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歴史短編

赤備え

作者: 梶原


伴天連の暦では1582年。秋も終わりの頃のことである。



三河・遠江・駿河の三国を統べる大大名の徳川家康は、宿老の酒井忠次と共に、北条軍との戦のために拵えた砦の一室にいた。

急拵えの砦なので、仕切り戸もない

新たに信濃と甲斐を征服して今や五ヶ国の主となった徳川家康の御座所としては相応しくないが、家康は不満を言わなかった。

戦陣暮らしを嫌と言い出したらお終いだと思っているのだ。


家康は喜色満面だった。

徳川軍が優勢になったところで北条軍との和睦の話がまとまったからだ。

思い返せば苦しい戦いだった。兵の数も、軍勢を支える物資の生産能力も、徳川軍は何もかもが北条軍に劣っていた。

それでもなお徳川軍が勝利できたのは、将兵の奮戦に加えて幾つもの幸運が重なったからだった。

今年は武運に恵まれているぞ、と家康は呟いた。


「すでに某の名で主な神社と寺院には安堵状を出しておりますが、我らが引き揚げた後も無事でいられるかと皆が不安を口にしております」

「北条殿との約定は確かなものであると皆にしかと分かる形で示さねばな」

「某が伊豆に赴き、北条美濃殿と会うのは如何か」

「うーむ、それではこちらが頭を下げたと世間の者たちが思うのではないか? この甲斐か駿河が良いのではないか」

「北条家は此度の和睦で佐久の大井家を見捨てました。その上で北条殿に面目を失わせるのは向後に差し障りがあるのでは?」

「それもそうだな。よし、伊豆は伊豆でも駿河に近い寺を望むと申し入れよ。此度は矢を交わしたが美濃殿と儂は友だ。察してくれよう」

「御意。あちらに詰めている大久保新十郎にその旨を伝えます」


大久保新十郎とは家康の腹心である大久保忠隣のことである。

北条家との和睦に際し、家康は側近たちを酒井の補佐に付けて交渉を進めさせていた。


和睦に関する話を済ませると、家康はもう一つの重要な案件を切り出した。


「儂はそろそろ浜松へ戻ろうと考えておる。織田の御家がきな臭いことになっておるそうだな」

「羽柴筑前殿の勢いが盛んになり過ぎたことで、軋轢が生じているとの由」

「我が家の力を増す好機か、災いの兆しか。居城に腰を据えてしかと見定めねばな」


和睦の話をしていた時の和やかな雰囲気は消し飛んでいた。


「とはいえ平定したばかりの甲斐と信濃はしっかと守らねばならぬ。信濃は七郎衛門達に任せたが、甲斐は汝に預けたいと考えておる」

「お断り致す」

「即答か」


家康は困ったように頭を掻いた。主君の意向をきっぱり拒否されたことへの不快感は無かった。

家康と酒井忠次は長い付き合いで、彼らの最初の悪巧み――今川家への謀反の頃から、二人でいるときは遠慮も隠し事もしないと決めていた。


「三河を離れるのが嫌か。甲斐があまりに貧しいからか?」

「それらも理由ではありますが」

「あるのか。まあ儂が汝でも躊躇うが。信玄公が治めた甲斐がかくも住み難い土地とは思わなんだ」


家康は大きな溜息を吐いた。


甲斐が貧しいことは家康も酒井忠次も知っていた。

この地を治めた武田家とは十年余りも争っていたからだ。今年の春に格上の織田軍を手伝ってようやく武田家を攻め滅ぼしたばかりである。

敵を知るために、徳川家は多くの間者を甲斐国に送り込んだ。

彼らから甲斐国は山ばかりで多くの天災に見舞われる土地であるという報告は受けていたし、戦場で武田軍の兵士たちのみすぼらしい身なりは何度も見た。

それで敵を侮り、三方ヶ原で大負けしたのは苦い経験だったが。


しかし実際に甲斐国に足を踏み入れて、家康は知った。

話を聞くだけでは、甲斐国の過酷な現実を理解することはできなかったのだ。


「信玄公と四朗勝頼に同情する。難しい土地だ。国衆は儂を支持しておるが、民や国衆の間で諍いが起きると手を焼くことになろう。故に汝に任せたい。酒井左衛門尉ならば一国を統べることも容易いのではないか」

