第一盾職であり、次に重要なのがそれを支える回復職となる。攻略対象の攻撃を受け止めれば突然の壊滅はなくなるので、その間に攻撃職がどれだけダメージを与えられるかという戦闘の次の段階を考える余地が生まれるのだ。
その意味で春翠が呼び入れた〈楽浪狼騎兵〉のメンバーの参加により鵺との戦いはいったん均衡状態を迎えた。
特に春翠とコッペリアは高レベルの専業回復職であり、その前線支援能力は大規模戦闘でも十分通用する段階にある。
鵺のすさまじい雷撃攻撃もいまは一か八かのリソースをかけた回避戦略ではなく、専門職の属性防御呪文を前提にした組織的防御体制が構築されかけていた。
「マスター。敵増援です。十六体のモンスターが接近中。遭遇まで二十四秒」
「近いねっ」
「援軍来るぞ、気を抜くな!」
「こっちまで入り込んできやがった……!」
しかし一息つく間もないタイミングで広間には新手のモンスターが表れ始めた。前衛物理攻撃型の〈月兎〉と状態異常攻撃をもつ飛行型の〈常蛾〉である。
聞けばこれらの怪物は山麓から突然あふれ出して地を満たすほどの勢いであるらしい。
「地形が複雑になり索敵範囲がとれません。ご容赦くだサい」
「うちのガサツよりぁマシだろ!」
完全な乱戦だ。
大空洞には崩落の影響もあり、いくつもの鍾乳洞が口を開けている。
もしかしたら、いくつもの地下通路が交差し、強度的にもろくなった地帯が一気に崩壊し、付近の地下空洞がつながってしまったのがこの地下空洞なのかもしれない。
鍾乳洞は角度も大きさもさまざまであり、とてもではないがすべてを警戒することは不可能だ。
「第二波、会敵。ADD九」
「うっとい!」
いまもひとつの通路から、汚水で詰まった下水管から一気にヘドロが吐き出されるように、〈常蛾〉の群れが吐き出される。
マスターが言うように、それは面倒な相手だった。
接近してその鱗粉を吸い込むとMPが失われる。何らかの戦闘数値を参照しているのか、喪失するMPは様々で今のところ致命的ではないが、累積すれば無視できないリソース不足となるだろう。
目下のところ、なぜか強い耐性を有する〈武闘家〉が突進して迎撃を行うのがもっとも効率の良い対抗策である。
しかしそれは、ある意味この広間に足止めを食らうことであり、そのマスターのHP管理と対鵺大規模戦闘を考えれば、コッペリアもまたこの場を離れることはできなかった。
このように敵が波状攻撃を繰り返す大規模戦闘においては、一般的な事例と異なり、物理/魔法の攻撃職が重要となる。とにかくダメージを与えて敵の数を減らしていかないと、どこかで盾職が持ちこたえられなくなるからだ。
戦闘は複雑さを増して、より熾烈になっていった。
それに加えて、遠くからは巨大質量が激突するような重低音も響いてくる。この山麓ではコッペリアの知る限りほかにも二つの決戦が行われているのだ。
反響速度と減衰からそれらの戦いがこちらには影響が及ばないほど遠いことは認められるが、コッペリアの心には焦燥感が生まれていた。
敵は次々と現れる。
それはまるでこの〈狼君山〉が魔に浸食されて、魔物の群れを孕んでしまったような有様であった。
マスターによってクラクンと呼称された青年についての知識はないが、青年が引き受けた女性型モンスターは〈治療の典災・パプス〉である。姿かたちこそ変わったが、タグストリームからその可能性はほぼ断定できるほどに高い。出力が上がっているようだが、たとえそれが旧来のままだとしても、その戦闘能力はコッペリアとマスター、そしてエリアスの合計とほぼ等しいはずだ。一人の〈冒険者〉が相手をするには無理があるだろう。
コッペリアの治癒を拒絶したエリアスも心配だ。戦闘能力の低下は観察されなかったが、あの状態は明らかなバッドステータスの影響下にあるように思える。コッペリアの〈キュア〉によって回復するかどうかはわからないが、放置してよいわけがない。
コッペリアは〈施療神官〉である。治癒の専門家として仲間の体力と状態を管理することに責任を負っており、むしろそれを超えて存在意義だといってもよい。
「マスター。エリアス卿の状態は異常でしタ」
