第二十四譚 《冬》の氷狼は吼える
衝撃はなかった。
柔らかい光に覆われて、ふたりは一瞬だけ、浮かびあがった。
然したる衝撃もなく、雪の大地に受けとめられる。
クワイヤのちからによるものだ。普段から他者を浮遊させることはできないが、落ちていく身体から一瞬重力を抜く程度ならば可能だった。滑落して町の牧場に落ちた折にも、彼女は相棒を転落の衝撃から護ったのだ。
セツは数秒、意識を落としていた。クワイヤはセツにいまだ抱き締められていたが、腕が緩んだのをみはからって抜けだす。起きあがったクワイヤに身体を揺さぶられて、セツは目蓋を持ちあげた。寒さのせいか、物の輪郭が霞んでいた。
「ゆるせないッ、ぜったいにッ」
霞んだ意識を破る、稲妻のような激昂。
全身が重かった。セツは身体を動かそうと試みる。だが激痛に襲われ、雪をつかむので、精一杯だった。彼が横たわっているところの雪は、血潮に染められて赤かった。
「待っていてッ! わたしがあいつらを殺してきてあげるわッ」
「だめだ! だめですよ……それだけは、だめだ」
なんとか声を振りしぼり、彼は相棒を制する。
「なんでよっ」
「人を、傷つけたら、いけません」
「なんでよ、なんでなのよ」
霞んでいた視界が戻ってきた。
彼をのぞき込む万華鏡の瞳が濡れている。頬から顎にかけて、凍りついた涙の跡が残っていた。睫毛にまで薄氷を乗せて、クワイヤは泣き続ける。
「ごめんなさい、クヤ……あなたを、泣かせてしまって」
「そんなの! セツがあやまることじゃないわ、あいつらが」
セツはなにかを言いかけたが、声は狼の咆哮にかき消される。
振りかえれば、氷狼の群がふたりに迫っていた。
冬の獣だ。樹氷のような霜に覆われた硬い毛は青ざめていた。鋭い牙は鉄の剣をかみ砕き、群れで襲い掛かれば、建物の壁などすぐに破壊する。牙を剥きだした顎のなかもまた青く、荒げた息をまともに受ければ、一瞬で凍傷に至る。冬を旅する者からは吹雪や雪崩に匹敵するほど恐れられる獣だ。
後ろは崖だ。狼の群は息をあわせて、逃げ道を塞ぐように距離を詰めてきた。無臭の雪のなかに血の臭いが漂っている。狼からすれば、食欲をそそる餌の香りだ。狼が吠える。
「餌、ですって? セツのことを餌だなんて、なによ、こいつら」
狼の声を読み取ったクワイヤが激怒する。
外套を放り投げ、彼女は構えた。
「セツを傷つけようとするものはなんだってゆるさないわ」
銀髪が巻きあがった。光を帯びた髪は一振りの剣を象る。
とんと、つまさきが雪を蹴り、クワイヤは舞いあがった。
飢えた氷狼の群が勢いよく襲いかかってきた。
低空を浮遊するクワイヤに氷狼の爪が迫る。クワイヤは髪の剣を振るい、氷狼を斬りふせた。稲妻のような斬撃を受け、氷狼は氷のかけらになって砕け散る。
だが氷狼は、数えきれないほどに集まってくる。
ここは氷狼の縄張りだ。氷狼は、縄張りを侵すものは決して許さない。
氷狼はすでに飢えではなく、あきらかな戦意を漲らせていた。
猛獣の群にかこまれても、クワイヤは恐怖を滲ませない。恐れる必要がないのだ。残らず、蹴散らせる。敗けるはずがない。
根拠のある驕傲が、眸に滾っていた。
「おそいのよ!」
光を帯びた髪が、氷狼の群を薙ぎ払った。
少女は剣撃を抜けてきた氷狼の鼻づらを裸足の裏で踏みつけ、髪の先端で喉を刺す。貫かれた狼が凍える霧になる。続けて二頭の狼が、息をあわせて前後から襲撃をかけてきた。
少女は動じない。
鉄を砕く牙がなんだ。壁を破る爪がなんだ。当たらなければ、訳がない。
ひとつの大剣を模していた髪を二振りの剣に変え、彼女は円舞する。
円舞。そうだ、踊りだった。
彼女の戦いかたは美しかった。
外套を取り払った彼女は、本質を解放させている。いまの彼女をみて、誰が人形だといえるだろうか。妖精だと安易に褒めることさえ、いまは侮蔑だ。
セツは雪に膝を立て、ゆらりと空をふり仰ぐ。
背にも、脚にもまだ矢が刺さっていた。抜くと血が流れすぎる。血を流せば、それだけ身体の熱が奪われる。かといって、矢を折るだけのちからは残っていなかった。
朦朧としていながらも、セツの視線は絶えず、美しき《彼の季節》を追いかけていた。
誤算はなかった。襲撃を受けるであろうことは、予測できていたのだ。
だがそれを未然に、ふせぐことはできなかった。
ふせげば、戦いだ。
人を傷つけなければならない。
傷つけるか、傷つけられるか。彼は後者を選んだ。選んだからには傷つけられても、殺されるわけにはいかない。生に踏みとどまるのがこの選択における勝ちだと、セツは拳を握る。
