090「畏怖」
「わ、私だって……私だって、死にたくない!」
「私も死にたくない……!」
「アルヴィンさま、ごめんなさい!」
最初のひとりが数人に、数人が数十人になると、そこから先は早かった。リオナンドにメイドたちがひれ伏し始めた時よりも、よほど早い。あっという間に部屋から人がいなくなっていく。
今度のこれは同調圧力ではないだろう。むしろ圧力からの解放であるはずだ。人間誰しも死にたくないのが普通なのだから。
最初は『死神は女を殺さない』という話でも聞いて、命を奪われないのであればという気持ちで次期当主となる辺境伯の息子を守っていたのかもしれないが、自分が死ぬとなれば話は変わってくる。
その証拠に、先ほど率先して男の命乞いをしていた忠誠心が高そうなメイドたちも、謝罪の言葉と共に逃げて行った。彼女たちは残るのではと思っていたが……逃げ出す同僚たちを見て恐怖を刺激されたのか、心変わりしてしまったのか、最初から打算の命乞いだったか。結局のところ、いくら人望があっても単なる雇い主の息子と共に心中するメイドは稀なのだろう。
しかし辺境伯の息子にはその稀なメイドが、ひとりではあるがいたようだ。
「マルセラさん、みんなは逃げたよ」
「存じております」
男の斜め後ろでひれ伏している初老のメイドが、そのままの体勢で答える。
そして彼女は淡々と続けた。
「わたくしは最後までお供いたします。でなければ、今は亡き奥さまに顔向けできません」
「……僕は、マルセラさんにも生きていてほしいんだけど」
「アルヴィンさま。ガルザーク家の当主として自覚を持ち、言葉遣いにはお気を付けください。もう旦那さまはおられないのです」
「これから死ぬって時にまでお説教はやめてよ……」
そう言って困ったように眉をひそめる男だが、その表情はどこか嬉しそうに見えた。ただ今自分が相対している存在を改めて思い出したのか、ハッとした様子で再びリオナンドにひれ伏し、頭を下げる。
「失礼しました、死神さま。しかし許されるならば、彼女はどうかお見逃しください。私の命は捧げますので、どうか……」
「アルヴィンさま。わたくしは最後までお供いたします、と言いました」
「マルセラさん……」
男は悲しそうに呟きながら老メイドに視線を向けると、説得は諦めたのか再びリオナンドに深く頭を下げた。
「死神さまの、御心のままに……」
「…………」
リオナンドはそれらのやりとりをしばらく黙って見ていたが、男と老メイドが無言になると、上げていた腕をゆっくりと下ろして言った。
「……お前たちふたりは、この土地から離れろ」
顔を上げた男と老メイドの言葉を待つことなく、リオナンドは続ける。
「そして神の教えを守り、人を殺めず、争わず、罪を犯さず生きろ。真っ当に働き、余力ができたら孤児を助け、自立するまで育てろ。……できるか?」
男は少しの間リオナンドの言葉を呆けた様子で聞いていたが、すぐに何を言っているのか理解したようで、今までの諦観と絶望に満ちた魂を希望の色に塗り替えながら、必死な様子で答えた。
「で……できます! やります! 必ず!」
「ならば……ここは見逃す」
リオナンドはそう言うと、ふたりに背を向けて歩き始めた。
それから開いたままのドアを抜けて部屋を出るところで、未だ動かない男が言う。
「あ……ありがとうございます! ありがとうございます!」
男は心底感謝している様子で、リオナンドに感謝の言葉を発していた。
あれは演技ではないだろう。魂が歓喜に震えている。
リオナンドは男の言葉に反応せずそのまま部屋を出ると、ほとんど誰もいなくなった館を出て貴族街を進んでいく。前回と違って死神の襲撃だということがわかっているからか、館の門を出る際にも人ひとりいなかった。いくら増援を呼んだところで、帝国の大軍勢をほぼ全滅させるほどの戦力を持つ死神に敵うはずもないから、当然と言えば当然だ。
しかし、辺境伯の息子だというあの若い男。いくらリオナンドが絶大な力を持つ死神だとはいえ、父親を殺した相手にあれだけ感謝できるとは思いもしなかった。あれは本人の性格もさることながら、死神に対して単なる個人を超えた、多大な畏怖を感じていたことも大きいだろう。リオナンドの死神活動も、いよいよ人々に神性を感じさせるほどになってきたのかもしれない。
「……フェイスさん、起きてる?」
『起きているぞ。なんだ?』
「いや……何も言わないから、どうしたんだろうなって思って」
『言わないとは、辺境伯の息子を見逃したことについてか?』
「うん……」
『確かに以前までの俺であったら、口うるさくキミに苦言を呈していただろうな。あの男も、今は死神への畏怖と見逃してもらった慈悲に感謝しているかもしれないが、人の心は移ろいゆくものだ。潜在的な不穏分子は取り除いておくに越したことはない。だが……今回の襲撃に対する相手の反応や、キミの行動や言動を見て、あの男を生かしておくのもそう悪い事ばかりではないと思ったんだ』
「……どういうこと?」
リオナンドが不思議そうに聞いてくる。昔と違い、今の彼は考えるところは考えて行動することが多くなったから、計算してあのようにしていたのかと思ったら、どうやらそうでもないようだ。
