106「昏迷」
リオナンドは狭く、簡素な部屋で目を覚ました。
目に飛び込んできたのは、棚の片隅に吊るされたドライフラワーや、テーブルの上に置かれた小さな刺繍入りのハンカチ。
物は多くないが、控えめな装飾のひとつひとつから、部屋の主が女性であることが窺えた。
「お姉ちゃんが、部屋に男の人連れ込んでるー!」
「だから、違うって言ってるでしょ! あの人は私の恩人だから!」
部屋の外からはバタバタと騒がしい足音に加え、幼い少女と女性が言い合う声が聞こえてくる。
リオナンドは身体を起こそうとして、胸の痛みに小さく息を呑んだ。
『動かないほうがいい。あれから多少は回復したようだが、まだ全快じゃないからな』
「フェイスさん……」
リオナンドが呻くようにそう呟いた時、ドアを開けて部屋に誰かが入ってきた。
「あ、起きてる……!」
現れたのは、紺色の修道服を身にまとった若いシスターだった。まだどこか幼さの残るそのシスターは、驚きと喜びが混じり合ったような表情を浮かべた後、穏やかに微笑んだ。
「……気がついたんですね。わたしのこと、覚えてますか?」
「え……?」
シスターを見上げたリオナンドは、僅かに眉をひそめたまま、頭の中を探るように目を細める。それからハッと気がついたように目を見開くと、ポツリと彼女の名前を口にした。
「カティ……?」
「お久し振りです。リオナンドさん」
当時まだ十代だったリオナンドが聖都に向かって旅をしていた頃、途中で立ち寄った町でのことだった。借金のかたに娘を奴隷として差し出さなければならない状況に追い詰められた男が、最後の望みにすがるように、半ば強引にその娘をリオナンドに託してきた。
紆余曲折の末、リオナンドはまだ幼い娘を聖都の手前にある街の孤児院まで送り届けることになる。その娘が、カティだった。
「ここは、わたしがリオナンドさんに送り届けてもらった孤児院です」
カティの話によれば、リオナンドは街の郊外にある滝つぼ近くの川岸に倒れていたところを、たまたま通りかかった狩人ふたり組に発見され、街まで運ばれてきたのだという。
そこからは街の教会で最低限の治癒聖術を施され、孤児院に連れてこられたらしい。ただ治癒聖術はガラトの力がまだ残っていたのか、効き目が異様に薄かったようで、瀕死の重体は変わらなかったとのこと。
「狩人の、ふたりは……」
リオナンドには常時発動しているエナジードレインがあるため、迂闊に触り続けてしまった人間は、自分の生命力が吸い取られていることにさえ気がつかず死んでしまう。リオナンドはそれを憂慮したようだ。
「ふたりとも元気ですよ」
カティが笑顔で事情を説明する。
最初は体格の良い狩人がひとりで運ぼうとしたものの、リオナンドに触れている間にエナジードレインの影響で力が抜けてしまい、自力では運べなくなってしまった。
しかし彼はそこで諦めることなく、もうひとりの狩人と共に木の枝と布を使って即席の担架を作り、それにリオナンドを乗せて街まで運んだらしい。
「教会からここに来るまでも、男の人に頼んで同じように担架で運んでもらいました。直接は触れないように注意してもらいました」
当時の旅でエナジードレインのことを知っているカティが、リオナンドを安心させるように言う。
「そう、か……」
「リオナンドさん、何があったんですか?」
カティはリオナンドの身を案じるように、そっと身をかがめ問いかけてきた。彼女の瞳には純粋な心配と、久しぶりに再会した懐かしさが入り混じっている。
「それは……」
リオナンドが答えようとしたその時。
魂の感知距離内に、今リオナンドがもっとも恐れる気配が、ふいに入り込んできた。
それは圧倒的な存在感を伴って、外からじわりと近づいてくる。
『リオナンド』
「くっ……!」
