095「路銀」
リオナンドはナヴァル家の屋敷を出て、そのまま敷地外に向かって庭を歩いていく。するとそんなリオナンドに気が付いたのか、肩にシャベルを担いだ大男、農夫のダムがこちらに向かって歩いてきた。
「お、お~い! リオくん!」
「ダムさん。お疲れさまです」
「お、おぉ、お疲れさん。リオくん、どこ行くだ?」
「まだ決めていません。ただ、ナヴァル家からはお暇をいただきました」
リオナンドが軽くお辞儀をしながら言うと、ダムは少しの間ポカーンとした顔で止まった後、大げさに驚きながら聞き返した。
「え……えぇ!? それって、し、仕事をやめるってことだか!?」
「はい。近頃はお給料もいただけていませんから」
「そ、それは……確かに、そうだけんども……」
ダムはハッとしたように目を見開き、頭をブンブン左右に振ると、真剣な顔つきで頷いた。
「い、いや……当然っちゃ、当然だべ。おれ、勝手にリオくんは最後までいるもんだと思ってたけど、リオくんはリオくんの生活があるもんなぁ。おれに引き止める資格はねぇだ。何せ、給料払えてねぇんだもの」
「ダムさんはお給料を払う立場ではありませんから、気になさらずとも良いと思いますが……」
「そ、そういうわけにはいかねぇ。おれも一応、幹部だかんな」
ダムが顔をしかめながら否定する。
そういえば彼はただの農夫ではなく、ナヴァル家の領地における農業関連の仕事を一通り任されているんだった。富農とのやり取りなど割と重要な役割を担っているとの話だが、いつも会う時は屋敷の庭だということもあり、家庭菜園をやっているおっさんというイメージが強い。
「り、リオくん、これ」
「はい? これは……トマヌ?」
大男がリオナンドに手渡したのは、真っ赤な手のひら大のトマト……ではなく、トマヌだった。ほぼ前世のトマトに近い見た目だが、少し楕円形に寄っているのが特徴だろうか。エマニュエル曰く、青臭くて酸っぱいヤツだ。
「ま、前より甘くて、生臭くなくなったから、食べてみてほしいんだ。お別れの餞別……っていうには些細なもんだけんど」
「ありがとうございます。では、いただきますね」
リオナンドはダムから受け取ったトマヌを一口かじると、驚いたように声を上げた。
「これは凄いですね。確かに前より甘くなって、生臭さが減りました」
「へ、へへ……リオくんが前に色々教えてくれたのを試したら、出来たんだ。ただ……お嬢さまはまだ、生臭くて食べられないらしいんだけども」
「……そうですか。お嬢さまは、自分のトマヌ嫌いは体質的なものかもしれない、と仰っていましたからね」
リオナンドは少しの間だけ目を伏せて沈黙した後、残りのトマヌを一気に食べ切った。そして噛んだか噛んでないかぐらいの勢いで飲み込み、軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした。……ナヴァル家に最後まで残れず、申し訳ありません」
「い、いやぁ、おれだって、農業のこと以外は全然わかんねぇけども……もうナヴァル家がどうしようもないってことぐらいは、わかってっから。気にすることはねぇよ」
沈みゆく船に無理して付き合わなくても良いと、ダムはそう言いたいのだろう。
「り、リオくんこそ、他の場所に行っても元気でな。つっても、お互い死ぬわけじゃねぇんだ。縁があったら、また会うこともあるべ」
「……はい」
リオナンドはダムと別れの挨拶をすると、そのまま庭から出てナヴァル家を後にした。それから貴族街を抜けて市民街に出ると、小声で呟くように話しかけてくる。
「フェイスさん……ボクは、間違っているかな」
『ん? 何がだ?』
「……ナヴァル家を、見捨てたこと」
『ああ、それか。いや、間違ってはいないと思うぞ。キミもエマニュエルに対して、自分で言っていたじゃないか。彼女と結婚したところで、穏やかに暮らすなんてことはできるはずがない。下手すれば死神を続けるよりも、遥かに血塗られた道を生きることになる、と。それは俺も同感だ』