「某が懸念しているのはまさにその事です。首尾よく甲斐を無事に治めた暁には、御家中で我が家の力が強くなり過ぎるでしょう」

「儂は構わぬが」

「先々を御考えくだされ」

「うーむ」

「今は織田の御家のこともございます。いざ事が起きた時、あちらとの話も戦も某が最も上手く立ち回ることができるという自負がありますゆえ、吉田に戻りたい」


家康はしばらく考え込んだ。

酒井忠次は静かに家康の言葉を待った。


「汝の代わりとなると、先手役から三人、四人か。甲斐に留め置く必要があるな。先ずは元忠」

「良い人選と存じます」


鳥居彦右衛門元忠は家康が信頼する武将の一人である。家康の幼馴染であり、意思疎通を確実に行える。

そして一番の理由は、武田家を滅ぼした時に鳥居元忠が武田家の遺臣たちに便宜を図った過去である。そのため鳥居は甲斐の国衆から人気がある。


「親吉にも任せたいと思うが、左衛門尉は如何思う?」

「良きお考えと存じます。三河から離れた土地であれば七之助の心も安らぐことでしょう」

「うむ。親吉には辛い役目を押し付けてきたからな……」


平岩七之助親吉も家康が信を置く武将で、鳥居と同じく家康の幼馴染である。

三年前、徳川家を揺るがした大事件が起きた。その時、徳川家の危機を救ったのが平岩だった。


「あの折は汝にも泥を被せてしまった。済まぬ」

「殿が頭を下げられることではございませぬ。それよりも、今は石川殿もこの機に三河から遠ざけることを考えては如何か」

「数正に岡崎を任せたままでは酷だと言うのであろう。しかし数正まで他所へ移しては露骨ではないか。それに抑え役がいなくなっては、今でも儂を恨む輩が何をしでかすか」

「某が岡崎へ移るという手もあるかと」

「汝にばかり重荷を背負わせるわけにはいかぬ。……この話は後日に改めよう。今は甲斐の政だ」


家康は強引に話を戻した。酒井忠次も蒸し返さなかった。

問題を先送りにしたことを二人とも後日悔いることになるが、今は知る由もなかった。


「三人目の旗頭に誰を選ぶか。駿河と信濃に配した者は動かせぬ」

「横須賀の大須賀殿は如何か」

「儂も考えたが、康政の舅であるから遠江に留めておきたい。康政はこれから忙しくなる故、五郎左衛門には婿を手伝わせることもあろう」

「小平太と平八郎を御家の柱石となさるのですな」

「昔日を知っている者で、かつ儂より若いのは康政と忠勝だからな。今まで通り浜松に留める」


さてどうしたものかと家康は腕組みして宙を見上げた。


「我が家に優れた者は多いが、此度はしっかと嵌る者が居らぬな」

「荒れた甲斐の政を担い、かつ戦では武田の者共を率いる将となりますとなかなか」

「この者こそと思える者には他の役目を任せておるしな」

「先手役の者では、井伊家の万千代は如何か」

「若すぎる」


家康はバッサリ切り捨てた。


「殿にお仕えしてから十年になりますが」

「甲斐の者共が従うと思うか?」

「威厳は備わっているかと」

「直政は戦場でよく働く。だが苛烈な性質だけでは士も民も付いては来ぬ」

「与力となる国衆に言い含めておけば宜しいかと」


家康の納得していない様子に、酒井忠次は言葉を続けた。


「先々のことを考えて井伊を推したのです。殿は小平太と平八郎に後事を託すことを考えておられる。長丸様が幼いからでしょう」

「うむ。儂の身に何か起きた場合、長丸を支えて家を守れる頼りになる者が必要だ。汝がいればよいが、儂より十も年長だからな」

「某は小平太と平八郎に続く者も御家に必要かと存じます。先手役の者で適しているのは万千代でしょう」

「政を学ばせるならば小平太の下に付ければよいが、多数の兵を率いる将としての経験を積ませるならば此度の件は良い折か」

「御意」


家康が答えを決めかけたところで、部屋の外から足音が聞こえてきた。

