071「暗雲」
エマニュエルと一悶着あったあと。
リオナンドがメイド長に指示された廊下の窓ガラス拭きをしていると、庭先に一台の馬車が停まったのが見えた。
「あれは……」
『使用人の反応からしてお客さま、というわけではなさそうだな』
庭にいたメイドたちは馬車から降りて来た初老の男性に挨拶はするが、出迎えまではしなかった。
メイドたちに敬われるが、貴族ほどではなく、礼装は地味……となれば、答えは自ずと限られる。
『おそらくこの屋敷の執事……だと思うが』
「ん? なんで自信なさげ?」
『いや……あの人間、だいぶ薄れてはいるが執事にしては随分と……』
次の瞬間。初老の男性はふと、こちらに視線を向けた。
だがそれは一瞬のことで、流れるようにそのまま視線は途切れ、再び周囲の使用人と挨拶を交わし始めた。
『リオナンド』
「ああ、ボクも気がついたよ」
俺が言うまでもなく、リオナンドは初老の男性に意識を集中し、『標的』にしていた。これでリオナンドがその気になれば、一秒も経たないうちにあの男性は魂を奪われ死ぬことになる。
「あの人……たくさん人を殺してる。それに、ボクのことにも気がついた」
『それは俺も同じ見解だが、よくわかったな』
「うん。ほんの一瞬だったけど、目が合った時に『見えた』よ。……殺したほうが良いかな?」
『難しいな。今回の場合は生かしても殺しても一長一短だ。こういう時に俺が意見するとロクなことにならない。キミの好きにしてくれ』
「うーん……じゃあ、保留にしておこうかな。殺すのはいつでもできるし」
『そうか。であればしばらくキミが寝ている間、俺はうたた寝で周囲を警戒することにしよう。最近はそこそこ眠らせてもらったから多少の余力がある。これで寝込みを襲われる心配もない』
「ほぼ十年近く寝てて多少……? というより、余力があっても『うたた寝』はするんだ……」
『夜は眠いからな』
「昼間もしょっちゅう寝てるくせに」
リオナンドは呆れたようにそう言って、窓ガラス拭きを再開した。
●
「廊下に見慣れない使用人がいましたが……最近雇った者ですか?」
執務室にて。
オーウェルは入室後、開口一番でそう聞いてきた執事、レイモン・ベルジュに訝しげな表情で答えた。
「ああ……昨日、娘が拾ってきた男だが。何かあったのか?」
今回、レイモンには自分の名代として豪商との取引に向かわせていた。
これは今後のナヴァル家の行く末を左右する重要なものだ。
その結果報告よりも前に質問してくるというのは、いかにもおかしい。
何かよほどのことがあったのかと身構える。
「はい。あの男は『死神』です」
「……………………何?」
今、なんと言ったのか。
「すまないが、もう一度……」
「あの男は『死神』だと言いました。時期や地理的に見ても、間違いないでしょう」
「ま……待て。なぜそう言い切れるんだ?」
「多くの死に触れてきた者の『勘』ですな。あれほどの存在が他にいるとは考えにくい。……正直、今自分が生きているのが不思議なくらいです」
「……………………」
レイモンは冗談を言わない。
それを知っているオーウェルは即座に思考を切り替えた。
今ここで『死神』の真偽を疑うのは無意味だ。
もし……もし本当に、『死神』がこの屋敷にいるのだとしたら。
「…………今までの動きから考えて、『死神』は……どこの勢力にも属していないはずだ」
「でしょうな」
「………………狙いは何だ?」
オーウェルが治めるミディノール地方は比較的、国境に近い。
国境沿いでこそないが周囲に重要拠点が多いため、おのずとこの街自体の重要性も高くなっている。
だが、それとこれとは話が別だ。
「この街は今、頭がすげ変わったばかりだぞ? 面倒事も多々ある。この状況で私を消すのは愚策……」
「落ち着いてください。『死神』がどこの勢力にも属していないと言ったのは貴方ですぞ」
「あ、ああ……そうだった」
分家筋だったオーウェルが本家当主となった経緯は、言ってみればお家騒動みたいなものなのだが……これはオーウェルを含めた数人しか真相を知らない。
であれば、部外者である『死神』がナヴァル家の面倒事や状況を知っているはずがなかった。
「ならば、なぜ……何のために?」
「皆目見当もつきませんな。いっそのこと、直接聞いてみるのはいかがでしょう?」
「なっ……直接!?」
「個人にして、人知を超えた大量殺人を繰り返している『死神』ですが……その殺意に邪気は一切ありませんでした。少なくとも、殺しを愉しむ輩でないことは間違いないと思われます。であるならば、話しをしてみる価値はあるかと」
「話し……交渉か」
「交渉になるかは怪しいものです。彼がその気になればこの屋敷どころか、街そのものが滅びるでしょうから」
「……寝込みを狙って始末することはできないか?」
「無理ですな。あれは人の姿をしてはいますが、人の手に負える存在ではございません。他に方法がなくば、やむを得ませんが……失敗した時のことを考えると、あくまで最後の手段となりましょう」
「そのまま放っておくのはどうだ?」
「もちろんそれも選択肢のひとつとして有効だとは思いますが、私としては対話をお勧めします」
「なぜだ?」
「今、この街の行く末には暗雲が立ち込めています。しかし、もし『死神』と関係を築くことができれば、あるいは……」
レイモンの言葉を聞いて、オーウェルはそれが意味するものを悟った。
「……取引は上手くいかなかったのか」
「残念ながら。北西と南西に加え、東からも手を回されているようです」
「そうか……」
つまり味方はどこにもおらず。
このままいけば北西と南西、どちらかの都市に攻め滅ぼされる。
「後ろは崖っぷちで、前には『死神』か……」
「その『死神』ですが、使用人たちに話を聞いたところ随分と働き者のようです」
「働き者?」
「ええ。まだ詳しく話は聞いていませんが、非常によく働く好青年だと」
「…………」
あの青年が本当に、人知を超えた力を持つ『死神』であるならば。
ただこの屋敷にいる人間を殺すためだけに、わざわざ使用人になって働く必要はない。
つまり目的は殺戮ではなく、別にある。レイモンはそう言いたいのだろう。
「……そうだな。いずれにせよ、放っておくには大きすぎる存在だ」
オーウェルはそう言って顔を上げた。
「わかった。話しをしよう。彼をここに呼んでくれ」
○
「ご主人さまがお呼びです」
初老の執事はリオナンドに簡単な自己紹介をしたあと、そう言って自分について来るよう呼びかけた。
執事は無防備な背中を晒し、廊下を進んでいく。
もちろん立場上リオナンドが拒否するわけもなく。
リオナンドは執事を警戒しながらも、その背中についていった。
『リオナンド、そこまで殺気立つ必要はないと思うぞ。この執事に害意はない。覚悟はあるようだが』
「……?」
リオナンドは小さく首を傾げた。
覚悟、の部分が言葉足らずだったか。
『何かあれば、刺し違えてでもキミを殺す覚悟だ。まあ警戒するに越したことはないが……着いたぞ』
執事が立ち止まった部屋のドアをノックする。
「――入りたまえ」
「失礼します」
「……失礼します」
入室する執事に習い、リオナンドも中に入る。
すると正面には大きな机の前に腰掛ける、壮年の男性がいた。