080「悪夢」
「時間、ですか?」
「今日はお嬢さまがお菓子を焼いてくださるそうで、その時間ですよ。毎回というわけではないですが、お嬢さまは何かひと仕事終わった時に我らを労うため、お菓子を焼いてくれるのです。……と、話をしている間にいらっしゃいましたね」
文官が開け放っておいたドアの先に視線を向ける。
すると廊下から話題の主であるエマニュエルが銀色のトレイを両手で持ちながら現れた。
「おまたせ。ふたりとも、昨日はご苦労さま」
エマニュエルが銀色のトレイから紅茶とお菓子をそれぞれテーブルの上に並べていく。
「今日はプレーンクッキー、チョコクッキー、あとは甘くないチーズクッキーを作ってみたわ」
「甘くないクッキーですか。それは珍しい。初めて食べます」
「ケインが甘いの苦手って言ってたから、挑戦してみたの。今日はダムと一緒に出張中でいないみたいだから、まだ秘密にしておいてね。ほら、ふたりとも食べて」
エマニュエルから促され、文官とリオナンドがクッキーに手を伸ばす。
「ではいただきます。……ああ、これは美味しいですね。甘いものはもちろん美味しいですが、甘くないクッキーというのもまた素晴らしい」
「ホント? よかった。甘くないクッキーはレシピがなかったから、不安だったの」
「レシピなしでこれを? なんと……以前から思っていましたが、お嬢さまはもしや、お菓子作りの天才では?」
「ふふ、ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「いやいや、お世辞ではありませんよ。これは我が領の特産品にしても良いぐらいです。それぐらいに素晴らしい」
文官はうんうんと頷きながらクッキーを頬張っていた。
どうやら本気で気に入っているようだ。
「それでその……リオは、どう?」
「美味しいです。お嬢さまはお菓子作りがお上手なのですね」
「ホント!? よかった……」
エマニュエルが安堵したようにホッと息をつく。
それをジッと見ていた文官はわざとらしく声を上げた。
「あ、そういえば急ぎの仕事を忘れていました。すみません、お先に失礼しますね。残りの紅茶は執務室でいただきます」
「え、あ、ちょっと……!」
「ではごゆっくり」
文官がバタン、とドアを閉めて退出すると、部屋の中は静寂に包まれた。
「…………」
「…………」
リオナンドは自然体で黙々とクッキーを食べている。
対して、エマニュエルはあからさまに緊張していた。
「あ、あの……リオ、昨日はありがとう。アナタのおかげで会談が上手くいったわ」
「お褒めに与り光栄ですが、家臣の務めを果たしたまでですので」
「か、堅苦しいわね……もっと気楽にして良いのに。ふ、ふたりだけなんだから」
「これは失礼しました。何が原因でお嬢さまがお怒りになられるか、まだ把握しきれていないもので」
「う……」
リオナンドの言葉にエマニュエル真っ赤になって固まる。
これは今までリオナンドに対し、幾度となくわかりにくいタイミングで怒ってきたエマニュエルに対しての皮肉なのか、それとも素で言っているのか……判断が難しい。
リオナンドの場合はどちらもありえる。
が、しかしエマニュエルは皮肉だと受け取ったのだろうか。
バツが悪そうに目を伏せた。
「ごめんなさい……その、ちょっと前まではなんだか、アナタに嫉妬というか、対抗心があって……」
「対抗心、ですか?」
「で、でも今はそんなの全然ないから! アナタは文官や武官、執事にも勧誘されるほどの人だし……自分と比較するほうが、バカらしいというか……」
「…………」
さすがのリオナンドも返答に困ったのか、その場に沈黙が訪れる。
気まずい雰囲気に耐えかねたのか、エマニュエルは慌てて口を開いた。
「そ、それにしてもアナタがケインに模擬戦で勝ったのは驚いたわ! ケインはうちに来る前まで、裏社会では有名な用心棒で『不死身のケイン』って呼ばれてたのよ!」
「不死身のケイン」
「そう、どんな相手にも負け知らずで……って、笑ってるの?」
気がつけばリオナンドはうつむき、微かに肩を揺らしていた。
随分と珍しい光景だ。
「すみません、あの顔で『不死身のケイン』だと思うとなんだか可笑しくて」
「もう、本人は気にしてるんだから、言わないであげて?」
「ボクからは言いませんよ。それにしても、その用心棒だったケインさんはなぜナヴァル家に来ることになったんですか?」
「ああ、それはね……」
エマニュエルがケインなにがしをナヴァル家で雇うことになった経緯をリオナンドに話していく。
ケインなにがしの情報は眠くて頭に入ってこなかったが、リオナンドは思いのほか興味深く聞いているようだった。