死神であるリオナンドの弱点は彼自身ではなく、その周囲にいる人間。
それは以前、街道で襲撃された時に生き残った敵から、少なからず情報として世に漏れているはずだ。
現体制を維持したい勢力や、穏健派などはその情報を得ても『触らぬ神に祟りなし』で特に行動を起こすことはないかもしれない。だが現体制を壊したい野心ある勢力や、戦争推進派、過激派にとっては行動を起こす動機になる可能性が十分にある。
何せ彼らは死神の台頭によって無理やりその動きを抑えつけられている形なのだ。もし死神が自身の弱点となり得る、特定の勢力に属しているのがわかれば、周囲の人間を人質に取るぐらいのことは普通にするだろう。
組織のトップが狙われる可能性があるとはいえ、そういった命令を出す人間は自分が指示を出したとバレないように暗躍したり、替え玉を置いたりすれば良いと考えるだろうからな。
まあ、実際にそんなことをしたら死神が組織を丸ごと破壊しに行くわけだが……指示系統や黒幕の情報などを巧妙に操作されると、場合によっては敵に上手い具合に『使われて』しまうパターンもあるだろう。所詮、死神は限界があるひとりの人間なのだ。全知全能ならぬ身では、常に正しい情報を選び続けることができる保証もない。
そういった諸々のことを考えると、やはり特定の勢力には与せず個人で動き続けるのが得策だと思う。背負うものがないからこそ、死神は死神たり得るのだ。
『リオナンド、キミは正しい。今回の選択はキミにとっても、ナヴァル家の人間にとっても良い選択だったはずだ』
「そう、かな……」
『少なくとも俺はそう思う。それにダムも言っていただろう。別にナヴァル家の人間は死ぬわけじゃない。元が伯爵家なんだから、爵位を下げられて他の土地に左遷させられるぐらいじゃないか?』
「え? でも、お家取り潰しって言ってたような……あっ」
リオナンドが何かを思い出したように声を上げる。
「そういえば、お家取り潰しって直接的に言ってたのはお嬢さまだけで、旦那さまは『消耗品のように他の貴族家と交換など、許されるはずがない』……みたいに言ってたかも」
『大方、エマニュエルはオーウェルに大げさな伝え方をされていたんだろうな』
「なんだ……そうだったのか」
リオナンドは安堵したように小さくため息をついた。
確かに、爵位降格で左遷とお家取り潰しでは全然違う顛末だ。
爵位降格で左遷だったら爵位は下がっても貴族なので、大変は大変かもしれないが平民よりは余程マシに違いない。
一方、今のご時世にお家取り潰しで平民になったら大変だ。遠縁にコネがあって他の貴族に仕えられたとしたら相当恵まれている方で、もし何もなく市井に降りるとなれば、場合によっては生計を立てること自体が大変かもしれない。
『それで、これからリオナンドはどうするんだ? まだ他に戦争の火種はなさそうという話だが』
「まずはこの街でお金を稼ぐよ。ナヴァル家からのお給料が最近なかったのもあって、もう全然手持ちがないからね」
リオナンド曰く、ナヴァル家から貰って貯めていたお金はモントルイエとサウドラキアへの遠征時に馬のレンタル代や餌代、日々の生活費などにすべて使ってしまったらしい。
ほとんど無駄遣いなんてしていなかったのに、と苦笑しながら言うリオナンドだが、その声色は明るい。どうやら先ほどの話でナヴァル家がおそらくお家取り潰しまではいかないだろうということがわかって、気落ちしていた気分も幾分か晴れてきたようだった。
俺としては、万が一のことを考えるとすぐ他の土地へ向かったほうが良いのではないかと一瞬思ったが……確かにリオナンドとて、霞を食って生きているわけじゃない。最低限の路銀は必要だし、ある程度の土地勘があるここで稼ぎ、準備を整えてから街を出たほうがより安全だろう。
最終的にそう考えた俺は、リオナンドの行動に異論を挟まず、また何かあったら起こしてくれと伝えたのち、意識を深い闇の中へと沈めていった。




