朝食
その指先は少女の手の全長よりも長く、関節の数も人間より多い、それなのに並んだ五本の指がくっついた手のひらは指の長さの比率で見れば割に合わないくらい狭かった。正常な人間の手のひらで例えるならその半分ほどの広さもない。加えて腕は少女の背丈ほども長く、足の長さに至っては少女の背丈以上だ。
その体躯だけでもはや化け物じみているが、極めつけにソレには顔が無かった。
更に正確に言うと人間でいう首を含めた頭部が無かった。
その体に人間らしい色はなく、どこもかしこも真っ黒で質量と体積を持った影の塊と例える他ない。
それなのに少女の体よりも何倍も広い上半身にはよくよく見れば衣服のような皺があって、少女の足よりも何倍も長い足には猟師の革靴のような質感がある。だから、人間からかけ離れたこんな異体でも当たり前のように靴や服を身に付けているのかもしれない。
結局、その体は肩の頂点から足のつま先まで影絵のように真っ暗で衣服と肌の区別すら付かないけれど。
化け物じみた体躯の割に、こうして触れられる距離まで近づいて見れば、至る所になぜだかヒトらしさを感じとる事の出来る男の姿は、いつもどこか滑稽なものの様に少女の目に映り込んでいた。
ハウスの外壁に絡んだツタの天然のカーテンに遮られながらも室内に入り込んだ僅かな陽光が、穏やかな朝の訪れを知らせる。
眠っている間、無意識のうちに胸の前で握り込んでいた黒い布を手放す。そのまま毛布の中で真っ直ぐに腕を伸ばせば、手のひらがすぐ隣で体を横たえていた黒い影の背中にべたりと触れた。手のひらを筋張った硬い弾力が押し返す。
ギシ
寝息一つ零さない異形の影も、背中に無遠慮に押しつけられる小さな手の平はこそばゆかったのか、身動ぎをひとつ。その身じろぎはベッドのスプリングに軋んだ音を立てさせる。
「よっ」
掠れた一声と一緒に、毛布を巻き込んで跳ね起きる少女。
目覚めには勢いが必要だ。朝だと気づいた瞬間に、勢いよく毛布の中から顔を出して、窓から差し込む日光を受けてないといつまでも時間が許すまで眠ってしまうのだから。
ましてや現在は、昔と違ってどれだけベッドの上で微睡んでいても誰も咎めてくれないのだから。
ギシリ
寄り添っていた温もりを失ったせいか、その大きすぎる巨体でベッドの半分以上を陣取っている異形の影はもう一度、身動ぎをひとつ。
ベッドから抜け出した少女は窓辺で気がすむまでが朝の陽光をその身に浴びる。衣服の皺と乱れている髪を撫でつけて直し、頭の内側では起きてからやることを一つづつ考えていく。
顔を洗って、畑に水をやって、朝食を作る。今朝は何を作ろう。パンと卵が余っていたし、畑の野菜にも収穫の頃合いのものがいくつかあったような気がする。昼には買い出しに街に行くつもりだから、いつもより時間をかけて少し豪勢な朝食にするのもいいかもしれない。
気のすむまで日光浴を終えた少女はベッドの方へと戻る。未だ微睡みの中にいるらしい異形の姿を眺めた。そして、ばさりと毛布を広げて掛け、小さな欠伸をひとつこぼした後、少女は静かに寝室を後にした。
***
時間の概念が曖昧な森の中で生活を送っていても、人間の習慣というものはそうそう抜けはしないらしい。
事実、少女は大体いつも同じ時間に眠りについて、大体いつも同じ時間には起きて、いつも通りの朝の準備を始める。そうして朝食を作っている頃合いには丁度、起きてきた異形がリビングの開ききったドアの傍に立って、部屋の中をのぞいているのだ。
異形は毎朝、ドアの傍でぴたりと足を止める。そして、その姿を見つけた少女が声をかけるまで部屋の中へと入ることをしない。
「おはよう。スレンダー」
コン
