その四
「だ、誰?」
褥から身を起こした女が、言った。
姫だ。白い寝間着一枚で、少し寝ぼけ眼だった。
(ほほう)
勘が鋭い。人間風情、俺の姿は見えないが、その気配は察する事が出来るらしい。
「誰なの?」
姫が、怪訝な表情を聞いた。
その声を初めて聞いた。この声で泣き叫び、喚く悲鳴を味わいたい。そして、その囀りに耳を傾けながら、柔らかな肉を喰うのだ。
「俺だ」
「俺?」
「そうさ」
「曲者ね」
「お前、俺を恐れないのか?」
姫は切れ長の目で俺を見据え、一つ頷いた。その仕草にも、姫の持つ高貴で優雅な雰囲気がある。
「小さな時から、感じていましたの。〔俺〕様のような存在を」
「声も聞こえるのか?」
「時々」
姫に怯える風は、微塵もなかった。それどころか、今では俺に向かって微笑んでさえいる。
「俺はお前が喰いたい」
「存知ておりますわ」
「何故だ?」
「判りません。でも、そう伝わりましたの」
「それで、姫は俺に喰われるか?」
「私が決めていい事なのかしら?」
「いや、俺が決める」
すると、姫は苦笑して立ち上がった。
そして背を向け、おもむろに寝間着を脱ぐ。白く華奢で、女になろうとしている裸体が露わになった。
「おっ、おっ……おお」
俺は、言葉にならぬ声を漏らし、口の端から涎がたれるのもそのままにした。
「どうせ生きていても駕籠の中の鳥。ならばいっそ、ひと思いに」
「喰うぞ。俺はお前を、今から喰うぞ」
一歩前に出た。あと、一歩。それで姫の柔肌に、俺の五本の指が届く。
しかし俺は、そこである変化に気付いた。
身体が動かないのだ。おかしい。何故だ。何故、身体が動かない。
「貴様」
俺が喘ぐように言うと、姫の視線が俺の背後に向いた。
水干を纏った男が、祓串を手に立っていたのだ。
「謀ったな、姫」
が、目の前にいたはずの姫は、そこにいなかった。
代わりに立っていたのは、三十過ぎの男だった。
五芒星の擦文が施された純白の褐衣に、括袴。そして癖毛を結った頭には、立烏帽子。
「おっと、残念。私は姫ではなく、通りすがりの陰陽師だ」
「陰陽師だと」
「そうだ。お前がこの印西藩で人を喰い荒らしていると聞いてね。それで調べてみると、妖鬼の分際で姫に懸想していると言うではないか。そこで私は藩に掛け合って、こうした罠を仕掛けたわけさ」
「小癪な」
俺は五本の指に力を込め動かそうとしたが、僅かに動くだけで、それ以上どうにもならない。
「ほう。この結界の中で多少は動けるか。藤九郎、ぬかるなよ。思った以上に出来る妖鬼だ」
と、陰陽師が苦笑して水干の男に言った。
「何をほざいている、人間が」
「威勢が良いな」
陰陽師は、太刀を抜き払った。
「お前、名は?」
「名前か。俺は〔俺〕だ」
「名前が無いのだな、お前は。見た目は大手という妖鬼に見えるが、名を付けてくれる仲間がいないのか」
「名前などいらん」
「まぁいい。〔俺〕よ、話はお前の仲間から聞いた。お前は生まれたばかりのようだな」
「知らん。俺は誰で何なのか、全く知らん。気付いたら、此処にいた」
「なるほど、それは残念。お前に妖鬼になった経緯など聞かせて貰おうと思ったんだがな」
「それはすまんな。で、俺を殺すか?」
「ああ、お前は人を喰い過ぎた。それに殺さぬと、銭が貰えぬのでな」
陰陽師はそう言うと、太刀を上段に振り上げた。




