第四十譚 麗らかに《春》は産まれる
春だった。
見渡すかぎりの、春だ。
新緑がきらめく。凍りついていた針葉樹の群は重い外套を脱ぐように霧氷を落として、続々と芽をふきだす。死を疑うほどにやせ細った枝からも、若葉は萌える。果てのない冬に曝されても樹々は諦めず、巡るはずの季節を待ち、硬い芽を結んでいたのだ。
視線を落とせば、黄色。
雪を割って、迎春草が咲き群れていた。短い茎に黄金のぼたんのような八重を咲かせて、春一番の野花は微笑んでいる。迎春草とは異称のひとつだが、どの地域でも先がけてさかりを迎えるのは変わらないようだ。
どこからか、黄色の蝶がやってきた。春に誘われて、さなぎから孵ったのだろうか。
さああと風が渡れば、春の香りが巻きあがり、すそ野一帯が緑に染まる。
麓から緑や黄に彩られる様は、絵筆を持った妖精が飛びまわっているかのようで、その無邪気なる描画を前にして、人は感嘆を洩らす他になかった。
《春》は新緑にかこまれて、静かにたたずんでいる。
翡翠の蹄に踏まれたところから雪がとけ、草が萌えていた。《春》がいるあたりは、すっかりと雪がなくなって、迎春草とはまた違った草が莟をつけていた。柔い莟が膨らんで、ぽっとほどけた。うつむきがちのはなびらが咲き誇る。あれは絵本に描かれていた、この地域の春の象徴だ。春を愛する娘がかつて、あこがれた彩だった。
《春》が踏みだすと、そこからまた息吹が産まれる。
長く堰きとめられていた季節が流れだして、天地に満ちていた。
どこまでも麗らかな春だった。
「春は、こんなに」
ハルビアが震える声をあげた。
「こんなにも綺麗だったのですね」
濡れた頬を持ちあげ、彼女は晴れやかに笑った。
「綺麗で、暖かくて、優しくて」
言葉を重ねるごとに涙が零れる。彼女は泣き続けていた。
だがこれまでとは違って、その雫は熱を帯びていた。
凍ることのない、歓喜の涙だ。
隣では長が春を臨んでいた。目を細めて、長は感嘆の息をつく。
「春が綺麗なものだったこと、いまさら、想いだすなんてねぇ」
かつて春は、恐れるべきものだった。遠ざけ、できることならば永遠に巡るなと、誰もが望んでいた。けれどこうして春は、また穏やかに巡ってきた。
「春を殺めた者の子孫が、春を甦らせるだなんて」
長は皺を緩めて、ふっと微笑んだ。
緩んだ雪を踏んで、セツが前に踏みだす。
「僕は季節殺しを肯定しません。いかなるわけがあっても、なにを護るためであっても、無辜なる季節を殺すことはあってはならない。季節の循環を妨げることは人の領分からはずれています。例え《春》がそれを受けいれ、殺されてあげたのだとしても」
「殺されて、あげた……ですか?」
意外だったのか、ハルビアが言葉を繰りかえす。セツは頷いた。
「季節は生きていて、殺される。ですが、彼らはみずからが息絶えれば、理の循環が滞ることを理解しています。殺されまいと抵抗する」
「まして、無能なにんげんごときに殺されるはずがないのだわ」
季節をばかにされていると受け取ったのか、クワイヤが不満げに割り込んできた。
「町の危機だと理解して、殺されてくれたんです」
セツは繰りかえす。無邪気に走りまわる《春》を見つめながら。
「あなたの先祖と一緒だ。あなたの先祖は季節を殺せば、凄惨な死を迎えると分かっていて、それどころか、子孫が春にいのちを頒けることになると知りながら、町を護る為に決断した」
それがどれほどの決断だったのか。生きながら焼かれる絶望か。肺から心臓まで凍りつく恐怖か。他人には想像がつかない。想像できるなんて思いあがってはならないのだ。
「ですが、その、ユラフ・ルゥ・ノルテという者の決意は」
セツは眸を緩めた。哀悼の意を滲ませて。
「無駄ではなかったと」
長が震えた。皺に縁取られた緑の瞳が複雑にゆがむ。
安堵に満ちたかと思えば、瞳が哀惜に覆われ、最後には微かながら微笑んだ。
「ユラフ兄様……リリィ姉様、やっと」
長はなにかを言いかけて、口の端を結んだ。
報われたんだねと、まだ幼い娘の声で、セツには聴こえたような気がした。
樹木の枝にも春は訪れていた。葉の萌芽を待たずに咲き誇るそれは、霧氷に飾られたようなかたちをしていた。細かい銀細工の修飾に縁取られたはなびらは、柔いのか、硬いのか。眺めているだけではわからない。
「他の地域ではみたことがありませんねぇ」
セツが言った。
「名残雪みたいですねぇ」
「最後の雪、ですか」
惹かれて、ハルビアが枝に手を伸ばす。
車椅子に乗っている彼女は、もうちょっとのところで枝には届かなかった。見かねて、エンダが手折ってやろうとする。だがハルビアは可哀想だからとそれを断る。諦めきれないのか、ハルビアが枝を眺めていると《春》がハルビアのもとまでやってきた。エンダが身構える。《春》はエンダには構わず、ハルビアの膝に頬をこすりつけた。
