第二十五譚 彼の者は《冬》である
「――――《冬》」
吹雪どころか、微風にも紛れかねないセツの声をひろいあげて、竜が瞳をすがめた。美しい瞳が、傷だらけの無残な姿を映す。
「ほお、汝は季環師か」
残り僅かな気力を奮い、セツは背筋を正す。
接吻により、季節の生気を移されたのか、意識はずいぶんと明瞭だ。激痛が甦ってきて、片膝をつき頭をあげているだけでもつらかった。立ちあがることはできそうにもない。だがみじめに背を縮めていたくはなかった。それは、セツの意地だ。
だって季節はこんなにも綺麗だ。
「いかにも僕は季環師です」
「なれば、いまが吾の管轄でなきことは知りおろう」
「いまは《春》ですね」
雪に覆われた極寒の風景を、彼は変わらず《春》だと言った。
《冬》はそれを肯定する。
「左様だ。だが《春》は死んだ、殺されたのだ」
怒りを表すように《冬》は逞しい肢で大地を踏んだ。踏まれた雪がばきばきと捲れあがり、霜の杭を模る。寒さが一瞬激しくなり、セツは外套を寄せて、喉が凍らないように保護する。
寒波が落ち着いてから、セツは言った。
「春は、人に殺されたのですね」
「是だ。人間と人間の愚かなる殺しあいの果てに《春》をも殺したのだ」
「殺しあい……戦争、ですか?」
昔大陸の各地で勃発していた領地争いのことを指しているのだろうか。この地域の山脈が冬の砦と言われるに至った戦争だ。
視線をあげれば、吹雪の帳には古城の影が浮かびあがっていた。
栄華を誇ったであろう城はいま、凍りついた亡骸を葬る豪奢な棺となっている。
あれは、男爵の城だったと話していた。
セツは思考を巡らせる。
爵位を持っている者は当然ながら領地をも保有する。ノルテの町を含んだこの地域全域が男爵の領地だったはずだ。だとすれば、その地域を巡り、争いがあったことは考えるに難くない。冬の砦があるうちは敵から侵略されることはない。みずからの領地を護るべく、男爵の軍が春を殺したのか? 中央都との繋がりをも絶って? 考えられない。五等爵は中央都あっての階級であり、特権だ。中央都との連絡を絶ち、義務を放棄すれば、失脚する。
終わらない冬は男爵の利ではない。
《冬》が遠吠えをあげた。
激しい嵐が興る。垂れこめていた雪の幕が散り、積もっていた雪も巻きあがる。雪に埋められ、幾年にも渡り、隠されていたものが姿を現す。
セツは息を飲んだ。
「これはいったい」
夥しい数の氷漬けの骸が、雪のなかに隠されていた。
鎧を身に着けた騎士や傭兵の骸だ。激しい戦の果てに死後、間もなくして凍りついたことが窺える。氷に覆われた骸は朽ちることもなく、狼に荒らされることもない。いましがた息絶えたばかりだといわれても疑わないほどだ。むざと殺された怨嗟を、致命傷になった焼けるような激痛を、生をつかもうと足掻く渇望を、緩やかに死に絶えていく恐怖を、氷はいまなお、その場に留めていた。いや、縛りつけているというべきか。
七十二年もの時が、極寒の牢獄に捕えられている。
煉獄の有様だ。
「なぜこれほどの骸が」
「人間の争いのことなど、吾が知りおるはずもなかろうて。だが戦の後に人間は春を疎んだ。おおかた、雪がこの戦を隠してくれると考えたのであろう。人間の浅知恵だ。だが人間という生き物は、不都合を隠すことに長けている。吾が続けばよいと《春》を殺したのだ」
雪はなにもかもを覆い隠す。雪は砦だ。時には墓にもなる。
だがこれは、埋葬されているというには惨すぎる。
「春の巣を捜しあてたということは、季節読みの才能がある者がいたということですね」
「是だ。だが微々たるものだった。故に《春》を殺した者は理に抵触し、無残な死を遂げた」
「《春》を殺めたのは町の軍でしたか? それとも男爵の軍ですか?」
「否だ。町の若僧がひとりだった」
想像を絶する真実に驚愕する。
ずっと、季節を殺めたのは軍だとばかり思い込んでいた。
「才能の微々たる者が、ひとりだったのですか?」
「左様だ。《春》が眠っていた巣を捜しあて、その細き首を斬ったのだ。人は浅慮で、されど《春》もまた、愚かだった」
愚かだったのだと《冬》は嘆きながらも繰りかえす。
「どういうことですか」
「《春》は人を憐れんだのだ。あの程度の者に、春の巣が捜せるはずもない。ましてや、殺せるはずなどなかった。憐れんで、殺されてやったのだ。それからというもの、《夏》と《秋》は眠り続け、吾が延々とこの地域を護っている」
考え込んでから、セツは慎重に言葉を落とす。
「《春》が彼の家系を祟っていると、そう言われていますが、それは誤解ですね?」
《冬》が不満げに身震いをする。細かな雪の結晶が散った。
「季節は祟らぬ。まして、あの《春》が祟るものか。人間とは実に愚かだ。不都合なことがあれば、その表だけをみて、祟りだなんだと決めつける。本質には気がつきもしない」
祟りなどはなかったのだ。ならば、いま、彼女を蝕んでいるものはなんなのか。
《冬》の言葉を頭のなかで繰りかえして、セツはあることに思い至る。《春》は人を憐れんでいた。人を護るべく、人に殺された。ならば、それはあり得ないことではない。
