あちらとこちら
――鏡の中の世界にも、独立した人々が存在する。ただし彼らのすべては常に現存する世界に依拠しており、制限は多い――
今日も1日が始まる。私も目覚めたてだけど、気を抜いてなんていられない。ちゃんとベッドから這い上がり、気だるげに彼女と向かい合った。寝覚めに真似っこなんてボロが出そうで怖いけど、この子もまだ寝ぼけてるから気付かないだろう。階段を下りるのについていき、顔を洗う。さぁ、そろそろ本気を出さなくちゃ。
(あ…目やにがまだ付いてる)
ほらまただ、この子はいつもばちゃばちゃと水をかけるだけで、ちゃんと顔を洗えていない。本当はいけないんだけど、バレないくらいに鏡に接近した。ほらここだよ、気付いて気付いて。
それでもこの子はまだ目覚めきっていないのか、私の気遣いにも気付かずに、のそのそとリビングへ向かってしまった。洗面所から出るふりだけして、鏡の横にふらふらと座り込む。私だって朝は弱いんだ、起きてすぐにこんなに気を遣っていたら頭が痛くなってしまう。まもなくして、あちらのリビングから、目元が汚いと言われている声が聞こえてきた。引きずるような足音が近づいてきたので、急いでスタンバイ。タイミングを合わせて再び鏡と向き合い、今度こそはちゃんと目やにを取って手を洗った。
そう、私はこの子の相棒。もう17年間もこの子のふりをし、共に暮らしている。鏡の向こうの世界ではこちらのことは知られていないみたいだけど、私たちはあちらの人間とこちらの人間が繋がっていて、そして私たちの方はあくまで影に過ぎないことも知っている。大昔は私たちにココロなんてなかったらしいけど、今となってはその方が信じられない。だって私はこんなにも眠いし、疲れるし、なによりあの子のことが、あの子と同じように動くことが、面倒なりにも好きなんだから。
鏡がないところでは何をしてもいいんだけれど、それでもある程度は自分の相棒に合わせて動かなきゃいけない。鏡がなくて見えなくても、相棒のいるところに行かないとむずむずするのだ。本能ってやつなのかな、そのお陰で私は今のところ出遅れたことはない。もしも私たちが鏡の前に出損ねでもしたら、あちらの世界は崩れてしまうし、あちらに従順な私たちの世界も崩れてしまうという。そうならないために、私たちは今日も相棒についていく。
随分前になるけれど、まだあの子が中学校に通っていた頃に、生き続けることに絶望して手首や腕を傷つけるのが習慣だった時期があった。あの子は学校に鏡を持っていかなかったから、教室のなかで何があったのか、カーブミラーのない道路で何があったのか、私は知らない。幸か不幸か、私の世界のあの子の友達はみんな私に優しくしてくれていたから、分からない。それでもあの子の気分が沈めば私の気分も沈んだし、死にたくなった気持ちも嫌というほど流れ込んできた。あの子が死ねば私も消える、そんな絶対的な繋がりをひしひしと感じさせられた。それがそういうものだと分かっていても、当時の私はすぐにでも訪れかねないその瞬間が怖くて怖くて仕方なかったっけ。
あちらから聞こえた、階段を上る音にはっとする。洗面所で気を緩ませ過ぎた。昔のことを思い出している場合ではない、もうごはんを食べ終わったんだ、私も急いで部屋にいかなきゃ。
ダッシュで階段を駆け上がり、鏡の前に飛び出した。よかった、間に合った。いそいそとクローゼットにかかっている制服を取り出して、鏡からは背を向けつつも耳をそばだてながら着替えた。襟の曲がり具合もおんなじままに、髪を整える準備に入る。今日何回目かのご対面。櫛を通して寝癖を落とし、襟もちゃんと直した。目が合って、すぐそらした。時計を見つめて、そろそろだなと鞄を取る。学校の時間だ。私も一緒に家を出て、いそいそと彼女についていった。
・・・・・
学校ではこれといってなにもなかったらしい。トイレ以外で彼女を見る機会はなかったけれど、でも私の心が落ち着いていたから、きっとなにもなかったんだろう。高校にはいってから、中学の頃のような沈む感じには縁がなくなっていた。強いて言えば、今日はいつも一緒に帰る友達がお休みだったせいで、帰り道がすこし寂しかったけれど。
