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恋の時間、愛の時間

作者: 白河真里華

キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン


昼休みが終わり、午後の授業の開始を知らせるチャイムを、この時間を受け持つ授業のない高校教師である優也は、屋上で1人、タバコを吹かしながら、聞いていた。


5月の澄んだ青空を見上げ、ゆっくりと流れるワタアメのような雲を目で追いながら、ふと、去年までこの高校に通っていた彩矢のことを考えた。

(アイツ、今ごろ授業受けてるかな?)


1年前の4月、優也は3年生の担任を任された。

正直、進路だの受験だのと、色々ある3年生の担任は、気が進まなかった優也だったが、受け持つクラスの名簿の中に、彩矢の名前があることに気付き、一気にやる気を出したのだ。

彩矢が入学してきた時に一目惚れをして以来、授業中も休み時間も昼休みも放課後も、彩矢の姿を見掛けるだけで幸せだった。

それが、担任ともなれば、毎日必ず会えるのだから、優也が喜ばないはずがなかった。


優也は教室に入ると、自分の名前を黒板に書いてから自己紹介を始めた。

『今年の夏で28歳になる。皆より10歳年上だが、おじさん扱いはしないでくれよ?仲良くやろう!』

ワイワイガヤガヤしている中に、

ー先生、彼女居ますか~?

という声が聞こえた。

『今は居ない。淋しい独身男です。』

優也は、視界の片隅にチラチラと彩矢の姿を確認しながら笑って答えた。


4月は何かと決め事が多く、HRの時間は優也にとっては彩矢の姿をゆっくりと間近で見つめることの出来る大好きな時間となっていた。

オリエンテーリング、合宿での班行動、係決めなど、皆がガヤガヤとしていたからなのか、誰1人として優也の視線の先を気にする者はなかった。


しかし、彩矢は優也の視線をしっかりと感じ取っていた。何故なら彩矢にとって優也は、大好きな人だったからだ。

(先生、またこっち見てる)

それが嬉しかった。


G.W.に世間が賑わいを見せている頃、彩矢は1人で買い物をしに原宿をブラブラ歩いていた。

ふと、通りすがりに肩がぶつかってしまった相手に、スミマセンと声をかけた。

優也は、1人で電車に揺られ、目的地の駅で電車を降りると、改札口へと向かっていた。

駅を出てすぐに、信じられない光景を目にした!

なんと、彩矢が1人で歩いているではないか!私服の彩矢は一段と可愛かった。

優也は偶然を装い、通りすがりに二の腕を彩矢の肩に軽くぶつけた。

ースミマセン

『あ、失礼。おぉ~加納じゃないか!』

優也は不自然さが出てないか不安に思いながらも、偶然だなぁと明るく話し掛けた。

『先生、偶然ですね。』

彩矢の胸は、その膨らみにうまく隠されていたが、ドッキンドッキンと高鳴り、顔は赤く染まるのが自分でも手に取るように分かった。

優也の胸も高鳴っていたが、平常心平常心と、自身に言い聞かせては、汗ばむ手をギュッと握り締めていた。


2人は会話もそこそこに、お茶をしようという話になり、近くの喫茶店に入って行った。

G.W.で賑わう街中で、2人の周りだけがまるで時間が止まったかのように、ゆっくりと流れていた。


お互いがお互いに片想いをしながら、それに気付かず、切ない恋の時間を過ごしていた。


5月も終わり、雨の日が段々と多くなり始めた頃、合宿での写真が販売された。その中に、彩矢と優也の奇跡的な2ショットがあった。彩矢は高鳴る気持ちを抑えながら、その番号を申込書に書いた。

優也もその写真は購入していた。


6月の中旬には、オリエンテーリングがあった。

教師も参加型のオリエンテーリングは、非常に楽しいものとなった。教師に対し、容赦なくボールを投げつけることが出来る、許された時間であった。

楽しそうな彩矢の笑顔で、優也はすっかり癒されていた。


梅雨明けが発表される頃、彩矢は試験を受けていた。学期末定期試験である。これが終われば夏休みだと、また遊ぶ気満々だった彩矢を、優也は放課後に生徒指導室へと呼び出した。

彩矢は、成績の悪さを説教されるんじゃないか?と、ドキドキしながら覚悟を決めると、生徒指導室のドアをノックした。

『はい。』

ーガチャっとドアを開けると、優也がソファーに腰をかけて、何やらファイルのようなものを手に持っていた。

『どうぞ、座って?説教するわけじゃないんだから、変に緊張しなくていいんだよ』

優也は笑って言った。

テーブルを挟んで座ると

『ちょっと、これ見て?』

と、先ほど手に持っていたファイルを開いて目の前に置いた。


海の中の写真だった。


『先生、これ…もしかして前に言ってたやつですか?』

以前、原宿の喫茶店でお茶をしていたときに、他愛もない話から趣味の話になり、優也がスキューバダイビングしながら海の中を撮影するのが好きだと言ったため、写真を見たいとお願いしてあったのだ。


『期末試験も終わったから、いいかな?と思って持ってきたんだけどさ、加納、ここの海潜って見たくないか?』

写真を食い入るようにして見ていた彩矢に、優也は優しく問いかけた。

『えっ?私が潜るんですか?』

優也は笑顔のまま頷いた。

『私1人で?』

『俺と一緒にだよ。加納は初心者だろ?』

彩矢はドキッとした。一緒に潜る?私が、先生と?