「《春懸かり》……」
なぜ、これまで思い至らなかったのか。
《冬》は重く頷いた。項垂れているようでもあった。
「左様だ。そうまでして、なぜに《春》が愚かな人を護りたいのか、吾には理解できん。理解できなかった。いまだにそうだ。故に愚かだというのだ」
すべてを凍てつかせるほどの嘆きにかけられる言葉を人の身では持たない。
セツは黙り込んでしまった。かわりに隣から綺麗な声があがる。
「《春》は愛されたのだわ。だから、愛したのよ」
鈴のような声が、逢ったこともない《春》に理解を落とす。つまさきで雪の表を蹴って、クワイヤは浮かびあがった。《冬》と目線をあわせて、彼女は唇だけを微笑のかたちに整える。
「あなたはまだ、愛したことがないのね」
《冬》は複雑そうに尾を横に振る。
「あの、ひとつ、尋ねても」
セツが声をかければ、《冬》はまた悠然とした態度に戻る。
「吾に教えられることならば」
「僕は季節の声に呼び寄せられて、この地域までやって参りました。僕は季節の声を頼りに、各地を旅しています。僕をいざなってくださったのはあなたですか」
「吾ではない」
《冬》が否定する。
「そうですか、ありがとうございます」
セツは予想に違いはなかったのだと、安堵するように微笑んで。
「《春》の魂は、もうじきに……」
身を乗りだそうとして体重を支えきれず、セツは雪に頽れた。硬い雪に身体をうちつけて、恥ずかしげに慌てて起きあがると思いきや、セツはいつまでも起きてはこなかった。気絶している。極寒と激痛に曝され続けた身体が、遂に限界を超えたのだ。
クワイヤが凍えた身体を抱き寄せた。
「冬。あなたがかれを死なせたら、ゆるさないわ」
毅然とした声は静かだ。《冬》は青い瞳を細める。
「この者を傷つけたは、吾には非ず」
「だとしても、いまはあなたが、かれのいのちを蝕んでいる」
「人間の生は果敢ない。吾は、それらをたやすく奪うものだ。望まんとも」
《冬》は死の季節だ。死と再生が紙一重であるがゆえに。
「それでもゆるさない。かれは愚かなにんげんなどではないのよ」
これまでとは違って、彼女は声を荒げることはなかった。だが、言葉の響きはいつにも増して強く、何者も逆らえないような重みを含んでいた。彼女が偶に滲ませる女王の気質が、表れている。普段ならば、幼さを浮き彫りにする傲慢が、声に馴染んでいた。
「その者は季環師であろう。季節読みの才能に秀でた者のなかには季節と契約をかわす者もいるとは知り及んでいたが、《光季》の姫君と契約を結んでいるということは、よほどの」
「違うわ。あなたは、なんにもわかってはいないのだわ」
クワイヤは不機嫌を表す。綺麗なかたちの眉がとがる。
「契約というのはしたがい、したがわせるものだわ。ちがうかしら」
「左様だ。季節を隷属させる。故に優れた才能を要するのだ」
髪がぶわりと光を帯びた。それは、怒りの表れだ。
風に曝される髪を払い、彼女は《冬》の言葉を嘲笑った。
「わたしが奴隷のように、かれにしたがっているようにみえて? だとしたら、侮蔑だわ」
《冬》は黙っていたが、後ろにひかえていた氷狼の群が彼女の気迫に臆す。
「わたしはね、かれに委ねているのよ」
重い。契約なんかくらべものにならないほど。
「かれはわたしの、地域なのよ」
驚いたように《冬》が瞳を剥いた。
青の瞳に微かだが、熱を帯びる。納得したように低く頭をさげて、《冬》が言った。
「《光季》の姫君がそれほどまでに慕うのか」
「わたしの地域はかれだけなのよ。あなたには解らないでしょうけれど」
「解せぬな。《春》も然り。だが、この者を死なせてはならぬことは承知した」
雪の大地に眠る人間に視線を落として、《冬》はその顎で外套の端をくわえた。ひょいと投げて、みずからの背に乗せる。鱗に覆われた背は凍りついていて、外套を着込んでいるとはいえど、長く乗せていては凍傷にさせかねない。
「頼りはあるか」
尋ねられて、クワイヤが頬をゆがめた。
「吾には人命を暖めることはできん。《光季》の姫君のように呼吸を頒けることもまた。されどこれほど傷ついていては、呼吸を頒けても、時間稼ぎにすぎない。人間を助けられるのは、人間だけだ。わかっているだろう、《光季》の姫君よ」
人間など信頼できない。いまだって裏切られたばかりだ。人の放った矢で、最愛の彼は死に瀕している。けれど季節だけでは、彼を助けられない。あの時だってそうだったと、クワイヤは指の背を噛んだ。昨晩からセツに言われていたことを思いかえす。有事の際には彼を頼れ。あの町には他に助けてくれるあてはない。春に懸かられた娘もいまは頼れない。
ぼそりと、彼女はひとつの宛てをこぼす。
《冬》が走りだした。彼の者が普段は決して立ち寄らぬ麓の町にむけて。崖をのぼり、雪の壁を踏破する。勇猛なる気質を表すように《冬》の歩武は凄まじい。鎧のような氷塊に覆われた肢が大地を踏みならすごとに雪の表がめくれあがり、氷の華が咲き誇る。
遅れを取ることなく、クワイヤは吹雪のなかをついていく。
夜は始まったばかりだ。




