100「宣告」
「ソウルスティールが……効かない?」
リオナンドの目が驚愕に見開かれる。
当然の反応だろう。今まで数多の人間を相手にして、ソウルスティールが効かなかったことなど一度もなかったのだから。にわかには信じられないに違いない。それは俺も同じ……いや、衝撃はリオナンドよりも俺のほうが大きい。何せ邪神になって千年以上、このような事例はなかったのだ。
「驚きましたか? アナタという悪魔に対抗するため、私はこの十年間、片時も休まず神に祈りを捧げてきました。それにより私の信仰はより強く、より清らかなものとなったのです。そして私は確信を得ました。――やはり神の御加護があれば、悪魔の業など無力に等しい」
オベライがそう言って片手を挙げると、大樹の陰から複数の聖衛騎士たちが姿を現す。その中心には、ふたりの人影があった。
ひとりはナヴァル家の当主オーウェル。普段の面持ちは失われ、片目の周囲は赤黒く腫れ上がり、頬には殴られたのであろう痣の痕がくっきりと残っていた。自由はなく、後ろ手に拘束されたまま引き立てられている。その足取りは明らかにふらついており、騎士に腕を掴まれていなければ立っていられなかっただろう。
そして、もうひとりは――
「……お嬢さま」
当主の娘、エマニュエルだった。彼女は聖衛騎士たちの中でも一際、背の高い騎士の肩に担がれるようにして運ばれている。拘束されてはおらず、目立った傷も見当たらないが、意識はないようで成すがままにされていた。
リオナンドの全身を、怒りとも焦りともつかぬ衝動が突き上げていく。
だが、彼は動けない。
「もう既に理解しているでしょうが、次に悪魔の業を使えば……このおふたりは死にます。もちろん、私以外の誰に使ってもです」
オベライが腰に付けた鞘から細身の剣を抜き出し、意識なく項垂れるエマニュエルの首筋に剣先を当てる。
「さぁ、悪魔リオナンド。聖騎士クロードの剣を受け、神の御意志をその身に戴き、潔く滅びなさい。それとも……このおふたりの魂を奪い、アナタ自身が殺しますか? 十年前と同じように」
その言葉に、リオナンドの魂が激しく軋んだ。
十年前。
リオナンドは邪神の呪いを解くため密かに聖女の元へと通い、俺の情報を少しずつ明かしつつも、彼女と親交を深めた。
しかしオベライたちにその交流が悟られ、聖女は人質に取られてしまう。
当時のリオナンドには、多数の聖衛騎士を相手に戦えるだけの実力がなかった。そのため俺の助言に従い、彼は聖女だけにソウルスティールを使い、その命を奪って逃走したのだ。
あの時、聖女はリオナンドを誘き寄せる囮として、オベライに拷問されていた。既に助かる望みはなく、リオナンドにできることは彼女の苦しみを終わらせることだけだったからだ。
「聖女を殺したアナタを逃したのは、痛恨の極みでした。しかし、今回は違う。もし仮にアナタがこのおふたりを殺したとしても、大きな問題はありません。これだけの聖衛騎士が周りを囲んでいるのですから。ただ――」
オベライがエマニュエルの首にトントンと、細身の剣身を当てて言う。
「――アナタが自暴自棄にならないよう、人質に拷問はしません。アナタが大人しく死ねば、このおふたりは助けると約束しましょう。いずれにしてもアナタはここで終わるのです。であれば、可能な限り犠牲は減らして死ぬべきではありませんか? アナタに少しでも、人の心が残っているのであれば」
たっぷりと情感を込めて、オベライが白々しい言葉を吐く。
人の心が残っているのであれば……など、よく言えたものだ。
リオナンドがここに来ている時点で、彼の『人の心』を奴が理解し、最大限に利用しているのは明白だった。
リオナンドは無言のまま目を伏せる。
焼け付くような静寂の中、オーウェルとエマニュエルの息遣いだけが耳に届く。オベライの剣はまだ彼女の首筋に添えられたままだ。少しでも身を捩れば、呆気なく血を噴き出すだろう。
「……ボクが死ねば、この世界は終わる。だからボクは死ねない」
「またその話ですか……よく飽きもせず、そのような妄言を吐けるものです。それともまた、頭の中にいる悪魔に囁かれているとでも言うのですか?」
「違う! フェイスさんは……!」
リオナンドが言い返そうとした直後。
残像と共に、銀色の光が瞬いた。
即座に構えたリオナンドの杖に長剣が振り下ろされ、鈍い音と共に衝撃が伝わってくる。
振り下ろされた剣閃は、クロードのものだった。
「リオナンド! 悪魔の声に耳を傾けるな!」
「クロードさん……!」
「その悪魔が、お前に何をしてくれた!?」
長剣に渾身の力を宿し、リオナンドを杖ごと押し斬る勢いで迫りながら、クロードが怒声を叩きつけてくる。
「悪魔はお前に忌むべき力を与えた代わりに、すべてを奪った! 平和な日常、信じ合える仲間、心から笑える時間……お前が人として歩めたはずの未来を、すべてだ!」
クロードは叫びながら長剣を引き、間髪入れず怒涛の剣撃を繰り出してきた。息をつく間もないその猛攻に、リオナンドは防戦一方でただ耐えている。
「目を覚ませ、リオナンド! その悪魔が囁く言葉はすべて嘘だ! お前を地獄に落とそうとする悪魔の罠なんだ!」
断定と共に凄まじい剣圧で真正面に振り下ろされたその剣は、死を感じさせる致命の一撃として眼前に迫ってきた。
リオナンドはその一撃を杖で受け止めるも、膝が軋み、足元の石畳がひび割れる。お互いの凄まじい膂力に木製の杖も限界を迎えつつあるのか、ミシミシと不穏な音が手元から鳴り始めていた。
「悪魔リオナンド。私の言った言葉を覚えていますか?」
唐突に、オベライの声が場に割り込んでくる。
かと思うと奴は視線を動かし、軽く顎を動かした。
それは合図だったのだろう。鎧を鳴らしながら聖衛騎士のひとりがオーウェルの首に長剣を添えると、家畜の血抜きをするかの如く何気ない動きで、その腕を引いた。
「私はアナタに、潔く滅びなさい……と、言ったのですよ」
オーウェルの首から鮮血が噴き出し、身体がぐったりと傾く。
支えていた聖衛騎士が腕を離すと、オーウェルはその場で崩れ落ちるように倒れ伏した。
緑の芝生が赤く染まり、生ぬるいの風が血の匂いを運んでくる。
リオナンドはクロードの剣を受け止めながらも、それを信じられないような目で、呆然と見つめていた。
「おや? 何かおかしなことでも? 拷問はしないと言いましたが、『人質を殺さない』とは言ってませんよ。約束は守っています。ただ……アナタの決断が、遅かっただけ」
オベライは再びエマニュエルの首筋を剣身でトントンと叩くと、その顔に満面の笑みを浮かべながら言う。
「さぁ、悪魔リオナンド。聖騎士クロードの剣を受けなさい。さもなくば……わかりますね?」
それは逃れようのない運命を突きつける、残酷な死の宣告だった。