それからうながすように、袖をくわえて引っ張る。
「立てと、仰るのですね?」
言わんとすることに気がついて、ハルビアが尋ねた。
理解してもらって嬉しいのか、《春》はきゅうと啼きながら頷く。
エンダが慌てて、声をあげた。
「危ないからやめたほうが」
「いえ、頑張ってみます」
「けど転んだら」
「貴方が助けてくれるでしょう? 昔みたいに」
「そ、そりゃもちろんだ! 怪我なんかさせない!」
ハルビアは微笑みかけ、車椅子のひじ掛けに体重を乗せた。
靴を履いた足の裏を草地につける。地の感触を確かめるようにつまさきを動かす。しっかりと足裏を大地に乗せてから、膝にちからをこめるのが見て取れた。
彼女は、慎重に体重を乗せていく。みずからの脚に。
生まれてからこれまで、ずっと、立ちあがることのできなかった脚に。
親しい者たちの視線を受け、背を押されるように、ハルビアは椅子から腰をあげた。ひじ掛けに頼っていた指をほどき、腕の支えをなくす。体重にたえかねて、膝が震える。エンダが支えようとするのを、彼女は首を横に振ってとめた。
「ま、待ってください。立ちあがれる、ような、気がするのです」
身体の一部だった車椅子から、完璧に切り離され、彼女は背をすくと起こす。
歓喜の声が、わっとあがった。
「立てた……ねえ、みて!」
生まれてはじめて、じぶんの脚をつかい、ハルビアは身体を支えた。
ふらふらとおぼつかないが、彼女は転ばずに踏みとどまっている。そこからひとつ、またひとつと歩を踏みだす。長は喜びのあまりに泣き崩れた。ヨウジュも熱い目頭を押さえている。
「奇跡だ! なぁ、こんなことが……っ」
エンダが叫んだ。声は涙で滲んでいた。溢れてきた涙を腕で乱暴にぬぐい、エンダは瞬きもせずにその光景を瞳に焼きつけている。
《春》の蹄跡をたどり、ハルビアは樹の根方まで歩き続けた。
彼女は枝を握り、側に寄せて、花を確かめる。
ほんとうに雪の結晶のかたちをしていた。
冬からの、最後の贈り物のような。
想像を絶する柔さに、枝をつまむ指が震える。微かな熱でも果敢なくとけてしまうのではないかと案じてか、ハルビアはそっと枝を戻す。
さすがに限界がきたのか、ハルビアはくらりと重心を崩してしまった。セツは「あっ」と思ったが、後ろについていたエンダが素早く後ろから支えていた。
「歩けた……私、生まれてはじめて、じぶんで歩け……うっわああ、嬉しい……嬉しくて」
子供のように声をあげて、ハルビアは泣き始めた。彼女は涙もろかったが、セツが知るかぎりでは、こんなふうに泣き崩れることはなかった。幼い頃から溜め続けていたなにもかもを流すように、彼女は泣き続けた。エンダは感極まって、彼女を抱き締める。
「辛い思いをさせてしまって」
詫びる長に頭を振って、ハルビアは涙ながらに微笑んだ。
「いいえ、私はずっと、幸福でしたよ」
愛されていた。恵まれていた。
町から溢れるほどの愛を受けて、育ってきたのだ。
「だから謝らないでください、私にだけは」
みなの様子を遠巻きに眺めながら、セツは彼女が語ってくれた言葉を思いかえしていた。
彼女は、生まれながらに重い宿命を帯びていた。親の死に動かない脚、さだめられた短い寿命。訳を教えてはもらえなかった。けれど、彼女は決して不幸だとは言わなかった。
彼女は強かった。故にただひとり、春を望んだのだ。
親をもとめて涙をこらえた夕暮れがあったはずだ。死を恐れ、眠れなかった晩があっただろう。なぜに立ちあがれないのかと、みずからの脚を責めた朝があったに違いないのに。
彼女はただ、春を望み続けた。
綺麗なものをひとつだけ。
「私は不幸だったことなんてありません。ただ、いまは凄く幸せで。幸せすぎて、涙がとまらないのです。あれだけ待ち続けていた春が、綺麗で。春の大地を、この脚で踏みしめられて。こんなに幸せでいいのかと」
幸福の涙は暖かく、綺麗だった。春と変わらないくらいに。
遠くから遠吠えが響いてきた。長きに渡るそれぞれの辛抱がようやっと終わったのだと、報われたのだと報せるように。町の者には聴こえないものが、されど春の懸かっていた娘だけには聴こえたようだ。彼女は峰の稜線をふり仰ぎ、濡れた瞳を細めた。
「どなたかが祝福してくれているのですね」
「聴こえるのですか?」
「ええ、幸福を願ってくださるような」
季節の祝福は響き続ける。産まれたばかりの季節が耳を動かして、頭をあげた。瞳を輝かせ、声が聴こえる方角に走りだす。絶壁にも等しい崖を蹄で踏みしめて《春》は雪嶺を渡る。
あざやかな緑が、雪に映える。
望まれて、季節は巡りだす。穏やかに、やすらかに。
産まれたばかりの《春》がきた。