『沖縄の座間味島ってとこに行って、この夏スキューバダイビングしてみないか?』

優也のキラキラと輝く優しい眼差しを受け、彩矢は頷いた。

『2泊3日だからな、ちゃんと準備しろよ?水着はダイビングスーツを上から着るから、どんなんでもいいぞ!』

楽しそうな優也につられ、彩矢の顔にも笑顔が戻った。


友達と旅行に行くということにして、彩矢は母親に行ってもいいか尋ねた。

母親は、受験前最後の楽しみということで、快く送り出してくれた。


沖縄旅行当日の朝は、とても早かった。早朝の便に乗るために、待ち合わせは5時半だった。

空港の駐車場に車を止め、チェックインして搭乗口へと足早に向かった。

売店でおにぎりと飲み物を買い、待合室で食べながら優也は、彩矢にスキューバダイビングの魅力を語りながら、水中カメラの使い方をエアカメラで教えた。

彩矢にとってこの話と実際の体験が、後に進路を決定付けるキッカケになろうとは、この時はまだ気付いていなかった。


飛行機に乗り込み、いよいよ離陸が近付いたとき、優也がボソッと耳打ちした。

『俺、明日誕生日だから。』

彩矢はビックリして

『えっ?明日なの?早く言ってくださいよー』

と、気落ちした。知ってれば、プレゼント用意したのに…

『俺ね、毎年自分の誕生日にはスキューバダイビングやりに座間味島に行くことにしてるのよ。1年間頑張った自分へのご褒美と、また1年頑張るぞって気合いを込めてね。』

照れ臭そうに話す優也を、不覚にも可愛いと彩矢は思って笑った。


あっという間に飛行機は那覇空港に降り立った。

ここから更に小型飛行機に乗り換え、座間味島を目指すのだ。

小さな飛行機は、オモチャみたいで、ちゃんと飛べるのか彩矢は内心不安になっていた。

だが、飛び始めてすぐ目に飛び込んできた、真っ青な空とエメラルドグリーンの輝く海というコントラストに、そんな不安は一気にかき消された。

美しい景色に見とれ、感動していた彩矢の頭を、優也が優しく撫でた。

ドキドキ高鳴る鼓動を抑える方法すら見付けられない彩矢は、顔を赤らめ下を向いた。


座間味島に到着し、小さな空港の出口に向かって歩いていると、

『おーい、優也~!こっちだぞー!』

と、声が聞こえた。

優也と同年代と思われる男性が、手を振っているのが見えた。


優也は手を挙げて合図すると、その男性の元へと足を早めた。

彩矢もあとに続いた。


この男性は、優也の高校時代からの親友で、大学を卒業後、両親と共にこの座間味島でペンションを営んでいた。


迎えに来てくれた男性の車に荷物を乗せ、乗り込むや否や、こんな言葉が彩矢の緊張感を膨張させた。

『優也、悪いんだけどペンション今日も明日も満室でさ、1部屋しか用意出来なかったんだわ。ツインだからそれなりに広いし、部屋に露天風呂が付いてるから許せ?な!』

優也は笑って、構わないよと答えた。

(2晩も同じ部屋で過ごすの?どうしよう…)

彩矢は高ぶる気持ちを抑えるのに必死だった。


『もうすぐだからね、疲れた?』

助手席に座った優也が後ろを振り返った。彩矢は無言で首を横に振った。

顔を上げると、右手には一面広がる海、左手には白い壁に青い屋根の爽やかな南国風の平屋のペンションが見えた。

テラスが張りだし、仕切りがあり、一番奥は広いテラスの中に、露天風呂が見えた。

(水着着て入らなきゃ丸見えじゃん…)

彩矢は心の中で文句を呟いた。


ペンションに入り、部屋に案内された。

案の定、一番奥の部屋だった。

荷物を置き、とりあえずテラスに出てみた彩矢は、目の前に広がるエメラルドグリーンの海を眺めながら、目を閉じて潮騒の音に耳を澄ませた。


心がスーッと洗われていくような感じがした。


『何やってんの?』

優也に後ろから抱き締められた。彩矢は軽くパニック状態になったが、優しさに包まれたような心地よさに、すぐに落ち着きを取り戻した。

潮騒の子守唄と暖かな腕の感触、背中に伝う鼓動。

彩矢は大好きな優也に、今なら素直になれそうな気がした。


『先生、あの…あのね、私、ずっと先生のことが…』

優也は彩矢の耳元に口を近付け

『彩矢、好きだよ。』

と優しく、かつはっきりと囁いた。

彩矢は優也を振り返った。

(か、顔が近い~!)

