第三十六譚 斯くして《季節殺し》
朝からユラフがいなかった。
このようなことはこれまでにはなかった。リリィは不安を覚えた。
市場に出掛けたのだと考えなおして、リリィは朝食を準備しながら、夫を待っていた。案じては子に障ると言われたばかりではないかと、自分を励まして。だが午後になっても夫は帰ってこず、彼女はいてもたってもいられずに町を捜しまわった。町の者にも尋ねたが、一様に首を横に振られた。
晩になり、遂には自警隊が捜索に赴くことになった。
町にいないのならば、山に登ったか。だがいったい、なんの為に。
春がせまった山岳地帯では雪崩が頻発する。危険を侵して、訳もなく踏み入るはずがない。されど他に捜すところがなかった。懸命な捜索が続けられ、翌朝になって、遂に断崖の洞窟でユラフが発見された。
ユラフは天を仰いで、立ちつくしていた。
彼の足もとには、綺麗な鹿が息絶えていた。
いや、鹿ではなかった。それどころか、これほどまでに美しいものが、生物なのかどうか。
角があるべきところからは、莟をつけた枝が拡がっていた。触れるだけでも咲き誇りそうなほどに柔くなった莟は、ぼんやりと光を帯びている。緑の光だ。産まれたばかりの新芽の、黄金にもみえるほどに眩い緑だ。光を受けて、繊細な模様の被毛が瞬く。蔓草に星を鏤めたような模様が、ちらちらと浮かびあがった。
美しすぎて、隊の若者はしばらく声ひとつ、あげられなかった。
眩暈がするほどに美麗で、侵してはならないものだと誰もが直感する。
されど、その生物は、たおやかな体を横たえて死に絶えていた。
蔦の鬣に覆われた首には、斧が刺さっていた。斧には蔦が巻きつき、細い蔓はユラフの腕にも絡んでいた。蔦の根が皮膚を破り、刺さっている。ぼたぼたと流れる赤い血液が、地を濡らす水銀のような潮に吸い込まれていく。
「ユラフ……いったい、なにが」
ダグが震えながら、声をかけた。
振りかえった彼の顔はやつれて、目は落ちくぼんでおり、一晩のあいだに百年もの時が経ってしまったかのようだった。肌などは死人の有様でただれているのか、腐りかけているのか。蔦の根が刺さったみずからの腕をみて、彼は一雫だけ、涙を流す。
彼は侵してはならないものを侵した。
殺してはならなかったものを殺した。
町を永遠の《冬》で護るべく、彼は《春》を殺めたのだ。
春の祟りを受けたユラフは三日三晩激痛に侵され、四肢、眼球に耳、鼻が順に腐り落ちて、凄惨な死を遂げた。妻は嘆きながらも胎の子を護り抜き、出産を迎えたが、生まれてきた赤ん坊は全盲だった。赤子を抱くこともなく、リリィは出産と時をおなじくして命を落とした。
まさに祟りだった。だが町の者は、祟られた家系を疎まなかった。疎めるはずがなかった。
ユラフが春を殺したのは、町を護る為だ。
祟りを受けてまで春を殺め、終わらない冬を授けてくれたユラフに町の者はかえしきれないほどの恩義を感じていた。だからこそ、その無残なる事実を雪に埋めたのだ。
斯くして、季節殺しは為され、葬られた。




