そしてケンタは十億円を手にいれた
1
ケンタは走っていた。宝くじ販売店に向けて、全力疾走だ。
その手には宝くじがある。一等──年末、戯れにかった一枚のそれが見事、一等の十億円を当てて見せたのだ。
「やった、やった。やった!」
狂気の沙汰で喜ぶケンタ。彼は売れないミュージシャンで、この間もライブハウスでギターをかき鳴らしてみたものの、前座も前座の扱いで誰一人として気にしてくれるものがいない、日陰の蒲公英のような男だった。
もう歳も30近い。親からは冷たい目で見られ、半ば見限られている。そんな彼に降って沸いたこのあり得ない慶事。これこそまさしく天の配剤なのだとケンタは笑った。
「これで一生、何の不安もなく過ごせる。つまらないバイトだってしなくて良いし、親の目を気にすることもなくなる。ギターだって買いたかったものを買って、好きに毎日、楽しむことができる。引っ越しするのも良いぞ、ボロアパートを抜け出て、高層マンションの一番高いところに住むんだ」
やりたいことがどんどん溢れてくる。今までは別段、不満に思うこともなく仕方のないことだと受け入れていた現状が、どうしようもないみじめなものに思えてしまう魔力が、十億円にはあった。
走る、走る。
宝くじを買ったあの店は、ここの角を曲がればすぐだ。
興奮のまま、角を曲がって、そして──
「ひやぁあああああっ!?」
「──うおお!?」
空から降ってきた女が、勢いよくケンタに覆い被さった。
堪らず女ごと転けるケンタ。そして。
「んんんあああああああ!? お、俺のおおおお!!!」
拍子に手から離れた宝くじが、道路の排水溝のグレーチングへとひらり、舞いながら吸い込まれていった。
「うぎゃあああああああ! あ、あ、アアアアアアアアア!?」
絶叫して女を退かし、ケンタは排水溝を覗き込んだ。運悪く、底が深くて見えない程の暗さ。
中に入ろう、そう思ってグレーチングを外そうとするが、考え直さざるを得ない──底が見えない程の奥、おそらく排水路に直結しているそこに、この冬場、飛び込むのは危険が過ぎる。
「あ、あの……」
役所に連絡をいれて、捜索してもらえないか頼もうか? ……考えるまでもなく、その頃にはもう宝くじなど宝くじではなくなっているだろう。薄っぺらで弱々しい紙切れ一枚など、たとえそれが十億の価値があろうと水に浸かれば簡単に千切れてしまう。今この時にももう、藻屑と成り果てているかもしれない。
「あの、もし?」
「……あ、あ」
消えた。十億が、消えた。俺の十億が。
呆然と、ケンタはへたり込んだ。すべて、すべてが泡に消えた。満たされた人生も、新しいギターも、高層マンションも何もかも。
「もし、あなた様? お怪我はありませんか?」
「あ、あああ、ああああ」
震える。吐き気がする。頭痛がするし、涙が出てくる。
今この瞬間、人生が終わったのだとすら思える。
「あなた様?! どうなされたのですか、あなた様!?」
「ああああああ──!」
瞬間的に、ケンタは先程からうるさく声をかけてくる女の方に向き直った。殴ってやりたいとさえ思った。いや実際、拳は握られていた。
だが、彼女を見た瞬間にそれは止まった。あまりにも超常的な美貌の女が、そこにいた。
金髪碧眼が麗しい、小柄な女だ。顔立ちはこの世のものと思えないほどに整い、ケンタには眩く映る。
何やらファンタジーのような、薄絹にところどころ宝石をあしらった出で立ちをしていて、そんなだからか抜群のプロポーションが惜しげもなく披露されていた。人気のない夜道ゆえ良いものを、日中であれば紛れもなく人々の目を引いていたことだろう。
何よりも耳が、尖っていた。物語に出てくる、エルフのようだ。
「あ──」
「あなた、様?」
息が止まるような心地。
ケンタは十億と引き換えに、推定エルフの超美人と出逢った。
2
露と消えた十億はさておき、ケンタは推定エルフの女を家にあげた。疚しさは無かったとは言えないが、それよりはいきなり空から降ってきて人の人生をめちゃくちゃにしてくれたことへの、抗議の意図が強い。
女、エリスという名の美人はケンタの事情を聞くなり、すぐさま深く頭を下げて謝罪した。
「もうしわけありませんケンタ様! わたくしがご迷惑をおかけしたせいで、ケンタ様の人生が……わたくしは、なんてことを」
そんな風にして、更にはらはらと泣き出すものだから、ケンタにはそれ以上何か言う気にもなれなかった。女の涙は武器だ、ましてやそれが信じがたい美女のものならば、必殺の。
毒気が抜けて──怒りは燻るが、冷静さは取り戻した──ケンタは今度、エリスの事情を聞いた。下手に首を突っ込むのもどうかと思ったが、そこは男らしい、美女との縁は損ねたくないという心理も働いている。