「うん」
「援護に行かなければ」
「そうなんだけど――っ」
コッペリアも両手の盾を前面に構えて〈ホーリーシールド〉から〈パニッシャー〉で攻撃を行う。太陽の輝きを宿す盾から光属性の魔法を投射するこの特技は、コッペリアの持つ中でも最大に近い威力を持っているのだが、悲しいかな〈施療神官〉なりの最大でしかない。何体かの〈月兎〉の目をくらませたようだが、突破口を開くには程遠かった。
そうして貴重なMPを投下してこじ開けた敵の隙間も、第六波の造園で埋め戻されてしまう。コッペリアはあくまで冷静に食い絞められた奥歯を緩め、巨大な鉄鋼の盾をたたきつけた。
レオナルドが危機に陥っていると予測機能が警告を発する。
コッペリアの概算だが、エリアスの攻撃力、持久力、防御力などの総合的な戦闘能力は、レオナルドの一四〇パーセントに達する。少なく見積もっても、だ。身体の制御を失った暴走状態のエリアスと戦えば、レオナルドはあっという間にその命を失ってしまうだろう。
エリアスは多少特殊だが、それを考慮に入れても二人は共に〈物理攻撃職〉に分類される能力を持つ。〈物理攻撃職〉同士の戦いの特徴は、拮抗状態にある間は圧しつ押されつであるが、それが崩れた時、あるいは臨界に達したとき、両者のHPが一気に消耗され決着に至るところにある。
ぱらぱらと小石が天井から落ちてきた。
方位北の六〇〇メートルほど離れた地表に近い場所で、エリアスとレオナルドの戦闘が継続中なのだ。それはわかるものの、この距離では両者のステータスやHPを確認することはできない。
戦闘時間から逆算すれば、レオナルドの命は今この瞬間に失われてもおかしくはないのだ。
「マスター」
「大丈夫」
カナミは振り返らずに告げた。
「ケロケロが『下がってろ、これは俺の獲物だ!』って言ってたんだから」
そのような事実はないとコッペリアは指摘したかったが、不思議と思考空転による演算能力の低下が減少したようだった。
「もう少しでこっちも押し切れる。まずは鵺を倒す。――そしてケロケロとエリエリと。ついでにクラ君を迎えに行こう」
「はい。マスター」
だが、その瞬間は思いのほか早くやってきた。
切断したかのように一気に戦闘の喧騒が遠のくと、いままで雲霞のごとく押し寄せてきていた敵の増援が途切れたのだ。
訪れた静寂は遠くで行われていた戦闘の終結を知らせていた。
顔を見合わせたコッペリアとカナミは、一気に鵺を倒すべく突撃の姿勢をとるのだった。
◆ Chapter5.02
死の気配が濃厚に立ち込める地下空洞をクラスティと葉蓮仙女はじりじりと移動しながら戦闘を続ける。鵺の近くにいては、その巨体を障害物として利用されてしまう仙女はクラスティへの射線を確保するために戦域の移動を求め、一対一の状況を作り出せることからクラスティもそれに応えた。
「呪われた民が――よくしのぐ」
「全力でお相手できないのは不徳の限りですね」
クラスティは薄く笑う。
もちろんそんな気持ちはみじんもない。
今この瞬間も、クラスティは死の淵へと刻一刻と近づいている。
もともと〈守護戦士〉は守備力に秀でたクラスであるが〈回復職〉のようなHP回復能力は持っていない。
しかし、クラスティが選択した成長方針スカーレットナイトはその例外といえた。盾を持たず、かわりにHP吸収効果のある両手武器――〈鮮血の魔人斧〉をメインウェポンに据え、HP吸収効果のある特技を中心に戦うことにより、〈戦士職〉では本来不可能なHP回復を実現するのだ。
より大きなHP回復能力を得るためには、比例元となるダメージを増加させなければならず、そのために両手武器を選択することが多いこのビルドは、必然的に盾という防御装備を失うことになる。つまり、このビルドの成立する要件は、HP回復効果による疑似的な耐久力の上昇が、盾を失うことによる防御力低下を超えていることである。
対して現在のクラスティはその呪いの効果「回復呪文および施設、物品などの手段よるHPの回復は不可能になる」により、HP回復が禁じられた状態にある。つまり、現在のクラスティのスカーレットナイト・ビルドはHPが回復できないうえに盾の防御力を利用できない、何のメリットもないでくの坊でしかないのだ。