リオナンドは即座に治癒聖術を発動した。そして自分の身体を癒しながら起き上がろうとする。だが未だにガラトの力が残留しているのだろう、傷が治る速度は異常に遅く、むしろ起き上がって傷口が開いた分だけ、治癒が追いつかなくなっていた。
「何をやっているんですか!? ダメです、まだ起き上がらないでください!」
カティが慌ててリオナンドを止めようとする。
直後、部屋の外から声が聞こえてきた。
「ガラト様? あの、そちらにはケガ人しかおりませんが……」
「構わぬ。そのケガ人に用がある」
近づいてきた足音は部屋の前で止まり、ドアがゆっくりと開かれる。
部屋に入ってきたのは、リオナンドを一晩中追い続け、最後は瀕死の重傷を負わせた聖騎士、ガラトだった。
彼の背後から差し込む光が、部屋に重々しい影を落とす。
カティは黙って部屋に入ってきたガラトに、困惑しているようだ。
ガラトは無言のまま腰の剣を抜いて、上段に構えた。
リオナンドの周囲にはガラトの剣を防ぐものは何もない。
絶体絶命かと思われた、その刹那。
「やめてください!」
カティがリオナンドの上に身を投げ出すようにして、彼を庇う。
振り下ろされた剣が、カティの髪を掠める距離で静止する。
「この人は、わたしの命の恩人です! わたしを、助けてくれたんです……わたしを、見捨てなかったんです!」
「……その者は死神。歩むだけで命を奪い、存在するだけで祈りを曇らせる。それでも、おぬしは信じるに値すると見なすか?」
場を重々しい沈黙が支配する。
カティの肩は、恐怖で小刻みに震えていた。
「わ、わたしは……わたしには、難しいことはわかりません。リオナンドさんは、死神さまなのかもしれません。でも、わたしは……目に見えない神さまよりも、みんなが噂する死神さまよりも、今もここにいるリオナンドさんを信じます。リオナンドさんは、生きている人間ですから」
「…………」
ガラトは無言で剣を引いて、天を仰いだ。
それからしばらくの間、目を閉じたままその場に立ち尽くしていたかと思うと、おもむろに腰の鞘に剣を戻して、こちらに背を向ける。
「神が目を伏せられたのなら、儂は胸に問いを宿したまま剣を納めよう。それが試練であれ、贖罪であれ……答えは、まだ天にある」
ガラトはそう言って歩き出した。
そして部屋を出る直前、呟くように言葉を落とす。
「……神の御業は時として、泥と血に塗れて始まる。ならば汝が穢れに沈む今もまた、始まりのひとつかもしれぬ」
〇
リオナンドがガラトに見逃されてから、十年の月日が経った。
今、彼は齢三十八となる。
あれから、大陸に戦火が広がることはなかった。
帝国や王国間においては水面下の争いがたびたび起こっていたが、剣を交えるには至らず、表面上は一応の平穏が続いている。
しかし、人の心までもが穏やかであったわけではないようだ。
隣国との戦いが減った結果、常備軍や傭兵は魔物退治に、より一層の戦力を割くようになった。
戦や魔物が減ると、治癒聖術によって元から乳児の死亡率が高くなかったこの世界の人間は、急激に人口を増やすことになる。
だが、その増えた人口を賄えるほどの食料生産能力は各国になかった。
飢えは怒りを生み、怒りは秩序を溶かしていく。
街道では職を失った傭兵が盗賊となって徒党を組み、辺境の村では自衛の名のもとに無法が横行する。
宗教の威光は弱まり、教会の鐘は信者を呼ぶには鈍く、今や教団は慈善よりも徴収を優先するようになっていた。
戦争は起きない。だが人は飢えて死ぬ。
戦火は広がらない。だが人は争い死ぬ。
信仰と希望が、緩やかに失われていく。
死神によってもたらされた、戦争のない時代。
人々はこの時代を『祈りを喰らう黄昏』と呼び、絶望の底で嘆いた。
リオナンドは、そこにいた。
人々が祈りを失い、飢えと寒さに背を丸める地に、声なき声を拾うように歩いていた。