木枠を軽く叩く音。頭も口も言葉も持たない異形はそうして毎朝、少女にオハヨウというように挨拶を返す。それが二人にとっての意思疎通の方法であり、異形なりの朝の挨拶。……少なくとも少女はそう思っている。
挨拶を交わしてようやく、異形はのっそりと緩慢な動きで部屋の中へ足を踏み入れる。たったの数歩で自らの席、ウッドチェアにたどり着いた異形は長い指を引っかけて椅子を引いて、座る。椅子に座った異形の姿は傍から見れば、胴と手足の寸法を間違った真っ黒い人型の影が座っているかのようにも見える。
そうして椅子に腰を落ち着けた異形はキッチンで朝食を作る少女をただ静かに眺めるのだ。
何も言わず、ただじぃと視線を向ける。
向ける目すらないのに、視線を感じるなんておかしなことだと思いながら、確かにはっきりと見られていると確信する少女は時折異形の方を振り向いて、「……あんまり見られると恥ずかしい」とはにかんで言うのだった。
真っ白な皿の上に乗っているのはオーブンでカリカリに焼いたパンの上に水にさらした瑞々しいレタスを敷いた後、蒸した鶏肉と玉ねぎをブラックペッパーをかけてさっと炒めたものを乗せ、更に輪切りのトマト、ベーコン付きの目玉焼きを具材に、豪華にもう一枚のパンで挟んだ特製の贅沢サンドと付け合わせのピクルス。
「今日のは、特に自信作!」
ダンッ、と物音を立てて目の前に置かれたそれに異形は驚きを表すように、テーブルの上に肘をつく格好で組み合わせていた長い長い指先を解いて宙に漂わせた。
「待っててね、今自分の取ってくるから!」
自信作という宣言の通り、相当上手く出来たと自負しているのであろう少女は興奮気味に頬を赤らめながら自分の分の皿を取りに離れていく。
……自分の分を取ってくるということは、これは自分の、ということなのか。そんな思想が見て取れるような動きで異形は離れていく少女の姿を僅かに視線で追う。そして、目の前に置かれた皿の上の食べ物をまじまじと見つめた。
眼球どころか頭というものが存在しない異形が食い入るように手作りサンドを見ている、と戻ってきた少女がすぐに気づいたのも、いつもはぴんと棒きれのように真っ直ぐな背が、魚の食いついた釣り竿のように前方へとしなっていたからだ。
見ていて不安になるような足運びで、皿の縁を両手で掴んで持ってきた少女はテーブルを挟んで異形の対面に置かれたウッドチェアへと飛び乗るようにどかりと腰を下ろす。その衝撃でズレた上のパンを定位置に置き直した少女は「いただきます」と言った後で、両手で掴み上げた上下のパンを押しつぶすように挟んだ後、大きく口を開けてひと思いにかぶり付いた。
「もご、もごごも」
少女の小さな一口ではどれだけ勢いよくかぶり付いてもパンの端切れとレタスと玉ねぎの欠片しか口の中に入ってこない。イメージ通りの一口目ではなく、少女は、ん……? と眉を寄せて、一度手に掴んだ特製サンドを皿の上に戻す。
シャキシャキと音を立てる瑞々しいレタスの食感を感じつつ咀嚼を繰り返しながら、少女は顔を上げる。異形は未だ目の前に置かれた皿には手を付けていない。やっぱり口がないから食べれないのだろうかと思いながらも、この間家に迷い込んできたチョウチョを丸呑みにしていたのを確かに見た、と少女の頭の中には疑問符が浮かぶ。
蝶を食べるくらいなら、もし口が無くても食事ができるのなら、一緒に食事がしたいと思い、今日は朝食を用意してみたのだった。
「食べないの?」
と尋ねた後で、少女はだめ押しとばかりに自分の皿と向かいの皿を交互に指をさして示しながら言った。
「これが私の。それがあなたの。だから遠慮なく食べていいんだよ」
ここまで言っても食べる様子がなければ、諦めてバスケットに詰めてお昼ご飯にしよう。