心臓がドキンドキンと波打つ中、優也の優しい眼差しに吸い寄せられるように見つめる彩矢。

更に優也は顔を近付けた。自然と目を閉じてその瞬間を待つ。


そっと、唇が重なった。

暖かく優しい風が、2人を愛の時間へと導いていた。


好きで好きでたまらなかった気持ちが、今ようやく報われた優也は、唇を離すと彩矢の体を自分の方に向かせ、ギュッと抱き締めると、また優しく唇を重ねた。

彩矢は始めてのキスに戸惑うことなく、優也に身を任せた。


言葉にしなくても伝わる想いが、2人の心を支配していた。


お昼は座間味島を散策して、外で食べることになっていた。

2人は、今までのように、ただ並んで歩く教師と生徒から卒業した。

どちらからともなく、自然に手を繋いで歩いた。

優也の大きな手は、ガッチリしていて頼もしかった。

彩矢の華奢な手は、守りたい気持ちを更に膨れさせた。


知ってる人が誰も居ない島では、こうして堂々と当たり前のように手を繋いで歩くことが出来た。


幸せそうな表情を浮かべながら歩く2人は、どこからどう見ても普通の恋人同士だった。


ハイビスカスが咲き乱れる路地を抜けた先に、優也行きつけの、漁師飯屋があった。

『ここ、本当にウマイから!』

彩矢は期待に胸を踊らせながら、店の中へと入った。


座間味島沖で取れる魚をメインにした刺身や炙り焼きなど、東京では滅多に食べれないだろう料理を贅沢なまでに堪能した。


食事を終え満腹の2人は、島内を散歩した。

小さな島は、ほんの数時間で一周出来た。時々寄り道をしながら散歩を楽しんだ2人が、また空腹を感じてきた頃、見慣れたペンションが見えてきた。


『ただいま~』

ペンションの入り口のドアを開けた時、奥から優也の親友が顔を出してきた。

『優也、露天風呂入る時は水着忘れるなよ?夕飯は19時からだから、まぁゆっくりして!』

そう言うと、また奥へと急いで戻って行った。


部屋に入った2人は、露天風呂に入ることにした。

優也は部屋でおもむろに着替え始めた。彩矢は慌てて水着を持つと、洗面所に入りカーテンを閉めた。


水着着用とは言え、一緒にお風呂に入るということに変わりはない。彩矢は胸の激しい鼓動に、倒れそうになりながらなんとか着替えを済ませた。

先に着替え終わっていた優也は、ベッドに座り、何食わぬ顔をしてテレビを見ていた。

そこに、恥ずかしそうに彩矢が登場した。

優也は初めて見る彩矢のビキニ姿に、思わず見とれた。

ベッドから立ち上がり彩矢の目の前に来ると、ギュッと抱き締めた。服を着ていた時とは違い、直接触れ合う肌と肌の吸い付きに彩矢はトキメキを覚えた。


ドキンドキンと胸を打つ鼓動が部屋中に響き渡るようだった。


優也はそっと腕を離すと、彩矢の手を引いてテラスへと向かった。堀炬燵を思わせる造りの露天風呂は、熱くもなくぬるくもなく、体をすっぽりと包み込んでくれた。

『はぁ~癒されるなぁ!』

優也の言葉に思わず吹き出した。

『ん?何?』

『だって、何かジジ臭いもん』

『悪かったなぁ~』

そう言うが早いか優也は彩矢を引き寄せた。

慌てる彩矢をギュッと抱き締めると、

『俺、彩矢が卒業するまでは絶対キス以上のことはしないから、それは約束するから、安心して?』

彩矢はビックリして、何で?と聞き返した。

『万が一妊娠でもしたら、進みたい進路を邪魔することになるだろ?傷付けたくないんだ。』

彩矢は、優也の言葉に優しさを覚えた。

『私、実はまだ進路決まってないの。やりたいこともイマイチよく分からないしさ。』

優也は彩矢の頭を撫でながら

『大丈夫だよ。やりたいことなんて、焦って決める必要はない、まだ時間はあるんだし。ゆっくり考えれば良いんだよ。』

そう言うと、優しく唇を重ねた。

彩矢は不思議と、納得した。友人達との間で、進路が決まってないのは自分だけだった。だからか無意識に焦りを心のどこかでは感じていたのだろう。

焦って決めても上手くは行かない。ギリギリまで悩めばいい。

彩矢は重ねた唇に伝う愛情を、体全体で感じていた。


露天風呂を出て洋服に着替えると、テラスに水着を干した。

『彩矢の胸が意外にデカかったのにはビックリしたな~』

テレビを見ながら優也は独り言を呟いたつもりだったのだろう。

しかし、その言葉はしっかりと彩矢の耳に届いていた。

彩矢は水着を干しながらクスッと笑うと、聞こえなかった振りをして部屋に戻り、食堂へと向かった。


夕飯は漁師飯屋とは違った魚料理を、贅沢に堪能出来た。

彩矢は向かい合って座る優也を見つめながら、

(結婚したら、こんな感じで毎日一緒にご飯食べるのかな?)

と、想像してみた。顔が赤くなった。優也と目が合った。

『どうしたの?顔赤いよ?風呂で逆上せたか?』

優也が心配そうに聞いてきたのが可笑しくて、彩矢はニヤニヤしながら違うよと首を横に振った。


夕飯を終え、部屋に戻ると

『さっき、何で顔赤かったの?』

優也が真面目な顔で聞いてきた。

彩矢は恥ずかしそうに俯きながら、

『先生と結婚したら、こんな風に一緒にご飯食べるのかな?って想像しただけ。』

正直に打ち明けた。

優也はクスッと笑うと、優しく抱き締め、

『結婚、いつかしような!あと、先生じゃなくてプライベートなんだから名前で呼んでよ。』

彩矢は優也も自分と結婚とか考えてることにビックリした。

『ゆう…くんって呼びたい。』

優也は優しく頷くと、頭を撫でながら唇を重ねてきた。

時々顔の向きを変えながら、段々と激しくなるキスに、彩矢は必死についていった。


唇を離した優也の目に、トロンとした表情の彩矢が映った。

優也は両手で彩矢の頬を挟むと

『そんな顔されたら、卒業まで待てなくなるからダメ!』

と笑いながら言った。


寝る直前まで一緒にベッドに座り、テレビを見ていたが、やがて早起きのツケが回ってきたのか、彩矢はウトウトとし始めた。

優也は彩矢のベッドの掛け布団をずらすと、彩矢をお姫様抱っこしてゆっくりと寝かせた。

『おやすみ』

おでこと唇に、そっとキスをして、布団をかけた。

(今の俺、なんか親みたい)

