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お兄ちゃんのお嫁さんになるの



 小さな光が、空の彼方から舞い降りる。その空の下を、リュウは一人、歩いていた。

 目の前に映る病院から聞こえる患者同士の会話。それを聞いた瞬間、硬く凍り付いていたその表情は徐々に緩んでいく。


「ユメに会うの、久しぶりだな」


 傷む左腕を抑えながらそう呟くと、病院の入り口へ足を踏み入れた。





 少女・ユメは、自分のもとへ舞い降りた小さな光に向かって囁いた。



「大きくなったら、お料理たくさん覚えたいな。お兄ちゃんがお仕事から帰ってきたら、美味しいものを作ってあげるんだ」


 小さな光は、ただ静かに、少女の言葉を聞いている。


「お誕生日にはたくさんの苺が乗った、デコレーションケーキを作るの。お兄ちゃんびっくりするだろうなあ」


 彼女の嬉しい気持ちに、光は嬉しそうに淡く光を放ち、それを見たユメは愛らしい笑顔を浮かべた。


「大きくなったらね、お兄ちゃんに大好きって言うんだ」


 彼女の瞳はキラキラと輝き、光に向かって差し出した手は、自身の夢を掴むかのように差し伸べられ、その視線は空の彼方に向けられた。



「大きくなったら…」



 それは、ユメがずっと決めていた事。





「ユメはお兄ちゃんのお嫁さんになるの」





 ここは大きなキャンパスを構える【春田大学付属病院】

 患者の一人である、淡い色素にピンクがかかった、愛らしい髪色の少女・ユメはそんな事を毎日病院で語っていた。


 ここに務める看護婦の山本イチカは、2人を微笑ましく思う一方で、一抹の不安も感じていた。


 ユメの、兄への異様な執着心。

 そして、それに相反する純粋で素直な心。




「私、非常に萌えてるの。これって異常かしら」


「まるで漫画にあるような、近親相関ラブストーリーだからねえ…」




 自動販売機から缶コーヒーが音を立てて排出される音と共に、彼女の独り言に反応した言葉が病院の廊下に響いた。


「盗み聞きしないでくれる?シンジ」


「いや、イチカが勝手に喋ったんだろう?」


 イチカのひとつに束ねられた艶のある長い黒髪が地面に向かい項垂れている。その様子を見て、声の主は少し長めの茶髪を掻き上げると、その優し気な瞳を少しだけ細めた。


「おつかれさま。いつものブラックコーヒーをどうぞ」


 イチカは眼鏡越しに差し出されたコーヒーを眺めた。

 目の前の男・春田シンジはイチカとは同い年で、大学の同級生だ。2人は先輩たちに遅れて食事を取る事が多く、自然と短い休憩を共に過ごすことが多かった。


 明るく物腰柔らかなシンジの心地よい気遣いは、几帳面なイチカにとって、心地よく感じられた。


「噂をすれば、リュウ君が来たよ」


 病院内を小さな少年が一人で歩いていた。彼はいつも一人で、妹のお見舞いに来るのだ。


「様子がおかしいね、あの左腕…怪我してない?」


 シンジのその言葉に、イチカは眼鏡の端を持ちながら瞳を彼の方へ向け、そして思いついたように立ち上がった。


「行ってくるわ」


 リュウの後を追うイチカ。シンジは穏やかな表情でその後ろ姿を見送ると、自分の「持ち場」へ向かった。



 羽瀬田リュウと羽瀬田ユメ


 イチカとシンジは、この大学病院の患者である8歳の少女と、ひとつ上の兄のリュウを応援していた。ユメは笑顔がまるで天使のように可愛らしい少女で、リュウは普段は無表情だが、ユメの前でだけ微かに微笑む。


 2人は、まるで天使のようだと病院内で評判で、高齢の患者、病院スタッフ…皆がその笑顔に癒されていたのだった。








 204号室 羽瀬田ユメ


 ネームプレートがかけられた病室から、廊下まで届くような女の子の声が響いた。


「お兄ちゃん、痛い?痛い?」


 深い青の瞳は涙が浮かび、兄を心配そうに見つめるユメ。リュウは微笑んで、彼女の頭を優しく撫でた。


「心配はいらないよ」


「心配はいるのよ」


 驚いてリュウが横を見ると、薬箱を手に持ったイチカが立っている。彼女はリュウににらみを利かせるように、目線を合わせ、そして囁いた。


「大人しく治療を受ける事。いいわね」


「でも、僕お金が…」


 戸惑った様子のリュウの手を引き、イチカは彼の服の袖をまくり上げた。それは痛々しいほどに腫れ上がっており、骨は折れていないものの、激痛が彼を襲っている事は間違いなかった。そのあまりの症状に、ユメは青ざめ、その体は微かに震えている。


