037「名前」
タイチの引退パーティーから一ヶ月後。
組織の息が掛かった病院にて。
「おめでたです」
並んで座っているタイチとマリアに対して、初老の医者がにこやかに笑いかける。
「現在二週目ですね。お二人とも、おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます!」
「お、おお……ありがとうございます」
「それでは今後の健診スケジュールと、出産予定日ですが……」
◯
マリアの妊娠が判明してから、半年後。
組織の地下施設にて、タイチの定期健康診断が終わったあと。
「ほら、ここが目で、これが手な。んでこれが足で……」
「ふむふむ、なるほど」
タイチはヤーコフ博士に胎児のエコー写真を見せながら雑談に興じていた。
もちろん写真の胎児はタイチとマリアの子供である。
「な? イケメンだろ?」
「イケメン? 男の子なのかね?」
「いや、それがエコー写真のたびに角度が悪くってさ。未だにわからないんだけど、でもこう……イケメンな顔してるだろ?」
「イケメンな顔か……」
微笑するヤーコフ博士を見て、タイチが訝しげな顔をする。
「なんだよ、何かおかしいのか?」
「いや……キミは変わったね、タイチくん」
「変わった? そうか?」
「うむ。昔のキミはどこか投げやりで、殺伐としていたが……今は穏やかで、しっかりと地に足をつけているように見える。父親になったからかな?」
「父親か……実感はあんまないんだけどな」
「なに、実際に生まれた自分の子供を見れば実感も湧くさ。私もそうだった。随分と昔の話だがね。……名前はもう決めているのかな?」
「いや、一応まだ決まってない。もうほとんど決まってるようなもんだけど……」
「ふむ? どういうことかな?」
「マリアがさ、ノアって名前が良いって言うんだよ」
「ほお、ノアか。最近は奇抜な名前を付ける親も多い中、伝統的かつ正統派な名前で良いじゃないか」
「それはオレもそう思うんだけど……マリアは子供が男でも女でも、ノアって名前にしたいらしいんだよ」
「男でも女でも?」
「そー。おかしいだろ? ノアは男の名前じゃんか」
「ふむ、確かにアメリカではノアと言ったら男の名前というイメージが強いが……別に女でノアという名前がありえないというわけじゃないだろう? 名前自体は確か、ヘブライ語で『休息』や『癒し』といった意味合いの単語が由来だったはずだ。他国では女の名前として付けられることも多いと聞く」
「いや、名前自体は確かにそうだろうけど、でもノアって言ったら旧約聖書のノアじゃん。男じゃん。男性名じゃん。だからさ、実際に生活する面でもし生まれてくる子供が女の子だった場合、うちの子がクラスメイトに『オメー男みたいな名前だな』とか言われたらどうしよう、とか考えるわけじゃん」
「……タイチくんは意外と繊細に物事を考えるんだね」
「いや、ぜんぜん繊細じゃねーし。フツーだし。フツーに考えた結果だし」
「そうか。それでキミはノアという名前自体は良いと思っているが、女の子だった場合は実際の生活面で嫌な思いをしてしまうんじゃないかと心配なわけだね?」
「そーゆーこと。だから名前はノアでほぼほぼ決まってはいるんだけど、女の子だった場合はあんまり賛成できないっていうか……いや、待てよ? ……そうか!」
「どうしたんだい?」
「良いこと思いついた! ちょっとセオのとこ行ってくる!」
「お、おいタイチくん!?」
ヤーコフ博士との話はぶった切り、タイチは地下施設の一室を後にした。
その日の夜、タイチの自宅にて。
タイチはソファに座るマリアに対して話をしていた。
「……というわけで、子供が男の子だったらアメリカ、女の子だったら日本に引っ越して暮らす、ってのはどうよ? 日本だったらもし女の子で名前が『ノア』でもおかしくはないし」
「……タイチ」
マリアは大きくなったお腹を手で優しくさすりながら、やや遠慮がちに言った。
「それは……大丈夫なのでしょうか? タイチが組織を離れることになりますが……」
「オレのことだったら大丈夫だぜ。セオにもちゃんと許可を取った。日本に行く場合は組織のオレ専門医療スタッフも引き抜いて、連れて行って良いってさ。そん時はオレが直接オッチャンとかを雇って、設備も実費で建てることになるけど……オレらの場合は金の心配はいらないし、そこらへんは問題ないだろ。あとはマリアが日本に行っても良いかどうかって話なんだけど」
「私はもちろん構いません。その時はよろしくお願いします」
「お、おう……って、いや、日本に行くってのはオレの単なるワガママみたいなもんだから、そんなお願いなんてしなくても……」
「そんなことありません。元はと言えば私のワガママですから。……それにしても、男の子の場合は日本に行かなくても良いのですか?」
「ああ。日本の場合はノアって名前はむしろ女の子が多いからな。男の子だった場合は逆に『オメー女みたいな名前だな』とか言われそうじゃん? そしたらノアがグレちゃうかもしれないじゃん」
「フフッ、パパは心配性ですね。……ねぇ、ノア?」
マリアは微笑みながらそう言って、再び自分のお腹を撫でた。
◯
それから更に四ヶ月後。
例のごとく組織の地下施設にて、タイチの定期健康診断が終わったあと。
タイチは、セオドリックに土下座されていた。
「すまない、タイチ……最後にもう一度だけ、力を貸してくれないか」
――運命の歯車は今、不吉な音を立ててゆっくりと、動き出そうとしていた。