その道中のいつもの角を曲がる、私はまだその手前にいた。ここは車が通る場所じゃないから、鏡はない。だから何も見えない。それでも、何かが変わったことに気付かないはずがなかった。背筋がいやに固まった。胸が苦しい。耳がぼんやりして聞こえない。視界も狭まってきた。倒れそうになるのをこらえるのが精一杯で、それでも悲しいかな、その角を曲がってこちらへ来た人の顔を見て、私はあちらで何が起きたかを悟ってしまったのだった。
私には優しかった友達、でも私の相棒を傷つけた人が、真っ青な顔をしてそこに居た。
『うそ、ごめん、まさか会うなんて…』
『ねぇ、今、そっちは、どんな、かんじなの、っ』
『あたし?あたしは…その……』
『なんか、私、すごく、苦しくって、』
『…ごめん、今、あたし、すごく………気分良い』
『そっか…やっぱり』
『ごめん、本当にごめん、でもあの子全然動いてくれなくて、あたしもどうすればいいのか』
なぜだろう、少し落ち着いてきた。普通に話せそうだ……落ち着いてきた?違う、これは、落ち着きじゃなくて、これは……。
『謝んないで、あなたは悪くないんだから』
『そうだけど……あ、行くみたい、ごめん、あっち大通りだからもう、』
『うん、行ってあげて』
『ごめんね…ばいばい』
もう、遭いませんように。ミラーのある通りへと駆けていく彼女を後目に、落ちそうになる体をどうにか持ち上げて、とりあえず曲がり角を抜ける。そうだ、家まであと少しだ、ここで私が出遅れちゃいけない。頑張れ私、辛いのは私より、あの子じゃないか。上手く力の入らない足を踏ん張って、家路を急いだ。
鍵を開け、玄関に座り込む。私の方が先に着いたようだ。ほどなくして、あちらから扉を閉める音がした。耳を澄ませているとそのまま階段を上っていったので、私もそれに続くように部屋へと吸い込まれた。あちらのママが何か言っていたが、気に留めておくことはできなかった。
いつもはそんなことしないのに、今日に限って彼女は鏡の前でしゃがみこんだ。スカートがぐしゃぐしゃになるのも構わず、膝から落ちるように。彼女は泣いてはいなかった。ただただ、虚ろな目線が姿見の下辺りを嘗めていた。それ倣って私もそうするしかなくて、当たり前のことなのに、それがこんなにも歯痒く感じたのは初めてのことだった。顔を見たかった。そのうち部屋に射していたオレンジの光からも置いてけぼりにされ、私たちに寄り添っているのは傍らの鞄だけになった。
「もう、だめだ」
ぽつりと落ちた言葉。その波紋が私の目元にまで響いて、視界を揺らす。ふと顔を上げると、彼女もまた顔を上げて潤んだ瞳をこちらへ向けていた。なにを言われたの?なにをされたの?なにがだめなの?色んな言葉が舌の根までせり上がってきて、しかしどれも胃の中へ蹴落とすしかない。
「しんじゃお、かな」
目を見て投げ掛けられた言葉。反復するように、だけれど同時に言わなければならなかった言葉。でも、その言葉に重ねて私が投げ返したのは。
・・・・・
『死ぬなんて言わないで』
あ、と思ったときには遅かった。目を丸く見開いて、彼女が見ているのは自分ではなく、鏡越しに存在する私になっていた。
「え、え……」
『……』
手遅れだ。その絶望が、本能をも覆ってしまって声がでない。私が壊したんだ、あの世界、そしてこの世界を。
『…ごめんなさい、』
もうとっくに真似っこなんて出来なくなっていた。今まであんなにきれいに、心までひとつかのようにそっくりだった声も動きも、ばらばらになって離れてしまっていた。私はあの子の視線を感じていても、俯き、そのスカートを握りしめた拳を見つめながらでしか話すことができなくなっていた。
『でも、だって、私、あなたには生きていてほしくって』
ごくりと喉を鳴らしたくても、口も喉もカラカラで、ただ乾いた空気が落ちるだけ。かさかさの声が、かさかさと床を這ってあちらへ向かう。
『しんじゃおうなんて、そんな言葉、あなたに言いたくなかったの……』
今さら、取り繕うつもりもなかった。さっきの道中、なにがあったのか、この子の心がどうなったのか、そして家に帰ってどうなるのか、ある程度は分かっていたはずなのだ。それなのに、それでも、私はこの子に生きていてほしかった。この子が消えたら私も消える、そんな恐怖も嘘じゃない。でもあんな勢いで一番破ってはならないルールを破った理由は、もっと別のところにあった。
なんとも不思議な気分だった。この子の前で、こんなに饒舌に、私が喋ることがあるなんて。夢でも見ているかのような、そんな瞳で私を見つめるだけだった彼女は、ようやく少し震えた声で、自分の言葉を紡ぎだした。