優也は笑いをこらえながらテレビを消し、部屋の照明を暗くしてベッドに入った。


静かな夜、潮騒の音だけが、子守唄のように聞こえた。


翌日は優也の誕生日ということもあり、少し早く目覚めた彩矢はベッドから出ると、優也のベッドに忍び込み、隣に寝そべって愛しい寝顔を見つめていた。

やがて目を覚ました優也は、目の前で自分を見つめる彩矢にビックリしたが、すぐに笑顔でおはようの挨拶をキスで交わした。


朝食後、少し休憩を挟んだ2人は、昨日テラスに干した水着に着替え、小型ボートに乗り込んだ。

優也はダイビングライセンスを持っていた。

彩矢を優しくリードしながら、ダイビングスーツを着させると、酸素ボンベの使い方を説明し、水中カメラの操作法を教えた。

彩矢は、ウキウキワクワク高ぶる気持ちを抑えながら、真剣に話を聞いていた。


いざ、海の中へと、優也に手を引かれながらダイブした。


酸素ボンベの呼吸音以外何も聞こえない海の中の世界は、写真で見るより遥かに透き通り、遥かに美しかった。


すぐ傍をウミガメが泳ぐ。今朝食べたカサゴも見付けた。

ウミヘビにビックリしたが、何もしなければ噛まれることはないと言った優也の言葉通り、まるで岩か何かと思われてるかのように通り過ぎて行った。

優也は彩矢に水中カメラを渡した。

彩矢は夢中になってシャッターを切った。

自分が今目の前に見ている光景を写真に残すことの楽しさと難しさを感じながら、水深15mの珊瑚礁の海の中をカメラに収めた。


ボートに戻った彩矢は、興奮気味に優也に言った。

『私、カメラマンになりたい!』


進路は決まった。


ペンションに戻ってからも、彩矢の興奮が治まらなかった。

本当に綺麗な海って、写真だけじゃ語れないけど、それを少しでも沢山の人達に知ってもらいたい!

彩矢の瞳は、夢に向かってキラキラと輝きだしていた。


優也はそんな彩矢を強く抱き締めると、

『頑張れ!』

とだけ言った。そして頭を撫でながら露天風呂へと誘った。


濡れた水着のまま、2人はテラスに出た。


吹き抜ける風が、潮の香りを運ぶ中、暖かな風呂の中で優也は、

自分の夢を語り始めた。

結婚して子供が産まれたら、毎年自分の誕生日にここに来て、家族で一緒に海に潜りたい。

年を取って孫が産まれたら、皆で一緒に海に潜りたいと。


優也はスキューバダイビングが大好きだった。だが、それを生かした仕事にはつきたくなかった。あくまでも趣味で楽しみたかったからだ。

しかし今、目の前に居る彩矢が、スキューバダイビングを生かしたカメラマンになりたいと夢を決めたことに対しては、心から応援したいと思っていた。


ゆっくりと、オレンジ色の輝きを放ちながら日が沈み始めた。

水平線の彼方に光る一番星が、キラキラとその輝きを強めてきた頃、彩矢は暖かな風呂の中で優也に後ろから抱き締められ、その腕の温もりに逆上せ始めていた。


夕食は、部屋に運んでもらうことも出来た。

2人っきりで、沖縄最後の夜を過ごしたかった優也は、文字通り、部屋で夕飯を取ることにした。


テーブルに並べられた食事をゆっくりと楽しみながら、彩矢は名残惜しそうな顔をした。

明日には、この夢のような時間は終わってしまう。

かけられた魔法が解けてしまうような切なさに、押し潰されてしまいそうだった。

まだ現実には戻りたくないという強い気持ち。

スキューバダイビングをして疲れていたせいもあったのだろう。

彩矢は、優也にその顔はダメだと言われていたにも関わらず、

優也を見つめながらトロンとした表情をしていた。


『どうした?眠くなったか?今日は疲れたな。』

優也は、食べ終わった食器をおぼんに乗せると、部屋の前の廊下に置いてドアを閉めた。

彩矢をベッドに寝かせた時だった。

『ゆうくん、一緒に寝てほしい。』

彩矢が呟いた。恥ずかしそうに顔を赤らませながら、潤んだ目で優也を見詰めた。

優也は部屋の明かりを消すと、彩矢の隣に横になり、腕枕をした。

彩矢は、優也の腕に頭を乗せると、胸板に手を当て、手のひらに鼓動を感じながら眠りについた。

優也は、どうしても反応してしまう下半身が彩矢にバレてしまわないように、片膝を立てて誤魔化した。

お預け状態でなかなか寝付けなかったが、やがて疲れは、優也を夢の世界の住人へと招待した。


沖縄最後の夜も、優しい潮騒の子守唄に包まれていた。


翌朝、目が覚めた優也は、隣で寝ている彩矢を見つめながら、彩矢の左手の薬指に触れ、指のサイズを確認した。

『7号ってとこかな?』

独り言を呟くと、彩矢に優しくキスをして、朝だよと告げた。

目を覚ました彩矢に、もう一度優しくキスをした。


幸せな時間が、もうじき終わってしまう…

名残惜しそうに、2人は何度も何度もキスをした。


朝食を終え、部屋に戻って荷物をまとめた。

2人は無言だった。

静かすぎる部屋に響く潮騒の音が、サヨナラと言ってるようにも聞こえた。


彩矢の目から、自然と涙が溢れてきた。

優也は彩矢を抱き締め、頭を撫でながら俺はずっと傍にいるよと優しく囁いた。

教師と生徒である以上、公には出来ない2人の付き合いは、苦しさも人の倍はあるだろう。

だが、それ以上に周りには絶対秘密という関係は、より2人の恋心に火をともすだろう。


彩矢は、最後の最後まで、優也の手を握り締めていた。


羽田空港には、あっという間に着いてしまった。


現実に引き戻されてしまった…彩矢のガッカリしたような顔を見て優也は、そんな顔するなよと笑った。

車に乗り込んだ2人は、何度も何度もキスをした。


夢じゃないよね?

あぁ、夢じゃない。

本当に付き合ってるんだよね?

彩矢、好きだよ!


