075「衝突」
書類の処理を手伝ってから一ヶ月後。
あれからというもの、何か見えない力が働いているかのごとく、リオナンドは事あるごとにエマニュエルの対抗心を煽っていた。
リオナンドにそんなつもりはないのにも関わらず、結果としてそうなってしまっている、というところがまた厄介なところだ。
そんなリオナンドは今、エマニュエルとひとりの老人に給仕をしていた。
「しかし、あやつも間が悪いのぉ。今日儂が来ることは知っておったろうに」
「申し訳ございません、お祖父さま。せっかくお越しいただきましたのに」
「まぁ……奴らとの会談では仕方あるまいな。思ったよりも状況は悪くなっているようじゃしの」
老人は豊かな髭を撫でながら、食後の紅茶に手を伸ばした。
会話から察するに、どうやらこの老人はエマニュエルの祖父であるらしい。
そしてエマニュエルの父であるオーウェルは今日、大事な会談があって出張しているようだ。
エマニュエルと祖父は一見して微笑ましく雑談しているように見えるが、実際はそこまで気安い仲ではないのか、会話の空気に若干壁があるように感じる。
「エマニュエル。お前も今後はナヴァル家当主の娘として、社交の場に出ることも多くなるじゃろう。庶民と交わり野を駆け回るのも、大概にせんといかんぞ」
「いやですわお祖父さま、それは幼い頃の話です。今はそんなことしていません」
「何も本当に駆け回ってるとは思っておらん。比喩としての話じゃ。言葉を額面通りにだけしか受け取れぬようでは、社交の場で良い笑いものじゃぞ。……そういえば、アレは読んだか?」
「アレ、ですか?」
「この前やったジョルジョ・ウジューヌの小説じゃ。王国貴族として読んでいなければ恥ずかしい、という話はしたじゃろ?」
「あっ……え、ええ! そうでしたわね! ええっと、その……黒い表紙の、アレ!」
「……まさか、読んでいないどころか、題名すら思い出せないというわけじゃなかろうな?」
「そ、そそそそんなことないですわ!? アレですわよね、あの……あっ!?」
動揺しているのであろうエマニュエルの手が、近くにあったジャムのガラス瓶に当たった。手に勢いがあったせいか、ガラス瓶が弾かれて床に落下していく。
思わず声を上げるエマニュエルだが……次の瞬間、まるでこうなることが事前にわかっていたかのように自然な動きで、背後に控えていたリオナンドが歩み寄りガラス瓶を空中でキャッチした。
そしてニッコリと笑い、エマニュエルに問いかける。
「こちらはもう不要でございますね。お下げしてよろしいでしょうか?」
「ぁ……え、ええ……お願いするわ……」
「かしこまりました」
リオナンドがうやうやしく頭を下げてお辞儀する。
その際、彼はエマニュエルにだけギリギリ聞こえる程度の声で囁いた。
「『ヴァランタン』でございます」
「え?」
エマニュエルがキョトンとした顔で振り向くと、リオナンドは再び小声で囁いた。
「お嬢さまが受け取った小説の題名です」
「あ……そうだったわ!」
エマニュエルは声を上げると、祖父に向き直って言った。
「ジョルジョ・ウジューヌの小説、題名は『ヴァランタン』でしたわね! 思い出しました!」
「……ふむ。それで当然、読んだのであろうな?」
「も、もちろんですわ!」
即座に答えたエマニュエルの返事を聞いて、近くの給仕台車にジャムの瓶を置いていたリオナンドの眉がピクリと動いた。
「ほう……ではどんな内容の、何をテーマとした話だったかの?」
「え……」
「あの本をやってからそう長くは経っていない。最近読んだならもちろん、覚えているじゃろ?」
「え、えっと……その……あの……」
エマニュエルの目が泳ぐ。
とっさに話を合わせてしまったのだろうが、答えられないということは実際に本を読んではいないのだろう。
返事がないエマニュエルに、祖父の表情がどんどん厳しくなっていく。
エマニュエルはそれを見てあわあわしている。半ばパニック状態だ。
なかなかどうして、いたたまれない状況だ。
俺がそんなことを思っていると、リオナンドは誰にも気がつかれないほど小さなため息をつき、エマニュエルのそばに立って言った。
「お嬢さま。そのように緊張なさらずとも、私にお聞かせいただいた通りにお話しされればよろしいのではないでしょうか」
「え……?」
「ふむ? エマニュエルはおぬしになんと言ったのかの?」
祖父に問いかけられたリオナンドは、「僭越ながら」と前置きしてから答えた。
「ジョルジョ・ウジューヌの小説『ヴァランタン』は、冤罪により廃嫡され、一度は盗賊に落ちぶれた伯爵家の長男が、身分を隠したまま市井に入って名乗りを上げ、腐敗した王国貴族を一掃する物語だと、お聞かせいただきました。テーマは不条理な運命、不屈の魂、尊き血の責務。この三つが主題だとも」