少女は再び自分の分の特製サンドを両手で持ち上げ、食事を再開する。二口、三口と進んでいくと漸く目玉焼きの白身とベーコン、冷えたトマトの温度と蒸し鶏に絡まったぴりりと辛い黒胡椒の風味も舌の上に乗ってくる。やっぱり手間をかけて贅沢にしたかいがあったと少女はゆるりと笑みを浮かべる。
強いてあげる難点は二つ、具材を盛りすぎたせいで食べにくいのと顎が疲れる事だった。
ちらりと視線を向けてのぞき見ると、異形が一番上のパンの片端を長い指でつまみ上げている姿が目に入る。
緩慢な動きで両腕が持ち上げられ、長い指先が少女と同じような形でサンドを持ち上げた。指が長すぎるが故に、食欲をそそる焼き色を見せるパンの表面に黒く真っ直ぐとした線が何本も引かれたようにも見える。少女は休むことなく口いっぱいの幸せを噛みしめながらも、初めて見る異形の食事風景を見逃さぬようにまじまじと見つめる。
異形は手に握った特製のサンドを人間でいう丁度頭部の辺り、もし彼に頭があったなら口よりは高く目よりは低いだろうと思われる位置に持ち上げた。
すると、何かが……がばり、と開いた。
何が、と聞かれても異形の真正面に座っていた少女にも見えなかった。ただ、異形の背中から蜘蛛の足のように黒いものが伸びた。それは見た目の割に滑らかにしなりながら蠢いていたようにも、見えた。
ほんの、一瞬。
秒にも満たない素早さで、異形が持ち上げていた手作りサンドは消失していた。勿論、残像のように見えた気がした背中から生える黒い何かも夢、幻のようにそこにはない。すると、掲げられていた手が役目を終えたようにだらんと力なく垂れる。長すぎる腕のせいで真っ黒な指先が床にべたりと触れていた。
「…………」
まさに一瞬の出来事で、異形を見つめていた少女は呆気にとられて数度、目を瞬かせた。驚きのあまり緩んだ半開きの口元から噛みくだいてぐちゃぐちゃになった朝食が落ちそうになって、反射的に右手で口を押さえる。手のひらに僅かに唾液がついたし、咄嗟に口を覆うために手放して、片手じゃ支えきれずに皿に落ちた特製サンドからは具材がはみ出た。
「ん、ぐ」
しっかりと口を閉めて、ごくりと飲み込む。少女と同じ形状のウッドチェアに腰を落ち着けている異形は非常に珍しく全身を弛緩させており、少女の座るウッドチェアの足下まで長い足が伸びて投げ出された足や腕が軟体動物のように床に沿っている上、背もたれがぎしりと音を立てて軋んでいた。どういう反応なのだろう。さほど長くはない付き合いの中、初めて見る反応だった。
「ねえ。 ……お、おいしかった?」
――コツ、
異形は上半身をぐらぐらと左右に揺らしながら、床板を指で叩いた。それを聞いて少女はほっと胸をなで下ろしながら、付け合わせのピクルスを口の中に放り込んで、残り半分ほどになった特製サンドにかぶり付く。
蒸してから細かく裂いた鶏肉や火の通りにムラが出ないようにほぐしてから炒めた玉ねぎ、時間を数えて半熟過ぎない固さに焼き上げた目玉焼き、畑の中から一番瑞々しくておいしそうなのを選定したトマト、それなりの手間と時間をかけて作った具材を街の有名なパン屋で購入した普段よりお高めのパンを二枚も使ってサンドした自信作の料理がこうも呆気なく食べられて、……いや、呑まれてしまうとは。
贅沢にも程がある、そんな取り留めのない事を考えながら咀嚼と嚥下を繰り返し、最後にパンくずのついた指先を皿の上で払って、少女は食事を終えた。いつか一緒に食事ができれば、いつか自分が作った料理を食べてもらえたら、そしてあわよくば……おいしいと褒めてもらえたら。常々考えていた事の三つも同時に叶える事が出来たのだから、十分に及第点だろう。