068「戦乱」
夜明け前。
誰もいない荒野に激しく雨が降り注いでいた。
そしてその荒野でリオナンドがひとり、杖をつきながら歩いている。
彼の肉体に傷はないが精気は枯渇寸前であり、実質的には例のごとく満身創痍だった。
『リオナンド、大丈夫か?』
「うん……でもちょっと、疲れたかな……」
彼はそう言いながら膝をつき、そのままゆっくりと地面に倒れ込んだ。
『リオナンド?』
「もう、動けそうに……ないから……少し、休んでから……行くよ……」
『……本当に大丈夫か?』
言葉だけ聞いたら完全にそのまま永眠するフラグだ。
「大丈夫……休んだらまた、歩けるようになると思う……」
リオナンドはうつ伏せのまま小声で言うと、目をつぶって深呼吸した。
すると大地の精気がリオナンドへ吸い取られていく速度が、みるみるうちに加速していく。
大地の精気は植物よりも更に、生命エネルギーへの変換効率が悪い。
だが、当時と比べてリオナンド自身の生命力が強くなっているおかげだろうか。
雨に打たれて消耗する度合いより、大地の精気を燃料に自分自身の生命力で回復していく度合いのほうが大きいようだった。
『無数の銃弾に撃たれ、大砲の砲弾が直撃し、全身を炎に焼かれたというのにその程度で済むとは……キミはどうやら俺が思っていた以上に特別な力を持っているらしいな』
あるいは『あの日』、聖女の魂を取り込むことで何か変異が起きたのか。
今のリオナンドは歴代の宿主と比べても異質な存在だ。
特に戦場で起こした魂の暴走。
あれは、数々の宿主を見てきた俺からしても『異常』と言えるほどの規模だった。
過去に類を見ない魂の力。
今はまだ手がかりが少なく、進むべき道も見えていないが……もしかすると、リオナンドの力を上手く応用できれば、俺の『消滅』という悲願を達成できるかもしれない。
そんなことを考えていたところでふと、こちらに向かって近づいてくる魂の気配を感じた。
人数は……四人と馬が一匹。動きからして馬車に乗っているのだろう。
人間は十代の少女がひとりと、他三人は三十代から四十代ぐらいの男性。
どういった目的で近づいて来ているのかは知らないが、害意はなさそうだ。
『リオナンド、起きろ』
「…………」
『おい、リオナンド。人が近づいて来ているぞ。リオナンド、起きろ』
「…………」
リオナンドはいくら呼びかけても一向に起きなかった。
どうやら気を失っているようだ。
思いのほか消耗が限界を超えていたらしい。
近づいてくる人間のうち、少女の魂は慈愛の色、三人の男性は警戒の色が強い。
害意がない以上、リオナンド自身に危険はないだろうが……彼にはエナジードレインがある。
『起きるんだ、リオナンド。昔キミを助けようとした商人の夫婦と同じ悲劇を繰り返すつもりか?』
「…………っ」
『起きろ! リオナンド!』
「……ぅ……ぅぅ……」
何度も、何度も呼び掛け続ける。
最初はまったく無反応だったリオナンドも、今は夢にうなされているように呻き声を上げている。
しかしまだ意識を取り戻すには精気が足りないようだ。
そうこうしている間に、馬車の集団がすぐ側まで来てしまった。
「うっわ……汚え! もう死んでるじゃねぇかこれ?」
「ぼ、ボロボロだしドロドロだぁ……ほ、ホームレスかなぁ……?」
「厄介な病気を持っている可能性があります。お嬢さま、業者に頼んだほうが良いのでは?」
「ダメよ! ほら、微妙に動いてる……まだ生きてるわ! 早くしないと手遅れになるかも!」
「うっ……お嬢がそう言うなら、仕方ねぇな……」
「嫌なら私が馬車に乗せるわ!」
「いや、お嬢じゃ絶対無理だろ……おいダム、お前は足を持て」
「わ、わ、わかった……」
四人のうち、男ふたりがこちらに近づいてくる。
そしていよいよ、彼らがリオナンドに触れた――次の瞬間。
「うわあああぁあぁあ!? ボ、ボクに触るなぁ!!」
「ぬおぁ!?」
リオナンドは自身に触れた手を振り払い、勢いよく起き上がった。
どうやら意識の覚醒が間に合ったようだ。
「ハァ、ハァ、ハァ……あ……ゆ、夢……? いや、これは夢じゃない……のか……」
「あんだぁ? ジイさん、元気じゃねぇか」
「あ……アナタたちは?」
