第三譚 《春》の名を持つ娘
「貴方が旅人さんなんですね」
小さな車輪を転がして、娘が病室にやってきた。
娘は暖かそうな毛織物の服を着ていた。町の若者が着ていたものとは違い、紫の細い毛糸で編まれていて、ごわつかずに柔らかそうだった。浅い緑の髪を三つ編みにして、肩から胸もとに垂らしている。膝にはちょこんと風呂敷包みが乗せられていた。
「体調はだいじょうぶなんですか?」
「え、はい。ありがとうございます」
「よかった。旅人さんがやってくるなんてはじめてで。雪ばかりでなにもない町ですけれど、ゆっくりなさっていってくださいね」
娘はよそ者にも好意を持って、笑いかけてくれた。
医者はばつが悪そうに、娘と旅人を眺めている。
「あの、宿は決まりましたか?」
「実は宿がなくてこまっていたところなんですよぉ」
渡りに舟と言わんばかりに、セツはすかさず声をあげた。これには若者が慌てる。
「待てよ、ハルビア! まさか、おまえのところに泊めるのか? こんな胡散臭い旅人を?」
「うちは宿屋なんですから、旅人さんを泊めるのはあたりまえのことだわ」
にっこりと車椅子の娘が微笑んだ。
「けどよぉ」
若者がこまり果てた様子で医者に助けをもとめる。
「諦めろ。彼女はいったんこうだと決めたら、誰がなんといっても譲らない」
ふたりのやり取りを眺めながら、セツはこの幸運を逃がしてなるものかと娘に畳みかける。
「ほんっとにありがたいですよぉ。雪を掘って野宿するのも、七晩続くときつくて。いいかげん、建物のなかで眠りたかったんです。やっとのことで町にたどり着いたのに、布きれで吹雪を凌ぐのはご免ですからねぇ。是非是非、泊まらせてください」
「それは大変です。すぐに準備をしてきますね。えっと、宿屋は町の広場からみて、一番大きな二階建ての建物です。看板は……雪が積もっているかもしれませんが、あの、おおきな木の板が掛かっているので分かると思います」
娘は部屋を後にしかけて、何事かを思いだしたのか、慌てて引きかえしてきた。医者の側まで移動して、彼女は膝に乗せていた風呂敷包みを渡す。
「お弁当です。いつもありがとうございます。おじさま」
町医者が風呂敷を受け取る。その一瞬だけ、鉄をかぶったような表情が緩む。
「毎日悪いな。手間ではないか?」
「とんでもありません。美味しく食べてもらえて、嬉しいです。ご希望の料理があったら、紙に書いて挿んでおいてくださいね」
娘がいなくなってから、若者はぎろりとセツを睨みつける。
「おまえ、彼女になんかしたら、ただじゃおかねぇからな」
筋骨隆々たる若者にすごまれると、威圧感が半端ではない。だがセツは笑って「恩人に悪いことなんてしませんて、お約束します」と軽く、それをかわす。
少女を抱きあげて、セツは寝台から立ちあがる。医者が「預かっていた、持っていけ」と荷物と外套を渡してくれた。セツがふたりに謝礼の銀貨を渡そうとすると、医者がそれを断った。若者も首を横に振る。
「そんなつもりで助けたんじゃねえから」
厚意にあまえることにして、セツは最後にもう一度礼を言った。
寝室、いや病室というべきか、小部屋には寝台がふたつと机と椅子くらいしかなかったが、隣の大部屋には医療にもちいる備品が大量に置かれていた。壁は薬棚で埋めつくされており、紙の貼られた瓶がならんでいる。昔ながらの漢方薬だろう。そこは待合室でもあるのか、長椅子が置かれていた。雪に塞がれた町だが、薬の類にはこまっていないようだ。
セツは外套をはおって、診療所を後にする。少女にもしっかりと外套をかぶらせた。
外套を纏えば旅人らしくなる。よそ者であることは隠せないが、異様な装いは隠せる。
扉を抜けると、長閑な町の風景がセツを迎えてくれた。
雪の砦に塞がれた町といって想像するのは暗い集落のようなところだったが、町の景観は旅人の想像とはまったく違っていた。
屋根に雪を乗せた家々が、ゆとりのある距離をもってならんでいた。寒い地域というと、建物も身を寄せあって暮らしているのではないかと想像していたが、現実には屋根から落ちた雪が隣の土地に積もらないように配慮して、それぞれの家が建てられている。家と家の間には水路が通っていた。水路に通っているのは温泉の湯だった。流雪溝というものだ。豪雪のわりには屋根に積もった雪の嵩はない。雪がすべり落ちやすい急勾配の屋根は、昔ながらの知恵なのだろう。木製の屋根には鉱物の網が掛けられていた。遠くから眺めるそれは、頭巾をかぶっているようにも見える。こんな屋根は他の地域ではみたことがなかった。雪おろしの際に屋根の踏み抜きをふせぐものかとも思ったが、先ほどの鎖とおなじく蓄熱する鉱物であろうと、セツは推測する。鉱物の効果で雪がとけ、屋根に溜まりにくくなっているのだ。
流雪溝の影響か、町のなかは意外にも暖かかった。
診療所は広場の隅にある。
広場では市が催されていたが、宿屋を捜すのが先なので、いまは通りすぎた。
旅人というだけでも町の者の関心を集めるのか、通りがかる先々で視線を受けた。興味か、警戒か。いずれも歓迎ではない。セツは気がついていない振りをしてすれ違い、視線が重なれば愛想よく笑いかけた。そうするとみな、ばつが悪そうに目を逸らす。
「いやなかんじだわ」
少女がますますに、機嫌を損ねる。
「みんな、旅人がめずらしいんですよぉ」
セツは少女をなだめるように言った。
まるいかたちの広場をかこむように建物が軒を連ねている。ほとんどが一階建てだったが、二階建ての立派な建物を見つけた。おそらくはあれが宿屋だ。木の板がすきまなく縦に張られた外壁は暖かみのある橙色に塗られている。木製の看板は確かに雪をかぶって読めたものではなかったが、看板が掛かっている建物は他にないので、ちゃんと目標の役割を果たしていた。
町の散策は後日だ。背負っている旅の荷物は、町を歩きまわるには重すぎる。
宿屋の扉を押し開く。寒い地域の扉は重い。開けた途端に、家のなかにこもっていた暖かさがふわりと流れてくるのが心地よかった。扉に取りつけられていた鐘が、からんからんと音をあげる。鐘の音に気がつき、先ほどの娘がやってきた。
「ようこそ。いまちょうど、準備が終わったところなんです」
娘はひだまりのような笑顔で旅人を歓迎してくれた。