もちろん、両手武器の高い攻撃力は利用できるが、それはそれだけの事。攻撃力を高めたとしても専門の、たとえば〈暗殺者〉には遠く及ばない。
「〈スカーレットスラスト〉ッ!」
クラスティの繰り出す攻撃が深紅の輝きをもって、葉蓮仙女の繰り出す三条の蛇のような触手をまとめて叩き切る。本来であれば、その赤いオーラは敵のHPを奪いクラスティへと還元するはずだ。しかし、先ほどからその効果の発動はない。
「またひとつ」
たたき落とし損ねた触手が足元から伸びてきて、クラスティの腰部装甲をはじいた。貫通するほどではないが衝撃は残り、HPがまたわずかに削られる。残り十七パーセント。
先ほどからその繰り返しだ。
さらに悪いことに、葉蓮仙女の攻撃にはクラスティの代名詞ともいえるスカーレット・ビルドと同じようなHP吸収能力があるらしい。クラスティに攻撃を加えるとともに、せっかく与えたダメージをじわじわと回復していく。すぐさま無傷になるというほどではないが、彼女が被った被害を軽減することは可能なようだ。つまりそれは、葉蓮仙女のHPは見かけ以上のボリュームを持つということでもある。
だがクラスティは餓狼のような笑みを浮かべて斧をふるった。
勝敗など考えもしない。考える必要がない。
→アクセス可能なリソースが必要だ。
→投資せよ。
胸の中心部に存在するゲートに起動を命じる。
クラスティの印象においてはドーリア式の円柱を持つ、壮麗な神殿の門とでもいったような風情だ。彫刻で埋め尽くされた大理石の扉の奥に、液体状の光が渦巻く泉がある。そこにクラスティが記憶をくべれば、虹色の輝きが生まれだすのだ。
〈追憶の断裁〉という固有名称が脳裏に浮かぶ。この技術は、記憶をエネルギーに変換するもののようだ。
その変換効率は記すべき単位を持たないエネルギーなので表現はできないが、クラスティの主観においては持てあますほどである。ほんの小さじ一杯ほどの――たとえばつまらないパーティーのマティーニの味や、運河沿いの散歩道で不意に巻き付けられたマフラーの肌触り、忌々しげににらみつけられた親族の視線――それらをくべるだけで、数千、数万のMPが手に入る。
クラスティはすぐさま〈タウンティングシャウト〉から〈オンスロート〉での大規模範囲攻撃を行った。
〈エルダー・テイル〉においてMPは希少性の高いリソースだ。非戦闘状態であればさほど苦労せずに急速で回復するが、戦闘下では一分当たり数十点のオーダーでしか回復しない。クラスティほどのレベルと装備をしてそれなのだ。〈付与術師〉や〈吟遊詩人〉の支援を受けない戦闘においては、ほぼ回復しないリソースだと考えて間違いない。
その貴重な資源が胸部中心のマイクロゲートから身体中にあふれ出す。その速度は一秒毎に数万点のオーダー。MPが最大値から変動しない。余剰回復分だけで消費分をオーバーしているため、最大値から減らないように見えるのだ。それどころか、身体の各所から虹色の揺らめきが立ち上り、攻撃力や防御力、さらには特技の〈再使用規制時間〉といった戦闘において重要な要素まで強化されているようだ。
空気を焼く勢いをもって振るわれた鋭刃は葉蓮仙女に着実なダメージを与える。
二合、三合と打ち合わされる硬質化した触手とクラスティの振るう武器。
〈エルダー・テイル〉時代の〈守護戦士〉ではありえなかったようなDPS出力に、仙女の美しい顔が驚愕にゆがんだ。
「この斬撃は!?」
「余興の芸ですよ」
すました声で答えながらも、クラスティは凄惨な笑みを隠さず突進する。体当たりのような接近豪打で相手の反抗を封じ、攻撃そのものを防御となすラッシュにつなげた。この状況であればMP枯渇の心配はしなくてもよい。|燃料はいくらでもあるのだ《、、、、、、、、、、、、》。
驚きに硬直していたのも、つかの間、仙女は必死の防戦を始めた。
この局面において攻防とは、むしろ、すべてが攻撃であり防御であった。受け流しや回避といった技術は用いられない。片や巨大な斧で、片や袖口から生まれる無数の触手で、ただひたすらに手数を重視した攻撃のみを打ち付けあうのだ。防御といえるものは、互いの攻撃に対する攻撃のみ。撃ち落とし損ねた攻撃が、相手に届く。