エリスの境遇とは以下のようだった。
「こことは異なる世界にて、エルフという種族の姫だった私は……戦争に巻き込まれた折、代々伝わっていた転移の秘法で逃げたのです。長老がたが、逃がしてくれました」
世界規模の戦争があり、それに巻き込まれたエルフの姫エリス。彼女の身に危険が迫り、時の長老たちの力で異世界へと逃がされたのだという。
涙ながらに語る彼女の話が真実かどうか、ケンタには判別がつけられない話だった。
普通に考えれば得体の知れない女の妄言なのだが、それにしては語り口が迫真だし、何より見るからに異世界の、ファンタジーの住人である彼女だ。そういうこともあるのかと、何となく呑み込む外ない。
「これから、どうすれば良いのでしょう……ああ、けれどケンタ様の人生を台無しにしてしまった、罪償いをしなくては」
「え……あ、うんはい」
「不束者ですが、何卒よろしくお願いいたします」
何やら、罪悪感からケンタの身の回りを世話してくれるつもりらしいエリス。年頃の男のケンタには当然、疚しい感情も湧くが──
「よ、よろしくお願いいたします」
衝撃的な展開の連続、はたまたエリスの色香に圧倒されてか、もう疲れたから寝かせてほしいという思いの方が強く。
とりあえずケンタは、十億のことは夢か何かだったと思って寝ることにした。
3
エリスの存在で、ケンタの生活は一変した。
「ケンタ様、おはようございます。朝御飯をご用意しましたので、一緒に食べましょう」
朝早く起き、甲斐甲斐しく食事を作ってくれる。
「お仕事ですか? お疲れ様です、無理だけはなさらないでくださいねケンタ様。行ってらっしゃいませ」
高々数時間のバイトに出るケンタを、全力で慈しみ見送ってくれる。
「お帰りなさいませケンタ様、お疲れ様でした。うふふ、日も暮れてませんね、デートなんてしませんか? あ、家でゆっくりするのも良いですね」
帰って来たケンタを労い、外に出れば腕を絡めてくれる。家にいても、膝枕などして癒してくれる。
「ケンタ様のその、ギターですか。素敵な気持ちになります。ギターの音色もですし、それを弾いているケンタ様も、格好良いです」
何よりケンタの、ギターを弾くところに夢中になってくれる。これが一番、ケンタには堪らなく嬉しいことだ。腕こそあるもののぱっとしない、地味な印象の付きまとうケンタが、こうして手放しで賞賛されることなどこれまでになかったのだ。
「おやすみなさい、ケンタ様……また、明日を一緒に迎えましょう」
そして寝る時、そう言ってくれるエリスが、ケンタはどんどんと愛しくて堪らなくなっていた。十億などより、遥かに価値がある生活。
最初は邪な気持ちもあったが、今となってはそんな気持ちなど露とてない。エリスを汚すなどあり得ないことで、むしろケンタは、エリスに何かをしてやりたい気持ちで一杯になっていた。
そんな生活が半年続いた頃。エリスに、迎えが来た。エルフの男で、エリスの従者だったというケーシイがやって来たのだ。
「姫! よくぞご無事で、さあ帰りましょう!」
「ケーシイ! 貴方、どうしてここに!?」
「転移秘法にはその帰還方まで記されていました。それを用いてお迎えに上がった次第」
銀髪の、背の高い美男子だった。少なくともケンタとは比べ物にならない。そんな彼がエリスと並ぶのだから、絶世の美男美女カップルにしか見えない。
ああ、夢が終わるんだなと、ケンタは思った。そもそも異世界の、エルフの姫だなどと……その直前の十億当選からして、既に夢だったのだとケンタは悟った。
けれど後悔のない夢だ。この半年で、ケンタは一生分の幸せを得たと確信している。この半年があれば今後、何もない虚無の一生を過ごしたとしても……満足して、死んでいける。
そう、決意して微笑むケンタに。
「嫌です、帰りたくありません! 私は、私は……ケンタ様と添い遂げたいのです!」
「姫様!?」
「エリス……!」
エリスはひしとしがみつき、愛を叫ぶのだった。
4
ひとまずケーシイはケンタの隣室に住むこととなった。エリスの変心を期待して、根気よく待つつもりのようだった。
とはいえケンタと仲が悪いかと言えばそうでもない。むしろ友人にも近い立ち位置になるほどに親しくしてくれ、エリスとの出会いのきっかけとなった宝くじの一件に関しては、
「それは……申し訳ない。うちの姫様が迷惑をかけた。十億はさすがに無理だができる限りの補填、補償ができれば良いのだが」
……などと、ひどく気の毒げに同情してくるのだ。間違いなく悪人ではないのだな、と、ケンタにもそれが伝わるような声音だった。