「……っていうこともあって、ケインは今も強さにこだわってるみたいでね。リオからせめて一本は取りたかったらしいけど、どうしても取れなくってショックだったみたい」
「へぇ、そうだったんですか」
「ええ。……そういえば、リオはなんで模造剣にしたの? 剣は使うの嫌なんだって聞いたけど」
エマニュエルの問いにリオナンドが一瞬固まる。
「どうしたの? あ……もしかして、聞いちゃいけないことだったかしら」
「…………別に、大した理由じゃありませんよ」
リオナンドは紅茶を一息に飲み干してから言った。
「返り血を浴びるのが嫌なんです」
「返り血って……リオは、人を斬ったことがあるの?」
「ええ。十歳の頃、剣の稽古から早めに帰ったら家に強盗が入って来まして。当時から剣の腕に自信はありましたが、何しろまだ幼かったもので、がむしゃらでした。家には自分の他に誰もいないと思っていましたしね」
「他に誰もいないと思ってたって、どういうこと……?」
「実際は父がいたんですよ。その時間は仕事で家にはいないと聞いていたのですが、どうやらそのとき父は浮気相手と隠れて会っていたようで。それを知らずにボクは強盗を全員斬ったあと、クローゼットから出てきた父も斬り殺してしまったんです」
淡々と、なんでもないことのようにリオナンドは言う。
「それ以来、返り血は苦手なんです」
「そん、な……」
エマニュエルはリオナンドの話を聞き、真っ青になって唇を震わせていた。
「ごめんなさい……そんなことが、あったなんて……」
「気にしないでください。ボクが勝手に話しただけですから。それに今はもう、こうして話せる程度には風化しました」
「そんな……そんなこと……」
「本当ですよ。あれからというもの、ボクは……数え切れないほど、人を殺していますから」
突然の衝撃的な告白を聞いて、エマニュエルがおそるおそる口を開く。
「それは……本当、なの?」
「本当です」
「…………でもリオのことだもの。それは、誰かを守るため……なのよね?」
エマニュエルの言葉に、リオナンドは目を見開いて驚いた。
そして小さく笑って言う。
「はは、は……なんで、そう思うんです? 普通に考えたらボクは極悪人で、大量殺人犯だと思いますが」
「だってリオだもの」
エマニュエルはリオナンドの目を真っ直ぐ見つめながら続けた。
「私利私欲のために、人を殺したりなんかしないでしょう? ……私も貴族だから、この世が綺麗事だけじゃないことは知ってるわ。暗殺、謀殺、誅殺は貴族に付き物だし、戦争があれば矢面に立つのも貴族。人をひとり殺せば人殺しでも、数千人殺せば英雄だ、なんて鼻息荒く話す殿方も貴族には多いわ。おかしな話よね。昔と違って今は『死神』がいるから、戦争なんてほとんど起きないのに」
「…………ボクがその、『死神』だとしたら?」
「止めるわ」
エマニュエルは間髪入れずに言った。
「人がひとりで背負うようなものじゃないもの」
「その結果、この街が戦火に巻き込まれても?」
「……それは」
エマニュエルは言葉に詰まっている様子だった。
「すみません、意地悪な質問でしたね」
リオナンドは空になった食器をトレイに載せて持った。
「長居し過ぎました。仕事に戻ります」
「待って!」
部屋から立ち去ろうとするリオナンドをエマニュエルが呼び止める。
「さっきの話……本当なの? リオが、『死神』だって……」
「…………ボクは自分がそんな大層なものだとは思っていませんが、旦那さまはボクのことを『死神』だと思っているようですね」
「え……?」
「それでは、失礼します」
続く言葉は聞かず、リオナンドは部屋を出て行った。
○
台所で食器を洗うリオナンドに話しかける。
『キミが彼女にあそこまで言うとは思わなかったな』
「……ボクも、話すつもりはなかったよ」
『まあ彼女は存外にしっかりしているし、キミを大切に思っているようだ。父親に探りは入れても、周囲に言い触らすようなことはまずないと思うが』
「フェイスさんは……ボクが話すのを止めないんだね」
『ああ。キミは今まで目立ったボロも出さずに上手くここまでやってきた。そのキミが話すと判断したならば、それは俺が口を出すことじゃない。単に血迷っているような行動だったら止めたが……そうじゃないんだろう?』
「どうかな……ただ、騒がれたらそれはそれで、頃合いかなとは思ってたよ。お金もそこそこ貯まってきたし、いつでもここを抜けられる」
『そうか。俺はキミがここで暮らし続けるのも悪くないんじゃないかと思っていたが』
「まさか。ここでの生活は夢みたいなものだよ。すぐ覚める」
『すぐには覚めない夢もあるんじゃないか? 現に俺はずっと夢を見続けている。まあ、俺の場合は悪夢なんだが』
「はは、フェイスさんも冗談とか言うんだね」
冗談じゃないんだなこれが。