そのような熾烈な嵐の中に、頬から血を流すクラスティは喜々として身を投じた。
彼の手の中で葉蓮仙女が死滅しようとしていく。勝利、あるいは敗北という結果に可能性が収れんしてゆく。その道程の一歩一歩が快楽だった。クラスティはいま、新しい結果を手に入れようとしているのだ。
「なぜ、何故!?」
だがそれを良しとしないものもいた。
攻撃を交わし合う当の葉蓮仙女である。
彼女は悔し気に歯ぎしりをすると、まるで無防備な背中をくるりと向けた。女性の柔らかな曲線に躊躇したというわけでは決してないが、クラスティの猛攻に一瞬の間隙が生まれる。未知の反撃を警戒した結果である。
果たして仙女の反撃はあった。
粘着質の音を立てる灰色の触手が葉蓮仙女の足元から津波のように現れて、一気にうなりを立て迫る。
だがその方向はクラスティではない。
角度をそらして岩陰に殺到し、ぽかんとした表情で彫像のように立ちすくむ花貂を目指して突き進む。引き延ばされたような時間の中で、花貂は何かを叫ぼうとしたらしい。
→攻撃を妨害。
→無理。
→〈カバーリング〉でダメージを代替。
→射程超過。
咄嗟にかばおうとしたがクラスティには不可能だった。
〈守護戦士〉の仲間を守る戦略は敵愾心をコントロールすることが主流であって、仲間に及ぶダメージを直接かばったりする能力は〈武闘家〉に遠く及ばない。この場に〈武闘家〉がいれば話は変わったかもしれないが、彼女は視界内にはいない。移動を続けながらの激戦が戦場を分かったのだ。
花貂と視線が合うと、彼女は困ったような、謝罪するような表情を見せた。次の瞬間、濁流のように押し寄せる灰色の波にまみれて見えなくなる。
非戦闘型の亜精霊に過ぎない貂人族にとってそのダメージは巨大すぎる。致命傷だったに違いない。
だが、そうはならなかった。
犬狼の求問が流星のように飛び込んでいたのだ。
駆けつけるためにすべての能力を振り絞ったのだろう。鉄壁の守りを見せていたその俊敏さがあれば、葉蓮仙女の攻撃を回避することはたやすかったに違いない。だが、花貂を救うために無防備なわき腹をさらした求問は、そこに数え切れないほどの鋭い刃を受けた。聡明な判断を下した賢いオオカミは、己が保身よりも速度を選んだのだ。
代わりに命を支払うのは求問ということになった。
瞳に深い理解の色をたたえた狼は、驚くほどの血を流しながら、花貂の首筋を銜えると、ひと飛びのもとにクラスティの足元へ駆け戻り、彼女を降ろして、虹色の光の泡になった。
貴方の求める難問は世にあふれていますよ。
貴方の世界が簡単なのは、貴方が世界を求めていないから。
もう少し欲張りになったほうがあなたの周囲は幸せになるとわたしは思いますね。
能力のある人はそれ相応に欲深くあるべきでしょう? ね、我が主。
――落ち着いた声が聞こえた気がした。
泡は天へと向かい、残されたのはほっそりした指先を持つ切断された女性の腕だ。〈D.D.D〉の制服の一部に包まれたまま、肩先に近い場所から切り落とされた、それは の腕だった。
◆ Chapter5.03
求問の生命を吸い尽くし、大幅に体力を回復した葉蓮仙女は嫣然と笑った。
クラスティの残りHPはわずかに八パーセント。
比して葉蓮仙女のHPは六十パーセントを超えてなおも回復を続けている。
それは勝利を確信するに十分な格差であった。たとえ〈追憶の断裁〉でほぼ無限のMPを手にすることができたとしても、HPの回復手段のないクラスティがここから再度逆転する可能性は皆無だったろう。
「驚かされました」
「……」
「あなたは覚えていないでしょうが、さすが天帝、王母が甥御にと求める〈冒険者〉。――改めて聞きますが、我らに降るつもりはやはりありませんか?」
「牧羊犬の真似事をしろと?」
「犬の中では裕福な暮らしを保証しましょう」
クラスティはその言葉に涼やかな表情のまま、笑いをこぼした。
滑稽な女性だ。
犬に話しかけていると告白しているのに気が付いているのか?