夏休み中に彩矢は、母親と共に専門学校の見学をして、進路先を決めた。

9月、最初の実力テストで赤点ギリギリだった彩矢は、優也に放課後呼び出された。


久しぶりの生徒指導室である。


彩矢は緊張しながらノックをすると、指導室へと入っていった。


『彩矢、成績ヤバイな(笑)』

あは、やっちゃいました!と笑って誤魔化した彩矢に優也は、翌日からの図書室補習を命じた。

つまり、優也のマンツーマン指導ということだった。


優也とのマンツーマンは嬉しい!しかし勉強は嫌だな…

彩矢は複雑そうな顔をしてみせた。


翌日からの図書室補習は、思ってた以上に幸せな時間となった。

隣に優也が座り、優しく勉強を教えてくれた。優也は、教え方が上手く、褒め上手な教師だった。

彩矢はみるみると力を発揮した。


図書室補習のお陰で、中間テストでは余裕で合格点を越えた。


運動会が終わり、学園祭が近付いてきていた。

更に彩矢は自主的に勉学に励むようになった。

スキューバダイビングのライセンスは、体力だけでなく学力も必要だったからだ。

優也は、頑張る彩矢を見ながら、ホッとしたような顔をした。


学園祭で彩矢達のクラスは、たこ焼き屋をやることになった。

放課後に家庭科室でたこ焼きを作る練習をしては、皆で優也に毒味をさせた。

『はい、先生あ~んして?』

そう言って優也に食べさせていた友人に対して、思いっきり嫉妬したりムカついたりした。


学園祭当日は、目の回る忙しさだった。

休憩もろくに取らないまま、ほぼノンストップで店番をしていた彩矢は、いつの間にか隣に優也が来て、一緒にたこ焼きを焼いてることに気付き、本気でびっくりした。

優也は、そんな彩矢に優しく笑いかけながら、たこ焼き作りを楽しんでいた。

彩矢は、デート出来なくても学校でなら、何の違和感もなく隣に居られるんだということに、この時初めて気付いたようだった。


12月頭の期末試験では、何が起こったのだろうか?

彩矢は学年で成績順位が8位になっていた!

いつもなら、下から数えた方が早いくらいだったのに…


周りに誰も居ないことを確認した優也は、彩矢にそっと近付くと、クリスマスイブは空けとけよ~と耳元で囁いた。


彩矢はドキドキしながら頷いた。


2学期も、あれよあれよという間に終業式を迎え、冬休みに突入した。彩矢は、クリスマスイブのデートのことを、毎日ワクワクしながら考えていた。

洋服は何を着ようか、アクセサリーはどうしようか、どこに行くのだろう?あ、そうだプレゼント買わなきゃ!

彩矢の頭の中では、非常に忙しくあれやこれやと妄想が繰り広げられていた。


彩矢は、優也へのクリスマスプレゼントを、黒い牛革のキーケースにした。優也のイメージにピッタリだったからだ。


彩矢は、プレゼントを抱き抱えながら、早く渡したくてウズウズしていた。


イブ当日は、東京駅で待ち合わせた。

悩みに悩んだ挙げ句、淡いピンク色のニットワンピに茶色のニーハイブーツ、黒のダウンジャケットという出で立ちで、彩矢は待ち合わせ場所で高鳴る鼓動を抑えるように、2、3回深呼吸した。


『お待たせ!』

優也が現れた。

彩矢は、久しぶりのデートに浮き足立ちながら、優也の隣でニコニコ嬉しそうな顔をしながら、手を繋いで歩いた。


ふと、どこに行くのか聞いてみた。

『着いてからのお楽しみだよ』

そう言って優也は、彩矢に新幹線のチケットを手渡した。


東京ー熱海


『熱海に行くの?』

そう聞いた彩矢に優しく微笑むと、優也は彩矢の手を取り新幹線に乗り込んだ。


熱海と言えば温泉だろうか?

そう言えば優也は温泉が大好きだったなと彩矢は沖縄でのことを思い出していた。

熱海に到着した2人は、駅前から坂道を歩いて下りながら、途中でお蕎麦屋さんに入って昼食をとることにした。

優也と一緒だと、どこに行っても楽しく、何を食べても美味しかった。彩矢は、クリスマスイブに優也と熱海に来ていることが、まだ信じられなかった。


昼食を終えた2人は、更に坂を下り、海沿いの道に出た。

夏場は海水浴場として賑わいを見せる砂浜も、冬場は閑散としていた。クリスマスイブの今日も、砂浜を歩く人は疎らだった。

潮風が肌を刺すような冷たさだった。

『そろそろ行こうか!』

優也は彩矢の手を握り、コートのポケットに入れると、海に背を向けて商店街の方へと歩き始めた。


商店街の路地の一角に、日帰り温泉[家族風呂]と書かれた看板があった。

中に入るとドアが3つあり、[使用中]の札が掛けられたドアが1つと、[空]の札が掛けられたドアが2つあった。

彩矢は、2つ空いてるから、それぞれの風呂に別々に入るものだとばかり思っていた。

『こっちにするか、どうぞ!』

優也はドアを開けると彩矢に手招きした。

彩矢はビックリして固まった。そして、一緒に入るの?と慌てて聞いた。

優也は当たり前のような顔をして頷くと、彩矢の手を引っ張り抱き寄せ、嫌なら他のとこ行くけど…と呟きながら、髪を撫でた。


彩矢は首を横に振ると、黙って中に入った。

脱衣場には籠が入った棚があるだけで、温泉との境は足元のすのこだけだった。

服を脱いだ優也が先に温泉に入った。

『後ろ向いて目瞑ってて!』

彩矢はそう言うと、優也がこちらを振り向かないか、様子を見ながら服を脱ぎ、爪先から静かに温泉に入った。

『もういいよ。』

彩矢がそう言うのを、待ってました!とばかりに、優也は勢いよく振り返った。

温泉にはタオルを入れることは禁止されていたため、彩矢は脚を伸ばすことが出来なかった。

優也は彩矢の後ろに回ると、彩矢を背中からギュッと抱き締め、こうしてたら見えないから脚を伸ばしなよと言った。

彩矢は、恐る恐る脚を伸ばした。


『sexもまだしてないのに、いきなりハードルあげてごめん。』


優也は耳元で囁いた。

しかし彩矢は、まだsexがどういうものかもよく解っていなかったため、水着を着ていない状態で一緒に温泉に入っているこの瞬間、心も身体もグッと近付けたような感じがしていた。


温泉の温もりなのか、優也の体温なのか、彩矢にはよくわからなかったが、体の芯までポカポカに暖められながら、彩矢は優也に聞けない質問を、心の中で繰り返していた。

(卒業まで本当に待つつもりなの?)


