060「変化」
リオナンドが目の前で起こったことを理解した瞬間。
彼の魂は絶望に染まった。
そして張り詰めていた糸が切れるように――邪神の力を宿した魂の暴走が、始まった。
●
「なんと……ここにいる方々全員が、悪魔に殺されたのですか……?」
黄昏色に染まる平原にて。
異端審問官オベライは、平原で無造作に並べられた大量の遺体を眺めながら兵士に問いかけた。
「はい。おそらくはオベライさまが仰る悪魔によるものかと……敵兵士の遺体は回収していないので、実際はもっと多いですが」
側に立つ兵士が答えると、オベライは顔をしかめ、嫌悪感をあらわにして言った。
「……悪魔の前では、我がベネボラ教徒の民も、異教徒の蛮人も関係ないようですね」
「オベライさま、どうします?」
後ろに控える処刑人が聞く。
「本来ならば悪魔の犠牲者ひとりひとりに、膝をついて祈りを捧げていきたいところですが……悪魔を野放しにすればするほど、さらなる犠牲者が増えます。心の中で祈りながら、先を急ぎましょう」
オベライはそう言ってから兵士にリオナンドが去った方向を聞き出し、すぐに先を進み始めた。
早足で歩くオベライの後を慌てて処刑人たちが追従する。
「それにしても……ひどい光景です」
オベライが戦場を見て目を細める。
地面に座り込み、自分の両肩を抱いてガクガクと震える者。
錯乱して仲間たちに取り押さえられる者。
傷ひとつなく死んでいる兵士の前で膝を折り、涙を流す者。
その誰もが、忌むべき悪魔への憎悪と恐怖を言葉にしていた。
「………………悪魔め」
呟き、歯ぎしりする。
人を悪の道へ誘惑し、魂を堕落させるだけでは飽き足らず、直接その命さえも奪っていくとは。
なんて悍ましく、邪悪なのだ。
「絶対に……絶対に、逃しませんよ……」
その声は低く、憎悪に満ちていたが――しかし口角は上がり、笑っていた。
○
夜、月明かりが照らす森の中。
ロクに整備されていない細い街道を、満身創痍のリオナンドが足を引きずるように歩いている。
暴走の結果、大量のソウルスティールで渇望状態は脱したものの、吸収した魂は俺の中に蓄えられるだけであって、リオナンドが回復するわけではない。
彼が自然治癒以外で生命力を回復するには、エナジードレインが必須となる。
そのため、人間からのエナジードレインを頑なに避けたリオナンドは、今も危険な状態にあった。
いや、戦場で避け切れなかった矢が未だ左肩に突き刺さっていることを考えると、今が一番危険な状態かもしれない。
なぜなら今のリオナンドは矢を抜いたあと、止血する程度の治癒聖術さえも使えないほど生命力を失っているからだ。
「司祭、さま……無駄死には……させ……ボクは……ボク、は……?」
虚ろな目でブツブツと独り言を呟きながら、リオナンドは杖を使って歩き、たまに近くの木に寄りかかって休憩していた。
「ボクは……なんで……ここに……なに、を……うっ……」
木に寄りかかりながら、リオナンドが自分の左肩を押さえる。
疲労と出血の影響か、意識が朦朧としているようだ。
しかし、たびたび休憩しながら木に寄りかかっているおかげだろう。
木から生命力を吸収し、ギリギリのところで意識は失わずにいられるようだった。
とはいえ植物からエナジードレインで得た生命力は、人間にとって親和性が低く、傷口を塞ぐほどの回復は望めない。
未だ危険な状態であることに変わりはなかった。
「ハァ……ハァ……ハァ、ハァ……」
そのうち独り言も消えて、道を進み続けるリオナンドの前に分かれ道が現れた。
左手には今よりも細く、森に囲まれてなお暗い獣道。
右手には今よりも広く、森が開けて明るい街道。
どちらが街に繋がっているかは、一目瞭然だ。
にも関わらず……リオナンドはフラフラと、当然のように左の道へと進んだ。