あるいは相手が犬であると信じたいのかもしれない。
まともな返答をするのも面倒だった。
「虎の牙を持つ〈魔女の典災〉ブカフィでしたね」
「っ!? ――まさか記憶を」
カチリ、と何かのピースがはまるのと、血の流れが加速して激流になるのは同時だった。クラスティはゲートに思念上の腕を肩まで突き入れて、内臓のように暖かい虹の海をまさぐった。呼気が震えるような熱の正体は複雑な感情だ。愉快でもあるし、苛立ちもある。歓喜と怒りが同居している。
名づけがたいが熱量だけはあるその気持ちのままに、引きちぎるように奪いかしてゆく。
「呪いはっ――貴方の呪縛はどうなったのですか!?」
「解呪したわけではありませんよ」
クラスティが浮かべたとおり、その半透明のウィンドウには呪いが浮かんでいる。
――〈魂冥呪〉。
――HPの自然回復は停止する。
――回復呪文および施設、物品などの手段よるHPの回復は不可能になる。
――念話機能は停止する。
――サーバーを越境しての移動は不可能になる。
――記憶は失われる。
だが。
「失われた記憶を取り戻してはいけないと、そんな記載はありません」
色を失い狼狽した仙女にクラスティは獰猛なる笑みを返した。
虹色に溶けていた記憶はゲート越しに回収した。取り戻してみれば、なぜその記憶を選び手放していたのかも明白になる。クラスティは自分自身がそれを取り戻すと予見していたのだ。
奪還の確信があるから融資担保に差し出した。
いずれ戻ってくると分かっていたから安心して一時的に預けたのだ。
〈七つ滝の城塞〉近くの山中において〈災厄〉の暴走に巻き込まれたクラスティは、虹の海に浮かぶ絶海の孤島、崑崙にたどり着いた。その島で出会ったのが異形の魔女ブカフィだ。隷属を求められたクラスティだがそれを断った結果、その戦闘能力のほとんどを奪うような呪いをかけられて、ユーレッド中央の荒れ地に放逐された。ブカフィと邂逅したという記憶すら奪われて。
それがクラスティがこの地にやってきた背景だ。
だがその記憶は今やクラスティの手元に戻ってきている。
騒がしいギルドのお目付け役やおませな妹、頼れる副官、そして無鉄砲な怠惰姫の記憶と共にだ。空隙に流れ込むそれらの情報に、仙女に対するものとは異なる小さな笑みが浮かんだ。
自分の浪漫主義に苦笑に近い思いが溢れたからだ。
記憶やつながりがあったとしても得られる利益はたかが知れているが、だとしてもクラスティは自らの一部を差し出して喜ぶような性癖は持ち合わせていない。
身のうちに燃える敵愾心の原因も判明した。
自分はすでに崑崙において敵の首魁と対峙していたのだ。記憶を取り戻した今では明確にわかる。こちらを見下しのこのこと簒奪に現れた女妖はすでにクラスティの中では殲滅対象である。許すつもりは全くなかった。
目の前の葉蓮仙女も西王母も。クラスティとその記憶に弓引く輩は、すべて敵である。記憶が明らかになった今、その真の名前もステータスウィンドウに表示されている。彼女の擬態の限界がそこにあるのだろう。
おそらく葉蓮仙女とその一党は、〈大災害〉の謎にさえ繋がっている。
世界の現在に対して有用な情報を持ちあわせてもいるのだろう。
だがそれは彼らを生かす理由には微塵もならなかった。
「記憶が戻った程度でっ――状況は何も変わらぬではありませんかっ」
「その通り」
だがそれがどうしたというのだろう?
