2話 ある青年の怒り
「場所を変えるか・・・大事な話と言ったら屋上だろ?」
何様のつもりなんだ、この男は。と、そうは思うのだが、場所を移してサシの会話をすることについては賛成だ。
「危ないよ!道明寺くんまでやられちゃうかも!」
理由は、このお気楽な大衆である。羽虫のように鬱陶しく、見え透いた好奇心が不愉快極まりない。僕を気遣うような台詞を吐くが、怒りを表した僕が珍しく、興味本位で傍観したいだけだろう。外野は黙ってくれと言われて尚も囃し立てるのが、自分たちは悪を糾弾する内野、当事者だという思いからなのだとすれば、もう救えない。
「大丈夫だ。分かった、要求を呑もう。」
だから、僕はこの男の醜い要求に乗ることにした。『みんなに悪口を言われない場所に行きたい』とでも思っているのだろうが、その浅はかな願いが叶うのは癪だと、そう感じるような僕ではない。男は醜悪にも安堵の表情を浮かべ、荷物を大事そうに持ちながら立ち上がった。
「・・・お前みたいなのがいるから、ね。楽しいことを言ってくれるじゃないか。」
教室を出てすぐ、男は大衆に聞こえないよう捨て台詞を吐いた。そうでもしないと気を保てないのだろうが、本当に救い難い。しかし僕は聞かなかったことにして、学校の薄汚れた階段を上った。
「・・・。」
僕は屋上へと続く扉のノブに手をかけ、開く。扉を押さえてやると、彼はおそるおそる、おもむろにそこを通った。
「ああ、これはどうも。・・・おお。人っ子一人いないのは、やたら長いあの階段のせいか・・・?まあなんにせよ、こいつはいい気分だ。昼飯スポットにするのも悪くない・・・っと、悪いな。なんの話だったか。」
能天気なことを口ずさむのは、自分が悪だと気づきたくないからだろう。だが、僕は情けをかけてやる気なんてない。彼女を傷つけたこの男だけは、絶対に許すわけにはいかないのだ。
「玲子は・・・玲子はつい最近まで虐められていたんだ。それがやっと収まったのに、今度はお前が虐めるのか!玲子に謝れよ!!」
謝ったところで、許されるべきじゃない。だが、必死に謝ったこの男に『許されない』という現実を突きつけでもしなければ、彼女を包んだ悲劇の結末は余りにも惨すぎる。
「・・・俺の前のそれは、どうして収まったんだろうな?」
そんな僕の怒りを他所に、この男は話を逸らそうと企てているようだ。だが、彼女の苦しみが伝わることなどないと分かっていても、僕は言葉を紡いでしまうのである。
「彼女は別の女子たちに陰口を言われていたんだ。そこに僕が割って入って、陰口だって立派ないじめだからもうやめろと言ったら、すんなり受け入れてくれたよ。」
前は陰口で、今度は暴力だ。彼女に罪はないのに、形容しがたい悪者どもは彼女に群がって、彼女はいつも傷つけられてしまう。だからこそ、僕が彼女を護るのだ。今回も僕が、彼女を取り巻く悲劇に終止符を打つ。
(僕が、彼女のヒーローになるんだ。)
さびれたコンクリートの屋上に、僕がそう誓った、直後である。
「・・・・・・で、どうして俺が謝るんだ?───」
「──ッ!!!」
考えるより先に、身体が動いた。僕は怒りのままに握りしめた拳を、男の顔面に放ったのだ。
ところが、どうしてだろう。この男は怯みもせず、ただ少し不機嫌そうな表情をするのみなのだ。
「・・・あーあー。十七にもなって、人を殴るんじゃあない。成熟したのは拳だけか?・・・っと、それは俺もなんだったな。」
頬を擦りながら強がる男に、絶句する。この悪は、何処まで醜ければ気が済むのだろう。自分がしでかしたことを、よくもまあ冗談交じりに呟けたものだ。成熟したのは拳だけ、そっくりそのまま返そうじゃないか。お前は拳を振る理由を邪悪に染め上げ、恥ぢもせずに清いものを殴った。力は、誰かを護るために振るうものだ。気に食わないものをいたずらに傷つけ、お前は誰かを護るための拳で、誰かを傷つけたのだ。それがどれだけの悪か、お前は想像もできていないのだろう。虫唾が走る。彼女への、大切なものへの想いを、僕はこの時ありったけ燃やした。
ちょうど、そのときだった。
「・・・いや、もうお前には隠す必要もないか。・・・何度でも言うが、よく聞けよ道明寺。本当に雨宮を殴ったのは、虐めを悪化させたその女子たちだ。」
「・・・は?」
「──もう一度言うぞ。お前は、虐めを悪化させたんだ。」