あなたの遺した春の中で
きっと、これは、ありふれた別れなんだろう。
同級生の中にも、既に祖父母を亡くしている奴は結構いる。
人間、年を取れば、いつかはそういうことになるんだから、当たり前のことなんだ……そう、自分に言い聞かせようとする。
覚悟を決める時間なんて、たくさんあったはずだった。
おばあちゃんは、いわゆる余命宣告というやつを受けていて、残された時間が一日一日と減っていくのを、カレンダーを見るたび、思い知らされていた。
その一日一日を数えるたび、身の竦むような思いでいた。
病院のベッドに寝たきりになったおばあちゃんは、会いに行くたびに、どんどん小さく、細くなっていって、時々ハッとするほど存在感を失くしていた。
確かにそこに横たわっているはずなのに、一瞬ベッドと布団しかないように錯覚するほど、身体の厚みがなくなっていた。
そのうちそのまま、いなくなってしまうことを、そこからもひしひしと感じていた。
悔いが残らないように、なるべく多くの時間を一緒に過ごした。
休みのたびに会いに行って、おばあちゃんの喜びそうな話をいっぱいした。
楽しそうに笑うおばあちゃんの顔を、忘れないように胸に刻みつけていた。
そうやって、少しずつ、別れの準備をしてきたはずだったんだ。
きっと俺は、幸せな方だったのだろう。
生まれてから十五年も、同じ家でおばあちゃんと過ごすことができた。
父さんや母さんに叱られた後には、味方になって慰めてもらえたし、花火やお祭りに行く時には、ティッシュにくるんだお小遣いを、こっそり手渡してもらったりもした。
こんなにたくさんの優しい思い出をもらっておいて、まだ足りないなんて言っていたら、きっと罰が当たる。
そう、頭では思えるのに……。
泣かないよう必死に耐えるばかりだった通夜と葬式が終わって家に帰ると、なんだか世界が何分の一か欠けてしまったような、妙な感覚に襲われた。
今まで当たり前にそこに在ったものが、もう永遠に喪われてしまった――その、途方もない、飢えにも似た、物足りなさ。
葬儀のために着ていた制服を着替えて、特に目的もなく家の中を歩いた。
食卓の茶筒には、おばあちゃんが厚紙に書いた「薬」の文字が、輪ゴムで留められたままだった。
飲み忘れないようにと、菓子箱を切り抜いて、その裏にマジックで丁寧に字を書いていた、おばあちゃんの背中を思い出す。
椅子から座布団がずり落ちないよう縫いつけられた白い平ゴムも、物をかけるために柱に打った釘も……。
おばあちゃんはもういないのに、おばあちゃんのつけた痕跡が、そこかしこに遺されている。
ひとつひとつ、その痕を辿るようにして、庭に出た。
おばあちゃんが元気な頃は、草取りをしたり花を植えたりして、熱心に手入れしていた、小さな庭。
他の家族は庭いじりに興味が無かったから、この庭はほとんど、おばあちゃんが造ったようなものだ。
おばあちゃんがコツコツ造り上げた、小さな世界。
いつの間に季節が変わったのか、梅の木には一輪、薄紅の花が咲いていた。
生きた証と言うには、あまりにもささやかな……それでも確かに、おばあちゃんがこの世界に遺したもの。
もう、この世界のどこにも、おばあちゃんはいない。
欠けた世界は永遠に、元の形に戻ることはない。
だけどこの世界には確実に、おばあちゃんの“名残”がある。
きっと、歴史に刻まれるような偉人ではなくても、人は生きているうちに何かしら、この世界を変えている。
庭の形だったり、座布団のゴムひもだったり、書き残された文字だったり……。
誰も目に留めないような、ちっぽけで些細なものだったとしても、その人がこの世界にいなければ、存在しなかったはずのものばかりだ。
目に見えるものばかりじゃない。
この町のそこかしこに、おばあちゃんの踏んだ足跡がある。おばあちゃんの触れた手の痕がある。おばあちゃんの吐いた息が、どこかの空を巡っている。
おばあちゃんがこの世界で生きた数十年の間の何かが、この星のどこかに刻まれている。
その呼吸や代謝や、数十年分の生命活動によって遺してきた化学変化が、おばあちゃんの生まれる前と現在とで、世界の何かを変えている……そんな風に思う。
おばあちゃんが今年は見ることのできなかった梅の花を見上げながら、その数十年分の軌跡を想った。
俺の胸に刻まれた、おばあちゃんの思い出。
俺が生まれるより、ずっと前から続いてきた、俺の知らないおばあちゃんの人生。
春とはまだ名ばかりの、寒々とした庭を見れば、いつかここに立って、この木を見上げていたであろう、おばあちゃんの幻が見える気がする。
古い写真の中でしか知らない、子どもの頃のおばあちゃんが、道を駆けていくのが見える気がする。
あの道の上を、この大地の上を、これまでにどれだけの命が駆け抜けて行ったんだろう。
今はもう、この世界のどこにもいなくても――思い出すら、いつかひとつ残らず消え去ってしまうとして……その人生は、無かったことになんてならない。
目に見えるものと、見えないもの……その人生の痕跡が、この世界には、きっと在る。
泣きたい気持ちを持て余したまま、おばあちゃんの遺した梅の花を、もう一度見上げる。
これからもたぶん、こうやって、俺の世界は欠け続けていくんだろう。
新しい出会いで、欠けた部分が満たされるとしても、元通りの形には決してならない。
それでも俺は、生きていくんだろう。
俺自身もまた、自分の生きた痕跡を、知らず知らずのうちに、この世界に刻みながら。
大切な人によって変えられてきた――大切な人の遺した、この世界の中で。
おばあちゃんの最期の吐息は、今、この世界のどの辺りを巡っているんだろう。
もしかしたら気づかないうちに、俺の横を通り抜けたりしているのかも知れない。
そんな他愛のない空想に浸りながら、二月のまだ冷たい風に浸った。
おばあちゃんの遺した、ささやかな春の証が、その風に揺れていた。
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