第十九譚 娘は誰も望まぬ《春》に憧れた
ハルビアは洞窟のなかを進んでいた。
奥に差しかかるにつれ、ざわざわと不穏な声が響いてきた。臨時の集まりだと警備の若者が言っていたが、声の響きからして穏やかな様子ではない。緊急の会議ならば時を改めようと、ハルビアは聞き耳を立てる。
「冬の砦を越えられるだなんて」
「なんでも人形みたいなこどもを連れているらしく、異様ないでたちなので、みなこわがっています。まさか、人ならざる者なのではないでしょうか」
「七十年振りの旅人がわざわいをもたらさなければよいが」
「ただでさえ、この頃は段々と実りが減ってきていて」
「黄金の焔もますますに衰えているではありませんか」
ハルビアが息を飲んだ。セツとクワイヤのことが話題にあがっている。
それだけならば構わないのだが、みなの口振りはあきらかに敵意を帯びていた。雪に閉ざされた町で長年暮らしてきた者が旅人を警戒するのはしかたがないことだと思ってはいたが、わざわいのもとのように謗られているのを聞き、ハルビアはいてもたってもいられなくなる。
弁解しようと車椅子を急がせる。
通路を抜け、長の間に至る。
燭台を取りかこむように、洞窟のなかには群衆がひしめいていた。
牧場の老人もいれば、雑貨屋の息子もいた。
みな驚いてハルビアの姿を振りかえり、続けて気まずそうに視線をそらす。ハルビアが旅人を宿屋に置いていることは、町に暮らすものならば知り及んでいるからだ。
彼女に気を遣ったのか、誰からともなく議論をやめて、潮がひくように解散する。臨時の集まりというだけあって、撤収するのも速やかだ。ハルビアが弁解する暇もなかった。
群衆はいなくなり、長の他には、途方に暮れるハルビアだけが残された。
「あの、おばあさま」
間が悪かった。悪すぎたといってもいい。
ハルビアはためらいがちに声をかけ、懸命に言葉を選んで言い募った。
「旅人はわざわいをもたらすようなものではありません。変わっているけれど、お優しくて、町のみんなに害を及ぼすようなことは決して」
「わかっているよ。おまえが懇意にしていることは」
「そ、そうではなくて、私はただ」
「おまえが懇意にしているということは、悪人ではないのだろうね」
長は理解を表す。
「みな、おそれているんだよ」
「旅人を、ですか?」
そんなに悪い人ではない。だって、あの旅人には嘘がないのだ。ハルビアには解る。
接してみれば分かるはずだと言いかけるのをさえぎって、長が重く息をついた。
「実のところはね、彼らがこわがっているのは旅人そのものじゃないんだよ。変わることがこわいんだ。これまで七十年に渡り、冬の砦を越えて何者かが訪れることなどはなかった。旅人が町にやってきたことでなにかが変わってしまうのではないかと、みなは案じているんだよ」
ハルビアは黙ってしまった。
変わる。それは、それほどにおそろしいことだろうかと、ハルビアは考える。変わらないことのほうがこわいのではないだろうか。時が流れているかぎりは、すべてが移り変わる。赤ん坊がこどもになり、こどもがおとなになるように。
だが町の総意はそうではない。
どくりと脈が速まる。車輪が軋んだ。
彼女の感情の機微を表すように。
ハルビアが表情を曇らせたのをみて、長はまた声をやわらげた。
「おまえはなにも案じることはないんだよ」
「けれど、私は」
春を望んだ。春を迎えるには、冬を終わらせなければならない。
そうしてそれを、旅人に頼んだ。
細やかな願いだったはずだ。
けれど冬の終結とは、あきらかなる変革だ。
町が変革を嫌うのならば、彼女の望みはいったい。
「おまえのことならば、すべて理解しているよ」
長の声は冬霞のように柔らかい。
「おまえは昔から春を望んでいたね」
こころを読まれ、ハルビアは身を竦ませた。けれど凍りついた彼女に差しだされる声は、変わらず穏やかだ。長は揺り椅子の動きにあわせて、気を落ち着かせる節で喋り続ける。
「幼い頃から、おまえはなにひとつ、欲しがらなかった。親を欲しがることもなく、玩具にも菓子にも執着しなかった。好物の菓子の残りの一個だろうと、誰かが食べたいといえば構わずにあげてしまった。
けれど、絵本のなかに春を見つけたおまえは瞳を輝かせて、それをねだったんだったね。はじめてだった。おまえがそんなになにかを欲しがるだなんてねえ。わがままなんて言わないこどもだったのに。おまえは絵本のなかの春を欲しがって、泣き続けた。なだめるのに、大変だったよ」
