その四
蔵は、蔵であった。
中には、調度品の類が収められ、広くて大きい以外には何の変哲もない、ただの蔵。
帯刀は、この蔵を前にして、
「どうせなら、別嬪で頼むぜ。俺が末期の快楽を味合わせて、成仏させてやるからよ」
と、嘯いた。
化生など、信じていない。死ねば土に還る。それ以外に、何もない。そう思うのは、自分が散々人を斬ってきたからだ。
十代後半、屋敷を飛び出して全国を放浪した。人生を変えたいと思ったからだ。その中で、多くの人を斬った。大抵は悪人だが、そうでない者もいた。幾らでも取り憑かれてよいものなのに、今までにそうした経験がない。それは結局、化生などいないからだ。
そう思っていても、何かを感じないわけではない。化生が出るという先入観からか、何とも雰囲気が悪いと思ってしまう。
(おっと、弱気は禁物。博打も殺し合いも、気を呑まれた方が負けってもんだ)
帯刀は蔵の前に腰掛け、持参した酒入りの瓢箪を呷った。
女の泣き声は、外にいると聞こえてくるという。あらかじめ中にいても、聞こえて来ないそうなのだ。ならば、酒でも飲んで待つしかない。
静かだった。人の声一つ無い。この日ばかりは、早く消灯し騒がぬようにと、利永直々に命じられているのだ。
空には月。夜風は思ったより強く、草木を揺らしている。春が終わり、夏になろうとしても、夜はまだ冷えるものだ。
「しかし、退屈でいけねぇな」
と、帯刀は小唄を口遊んだ。
惚れた惚れたと
言うてはみても
抱いてあんたは
すぐ帰る
ぬしと俺とは
そうした仲よ
抱けばお終い
ではさらば
暫く小節を効かせて喉を鳴らしていると、女の泣き声が聞こえてきた。
(来たか)
肌が粟立つと同時に、帯刀の闘志にも火がついていた。
化生は信じない。いるはずがない。ならば、その正体を晒してやろう。そんな気持ちだった。
急いで蔵の錠前を外し中に飛び込むと、暗いはずの蔵の中が淡く蒼い光を発し、その中心に女が立っていた。
歳は二十歳になるかどうか。しかし、髪型も着物も、見た事がない。異国、それも漢土かどこかのような着物である。
女は下を向き、顔を抑えて泣いていた。
「あんたが、ずっと泣いている娘さんかい?」
「……」
女は答えない。ただ、肩を震わせて泣いている。
「ちょいと娘さん。何が悲しゅうて泣いてるかしりゃしねぇが、此処は俺の家なんだよ。ちょっと出て行ってくれねぇか?」
すると女は顔を上げ、覆っていた手を外した。
(こいつぁ……)
銀漢の天女か菩薩様か。異国風の着物という事もあってか、そう思えるほどの美人であった。
特に、大きな瞳。真珠のように美しく、涙を含んで潤んでいる。この視線を向けられた男は、きっとイチコロだろう。吉原で鍛えられ、深川界隈で浮き名を流す〔たらし〕の自分とて、これは危うい。
「いやいや、あんたが美人だからってぇ、容赦はしねぇ。こちとら十両がかかってんだ」
帯刀は、軍荼利左文字に手を掛けた。しかし、女は動じない。それどころか、また手で顔を覆い泣き出した。
「だから泣くな。どうだ? ここから出るのか、出ねぇのか?」
「……」
「ああ、もういい。女を斬るのが気持ちよくねぇが、こいつも商売でね」
帯刀は、裂帛の気勢を挙げて、女に一閃を叩き込んだ。
しかし、その刃は身体をすり抜けて空を切り、女は変わらず泣き続けている。
「やはり、化生か」
すると女は突然泣き止み、その顔を帯刀に向け、
「ク サラムル マンナゴ シックナ……」
と、聞き慣れぬ、呪文のような言葉を呟いて闇に消えた。
帯刀は、雷に打たれたように動けず、ただ唖然としていた。
「そりゃ異国の女とありゃ、神田明神も成田不動も効きゃしねぇわな」




