双子の芸術家
『泉』と題された芸術作品があります。
もしかしたら、この題名を聞いて、美しい泉の絵か何かを思い浮かべた人もいるかもしれませんが、この作品、男性用の便器に架空の人物の署名がされてあるだけのものであったりします。ですが、それでも、かなり高い評価を得ているのです。もし値段を付けるのであれば、単位は億になるだろうと思われます。
この芸術作品に実体としての価値がないのは明らかでしょう。もし実体としての価値があるのなら、ただの便器に何億もの金額が付く事になってしまいます。では、一体、何にそれだけの価値があるのかと言えば、男性用便器に『泉』という名前を付けるそのセンスと発想力と独創性にこそ価値の本質があると言うべきだろうと思います。この作品に皮肉さやちょっと下品ではありますが、ユーモラスを感じるのは決して僕だけはないでしょう。
実はこれは他の数多の芸術作品にも同様の事が言えます。
芸術作品の価値には実体がない。社会が本当に評価しているのは、技術力の高さや労力や独創性にこそあるのです。だからこそ、芸術作品のレプリカや写真などは大きく価値を落としてしまうのでしょう。
……ですが、本当にそれだけなのかと言われると、それもまた怪しいのですが。
ある所に、双子の芸術家がいました。兄はアルファといい、弟はベータといいます。彼らは芸術作品はメッセージであると主張し、本当に人々の心に響く作品を描けば、世界平和だって実現できると信じています。
彼らの活動の舞台は主にストリートです。街中の壁や地面に自由に絵を描き、様々な人々に自分の作品を見てもらっているのですね。二人は協力し、彼ら独自の芸術表現を確立していきました。だから二人の作風は瓜二つで、クオリティもほぼ同じです。
狭い地域ではありますが、彼らの作品は徐々に注目を集めるようになっていき、やがては有力なギャラリーなどからも声がかかるようになりました。
「うちに、君らの作品を出品してみないか?」
アルファはそれに興奮しました。
「これはチャンスだよ、ベータ! 僕らの芸術を世界中の人に見てもらうんだ!」
ところがベータは乗り気ではありません。
「いいや、アルファ。僕らの芸術はそんなものじゃない。そういう所に作品を出すと、お偉い連中のご機嫌取りをしなくちゃならなくなる。僕らの芸術はもっと自由であるべきなんだよ」
二人はそれで喧嘩になりました。
アルファが「世界中の人に作品を見てもらわなくちゃ、世界平和なんて実現できない」と訴えると、ベータは「そんな落ちた作品を見せたって無駄さ」と返します。
そして、そうしてやがて二人は決定的に仲違いをしてしまい、別々の道を歩むようになってしまったのです。アルファは有名なギャラリーに出品し、ベータはそのまま街で活動を続けました。
ギャラリーに出品すると、アルファの作品は非常に高く評価されました。そして、その成功によって他のギャラリーからも声がかかりました。アルファはそれまで知らなかったのですが、美術館やギャラリーには社会的ネットワークがあり、一つのギャラリーで評価されるとネットワークで繋がった他のギャラリーに出品するチャンスに恵まれるようになるのです。その効果により、人気が人気を呼んで瞬く間にアルファは気鋭の芸術家の仲間入りを果たしました。そして、彼の作品にはとんでもない高額の値が付いたのでした。
アルファは有頂天になりました。
「やっぱり、僕の判断は間違っていなかったんだ!」
が、しかしです。
相変わらずにストリートで活動していたベータの作品には、そんな高額の値は付きませんでした。いえ、それどころか売れもしなかったのです。
これはとても奇妙な現象と言えました。二人の作品は作風もクオリティもほぼ同じです。つまり、実体は同じです。そればかりか、技術力も独創性も同じなのです。なのに、社会の中での扱われ方には雲泥の差ができてしまっているのです。
つまり、芸術の価値とは、ある種、約束事のようなものであり、“そこに価値がある”と皆が信じるからこそ価値が生じるものなのかもしれないのです。“幻想”と言い換えても良いかもしれません。
だからこそ、作者が死んでから評価される作品もあれば、盗難事件で有名になって爆発的に評価されるモナリザのような絵画だってあるのでしょう。
――ただし、芸術作品それ自体が、そこに全く影響していないのかと言われると、それも違うと答えるべきなのでしょうが。
アルファはとても苦しんでいました。
作品を発表した当初は、その斬新な発想が高く評価されていたのですが、最近では新しい発想が全く浮かばなくなっていたのです。
“これではいけない”
それは分かっていました。何かが以前とは違っている。何か?いえ、彼はそれを明確に自覚していました。
以前、自分は心から自分が良いと思えるものを形にするよう努めていた。だが、今は違う。評論家達やギャラリーから高く評価される作品を描こうとしている……
――だから、何にも思い浮かばないんだ。
世界平和を実現するような作品を作ると、本気で信じていた馬鹿で愚か、しかし純粋で美しかったかつての自分はもうそこにはいなかったのです。
苦しみ続けた彼は、やがてはドラックに手を出すようになりました。ドラックで酩酊した高揚感を作品にぶつけるスタイルに頼るようになっていったのです。それは思うような作品を作れない苛立ちやギャラリーからのプレッシャーも同時に忘れさせてくれるとても効果的な手段でもありました。
ですが、それは破滅の道を突き進む行為でもあったのです。
ドラッグは使えば使うほど、上手く酔えなくなっていきます。脳が刺激に慣れてしまうからです。ですから彼はドラックの量を増やすようになっていきました。
もっと、酔わなければ。
もっと、酔わなければ。
もちろん、そんな事をすれば、心と健康を蝕むのは当然の話です。そしてある日、彼はドラックのやり過ぎによる心臓麻痺で急逝してしまったのでした。
アルファの人生が幸福であったのかどうか、正しかったのかどうかは分かりません。ですが、ベータはアルファが思うように作品を作れなくなってからも、そしてドラックに頼るようになってからも、独自の作品世界を追求し、その作品は多くの人に感動を与えていました。相変わらず、少しも値段は付きませんでしたが。
“実体として”、この二人の芸術作品のどちらに価値が本当にあるのかは分かりません。ただそれでも、世界平和はまだ当分は実現しそうにありませんでした。
さんざん否定してきましたが、芸術作品にだって、実体としての価値はあると僕は考えています。
小説投稿サイトには、独創性もメッセージ性も全くないような作品が多数投稿されています。そしてそれらが非常に高く評価され、高い価値を持つという態で宣伝されてもいます。
これは一種の約束事のようなものです。
“その作品には価値がある”という約束事。
ですが、それら作品が書籍化されて出版されても、世間一般ではあまり高く評価されていないのです。
もし仮に“実体としての価値”がまるでないのであれば、小説投稿サイトで評価されている通り、世間一般でもそれら作品は高く評価されるはずでしょう。
――さて。
我々は芸術作品の価値をどこに求めるべきなのでしょうか?
この双子の話はもちろんフィクションですが、SAMOというアーティストのユニットで、似たような話ならばあります。彼らは双子ではありませんでしたが。