「オムライス作ってくれたら、チャラにしてあげるわ」


 そう言ってイチカが微笑むと、リュウは視線を落とし、小さく「ありがとうございます」と呟いた。

 治療中リュウは終始無表情で、イチカが「染みるわよ」と言って消毒液を塗っても、顔色一つ変えなかった。やがて治療が終わり、包帯を巻いた手を優しく叩く。


「これでよし、と。じゃあ報酬をもらおうかしら?食べたかったのよねぇ…リュウ君の作るオムライス」


 イチカがにっこりと微笑み、それを見たユメは少しだけむくれて、リュウの腕にしがみ付いた。


「お兄ちゃん、ユメも!」


 リュウは困った様子で、優しく微笑むイチカと、キラキラとした瞳で見つめるユメを交互に見た。やがて小さく息を吐き、彼は病院の調理場に向かっていく。




 リュウが出て行った後のユメは、笑顔で満たされていた。


「えへへ、久しぶりだなぁ…お兄ちゃんのオムライス」



 初めて病院に来た時、ユメは両親のいない寂しさで毎日泣いていた。

 当時5歳だったリュウは、そんな妹になんとか笑顔になってほしくて、妹が大好きだったオムライスを不器用ながらに作ったのだった。


 母親の作る味を思い出しながら一生懸命作った、ボロボロのオムライス。ユメはそれを見て笑顔になり、その様子にリュウは微笑んだ。それから彼女は兄が病院を訪れる度に、オムライスを作ってほしいと願うようになった。


 ユメはリュウの作る料理が大好きだった。自分だけに向けてくれる微笑が好きだった。


 しかし、一方でユメは不安も感じていた。


(お兄ちゃん、いつもどんな仕事をしてるんだろう…)


 兄の怪我の事を想いながら、心の中で、危ない事はしないでほしい。そんな不安が常に彼女の心を曇らせていた。




 病院の調理場。

 院長の息子であるシンジは、皆を帰らせた後、ここに来ると思われる訪問客を待っていた。


「やあ、リュウ君」


 現れた小さな訪問客は、礼儀正しく頭を下げ、シンジの用意した食材を慣れた手つきで調理していく。鶏肉を炒めるバターの良い香りで満たされた調理場。黙々と調理するリュウを、シンジはただ静かに見守った。そして、初めて作った頃より、ずっと手慣れた手つきで調理をする様子に微笑んだ。


「将来はコックさんかな?」


 シンジのその言葉に、リュウはしばらく黙ったまま、フライパンを返した。

鮮やかに翻されるチキンライスは、彼の料理の腕がなかなかのものであることを示しているようだった。


「それは、難しいと思います」


 無表情のまま、並べられた皿にチキンライスを盛り付けていく。そして今度は卵を割り始めた。


「もったいないな、いいシェフになると思うけど」


 そう語る一方で、シンジはリュウの年に合わない腕力を不思議に感じていた。


(9歳の子供が、片手でフライパンを軽々と使いこなすなんて、ね)


 リュウは後片付けまでしっかりこなし、几帳面でいい子だ。しかし、大人びた表情に、年に合わない能力の高さ。最初の頃は軽く追及したが、リュウがそれについて語ることは一切なかった。






 しばらくして


 ユメの病室には4つのオムライスが並び、美味しそうな香りを漂わせていた。



「せっかくだから、僕も一緒させてもらおうかな」



 イチカの隣にシンジも腰かけた。出来上がったオムライスは、ユメが大好きなふわとろ卵がたっぷり、チキンライスはユメの好みに合わせて甘めの味付けになっていた。


「お兄ちゃんの、ユメが書く!」


 ケチャップを手に取り、リュウのオムライスにハートマークを書くユメ。それを見て困ったように微笑むリュウ。そして、ユメもリュウにケチャップでオムライスにハートを描いてもらうのが恒例だった。その愛の強さに、イチカとシンジはは思わず苦笑した。


「本当、仲がいいわね」


「ユメ、お兄ちゃんのお嫁さんになるんだもん」


 そう言って、リュウが作ったオムライスを幸せそうに食べるユメ。イチカとシンジは、そんな2人を微笑ましく見守った。



 いつかユメが退院し、2人が幸せに暮らす未来ーーそんな日が来ればいいのにと、どんなに願っただろうか。




「持って、あと2年といったところでしょうね」




 それはつい先週、ユメの主治医が放った一言。幼い少女に突きつけられた現実は、あまりにも残酷で、無慈悲なものだった。

 羽瀬田兄妹に親はいない。イチカはユメの面倒を見ている者として、それをリュウとユメに伝えるかの一任を任された。重苦しい気分が襲い、彼女は酷く悩んだ。



(言えるわけ、ないじゃない)



 先日のリュウの怪我。あれはただの打撲ではない…同じような怪我をした人間をイチカは見て来た。


 それは、闇の組織で働く戦闘員…。


 もし、リュウが法の裏側で働いている子供だとしたら。ユメの為に自身の一生を犠牲にしているとしたら。そして、どんなに働いても、ユメを救うことは出来ないという現実を突きつけられたら。



 そして、何より



「ユメはお兄ちゃんのお嫁さんになるの」



 少女の純粋な言葉が、イチカの心を強く圧迫しているようだった。



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