更に数ヵ月が経ち、もうすぐエリスと出会ってから一年が経とうとしていた。この頃になるとケンタの音楽活動にもようやく、開花の兆しが出ていた。
というのも、ケンタの作曲した曲が音楽関係者の目に止まり、メジャーデビューとはいかない状況にしろ、箸にも棒にもかからないといったこれまでの状況からは抜け出せつつあるのだ。
「ケンタ様、良かったです……けれど少し、恥ずかしいですね。私を想っての曲だなんて」
そう、エリスがはにかむ。ケンタが作った曲は彼女を想い、彼女を愛するがゆえに書き連ねたものだ。ついに二人は恋仲となっていた。
これまでケンタになかった、燃え滾る恋慕がすべて込められたその楽曲だからこそ、人々の目に、耳に留まったのかもしれない。
改めて、エリスを見つめる。エリスもケンタを見つめ返した。
「ありがとう、エリス。君がいるから、俺は幸せにいられる。これからもずっと傍にいてほしい」
「はい、ケンタ様。私は、きっとずっとあなた様の傍で幸せでいます」
このような有り様だから、ケーシイとしては喜ばしいやら悩ましいやら複雑な心境だ。
エリスが愛する人を得たのは喜ばしい。ケンタも良い男であるのだし、二人が想いあって結ばれたのであれば素直に素晴らしいことだと祝いたい。
だが、根本的にケンタとエリスは住む世界が違うのだ。文字通り、『世界』単位での話だ。
転移秘法は一時的な緊急避難術でしかない。異世界に定住することを前提となど、していない。それを無理に留まろうとすると、何が起こるのか──ケーシイにもそれは、分からないことだ。
「異なる世界の神よ。願わくば、愛し合う二人に幸あらんことを」
不明瞭な未来に、不安に、ただ祈る。
笑い合う二人と見守る一人。
けれど虚しく終わりは来た。世界は、二人を許さなかった。
5
ケンタのメジャーデビューが決まった。エリスを想っての曲が脚光を浴び、ケンタ自身にもチャンスが訪れたのだ。
「これもエリスのお陰だ、ありがとう……愛してる」
「はい、ケンタ様。わたくしも愛しておりますわ……この子も、もちろんです」
愛を囁くエリスは、愛しげに腹を擦った。子ができたのだ。毎日を共に過ごす恋人二人の、当たり前のなり行きであった。
ことここに至ってはエリスもケーシイも、可能な限りこの世界に留まるつもりでいる。子ができた以上ケンタとは分かちがたいのだし、何よりエリスがそれを望んでいる。
そして数ヵ月後、エリスの腹が少しばかり膨らんできて、ケンタがミュージシャンとしての活動と父親としての勉強に精を出す傍ら。二人は住み慣れたボロアパートを引き払い、マンションに引っ越すことにした。
高層マンションの最上階ではない、むしろ最下層で家賃も安く狭い部屋だが、二人といずれ生まれ来る一人の愛の巣としては上等の部類だろう。
「良い部屋だ! これから俺、どんどん頑張るからなー!」
「頑張ってくださいね、ケンタ様。ケーシイもありがとうね、わざわざ隣の部屋に越してくれて」
「何の何の。姫とケンタがいるところ、私のいるところでございます」
付いてくる形で隣にやって来た、ケーシイも含めて。すべてが順風満帆だ。
ケンタは深く感じた──あの時、エリスと出会えてよかった。十億よりもずっと価値のある、愛を手にできた。友さえできたのだ、百億でもきくまい。
涌き出る愛と感謝を以て、ベランダから遠くを眺めてから。
ケンタは振り返った。そこにいるエリスもケーシイに、ありがとうを言いたくて。
「ありがとうな、二人とも。これからも、よろしく──」
──そこには、誰もいなかった。何もない。
がらんどうの部屋。ぽつねんと、ケンタが一人、
うん、とケンタは呟いた。
「誰によろしく、なんだ? 独り暮らしってのに」
そうだ、ケンタは独身だ。一年ほど前、宝くじで十億を引き当て、それを皮切りにミュージシャンとしてもメジャーを目前に控えている、独り身の男。今日からこの高層マンションの最上階で住むのだ。上層のベランダから、下層の下界を見下ろしたのだ。
だが……不思議な違和感がある。ケンタはギターを手にした。弾き慣れた曲を引く。
「……? 何だ? 何で、泣いてるんだろう、俺」
誰かのためにこの曲を書いた気がする。そんなはずはないのに。
十億よりも大事な誰かがいた気がする。そんなわけないのに。
だのに、涙はどうしてか止まってくれなくて。
「……」
夕暮れ時、泣きながらギターをかき鳴らす。応えてくれる人は、いなくて。
ケンタは十億と引き換えに、最愛のエルフを失った。
夢ではこの後ケンタが異世界転生してエリスと再会しました