『俺は前回モントルイエで、戦争指導者やその周囲にいる者たちを殲滅することで、死神に対する恐怖をもっと高めたほうがより一層、戦争を起こそうとする人間は早く減るのではないか……という提案をキミに話していたが、それは間違いだったかもしれないと思ってな』
「間違い? ……そうかな。ボクはフェイスさんの言うこと、間違っているとは思わないけど」
『ああ、すまない、言い方が悪かったな。提案の内容自体というより、前提条件が間違っていると言うべきか。端的に言うと、死神……つまりキミは、もう十分すぎるほど世間に恐怖を抱かれている。だから、無理に恐怖をもっと高めるために行動しなくても良いかもしれないと思ったんだ』
「十分すぎる……?」
リオナンドが訝しげに呟く。彼が考えていることは何となく想像できる。だがこちらからそれを指摘する間に、彼自身が疑問を口にしてきた。
「でも、未だにボク……死神に向かってくる人はいるよ? 十分すぎるほどって言うなら、そういう人も全員いなくなるぐらいの恐怖じゃないかな?」
『言いたいことはわかるが、現実的に考えて一切誰も攻撃してこないほどの恐怖、というのは難しいからな。いくら今や誰もがその存在を疑わない死神でも、実際に目で見て確かめないとその恐ろしさがわからない人間は多いだろうし、いざという場面こそ奮い立つ人間も一定数はいるだろう。それらの人間が全員、無条件で無力化されるような恐怖となると、それこそ人ならざる身でなければ厳しいと思うぞ』
もし仮にできたとしても、身の毛もよだつような残酷な殺戮を長年続けて、恐怖の代名詞になるしかないのでは、と思う。
『それにキミは女子供を生かしているだろう? これを維持し続けるとなると、今以上に世間の恐怖を上げるのはいずれにせよ難しいだろう。であれば、路線を変えたほうが楽だ。例えばキミがあえて自分に治癒聖術を使って、メイドたちに畏怖を与えたようにな』
「あぁ……そういうことか」
リオナンドは俺の言いたいことがわかったようだ。
畏怖は圧倒的な存在に恐れ慄くことを言うが、そこには尊敬や崇拝の念が含まれている。リオナンドの場合、恐れは十分に持たれているから、世間の尊敬や崇拝の感情を高めることによってより、今後の活動がやりやすくなるだろう。
『治癒聖術をあえて使ったのも、最後に男と老メイドを見逃したのも今後、死神の畏怖を高めていく方向性で考えると悪くない。死神は戦争を許さない厳格な存在だが、改心するものは許すという慈悲もある、とな』
「……ボクに人を許す資格なんて、ないよ」
リオナンドは暗い声で呟いた。
その口ぶりから察するに、おそらく彼はあの場で男と老メイドを殺したくないという気持ちから、あのふたりを見逃したのだろう。神の教えを守りうんぬん、という口上もきっと建前に違いない。何せリオナンドは随分前から神を信じていない、信じないと言っているのだから。
『だが、実際にそう思われる行動をしたんだ。キミが今後も死神として活動していくのであれば、方針はある程度定めておいたほうがいいだろう。今はまだ対象を戦争の現場から、戦争指導者とその周囲に変えて間もないから影響は少ないだろうが、途中で方針が何度も変わるようだと世間も困惑して、畏怖を与えるのは難しくなる』
「…………うん」
『疲れたなら、しばらく活動休止するという手もあると思うが……』
リオナンドはここ最近、かなり精力的に動いている。しばらく休んでも死神としてのイメージに変わりはないだろう。
いや、ここ最近どころの話じゃないか。リオナンドに聞く限りだと俺がほぼ寝ていた十年間も休まず死神活動をしていたようだから、しばらくどころか相当休んでも忘れられることはない気がする。
それに、こう言ってしまうと身も蓋もないが、リオナンドの死神活動は俺にとって得が何もない。彼自身がそれを望み、まったくやめようとしないので仕方がなく彼の目的に沿う形で色々と提案をしているが、一番の理想はソウルスティールをバレないよう最低限にして、後は俺の消し方を探してもらうのがベストなのだ。リオナンドには悪いが、しばらく活動休止してそのまま死神を引退してもらうほうが俺は嬉しい。
そんな俺の意図を知ってか知らずか、リオナンドは静かに首を振ると、力強く断言した。
「いや、続けるよ。ナヴォル伯爵家に身を寄せる前……あれだけいた帝国の大軍を一度に退けることができた今が一番、死神としての力が恐れられている時期だと思う。あれは偶然だったし、これから先は正直あれだけのことをできる気がしないから、恐れられている今のうちに動かないと。止まっちゃダメなんだ、ボクは。でないと……」
『リオナンド?』
俯いてブツブツと呟き始めたリオナンドに声を掛けると、彼はハッとしたように顔を上げた。
「何でもないよ。大丈夫。ボクは疲れてないし、次に戦争を起こしそうなところも今は聞いてないから、どっちにしろ当分の間は情報収集だよ」
『……そうか。ならいいが』
どうやらリオナンドは自分が動かないこと、止まることそれ自体を恐れているように思える。それが何故なのかは不明だが、彼自身が止まることを望んでいないのだから、俺がどうこう言うべきじゃない。
俺はリオナンドが貴族街を抜けて市民街に出るのを見届けると、迫りくる睡魔に抗うことなく、意識を深い闇の中へと沈めていった。