騒々しくはない、しかし接近を確かに伝えるほどには大きい足音である。


姿を見せたのは、二人の会話で何度か名前の挙がった人物――榊原小平太康政だった。


「ただ今戻りました。お話を遮り申し訳ございませぬ」

「構わぬ構わぬ。丁度良い所へ来た。汝も聞いていけ」

「御意。拝聴いたします」


榊原康政は家康と酒井忠次に頭を下げて、酒井の斜め後ろに座った。


「そろそろ浜松へ引き揚げようと思ってな。後を誰に任せるか相談しておったのだ」

「甲斐の旗頭でありますか」

「元忠と親吉に決めた。他にも先手役の将を幾人か置いていく。その一人に万千代が良いと左衛門尉が申してな」

「此度は万千代が力を伸ばす良い経験となろう。あ奴の指南役として異存はあるか?」

「…………」


榊原康政は即答せず、しばらく考え込んだ。


「その御役目に直政が加わること、それがしに異存はございませぬ」

「おお、そうか。では決まりだな」

「但し、某にも同じお役目を与えていただくようお願い申し上げます」

「む?」


家康と酒井忠次は顔を見合わせた。


「何を言い出すのだ。汝は浜松へ帰るのだぞ? 忠勝と共に、大きくなった徳川軍を束ねる役目を与えておるではないか」

「浜松での御役目は余人に代えがたいことは承知しておろう」


榊原康政は一呼吸置いて理由を話し出した。


「御家の将来を思案なされた故の御判断かと存じます。某も、某か平八郎が御役目を果たせなくなった時は直政を後任に推す心算です」


その言葉を聞いた家康は、榊原康政の古傷だらけの顔を見つめた。

榊原康政は若い頃は常に一番槍を狙う猛者で、無茶もするので何度も死にかけたことがある。

そのような経験から康政は自分がいなくなった時のことを常に考えているのだろう。


「されど今の直政はまだ危うい。政の経験は浅く、戦場では下の者たちに酷を強いながら恩情を掛けようとしません。甲斐の国衆や民に不満を抱かせてしまうようなことになれば、御家の一大事となります」

「言われてみれば、康政の若い頃によく似ておるな、直政は。汝の情け深さも見習わせたいが」

「無鉄砲なところは瓜二つですな」

「……左様でありましょうか?」

「儂は汝から遺言を聞いたことがあるぞ。堀川の城攻めの時に」


その時の家康は怒りのあまり、堀川城に篭っていた敵軍を、城に逃げ込んでいた現地の領民ごと皆殺しにした。

敵対していた今川家に従う者たちを恐怖で震え上がらせることが戦術上の狙いではあったが、本当は目を掛けていた忠臣を殺されて殿は怒り狂ったのだ、とその場にいた者たちは後日噂した。

死んだと思われた康政は、戦が終わった後に息を吹き返したが。


「殿の御温情は与力の者達からも後で聞いたのですが、某は憶えておりませぬ。申し訳なく」

「まあ気にするな。随分昔の話だしな。……汝も甲斐に残りたいのだな?」

「左様にございます」

「直政が失策しないかと不安なのだな?」

「御家の大事に繋がらぬとも限りませぬので」


家康は酒井忠次の顔に視線を移し、酒井が頷くのを見て家康も頷いた。


「よし、汝は先に浜松へ帰れ」

「御意。されど――」

「心配だからと言っていつまでも世話を焼いては、育つ芽を腐らせることもある」

「しかし直情の直政に甲斐衆を御せるとは思えませぬ。直政が束ねる国衆の半数は某にお任せいただきたい」

「軋轢は元忠と親吉に引き受けさせる。あの二人の才覚を信じられぬとは言わぬであろう?」

「酒井様はそれでよろしいのですか?」

「そもそも殿は甲斐国を俺一人に預けると仰せられた。その俺が井伊を押したのだ。これ以上の口出しは無用」

「むむむ……」

「という訳だ。大人しく浜松へ戻れ。いや、その前に駿河へ行き、新十郎から北条との話を聞いておけ。北条との件は汝も関わっておるからな。甲斐の件は気にするな。直政を手伝うことは許さぬ」