「単なる通りすがりだ。って、よくよく見たらジイさんって歳でもなさそうだな。声も若いし」
ガタイの良いゴロツキのような男が後ろを振り向く。
その視線の先には馬車から降りた少女が立っていた。
「お嬢、元気そうだから別にほっといても良いよな?」
「ダメよ!」
赤毛のショートカットと凛々しいツリ目が印象的な少女は、胸の前で腕を組みながら言った。
「今にも死んじゃいそうなぐらい顔色が悪いわ! どう見ても餓死寸前! 連れて帰りましょう!」
「うへぇ、マジか……仕方ねぇな……おい、あんちゃん、馬車に乗りな。街まで連れてってやる」
「……ボクは、大丈夫だから。放っておいてくれ」
「いやそういうわけにもいかねぇんだって。うちのお嬢、一度言い出したら止まらないんだから……ほら」
「う……ボクに、触るな……!」
リオナンドはゴロツキ(仮)の腕を再び振り払う。
だがまだ精気が足りていないようでその力は弱々しく、足元はふらついていた。
「オレだって触りたかねぇよ。っていうか、なんだ、今にも倒れそうじゃねぇか。お嬢の言う通りだったな」
ゴロツキは大きくため息をつくと、いかつい顔を苦々しく歪めて馬車を親指で差した。
「触られたくないんだったら自分で馬車に乗りな。自分で乗らないんだったら無理矢理にでも乗せる。こんなところで野垂れ死にでもされたらお嬢の夢見が悪くなるからな」
「そうよ! このあたりはもう私の領地だもの! 行き倒れなんて許さないわ!」
「厳密に言うとお嬢さまの領地ではなく、お嬢さまのお父上の領地ですが」
少女の横から眼鏡を掛けた痩せぎすの男がツッコミを入れる。
「うっ……細かいわね、サージェス……」
「大事なことですので」
「それはともかく! 乗っていきなさい、アナタ! 悪いようにはしないわ!」
「いや……ボクは……」
『リオナンド、ここは受け入れたほうが良い』
「え……?」
『キミの体力は今、一般人以下だ。安全な場所に行けるに越したことはない。それにあまり頑なに拒否しても怪しいからな』
「…………そう、だね。確かに……そんな断る理由もないか」
リオナンドの呟きを聞いて、気が変わったと思ったのだろうか。
少女はパッと笑顔になった。
「それじゃ行きましょう! ええと……アナタ、お名前は?」
「ボクはリオ……あっ……」
名前を言ってから、しまった、というようにリオナンドは口を押さえた。
本名を言いそうになったのだろう。
教会からは悪魔、世界各国からは死神として追われる身だというのに。
どこか迂闊な部分は相変わらずのようだ。
「リオ?」
「あ……あぁ……リオ。ボクの名前はリオだ。家名はない」
「良い名前ね。私はエマニュエル・ド・ナヴァル。このあたり一帯の領主、ナヴァル伯爵家のひとり娘よ。伯爵家にはなったばかりだし、色々あって貧乏貴族なんだけど……餓死しそうな領民に一食施すぐらいの余裕はあるわ」
エマニュエルはそう言って手を前に差し出した。
「よろしくね、リオ」
「……ボクは領民じゃないけど」
「領地にいるんだから領民よ。はい、握手」
「…………」
「どうしたの?」
エマニュエルは首を傾げた。
リオナンドが握手しようとしないので不思議がっているようだ。
「あー……お嬢、ほら、そいつは汚れてるから遠慮してんだよ。なぁ、あんちゃん?」
「……うん」
「そうなの? そんなの、気にしなくて良いのに」
「そうもいかねぇって、お嬢は一応貴族さまなんだからよ」
「一応って何よ、一応って。私はちゃんとした貴族よ?」
頬を膨らませて拗ねるエマニュエルを周囲の男たち三人が微笑ましく見ている。
どうやら彼女は彼らに慕われているようだ。
「ははは……そうだな、お嬢は立派な貴族だよ」
「むぅ……なんだか子供扱いされてる気がするわ」
「いや、実際お嬢は子供だし」
「なっ! 今年で十五になるレディになんて失礼なことを言うの!? 罰よ! 罰として今日のオヤツは抜きだから!」
「あー……お嬢、そのオヤツなんだが……オレ、実は甘いもん苦手なんだよ。だからその、できれば今後は無しにしてくれるとありがたいんだが……」
「え……えぇ!? そ、そそそそそうだったの!? なんで今まで言わなかったの!?」