「あなたは、私なの?」
『…そうだよ』
「私は、生きていたいの?」
『、そうだよ』
「こんなに苦しいのに、いつまでもあの子達に縛られたままなのに、生きてる意味なんてないのに、それでも私は、生きていたいの?」
『そうだよ!!』
初めてだった。ぼろぼろと泣く彼女を、ちゃんと見つめられたのは。彼女が泣くときは、私が泣くときだった。彼女の涙は、いつだって私の涙越しにしか見られなかった。だけど今はちがう。私が壊したルールの破片が、私に彼女の悲しみをはっきりと見せてくれた。
「私、さっき、あの子と会ったの」
『知ってるよ』
「私、あの子に、まだ生きてたのって言われたの」
『…知ってたよ』
知ってた、そう知っていた。あの異様な落ち着き。自分の心を諦めた、捨てた、落としたまま拾わなくしてしまった、そんな落ち着き。あのときこの子は、いや、私は、自分自身を落としてなくしてしまったのだ。一時なくしかけて、でもどうにかなくさず守っていた自分というものを、改めて溢してしまった。私はそのことに気付いて、気付いてしまって、だから。
『それでも私は、あなたに生きててほしい』
なんて邪魔な鏡だろう。手を伸ばして、このいたいけな、どうしようもない子を抱き締めてあげたくても、こんなにルールを壊していても、整然と世界を分けたままでいるんだから。
『あの子の言葉に、連れてかれないで』
「……」
『私があなたを生かせてあげる、生きていていいように、してあげるから』
私が鏡についていた両手、そこに重ねるように、泣きじゃくった彼女も両手を合わせてきた。ほら、一人じゃない。あなたの命は、あなただけのものじゃないんだよ。他人の理不尽な言葉に惑わされて消えるなんて、そんなの、おかしいんだって、分かってよ。
「……ありがとう…」
私に初めて向けられた、その言葉に、その声に、私の方も決壊した。彼女とお揃いの淀んだ世界になったとき、不意に扉が開いた。
「誰と喋ってるの……?」
ママだった。はたと我に返り、目の前の彼女から目を離した。扉に目を向ける。あちらにもこちらにもママはいたけれど、あちらのママの言葉ばかりが私の耳には響いてきた。
「またおかしくなっちゃったの……!」
「ママ、ちがうよ、鏡の中にいるのは、私だけど私じゃないの!」
「何を言ってるの!鏡としゃべるなんて、そんなの普通じゃないわ!」
「ちがうの、ちがうんだよママ!」
「病院よ、病院に行きましょう!ほら、早く!」
嫌だやめてと叫ぶ彼女と同じように、私もこちらのママに引っ張られ、鏡の前から引き剥がされた。違ったのは、あちらの二人がそのまま階段を下りていったのに対して、私たちはまだ自分の部屋にいたことだった。
『なんてことをしてしまったの』
『……ごめんなさい』
『謝るべきはママじゃない、あの子にでしょう』
『え?』
『あなたがあの子の人生を壊したのよ』
人生を、壊した?
『あの子は、本当なら聞こえないはずの幻覚と幻聴を背負って生きていかなきゃいけなくなったの。あの子の世界は壊れてしまった。もう前のようには戻れない』
『それって…』
『あちらと違う動きをする、見せてしまうというのは、そういうことなのよ。今からあの子は病院にいく。そしたらきっと、精神を病んでいると言われるわ。実際がどうであれ、そう診断されることであの子の人生は確実に変わる。自分を見る目も、他人に見られる目も、不必要に変わってしまった』
『世界が、崩れるって、まさか』
『そう。相棒の人生を歪めてしまうこと。それによって影のあなたの方も、歪んでしまうということ』
ぐっと、なにかに締め付けられる感覚に陥った。息ができるのに苦しい。私がしたのは間違いだったのか。あのままでは死んでしまいそうだった、消えてしまいそうだったけれど、それに抗ってしまったのは、間違いだったのか。あの子になんとしてでも生きていてほしいと願ってしまった私の気持ちは、間違いだったのか。透けた闇が私を包む。まるで、見えない蛇に呑まれているような。
『さぁ、私たちも行きましょう。車のミラーに映らなくては』
ママは怒らなかった。憐憫の眼差しを向けながらも、優しく手を引いてくれるだけだった。
守ろうとした手のひらで、握り潰して壊した世界、崩れた世界。私たちは、本当なら陥らなかったその世界へと、進むしかなくなってしまったのだ。