優也は、彩矢の背後から、その胸の膨らみを確認しながら必死に耐えていた。

こんなところに誘ったのは自分であり、卒業まで抱かないと約束したのも自分自身である。

優也は信じてもらいたい一心で、とにかく必死に耐えていた。

彩矢を抱き締めながら、卒業後のことを色々と想像しては、全てが彩矢と結び付くことに笑いそうになったのも、堪えた。


温泉を満喫した2人は、ポカポカになった身体で、日が沈み始めた熱海の街を散策した。


『そうだ、これ。忘れないうちに渡しとくね』

彩矢は優也に小さな長方形の箱が入った小さな紙袋を渡した。

クリスマスプレゼントだよと、彩矢は照れ臭そうに言った。

優也はすぐに袋から箱を取り出すと、箱についてるリボンをほどいて蓋を開けた。そして、キーケースを手に取ると、嬉しそうな顔でありがとうと言って抱き締めるのだった。

彩矢は優也に抱き締められるたびに、心地よさを感じていた。

(ずっと、この腕の中に居たい)

少し体を離した優也を見上げた彩矢の唇に、優しく重なる優也の唇は、外気に触れたせいで冷たかった。

きっと、自分の唇も冷たいだろう。

2人は、冷たくなった唇を暖め合うかのように、長く長く唇を重ねていた。


太陽が海の中に完全に沈み、辺りは群青色に更に濃さを増した空が広がり、雲1つない晴れ渡った夜空には、あちらこちらに星が輝きだしていた。

『もうすぐだな。』

優也はそう呟くと、彩矢の手を取り歩き始めた。


歩く先には屋台が並んでいた。

『お祭りでもあるの?』

彩矢が不思議そうな顔をして優也に聞いた。

『そのうち分かるよ!何か食べない?お腹空いたでしょ?』

そう言えば、夕飯がまだだったということに、彩矢は今気付いた。

それだけ緊張していたのだろう。


優也に抱き締められた時の腕の感触を背中に残しながら、彩矢は屋台でたこ焼きと焼きそばを、優也はイカ焼きとじゃがバターを買った。

海沿いの高台になった遊歩道には、人が沢山集まっていた。

運良く空いていたベンチに座り、先ほど屋台で買ったものでお腹を満たしながら、道行く人を眺めていた。

食べ終わった優也が、ベンチから少し離れた場所に設置されていた灰皿のところでタバコを吸っていたとき、彩矢の前を通り過ぎた一組のカップルの会話が、彩矢の耳にハッキリと聞こえた。

『花火楽しみだね』


花火?と彩矢は疑問に思いながら、タバコを吸い終わり戻ってきた優也に聞いてみた。

『今から花火があるの?さっきチラッと聞こえたから』

優也は、少し残念そうな顔をして、そうだよと言った。

『冬に花火大会なんて初めて!』

ワクワクした顔で話す彩矢を見て、サプライズは失敗したけど、楽しそうだからいっか!と、優也は気持ちを入れ替えた。


少しして、遊歩道の灯りが消え、花火大会が幕を開けた。

熱海海上花火大会


何万発と容赦なく打ち上がる花火は、冬の澄みきった夜空に綺麗に映え、人々を魅了した。

特にクライマックスのナイアガラは、クライマックスというだけあって、本当に素晴らしかった。

彩矢は、夏にも見てみたいと心から思った。


花火大会が幕を閉じ、皆がゾロゾロと帰路につき始めた。

まだ花火の余韻覚めぬ彩矢の肩を、優也がトントンと軽く叩いた。

ハッと振り向いた彩矢は、左手に違和感を感じた。

見てみると、薬指にキラリと輝くものがあった。


『指輪?え?いつの間に?』

驚く彩矢に優しくキスをした優也が言った。


『婚約指輪』


彩矢は、しげしげと指輪を見詰めながら、婚約指輪という言葉の重みを全身で受け止めようとしていた。

『高校卒業したらさ、取り敢えず入籍だけしてさ、専門学校卒業したら挙式しようと、俺が勝手に計画してるだけなんだけど。』

彩矢は、嬉しさのあまり、優也に飛び付いた。ギュッと抱きつきながら、初めて彩矢は素直に気持ちを言葉にした。


『愛してる』


優也は嬉しさのあまり、彩矢を更に強く抱き締めると

『俺も、愛してる』

と囁いた。


帰り道、彩矢はこんなことを優也に言ってみた。

『婚約したんだから、卒業まで待たなくてもいいんじゃない?』

それは、所謂sexのことだった。

しかし優也は意外にも真面目な男だった。

『彩矢が抱かれたいというなら、卒業まで待たなくてもいいかもしれないけど、彩矢のご両親にちゃんと挨拶を済ませるまでは、やっぱり抱けないよ。』

それなら、明日挨拶しに来てよと、急かす彩矢に優也は

『そんなに抱かれたい?』

と、マジな顔をして聞いた。

彩矢は、婚約したから尚更、もっと恋人である自覚を持ちたいだけなんだと訴えた。

急ぐ必要はないよ、俺はもう彩矢としか居たくないから、もう決めてるから。

そう言って抱き寄せた優也の腕は、やはり心地よい感触を与えてくれるのだった。


彩矢は、家に帰りつき自分の部屋で、また婚約指輪をずっと眺めていた。時々触りながら、手を近付けたり遠ざけたりしながら、飽きることなく眺めていた。

幸せ過ぎて、ちょっと怖さを感じてもいた。


優也もまた、自宅に帰りつくなりベッドに横になりながら、彩矢に貰ったキーケースを眺めていた。

どんな気持ちで、どんなことを思いながら選んだのだろうか?