最初から状況など歯牙にもかけていないクラスティだ。
大事なのは結論が出るということ。そして結論を求める動機。
一投足の地を圧縮し、血の代わりに虹色を撒き散らかす斧を叩きつけた。もしにゃん太が見ていれば、〈冒険者〉の限界さえも超えたその動きにカズ彦と同じものを感じたかもしれなかった。だがいま、クラスティは生誕の歓喜に震え、歌声のように刃を振るう。
崑崙がどこにあるか、クラスティは直感的に理解していた。
天の彼方である。今のクラスティでは手の届かない場所だ。
だがそこに敵が居て、それを滅ぼすと彼は決意した。
故にそこに至り牙を突き立てるだろう。
自分は生涯手に入れられないのではないかと疲れ、膿み果てていた、それは課題だった。
諦めろと囁いた人々は、常に鴻池晴秋に親切で言ってくれていたのかもしれないが、クラスティを慕ってくれたわけではない。
だが、クラスティを慕う人々は望め、と言ってくれた。妹も、高山も、リーゼも。孤猿やリチョウも。思い起こせば古くは櫛八玉も。レイネシアはその身を炎に投げ込む覚悟で、望むということを示してくれた。例え自身の能力ではかなわぬと分かっていることであっても、あの強情な姫は望むことを諦めなかった。
冒険をするのならば異国へ転移したこの状況は願ってもいないものではないか。敵も仲間も、難関も宝も、この白い大地には確固として存在するのだ。
思えばシロエやアイザックは、そしてウィリアムでさえも、この大地の上に己を刻み込もうとしていたではないか。
鴻池晴秋は今まさに正しく自由である。
その実感が腕や足の関節にすぐにでも駆け出したいような活力を吹き込んだ。
もちろん、ヤマトへは帰らなければならない。〈D.D.D〉は居心地の良い場所だ。それは意識することなかったにせよクラスティの宝だ。奪われるつもりはない。
だがそこにたどり着くのためにはすべての敵を倒す必要があるようだ。あるいは迎えが来るほうが早いかもしれない。
クラスティの中で静かに降り積もる無色の活力に気おされたのか、葉蓮仙女はよく通る声で指令を下した。何もなかったはずの空間に虹色の泡が集い、そこから何体もの巨大蛾が現れてクラスティに襲い掛かる。
「その程度――」
クラスティは斬った。
いまや巨大な両手斧は紙細工のように軽かった。いや、四肢そのものが無尽蔵の活力に満たされてクラスティの意思通りに敵を屠った。まるで脱皮をしたかのように、空気の流れすら新鮮で、鋭敏になった神経は敵の動きをやすやすととらえることができた。
「召喚されし月の軍勢は無限。いかにあなたが常識外れであったとしても、この数にどう抗しますっ? ましてや貴方の生命はもはや風前の灯火」
焦った仙女は矢継ぎ早に侵攻を命じる。
太った腹を揺らしてユーモラスに襲い掛かる〈月兎〉を数匹まとめて引き付けると、クラスティはその勢いのままに兎の振るう杵を跳ね飛ばす。
マイクロゲートを操作しながらも、クラスティは無心に間合いを詰めた。
半歩、そしてさらに半歩。
重い音を立てる三日月斧が、とうとう仙女の束ねた触手を深く傷つけた。
剛力で切り飛ばしたその触手が虹色に変わり、斧に吸い込まれて赤い脈動に変わる。それは失われたはずのHP吸収能力だ。
「――っ!? あらゆる方法での回復は封じられたはずでは」
「穴だらけなんですよ。あなたがたの呪いなんて」
クラスティが視線を走らせる半透明のウィンドウ。〈魂冥呪〉の表示には赤く輝く文字が追加されてゆく。「ただし記憶の再獲得は可能」「ただし〈典災〉のHPを奪うことは可能」。
人生という演算装置は生命で駆動する。その原理を用いる虹色の水晶湾は、クラスティにとって接続しやすい外部演算装置ですらある。そのエネルギーを再利用して呪いに追記をしているのだ。
従軍天幕の中でシロエがぽつぽつと説明してくれた記憶が再生される。
〈契約術式〉と彼が呼んだ技術の概要と可能性だ。
その要訣はリスクコストや報酬と契約行為の重さを釣り合わせることにある。〈幻想級〉の素材をはじめとする莫大な費用は、契約によって得られる効果を保証するために消費され、互いの合意が発火のキーとなるのだ。