「そんなことが、ありましたか?」
「ああ、わすれもしないねぇ」
遠い日に想いを馳せて、長は微笑んだ。
語りつくせない慈愛が言葉の端々から滲んでいた。
「それからおまえは、春はやってこないのだと諦めた。ここには冬があるだけなのだと納得して。けれどほんとうは、諦めきれてはいないんだろうね」
慈愛の裏には憐れむような響きがあった。事実、憐れまれている。春などにあこがれなければよかったのに。そうすれば、決して逢えない風景に胸をこがすことはなかった。他のものならば、なんなりとあげられたのにね、と長は笑った。
慈愛と憐みはきっと紙一重だ。
「あの絵本は、まだ持っているのかい?」
頭巾と襟のすきまからのぞく緑の瞳が、愛娘を見つめる。
瞳を窺いながら、ハルビアは緩慢に頷く。
「あれは、父親のかたみですから」
「そうか。そうだったね。なにも言わなかったけれど、あの子も春に憧れていたのかねぇ」
父親を育てたのも長だったと、ハルビアは昔に聞き及んでいた。親子に渡り、世話をしてもらっている。不思議な縁だ。実の親子と変わらず、彼女は育ての親を信頼している。ハルビアは意を決して、「お願いごとがあるんです」と打ち明けた。
「実は、旅人さんから城にいってみたいと頼まれていて。隧道を抜ければ、城にいく道がありましたよね。隧道には鍵が掛かっていて、確か、その鍵はおばあさまが預かっておられたはず。隧道を通るのに、許可をいただけませんか?」
長は一考する。
長にすべての権限があるとは言えど、町の総意もなく猟場に通じる道を開放するのは難しいはずだ。まして相手は旅人。さほど長くないはずの沈黙にたえきれなくなって、ハルビアが「無理ならば諦めます」と言いかけた時に、長が逆に尋ねてきた。
「旅人は季環師かい?」
「季環師をご存知なのですか」
ハルビアが驚きつつも肯定する。
「いいだろう。町の者にはあたしが話をつけておくよ」
「ほんとうですか!」
歓声をあげて、いまにも抱きつかんいきおいでハルビアが身を乗りだす。
「あぁ、旅人にはエンダの隊を護衛につけてやればいい」
「エンダの、ということは自警隊ですか?」
戦争があった昔は、自警隊とは町を護る兵隊のようなものだったという。
現在は雪かきを含めた地域活動に勤しんでいるが、争いはなくとも脅威はある。
そのひとつが氷狼だ。氷狼は凶暴な猛獣だ。町の外部には大規模な氷狼の縄張りがある。町の者が縄張りのちかくを通らなければならない時の護衛は、自警隊の役割だ。偶に嵐にまぎれて、氷狼の群が町を襲うこともあり、有事の際に戦えるように隊員は訓練を積んでいた。
自警隊は現在でも、町を護るべく戦っているのだ。
「隧道のなかは入り組んでいるからね、旅人が城までいくのは至難の業だ。それに隧道を抜けてからも城のあたりには、凶暴な氷狼の縄張りがある。エンダがいれば、氷狼に襲われる懸念はない。見張り役をつけておけば、町の者も首肯するだろう」
そこまでは考えていなかったと、ハルビアは長のはからいに感激する。
「あの、おばあさまは、私の望みを……わかってくださるのですか?」
曖昧な言葉で尋ねる。長もまた、旅人のことは歓迎していないはずだ。それに長は春を望まない。どうしてこんなふうに頼みを受けいれてくれるのか。
「おまえの望みならば、できるかぎりは、かなえてやりたいんだよ。あたしは、おまえの味方さ。なにがあってもね。だからそんなふうに眉を寄せないで、笑っていて」
頬を包み込むように指を添えられた。
皺だらけの指。けれど暖かい。
「おばあさま、ありがとうございます」
気掛かりは残っていた。旅人を嫌い、変わることを恐れている群衆がこのことをきっかけに長を責めたら、どうすればいいのだろうか。長にはみなが信頼を寄せている。だからそんなことはあるはずがないのだが、ざわついた群衆の声を思いかえすと、背筋が凍える。
そんな彼女の杞憂を汲んでか、長は微笑んでみせた。
「わたしだけじゃない、町のものはみんな、おまえの味方だよ。おまえには、いや」
皺に縁取られた瞳が一瞬、ここではないどこかに映す。
「あのひとには、かえしきれないほどの恩があるのだから」
「おばあさま? いったい、なんの」
長は愛娘の知らない憂いをたたえて、過去の幻をまなざす。
瞳の表では、音もなく、黄金の焔が燃えていた。