そう考えるだけで、愛しい思いはあっという間に溢れんばかりに心の中に広がるのだった。


優也は、年明けて正月休み中に、彩矢の両親に挨拶に行くことを決めた。彩矢に、両親の予定を聞いて、それから改めて準備しようと計画を立てた。

もちろん、殴られるのは覚悟の上であった。

教師をしてる以上、生徒と恋仲になるなど許されることではないことくらい、この仕事を始める前から解っていたことだ。

彩矢を好きになった時から、例えば教師という仕事をクビになったとしても、彩矢を幸せにするために食いつないでいけるように、優也はダイビングライセンスの他にも資格を沢山持っていたのだ。


彩矢の両親に認めてもらうためにも、今は絶対に彩矢を抱けなかったのだ。


年が明けた。

日に日に優也の心臓は落ち着きをなくしていっていた。

そして、とうとう挨拶をする日が来てしまった。


スーツに身を包み、手土産に美味しいと評判の下町のどら焼きを用意して、彩矢の家に向かった。


ドキンドキンと高鳴る心臓の音だけが、耳の中に響いていた。

自分の足音すら、その耳には届くことはなかった。


彩矢の自宅前に着き、インターフォンを押した。

中から元気な彩矢の、はーい!という声が聞こえ、ドアが開いた。

彩矢が顔を出した。

その瞬間は少し落ち着きを取り戻した優也だったが、いざ家の中に入るとまた、更なる緊張感に襲われ、意識を失いそうなくらい息苦しくなるのだった。


リビングルームに入ると、父親はソファに座って新聞を読んでおり、優也に気付くなり、やぁよく来たね!と笑顔で迎えてくれた。

母親は、ダイニングテーブルに料理を運びながら、さぁ座ってと、快く迎えてくれた。

両親の暖かい歓迎ぶりに、優也の緊張は、徐々に解され、そのうち笑顔が見られるようになってきた。


母親の手料理はとても美味しかった。

優也は子供の頃に、シングルマザーだった母親を病気で亡くして施設で生活していた。だからこそ、彩矢の母親の手料理は、久しぶりに口にした母の味であった。

それが優也にとって、すごく嬉しかった。


食事を終え、リビングのソファで父親がくつろぎながら、側に座らせた優也に、こんな話をした。


『私がかつて、大学生の時にアルバイトで家庭教師をしていたときに、今の家内に出会ってね、家内は高校3年生だったんだが、大学を受験するために家庭教師を雇ったわけだよ。私は家庭教師をしながらも家内への気持ちが抑えられなくてね、家内の大学受験が終わるのを待って告白したんだよ。で、その恋が実って今があるわけ。だからね、彩矢から優也くんの話を聞いた時には懐かしくなってしまってね、蛙の子は蛙じゃないけど、彩矢も私達と同じように、教師と生徒という立場での恋愛をしてるということが、なんだか嬉しくてね。優也くんの真面目なところは私自身はすごく尊敬してるんだよ。人間だもの、どんな形や立場でも相手を好きになったら、お互いが納得してるなら付き合ったっていいじゃない?と、私も家内もそういう考えだからね。あ、でも浮気や不倫はダメだよ!誰かを傷付けた先には絶対に幸せなんて有り得ないからね。優也くん、これからも彩矢のことを、よろしくお願いします。』


優也は、彩矢の両親の馴れ初めを聞いて、だからこんなにも歓迎してくれたんだなと納得すると同時に、どんなことがあっても絶対に彩矢と両親を裏切るようなことはしないぞ!と、心に誓った。


『教師としての自分の立場を守るためではなく、彩矢の進路の邪魔になることを避けたいからと優也くんが我慢してるって話を聞いた時には、私は自分が恥ずかしくなったよ。私は家内と付き合ってすぐだったからね、家内の進路とか、何も考えなかったなぁ。そこはさすが、優也くんは大人だね!』


優也は照れ笑いしながら、父親に頭を下げた。

父親も、笑いながら頭を下げた。

男同士、波長が合うようだった。


男2人で楽しそうねと、母親がお茶を持ってきながら言った。

彩矢もその隣で笑っていた。


自然な流れで、ごく普通に当たり前のようにその場に溶け込み、もう何年も前からずっと知り合いだったような、不思議な感覚が4人を包み込んでいた。


和やかな雰囲気のまま優也の挨拶が終わり、そろそろ帰ろうとしたときだった。今日は初めて、親公認のもとで彩矢が優也の家に泊まることになった。優也は、嬉しい反面、手出し出来ない苦痛に耐えれるか、あまり自信がなかった。

玄関で靴を履いていたとき父親が、部屋の奥から何かを持ってきた。

『彩矢を、よろしく頼みます。』

そう言うと、優也の手を握り、握手をしながら頭を下げた。


優也の手には、小さな巾着が握らされた。


両親に頭を下げ、ご馳走さまでした、今日はありがとうございましたとお礼を言うと、玄関のドアを開けて外に出た。

彩矢も一緒に帰る。連れて帰る。親公認で…?…まさか!