「何を言っているのですか……?」
「あなたにはわからないかもしれませんね。簡単にいえば、やり過ぎたんですよ。あなたの主は」
そうなのだ。
〈魂冥呪〉がクラスティに与えた莫大なデメリットは確かに攻撃者にとっては都合が良かっただろうが、だがその効果は大きすぎた。一方的にクラスティに不利で有り過ぎ、それが契約の脆弱性となっている。「クラスティ側が有利になる条件を追加できる余地」になっているのだ。
クラスティが同意をしていればともかく、一方的な押し付けでしかないそれが、いままで曲がりなりにも保持されていたのは百五十レベルというかけ離れた上位者〈魔女の典災〉ブカフィのMPで厳重に焼き付けられたからに過ぎない。しかし今のクラスティには、たとえ倍するレベルの上位者からだとはいえ、MPだけで言えば対抗できるだけの手段があるのだ。
信頼があれば。
また対等であれば。
せめて合意さえあれば。
決して破れなかったであろう契約は悪意によってただの呪いとなった。
そのような理不尽に従う可愛気はクラスティには欠片ほどもない。
半ばパニックに煽られ鋭い鉤爪を突き出してくる葉蓮仙女の腕を鉄塊の様な籠手で握りつぶし、力任せに振り回せばそれはちぎれ飛ぶ。
クラスティ一切の容赦もせずに、即座に〈アーマークラッシュ〉を放ち、仙女の腕を構成する物質ごと消滅させた。これで葉蓮仙女も高山同様片手になったわけだ。今のクラスティの攻撃は、横溢するMPですべてが魔力的に強化されている。
「なっ。そんな無法な攻撃が――」
「他人の記憶を奪い傀儡に貶める貴女に言われたくはありませんね」
凍える風の苛烈さを持って遮ったクラスティは手を緩めることなく、傷を仙女に刻む。ひとつ、またひとつ。
クラスティと仙女のHPが近づき、拮抗し、等しくなる。
「一敗地にまみれたわたしは〈冒険者〉と〈古来種〉について学んだのですっ。エリアスを堕し、あなたを絡めとり、確かな勝利をこの手にしていたはずなのに――。油断はなかった、あなた方の暴力性はよくわかっていた。なぜ、なにゆえ……」
その時点で油断だろう、とクラスティは思う。
相手の暴力性しか評価に含めない時点でどれだけ手を抜いているのだ?
ガラス玉でマンハッタン島でも買うつもりだったのか。
葉蓮仙女を一度破ったのがまさにカナミ一行であったことをクラスティは知らない。知れば対応が変わるというものでもない。この時も、葉蓮仙女の敗因を説明してやろうとは思わなかった。
戦闘中でありながら、ただ肩をすくめただけだ。
いつしか、周囲には虹色に染まりつつある〈月兎〉と〈常蛾〉の死体が積み重なっている。二人の戦いの余波により、彼らは一矢さえも報うことなく屍となったのだ。
仙女の期待していた軍勢もどうやら種切れのようだ。
「思い違いでしょう」
皮肉そうな声で告げるとクラスティは告死の一撃を振りかぶる。
引き延ばす価値もない。
無数の可能性が今まさに闇へと消えていった。
物事の経路が収束していき、結果がひとつに統合されていく。
解答の時間が来たのだ。
「わたしは絡め取られたわけではなく骨休みをしていただけですし、彼は道に迷っていただけでしょう」
「嘘で――!」
「ご愁傷さま」
重い音を立てて振り下ろされた〈鮮血の魔人斧〉は葉蓮仙女の登頂部から股間までを真っ二つにして、さらに固い鍾乳洞の石床に深く食い込んだ。
あたりは静寂に包まれて、戦闘の喧騒がまるで幻であったかのようだ。
その静まり返った薄闇の中、重い擦過音を響かせて斧を引き抜いたクラスティは、興味の失せた瞳で葉蓮仙女であったものを見た。
数瞬後、それは沸き立つ虹の泡に変わる。
すべての問いと同じ、解答するまでの道のりにこそ意味があり、終わってしまえばそれはすでに色あせた過去に過ぎなかった。
「勝敗判定。――それだけです」
つぶやいたクラスティは静けさを取り戻した鍾乳洞を引き返すべく歩き始めた。数歩歩いて振り返った表情に狂気じみた熱気はすでになく、駆け寄ってしがみついた花貂を抱き上げたのだった。