その一
雨が降っていた。
細い、絹糸のような雨だ。昼前から降り出し、まだ止む気配は無い。
夜。櫛橋月京は、西蔵院不動堂の御行松側にある屋敷で、酒を呑んでいた。
酒は、栄生帯刀から贈られた聚楽酒。その帯刀は、月京の傍らで横になっている。
「いい夜だ」
月京は、飲み干した猪口を弄びながら言った。
目の前には、庭。薬草園だ。月京は柱に背を預け、闇に溶けるそれを眺めていた。
「そうか?」
暫くして、帯刀が応えた。帯刀は多少酒が過ぎているのか、月京の傍らで横になっている。使用人であり式鬼である八仙花が運んでくる銚子も、ゆうに五本は越えていた。
「ああ。いい夜だ」
「俺には判らねぇな」
「だろうな」
「否定しろよ」
「ふふ。お前は判っているはずだ。ただ、斜に構えて、風流を解せる自分を隠しているだけじゃないのか?」
「ふん、勝手に言ってろ。風流狂いは兄貴で十分だぜ」
そう言う帯刀を横目に、月京は笑った。
「天邪鬼だな」
「……」
帯刀とは、先日の事件以来、度々酒を飲む仲になっていた。気が合うのだろう。そうした男は、月京にとって稀有な存在である。また、自分がお役目で不在の時には、息子の清風の様子を確かめに訪れ、ついでに剣術の稽古もつけているという。
いい男だ。本人はそれを必死に隠そうとしている所がまたいい。
「そうだ、月京」
「なんだ」
「御側用人様が、おっ死んだそうだな」
「ああ」
御側用人。それは、大岡主膳相光の事だ。
「不思議な男だったな」
「帯刀は会った事あるのか?」
そう訊くと、帯刀は首肯した。
「まぁ、縁浅からぬってとこか」
「ほう……。で、大岡様がどう不思議なのだ?」
「権力に対して、無欲」
「何故そう思う?」
「一々説明しなくても、お前は判ってるだろ」
「まぁそうだが」
相光は、その一身が忠義の塊と呼べる男だった。将軍・家重に寵愛されたのにも関わらず、決して驕る事なく、そして幕政にも介入はしなかった。だがその反面で、家重に差し障る者は徹底して叩き潰す怖さもある。どこまでも、御側用人の分を弁えたのだ。それでいて、晩年に領した鴻巣藩でも、短い期間であったが確かな実績を残している。
その相光の死は病死とされたが、謎が多いものであった。同時期に服部北郭、松平式部大輔、新御代官の下坂安左衛門、畠山六郎兵衛と、相次いで死んでいるのだ。彼らは〔人に非ざる者〕を見る事が出来る、そうした素質を持っていた五人だったのである。
この件で、月京は幕閣の内意を受けて密かに動いているが、相手が妖鬼によるものか、人間によるものかすら依然として判ってはいない。
「俺は大岡様が好きだったのさ」
帯刀は身を起こし、銚子に手を伸ばした。が、中は空で帯刀はそれを放り投げた。
「ちっ。もう終いか」
「まだ呑むか?」
「弔い酒だ。お前に付き合わせる事になるが」
「構わんよ。どんどん運ばせよう。折角の夜なのだ」
「すまんな」
「気にするな。お前は友達だ」
そう言って、月京は八仙花の名を呼んだ。