天候にまで見放されたのか、重い雲が空を覆っていた。黄昏が雲を刺して、一条の濡れた紅が、だらりと大地に垂れている。雪が焼けている。燃えているのではなく、焼けていた。
輝く光が爆ぜて、また氷狼の群が細雪になる。
クワイヤは戦っている。変わらず優勢だ。
されど、倒される端から狼は増えていく。
セツは冷気をともなって浸みてくる死に諍い続けていたが、身体が重く痺れてきていた。背や腰の激痛が鈍る。これは危険だと、セツは他人事のように考える。痛みを繋ぎとめようと、太股に刺さった矢を握り締めた。
「セツ? ねぇ、だいじょうぶ!? セツったら!」
上空から呼びかけられる。
なにか言わなければならないと考えるのだが、とうに喉は凍りついていた。細い息のようなものだけが肺から洩れる。クワイヤが案じて、セツのもとに帰ってこようとする。彼女が振りかえったのを好機とばかりに、狼が牙を剥いた。
避けられない。氷狼の牙が、クワイヤの華奢なふくらはぎに喰いついた。
悲鳴をあげ、地に落ちたのは。
氷狼のほうだった。
感電してしまったのか、地に投げだされた氷狼は黒く焼け焦げていた。激しく震えて、砕けることもなく息絶える。狼の数が減らなかったのは、どこからか集まり続けていたのではなく、砕けても、復活していたからなのか。
他の氷狼が恐れをなして、後退する。
少女の傷からは、水銀が溢れた。
他の生物が流すものとは違っていた。流れるものが違っても、傷つけば痛みを覚えるだろうに、一瞬だけ柳眉を曇らせただけで、少女は声をあげない。
傷など構わずに、セツのもとにむかってきた。
「け、がを」
セツは傷に指をかざそうとするが、腕が重くて持ちあがらなかった。
「そんなのッ、どうだっていいじゃないッ……」
「どうだって、いいはずが……あなたは、僕の大事な」
言っているうちに意識が陰る。
吹雪が頭のなかに雪を積もらせて、思考が続かない。
寒さはない。暑くもない。ただ痺れるほどに眠かった。雪は眠りの誘いで、眠りとは死の際まで落ちること。眠ってはいけない。頼るべきは傷だ。焼けるような激痛を、とセツは渇望して、傷がいったいどこにあったのかを思いだそうと試みたが、あえなく失敗する。
鼓膜を掻き続ける最愛の声だけが、セツの魂を現実に繋ぎとめるよすがだった。
「どうしちゃったのよ! ねぇ! 死んだり、しないわよね……死んだらッ、いくらあなたでもゆるさないわ! ゆるさないんだから! ねぇ、ねぇ、ねぇ! なんとかいってよ……セツ!」
縋りついて泣き続ける声は聴こえていても、その言葉の意味が段々と解らなくなってきて、セツは意地だけで瞳を見張る。目蓋を塞いだら終わりだ。綺麗な泣き顔がぼんやりと視界に映り込んでは霞んだ。
涙は、流れるそばから氷になる。氷の涙を流しているみたいだ。
それでも綺麗だ。
綺麗だった。
ふと、唇に焔がともった。
「ひとりにしないで」
接吻を施されているのだ。
理解して、急激に意識がひき戻される。
触れあいは一瞬か。それとも時が許すかぎり、唇を重ねていたのか。
セツには解らず、熱だけが確かだった。
クワイヤが接吻を終えて、こちらをのぞき込んできた。なにか言わなければとセツが思ったのが早いか、雪崩のような激しい吹雪が渦を巻いて、荒ぶ。
距離を取っていた氷狼が猛る。
雪嵐は、彼らの援軍だ。雪の帳に数えきれないほどの狼の影が浮かびあがった。鈍い鉄のような帳を破り、狼の群が襲いかかってくる。
項垂れていた髪がまた剣を象り、クワイヤが構えた。
「そこまでだ」
地を震わせるような声が轟いた。
氷狼は尾と頭をさげ、着地すると動きをとめた。
いったい、何者が狼を制したのかと、セツは吹雪に目を凝らす。
極寒の嵐を纏い、現れたのは幌馬車を凌ぐほどに大きな純銀の竜だった。いや正確には竜ではない。ふり仰げば、鼻筋こそ竜のものだが、竜の証たる角がなかった。貝殻のような耳があり、額には雪の結晶を象った紋章が輝いている。
瞳は雪を凍りつかせた青藍。
熱を滲ませない瞳孔は縦に裂けていた。
「このようなところに《光季》の姫君とはいかに」
低いうなりをともない、言葉が発せられた。
声は、青銅の鐘が轟くような、がらんとした響きを持っている。
背から腰にかけての曲線は竜ではなく、狼のしなやかな骨格を基としている。だが身体を覆っているものは、毛というには硬すぎる。まさに鱗だ。純銀の鬣に至っては細き剣が膚をつき破っているようでもあった。肢は鎧を模した硬い氷に覆われ、絶壁だろうと雪の奈落だろうと走り抜けられるに違いなかった。
獣であろうはずがない。
その者は。
「――――《冬》」
呆然となりながら、セツはつぶやいた。