渋る康政を追い出した家康は、やれやれとぼやきながらも笑顔だった。


「我が家の先行きは明るいな」

「某も心置きなく隠居できます」

「冗談であろう? 此度の戦でも暴れ回ったではないか。隠居など許さぬ」

「御意」

「さて、引き揚げると決めたことを皆に伝えるか。よく働いてくれた兵共に声を掛けてやらねばな」

「某も陣へ戻ります」


そう言って二人が立ち上がろうとしたところへ、また足音が近づいてきた。

榊原康政が来た時よりも音が大きく、近づいてくるのが速い。


「殿! 真でございますか!?」

「おお、直政。さては康政と出くわして聞いたか」

「某を甲斐の旗頭に……」

「うむ。大役じゃ。汝に務まるか?」

「ご期待を裏切る真似はいたしませぬ!」

「うむ。しかし一つ気掛かりがあってな。汝は武田の者どもを恨んではおらぬか?」


家康の問いかけに、滑り込むように平伏した直政は顔を上げてはっきりと答えた。


「里を焼かれた恨みはございますが、戦場での良き武者振りを讃える想いも抱えております」

「ならば良し。役目を果たせ」

「御意!」


話が決まり、井伊直政が部屋から出て行った。

その後で酒井忠次が家康に提案した。


「武田や北条の軍勢には色備えの精鋭がおりましたな。御家も此度五ヶ国の大大名となり、軍勢も増えました故、特に働きが期待される将には色備えを御認めなさっては如何か」

「うむ、儂も考えていた。甲州の旗頭の中心は元忠となるから、鳥居に黒備えを――」

「赤備えですか!」

「ん?」


割り込んだ声は誰かと家康が目を向けると、出て行った筈の井伊直政が戻ってきていた。

その目は爛々と輝いている。


「山県の赤備え! 長篠の戦で遠目にも見えました。殿、身に余る願いと承知しておりますが、我ら井伊に赤備えを御認めいただきたく、お願い申し上げます!」


井伊直政は頭を床に擦り付けるほど平伏した。

その言葉に、酒井忠次が疑問を投げかける。


「山県の赤備え?」

「はっ!」

「黒ではなく?」

「赤です! ……え?」

「儂も山県の備えは黒だった憶えがある。いや、山県三郎兵衛の備えには甲斐衆と駿河衆がいて、甲斐衆が黒だったか」

「お、恐れながら申し上げますが、山県の備えは赤だったかと……」

「いや、黒だ。左衛門尉は山県勢と戦ったからその言に疑いはない。どうだ、左衛門尉」

「山県三郎兵衛の鎧は赤だったそうですな。但し彼奴が率いた軍勢は、信玄入道に殺された兄の武者たちを受け継ぎ、駿河の江尻衆を加えたもの。吉田の城下で戦った折、山県の備えは赤一色ではなかった」

「ですが長篠では確かに武田軍に赤備えが!」

「武田の赤備えと言えば、上州小幡の赤備えではないか? 長篠の城からもよう見えた」

「そ、そうなのですか?」

「うむ。それにな、俺も赤鎧を着けておるが、赤は塗料の値が張るのだ。家の武者共の具足を赤で統一するのは相当な物入りだ。まして与力にまで赤を強いるとなれば」

「山県ではない…? 井伊を打ち負かしたのは山県だ、それは間違いない。だが俺が憶えてるのは赤の――」


井伊直政は困惑した。直政の記憶違いでなければ、家康と酒井忠次が間違えている。

しかし主君と宿老にそのことを強く指摘するのは憚られたし、二人に指摘されて直政は自分の記憶が正しいのか自信が持てなかった。


そこへ家康が明るい声で言い放った。


「まあどちらでも良いではないか。山県も小幡も武田の先陣を務めた戦上手だからな」

「た、確かに仰る通りです」

「我が大軍勢の一陣に赤備えがある様を思うと心が躍る。しかし左衛門尉が申す通りであれば、黒の方が良いな。黒備えも見栄えが良いぞ。武田転厩の軍勢も黒備えだったな。どうだ、直政」

「いえ、それでも赤に、我が軍勢は赤一色に致します! 殿! 何卒井伊に赤備えを御認めくださいませ!」

「許す。兵共を赤備えに恥じぬ精強に育ててみせよ。但し先ずは甲斐で善き政を為せ」

「御意!」


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