その四
小屋には、老いた夫婦が棲んでいた。
話を聞くに、どうやら樵に雇われて、この小屋の管理を任されているという。
二人は血相を変えた二人を、温かく囲炉裏の側に迎えてくれた。
「おやおや、それは災難でしたのう。まぁ、粗末ですが粥でも召し上がって下され」
と、老父は粥に香の物を乗せた椀を差し出した。
「おお、かたじけない」
素朴な味だが、温かさが身に染みた。又助なんぞは、急いで掻き込んでいる。
「しかし、ここらに熊はおりませんがなぁ。なぁ婆さん」
「ええ、ほんに。山犬ではございませんか?」
「あの唸り声は山犬ではなかった」
「うむぅ……」
老父が老母に目配せをした。
「もしや、犬神の仕業では?」
「ほほう」
犬神とは憑き物とされるが、この諏訪国では、犬の顔と人間の身体を持つ妖鬼として語られる。この話は、諏訪に流れてきて聞いた話だった。
「犬神? んなもの迷信だろうよ爺さん」
勝手に囲炉裏の粥を注いでいる又助が、米粒を口から飛ばしながら喚いた。
「んにゃ、おりますよ。犬神は」
そう言った老夫婦の顔が、みるみるうちに犬の顔に変化していった。
「ほら」
才十郎は椀を投げ出し、大刀だけ掴んで小屋を飛び出していた。
無心で駆けた。やはりいるのだ。この世ならざる者は。
「兄貴」
又助も並んで駆けている。不幸中の幸いか、雲が晴れ月が覗いている。
「すまねぇ、兄貴。まさか化け物がいるなんぞ」
「しゃべるな。兎に角、山を下りるぞ」
あの老夫婦が追ってきている。それは肌を刺す禍々しい氣で判る。
「待て」
唸るような人語だった。
「喰わせろ」
「人殺しの肉を喰わせろ」
その声は何故か、耳の側から聞こえてくる。
(糞。どうなってんだ)
才十郎は隣りを駆ける又助を一瞥した。
が、その姿が無かった。喰われたのか。いや、悲鳴などは聞こえなかった。
どうなっている。考えたが、答えは出なかった。これが婆さんが言っていた、妖鬼というものか。
不意に視点が反転した。転んだのだ。木の根にでも足を掛けたかと思ったが、地から生えた手に両足首を掴まれていた。
「嘘だろ、おい」
才十郎は、苦笑いを浮かべた。もがこうとしても、強い力で掴まれびくともしない。
「糞」
才十郎は腰の一刀に手を伸ばした。
「やめて……」
その声は、女のものだった。
そして地面の土が隆起し、人の顔が伸び出て来た。
「お前は」
紀芽裳だった。
白目が無い、真っ黒な瞳を見開き、不気味に嗤っている。
「逃さないわ」
すると、地面から無数の手が伸び出て来て、全身を掴まれた。
才十郎は声も出せなかった。