『…………』
ここで、街へ進むように言うのは簡単だ。
ただ……それではあまりに救いがなさすぎる。
今は意識が朦朧としているようだが、正気に戻れば必ずリオナンドは絶望する。
もし仮に耐えたとしても、彼が彼である以上、そして俺が宿っている以上、これから先のさらなる絶望は免れない。
だとするならば、俺にはこれ以上『生きろ』と言うことはできない。
死という救いを誰よりも渇望する俺が、それを言うわけにはいかないのだ。
今度こそ、リオナンドの最後を看取る。
俺はそう覚悟して、リオナンドを見続けた。
○
時を経て、やがて空が白む頃。
リオナンドは森の中にある、小さな教会の前に辿り着いていた。
皮肉なものだ。
強烈な睡魔にうたた寝しながら、リオナンドの最後を看取るため今までかろうじて意識を保ってきたが……彼は結局、森の中で力尽きることはなかった。
もはや無意識で歩いている状態だろうに、リオナンドは決して前に進むことを止めはしなかった。
当初、俺は彼のことを肉体だけは強靭で、精神はいつ壊れるか分からない脆弱なものだと考えていたが……どうやらそれは間違いだったようだ。
彼は強い。身も心も。
たとえそれが無意識によるものだとしても……いや、無意識によるものだからこそ、強いのだ。
おそらく彼はここでは死なないだろう。
そう考えた瞬間、意識を繋ぎ止めるための緊張がフッと解け……俺は深い闇の中へ沈み込んでいった。
○
次に目が覚めた時。
リオナンドは小さな町の中を歩いていた。
その足取りはしっかりしており、危なげない。
どうやら体調は回復したようだ。
体感であれから二日は経っている。
あの小さな教会で何があったのかは知らないが、おそらく施しを受けることができたのだろう。もはやボロボロだった修道服も新しいものになっていた。
『リオナンド』
「っ! ……フェイスさん、ですか」
リオナンドは一瞬ビクリとして周囲を見回したあと、俺自身の声だと気がついたのだろう、小声で答えた。
「まだ……いたんですね。呼びかけても応えないので、消えてしまったのかと思いました」
『残念ながらまだ消えてはいない。心底消えたいとは思っているが……それはともかく、リオナンド。無事だったんだな』
「ええ、おかげさまで」
リオナンドは珍しく、皮肉っぽく言った。
今までの彼とは少し感じが違っている。
『どうやら心境の変化があったようだが、教会で何かあったのか?』
「あぁ……説教されたんですよ」
『説教?』
「ええ」
リオナンドは鼻で笑って言葉を続けた。
「いもしない、仮にいたとしても助けてくれない神さまのことで、こんこんと。年配の優しい修道女さまで、助けてくれたことにはとても感謝していますが……正直、怒りで目の前が真っ赤になりました」
『……そうか』
正気を取り戻したリオナンドが絶望し、教会で神を罵る言葉でも発したのだろうか。どういう経緯でそのような話になったのかは知らないが、内容は容易に想像がつく。
しかし幸か不幸か、怒りは絶望に匹敵する強い感情だ。
そして怒りは生きる力に繋がる。
真相はわからないが、もしかするとその修道女もリオナンドを生かすため、あえて強く説教したのかもしれない。
「今思えば、司祭さまはいつもボクや、信者の方たちに『神は貴方の心の中に』と言っていました。そうなんです。司祭さまは、いつだって嘘は言わない人でした。司祭さまは嘘を言ってなかったんです。神は人の心の中にだけ存在するものだから、救うのは神を信じている人の心だけ。あはは……笑っちゃいますよね。ボクがただ、それを勘違いしていただけなんです。神は、実際にこの世界に存在するものなんだって。本当にバカですよね、ボクは。そんなもの――この世界のどこにも、いやしないのに」




