その一
その話を与板市之丞から聞いた時、栄生帯刀は思わず鼻で笑っていた。
夜須藩上屋敷の蔵で、夜な夜な女が啜り泣く声が聞こえるのだという。そのような話を、生真面目な夜須藩中老が、遥々深川まで来て話すのだから、滑稽で仕方がない。
「そんな馬鹿な話があるかよ」
そして寝そべったままの帯刀は、二日酔いの気怠さから、大あくびを見せた。
「馬鹿な話があるから、わざわざ来ているのですよ」
「そいつはご苦労だねぇ」
「そもそも、御舎弟様が藩邸を嫌って深川なんぞに住むから、しなくていい苦労をしているのです」
「ふん。俺にゃ、深川の濁った水が合ってんのさ」
帯刀はごろり寝返りをうち、与板に背を向けた。
帯刀は、生まれも育ちも江戸である。だが、藩邸の暮らしが嫌で飛び出し、この深川に流れてきた。もう十年も前の話だ。
それでも、夜須藩との関係が切れたわけではない。時々戻って、仕事を手伝う事もある。
だからとて、積極的に関わろうとする気はなかった。夜須藩主・栄生利永の弟に生まれ、他家にも養子に出ず風来坊として、無頼を気取っている身である。それに、生きる為に必要な費えも貰ってはいない。
「だからってぇ、俺に何の用だい?」
「お殿様がお召しです」
「へぇ、兄貴がねぇ」
「ええ。『女が泣いて気味が悪い。家臣も宿直を嫌がるので、帯刀を深川から引っ張り出して何とかさせろ』との事でございます」
「へっ、俺は陰陽師でも拝み屋でもねぇってんだ」
そう嘯いて、帯刀は身を起こした。
「坊主にでも頼んだらどうだ」
「経をあげましたが、治まりませぬ」
「そらそうだ。大方、女中が虐められて泣いているのだろうよ」
「いや、その可能性はございませぬ。私も泣き声を聞きましたが、蔵の周囲にも中にも人はおりませんでした」
「じゃぁ、何だってんだい?」
四十路近い与板は、暫く沈思した挙句、
「化生の仕業かと……」
と、答えた。
「かっ、真面目に言ってんのかよ。妖怪や幽霊が化けて出るって、素面じゃ言えねぇ事だぜ」
「私も信じられませぬ。しかし、現に起こっているのです」
「生まれて三十年近くなるがよ、何人も斬ったぁ分際で、一度も化生の類など見た事ねぇぜ。恨めしいっと化けて出てもよさそうなのによ。それともあれかい? 俺が斬った野郎共は無事に成仏出来たというのか」
すると、与板は含み笑いを見せた。
「おいおい、何笑ってんだ。気持ち悪いぜ」
「十両。と、お殿様が申しておりました。それで、御舎弟様が引き受けるだろうと」
「……」
帯刀は暫く沈黙したが、生あくびをして片手を差し出した。




