その二
帯刀が、〔実家〕と呼ぶ夜須藩上屋敷を訪れたのは、それから三日後の昼下がりだった。
帯刀は、藩主の弟。屋敷に姿を見せれば、藩士達が恭しく挨拶をしてくる。この相手をするのが面倒で、窮屈に思えるから行きたくないのだ。深川の破落戸風来坊相手になぞ、片手拝みで、
「よう」
ぐらいでいいのだ。
出迎えた中老の与板も、まさにそれだった。
「御舎弟様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「うるせぇや、朴念仁の頓痴気小役人」
「御舎弟様にはちゃんと挨拶をせねばと思いまして」
と、わざと嫌がらせをしているとしか思えない。そのような与板に導かれ、帯刀は離れの一間へ向かった。
離れは、利永が趣味に没頭する為に建てさせた、草庵である。利休風の侘びた造りで、この哀愁を出す為に百姓の年貢が使われたと思うと、つくづく藩主になってはいけない類の男だったと思わずにいられない。
「遅かったの」
利永が、趣味の水墨画の筆を走らせていた。
「いやはや、面目ねぇ」
「ふん、お前はいつもそうだから慣れたがな」
今年、五十に手が届く利永は、二十ほど歳が離れた兄弟だっだ。それ故に親子のような感覚はあるが、帯刀は何かと可愛がられていると思っている。
一方、帯刀も利永を好きだった。風流に狂い、藩庫を苦しめている無能な為政者と悪評があろうとも、藩主に向かないと思っていようとも、兄は兄なのだ。
「いやぁ、でもですね兄上。こちとら、色々準備がありましてねぇ。何せ、相手は化生の類。幾ら百戦錬磨の俺でも無策ではおれませんでね」
「ほう。お前の準備とやらは、酒を飲んで歌って、吉原の女と遊ぶという事だろう」
「兄上、そりゃ失礼ですよ。ほら見て下さいよ。神田明神のお守りに、成田不動の護符。それに、化生に詳しい飲み仲間の坊主にも話を聞いたんですから」
懐からそれらを見せると、利永は鼻を鳴らした。
「殊勝だな。よし、儂がお前の身体に般若心経を書いて進ぜよう。ほら、諸肌になれ」
筆を持ち上げて言うと、
「へん、耳無し芳一じゃあるまいし、第一縁起が悪いってもんさ。そいつは御免被りますぜ」
「そうか。試してみたかったのだがのう。そうじゃ、お前に一つ話があったのだ」
「話?」
「縁談だ。雄勝藩の家老の娘が、お前に惚れておる」
「雄勝? あの東北は霜奥の?」
「藩主の小野寺忠通は、儂の碁敵でなぁ。藩政に於いても、〔扶桑の太公望〕と渾名される大変な名君だ。その小野寺殿の仲介なのだ。これは良縁ぞ?」
「ちょっと、兄上。俺はその娘に惚れられる謂れはねぇですよ」
「お前、二か月ほど前に不逞浪人に懲らしめたろう? その娘はそれを見ていたのだ」
「ん……あぁ」
確かに、そのような事があった気もする。確か、真昼間から酔った浪人が暴れ、町人を足蹴にしていたのを、少しばかりちょちょいと捻ったのだ。家老の娘はそれを見ていたのだろう。
(しかし、兄貴が紹介する女はなぁ)
何とも信用ならない。これまで縁談の話は何度もあった。しかし、その尽くが、器量が悪かったり、性悪だったり、高飛車だったりと、どうも見る目がないのだ。いや、そもそも、この馬鹿兄貴は見てもいないのだ。自分としては、常磐津の師匠のような艶っぽい女がいいが、それとも最近は縁がない。
「兄上。もしや、俺を呼んだのは縁談の話をしたかったからじゃ……」
「ふふ。最初から縁談の話で呼んでも、お前は来ぬであろう?」
「へん。俺は化け物退治で来たんでえぃ。それ以外の話は、兄上であろうと聞く耳持たなねぇよ」
「また逃げるのか?」
「何とでも言いやがれってんだ」
帯刀は立ち上がり、離れを飛び出した。すると、利永の笑い声が追いかけるように聞こえてきた。




