第一譚 《雪》の山脈と羅針盤の旅人
雪は祈りだ。冬の、細やかなる祈りだ。
豊かなる実りをもたらした大地を雪の真綿が覆い、新たな季節が巡るまで、眠りを施す。
雪は砦だ。時には墓にもなる。眠りは死と隣りあわせにある。眠っている時、生物の意識は死に傾く。大地もまた然りだ。草は根や種を残して散り、樹々も葉を落とす。雪に埋もれて眠りながら、ちからを蓄え、春を待ちわびる。
だから雪は祈りだ。生の祝福にも死の哀悼にもなり得る。
冬の山脈を旅する青年は、そのようなことを考えながら、また一歩、雪を踏みしめた。
青年は毛皮の外套を着て、輪かんじきを履き、豪雪の山岳地帯に挑んでいた。背には重荷を担いでいる。積雪の深さは予想がつかない。輪かんじきを履いていなければ頭まで埋まるか、彼の身長を遥かに凌ぐ雪の奈落に落ち込んでしまうことだろう。留まっていると身体の重みで段々と足場が沈下するので、青年は前に前にと確実な歩度を心掛けていた。
いまは晴れているが、いつ天候が崩れるかもわからない。山の天候は変わりやすいものだ。ましてや冬。山岳地帯を旅をするのにもっとも危険な季節だ。吹雪いても旅人に極寒を凌ぐすべはなく、雪崩に遭っても逃げ場はない。冬の雪嶺に挑むなど命知らずにも程がある。
それでも青年は黙々と、真っ新な大地に足跡を残す。
雪の大地はどこまでも純真だ。晴れた午後の日差しを受けて、きらきらと輝いていた。
ふり仰げば青。白と青の境界には、峰の稜線がくっきりと浮かびあがっていた。
前触れもなく、強風が雪氷を巻き込んで、吹きおろしてきた。
青空が霞んで、風景は白に覆われた。青年の視界も雪に塞がれる。
彼は外套のえりを握り、凍える空気を吸い込まないように堪える。ひるんでいるわけにはいかない。先ほどまでの視界を思いかえしながら、颪に負けじと歩き続ける。
「まさか、ここまで遠いとはねえ」
颪が落ち着いてきたのをみはからって、青年がぽつりと言った。
「だからいったじゃない! これじゃあなたが凍えちゃうわ」
雪の簾をかいくぐり、美しい少女が舞いおりてきた。
外套を巻きつけた背に、翼はない。
ひるがえるのは羽根ではなく、銀の髪だ。少女の髪は産まれたての雛ほどに柔らかく、それでいて純銀の硬質な輝きを帯びていた。うつむけば、髪に隠れてしまう輪郭はあどけなく、なめらかな曲線を象り、顎まで続いていた。可愛らしい唇には春薔薇のひそやかな露が乗って、つやつやと潤んでいる。果実の種子のようにつりあがった瞳が、青年の目線までおりてきた。
季節を問わずに咲き誇る大華が、瞳のなかに息づいているかのようだ。光が差すと紫になり、影が差すと青になる。雪を乗せた長い睫毛に縁取られた瞳が、青年の姿を映す。
「いまからだってかまわないわ。ひきかえしましょうよ。あなたが捜している町だって、雪に埋もれてほろんでいるに決まっているわ!」
雪のなかを進み続けて、すでに幾晩も経っているのであろう。食糧が減ってきていることを青年は背にかかる重みで常に意識していた。
されど少女の提案に青年は苦笑する。
「それはどうか、わかりませんよ? なにせ、昔に大雪が積もってそれきり、この冬の砦を越えられた者はいないんですから。旅人が町にいくどころか、町からやってきたものもいない。町が滅んでいないともかぎりませんが、町が滅んでいるとは言いきれません」
「着いてなんにもなかったら、頑張ったのがぜんぶ、むだじゃない!」
「ですが、声がしています」
青年は細い瞳を、さらに細めた。
「呼ばれているのに、いかないわけにはいきませんからねぇ」
霞が晴れて、また雄大な峰が姿を現す。
生物の息も絶えた大地の果てから、不思議な響きをともなった遠吠えが響いてきた。氷狼だろうか。それにしては、鐘が響くような、頭蓋を痺れさせる聲だ。だがそれは、またも頂からおりてきた地吹雪にかき消される。
地吹雪のなかでも彼は進み続ける。傾斜が増してきた。
風も地形も無視して少女は飛んでいる。外套と髪が風に曝されて、激しくたなびいていた。
押し寄せる時とおなじく、不意に風はとまる。
青年は坂を登りきったことに気がついた。正確には、人の足で登れる坂はここまでだ。ここからは坂が絶壁になっている。反りたった岩壁を登ることはさすがに不可能だ。
いきどまりかと青年が肩を落とす。だがなにかが目に止まって、青年は絶壁に走り寄った。
崖づたいに鉱物の杭と鎖が打ち込まれていた。崖をけずって造られた、道とも言いがたい足場が崖をくだるように続いている。いつ頃に造られたものかもさだかではない。それでも青年は先人が残した鎖場を進むことに決めた。鎖を握る。手袋をしていても、熱を感じた。蓄熱する特殊な鉱物で作られた鎖だ。ただの鉄だったら、とうに雪や氷に埋もれている。
ここを越えれば、峰々にかこまれた盆地までおりていけるはずだ。
青年は外套に手を差し入れた。羅針盤を取りだす。純銀製の蓋を開ける。磁針があるべきところには鏡が埋め込まれていた。これは、方角を知る為のものではない。鏡に波紋が浮かび、花の紋章が表れる。
「やっぱりいまは、《春》のはずですねぇ」
彼が言葉にした《季節》は、現実の風景からは遠くかけ離れたものだった。
眺める大地は雪に覆われ、肌を刺すような極寒がやわらぐことはない。
《春》の息吹は絶えている。
青年は意を決して鎖をつかんだ。始めは緩く、続けて体重を掛けられるか試す。取りあえず問題はなさそうだ。彼は慎重に、鎖場を進んでいく。
順調に進んでいたはずが、突然に足場が崩れた。
「っ……あ」
青年が鎖を握り締める。されど不運は重なるもので、鎖を繋ぎとめる杭が抜けてしまった。青年は雪と一緒に転落する。少女が悲鳴をあげながら、青年を追いかけ、急降下していった。
またひとつ、遠吠えが響いてきた。