「いや……お嬢が自ら手作りしてくれるもんだから、言いにくくってな……」
ゴロツキがバツの悪そうな顔で頭を掻くと、黙っていた男ふたりは挙手をして口を挟んだ。
「あ、私は甘いもの好きですので。オヤツは引き続き希望します」
「お、お、おれも、甘いものは好きだから……」
「アナタたち……!」
エマニュエルは感動したように涙ぐんだ。
……なんだこれは。
リオナンドも目の前で繰り広げられた会話に毒気を抜かれたようで、再び馬車に乗ることを勧められると素直に従った。
●
オーウェル・ド・ナヴァル伯爵。
ミディノール地方一帯を治める伯爵家の当主であり、荒野でリオナンドを拾ったエマニュエル・ド・ナヴァルの父親である彼は、執務室で部下の報告を聞きため息をついていた。
「また、拾ってきたのか……」
娘であるエマニュエルが孤児や難民、餓死寸前の貧民を拾ってくるのは今回が初めてではない。
オーウェルがまだ子爵だった頃から幾度となくあったことだった。
それも今までは小言程度で済ませていたが……これからはもうそれでは済まない。
単なるいち子爵の娘であれば、まだ良かった。
いや、実際はあまり良くはないが、博愛精神に溢れる貴族の娘として美談にもできた。
しかし伯爵となった今のオーウェルには敵が多い。
変な噂を立てられる程度ならともかく、下手をすれば直接『害』を送り込まれる可能性すらある。
「いい加減もうそろそろ、止めさせないとダメだな。……それで、例の件は?」
「はっ。仰っていた通り、荒野には『死神』が現れました」
「そうか。帝国軍の被害は?」
「全滅です」
「……なに?」
オーウェルは耳を疑った。
「今……全滅、と言ったのか?」
「はい。望遠鏡での目視と、『死神』が去ったあとの帝国軍の陣地を探索した限り、全滅だと思われます。生存者は見つけられませんでした。もし見逃しがあったとしても、数は少ないかと」
「…………十万を超える軍隊が、全滅したと?」
「は……はい。わ、私は……この目で見たのです」
部下はゴクリと唾を飲むと、震える声で主張した。
「凄まじく強い光が夜闇を照らしたかと思ったら、その直後、まるで命の糸が切れたかのように、一斉に兵士たちが倒れていくのを……望遠鏡越しでしたが、確かに見たんです。あ、あれは……あれこそが、『死神』です。初めて見ましたが、間違いありません。事前の調べではどの国もせいぜい被害は三千から五千、多くても一万ほどの死者で撤退を強いられているという話でしたが……」
部下はぶるりと体を震わせて言った。
「きっとそれは、嘘です。各国が弱みを見せないため、被害は少ないという情報を流したんです。でなければ、あんな……いとも簡単に十万もの大軍を滅ぼすバケモノを相手に、そんな少ない被害で済むはずがありません」
「…………信じられないな」
いくら情報を操作するにしても、限度がある。
十万までの大軍は今回が初だとしても、今まで幾度となく三万や五万の軍勢を死神は退けてきたのだ。
それら各国の被害情報がすべて操作されていたというのは考えにくい。
「う、嘘じゃありません! 私は……私は本当に見たんです!!」
「落ち着け。お前が嘘を言っていると思っているわけじゃない。……あとで褒美を取らせる。ご苦労だった。下がって良いぞ」
「は、はい……」
部下が退室したあと。
オーウェルは子爵時代から使っている簡素な椅子を軋ませ、小さく呟いた。
「……十万、か」
部下の報告を信じ、事前に調べた情報にも大きく差異がないとするならば。
死神は今回に限って例外的に、大量殺戮を行ったことになる。
「戦争を止めない人間に対する警告か、自らの力を示したのか、それとも……」
わからない。
わからないが――何か、大変なことが起こっている。
それだけは間違いない。
「皮肉だな」
死神の動きからはあからさまに、戦争を止めようという意思が感じられる。
そして教会は否定しているが、その能力からして死神は十中八九、十年前に教会が取り逃したという『悪魔』であることは間違いないだろう。
「だが死神よ……気がついているのか?」
お前が暴れれば暴れるほど、大陸を治めていた教会の権威は地に落ち――この世は、戦乱の闇に入っていくのだということを。