「ほう……」
「私も伯爵家に仕える者として、王国史に残る傑作と名高い『ヴァランタン』は存じ上げておりましたが、彼の名作は常に写本が追いつかないほどの人気作。生涯、相見えることはないと思ってはおりましたが、この度はお嬢さまのご厚意で内容をお聞かせいただき、感謝の念に堪えません。お嬢さまも、入手困難な彼の名作を読むことができて大変喜んでおりましたね?」
「え……ええ! とっても! ありがとうございます、お祖父さま!」
「ふ……ふふふ……」
祖父はいかにもおかしそうに笑うと、リオナンドを見て言った。
「そういうことにしておいてやろうかの。優秀な従者に免じてな」
「勿体ないお言葉でございます」
「しかし……エマニュエル。見栄を張るのは別に構わん。貴族じゃからの、張らねばならぬ場面もあろう。じゃがさっきのは下手すぎる。見栄を張るなら張るでもっと上手くやらにゃいかん。従者に助け舟を出されているようでは失笑ものじゃぞ。そのような場面では自ら従者に話を振らねば――」
リオナンドによるフォローの甲斐もなく。
結局、エマニュエルは祖父にさんざん説教をされることになった。
○
祖父が帰り、リオナンドが一通り後片付けを終えたあと。
「余計なことしないでよ!」
リオナンドはエマニュエルに突っかかられていた。
「アナタのおかげで、余計に責められる結果になったわ!」
これは事実だった。
祖父も途中から説教のボルテージが上がり、しまいにはリオナンドを見て『儂も彼のような孫がほしかったのぉ』なんてことを言って大きなため息をついていた。
「ここ最近いつもいつも! アナタ、ワザとやってるでしょ!?」
「いえ……」
「嘘よ! 絶対に嘘!」
「…………」
リオナンドが小さくため息をつく。
無理もない。良かれと思ってやったことが裏目に出ているのだ。
しかしエマニュエルの言い分も理解はできる。
ここ最近、リオナンドと彼女はあまりにも噛み合わなすぎた。
悪いことは重なるとはよく言うが、それにしても重なりすぎなのだ。
今回の件も普通に見たらリオナンドに非はまったくないはずなのだが、結果として彼女を追い詰める形になってしまっている。
「なんとか言ったらどうなの!?」
「……申し訳ございません。以後、気をつけます」
「毎回毎回それじゃない! 上っ面だけで! 本当は私のこと影で笑ってるんでしょ!?」
今までのことで随分とストレスが溜まっているのだろう。今日はより一掃イライラしているようだ。しかし、イライラしているのは彼女だけではない。
幾度となく彼女に怒りをぶつけられているリオナンドもまた、限界が近かった。
侍従関係なので、これまで一方的に怒りを受け止めるしかなかったという点も痛い。
更に言えば、リオナンドはこの屋敷に来てから一度もソウルスティールをしていない。ちょうど次の休息日にソウルスティールをしに行く話を先日したばかりである。
つまりまだ余裕はあるものの、今は魂の渇望が近い期間なのだ。
この期間は基本的に宿主にとって苦しい状態が続く。
普段のコンディションと比べたら最悪と言える。
「…………大変、申し訳ございませんが、持ち場に戻らなくてはならないため、失礼します」
これ以上は無理だと判断したのだろう。
なんとか怒りをこらえて、リオナンドがエマニュエルの横を通りすぎる。
それを見たエマニュエルが驚いたように手を伸ばした。
「なっ……!? 待ちなさいよ!!」
「――うるさいな」
さすがに大人しく黙っていられる限界を超えたのか。
リオナンドは背後から迫ってきた手をサッと避けると、自分の目の前まで来ていたエマニュエルの顎を人差し指と親指で掴み、クイッと持ち上げた。
「ボクに近づくな」
「……っ!?」
至近距離でリオナンドと見つめ合うことになったエマニュエルが、目を丸くして驚いた。そしてドンドンその顔が赤くなっていく。
しかし途中で気を取り直したのか、エマニュエルはキッとリオナンドを睨みつけて言った。
「ち、近づいたら……どうなるって、いうのよ」
「…………」
リオナンドは目を逸らさないエマニュエルの顎から、そっと手を離した。
それからおもむろに人差し指と中指でエマニュエルの額をトン、と押すと、彼女はまるで腰が砕けたように尻もちをついた。
「ぁ……え……?」
エマニュエルは何が起きたのか理解できない、といった様子でリオナンドを見上げた。そんな彼女を見て、リオナンドは満足そうに小さく笑って言った。
「そうなる」
○
『リオナンド……さっきのはアレで良かったのか?』
「いいよ別に。クビになったら、その時はその時だし」
『……そうか』
そういうことではないのだが……まあ、いいか。
しかし、顎クイからのデコトンからの腰砕け、か……。
これは大変なことになった。