優也は、先程父親にもらった巾着の中身を確認した。


やっぱり…


優也は、笑いそうになるのを必死に堪えた。

お気付きだろうか?巾着の中身を。


父親に背中を押されたような気分で帰宅した優也は、お風呂に向かった。湯船にお湯を溜めながら、彩矢に好きな入浴剤を選ばせると、それを入れた。

カモミール&ジャスミンの香り漂うミルク風呂を眺めながら、優也は、これまでの彩矢との思い出を噛み締めていた。

振られるかもしれない覚悟で沖縄に誘い、彩矢の反応を見ながら告白した時よりも今は、更なる緊張感が優也に降りかかっていたが、そうとは知らない彩矢は、優也に呼ばれるまで、部屋で寛いでいた。


『お風呂、溜まったよ』


優也が声をかけると、彩矢は着替えを用意して、風呂場に向かった。

ゆっくり入っておいでと言った優也に、彩矢は一緒に入らないのかと聞くのだった。


優也は、我慢していた衝動が爆発したかのように、突然彩矢を抱き締め、激しく唇を奪った。突然のことに彩矢はビックリして、着替えを床に落としてしまったが、段々と優也に合わせるように激しいキスを受け入れた。


優也は唇を離すと、風呂はあとにした!と言って、彩矢をお姫様抱っこすると、そのまま自分のベッドに優しく寝かせ、また、唇を重ねた。


彩矢は、優也に身を任せた。

初めて感じる全身の刺激は、電流が伝うように激しく、彩矢は何度も身体を震わせた。

初めての相手が優也であること。その身体が裂けてしまうかのような激痛すらも、優也と一つになれた喜びに勝るものはなかった。

優也との経験を通して、彩矢は本当の意味で、心も身体もグッと近付くということを知った。


優也は、彩矢の父親からもらった避妊具を使っていた。


『卒業するまで待つって自分から約束したのにな…』


優也は、彩矢を腕枕しながら、ポツリと呟いた。

彩矢はクスッと笑うと


『私が幸せなんだから、それでいいの!』


と言った。優也は、ますます彩矢を愛しく感じた。


お風呂では、お互いに背中の流し合いをしながら、結婚しても、子供が産まれて親になっても、孫が産まれて祖父母になっても、ずっとずっとこうして背中の流し合いをしたいねと話した。


新学期が始まると、受験に向けて教室内は日々、段々とピリピリした空気が漂うようになってきた。

2学期中に願書を提出して進路が確定していた彩矢のような専門学校に進む者や、就職の内定者は、ピリピリした空気感に耐えられず、休み時間や昼休みは図書室や体育館、講堂、食堂などで時間を潰すようになっていた。

彩矢は屋上で時間を潰していた。雨や雪の降る日には、図書室で本を読んで過ごした。月日はあっという間に過ぎ去り、受験ムードが終息し始めた頃、今度は卒業式の練習が始まった。


優也は、卒業式の練習風景を見ながら、入学してきた頃の彩矢を思い出していた。あの頃より少し大人っぽい顔付きになったなと思いながら、今や婚約までした仲であることが、ここに来てまだ夢の中の出来事のように感じていた。


彩矢もまた、卒業したら優也との入籍が待っている現実に胸を躍らせつつも、全てが夢のような気がしてくるのだった。

彩矢は、チラチラと優也を見ながら、卒業式の練習をこなしていた。

そして、とうとうその日がやってきた。


ー卒業証書授与式


あおげば尊し

旅立ちの日に


卒業式のお決まりの歌が響く中、彩矢も優也もこのあとに待ち構えている婚姻届の記入捺印、そして提出に向けて、緊張を高めていた。


卒業式が終わり、最後のHRも終わり、皆で別れを惜しみながら、沢山写真を撮った。

優也との2ショットも撮ってもらった。


急いで帰宅した彩矢が、両親に見守られながら婚姻届に記入捺印していた時、優也が遅くなりましたと言いながら家に上がった。

優也も両親が見守る前で記入捺印を済ませ、両親の承認欄への記入が終わるのを、黙って見詰めた。


記入し終えた婚姻届を持って、彩矢と優也は2人で一緒に提出を済ませた。


その日のうちに、彩矢は最低限の荷物を持って、優也の家に引っ越しをした。

今日からは2人きりの生活が始まる。

彩矢は親元を離れることへの少しだけの淋しさと、これから始まる優也との新生活に向けての最大のワクワクを胸に、優也の家の玄関を開けた。


1LDKのマンションは、新婚生活を送るには十分な広さだった。


彩矢の両親は、多少心配しつつも、暖かい目で2人の門出を祝福した。今日からは両親は2人きり、夫婦水入らずの生活となる。

『ねぇママ、淋しくなるね、もう1人作ろうか?』

そう言って母親のお腹に触れた父親の手を軽くはたいて

『冗談は顔だけにしてくれる?』

そう言って母親は明るく笑っていた。


その姿を見ていた優也が、彩矢の両親みたいな夫婦になれたらいいね!と彩矢に微笑みかけた。


引っ越しを済ませ、日々の生活が目まぐるしく過ぎ去り、4月。

彩矢はカメラマンになるために、写真家の専門学校に入学した。

学校は楽しく、また、授業も面白いとのことで、そんな彩矢の報告を受け、優也は一安心していた。


5月の青空の下、屋上でタバコを吸いながら、優也はこれまでの彩矢とのこと、これからの2人のことを考え、自然と顔が緩んでいたことに、タバコの火を消すときまで全く気付いてはいなかった。


G.W.中に行った広い公園で、彩矢は夢中でシャッターを切っていた。犬と戯れる小さな子供達の後ろ姿、手を繋いで散歩している老夫婦の後ろ姿、中でも彩矢の一番のお気に入りの写真が、

新緑の輝く中で優也がこちらを向いて優しく笑っている写真だ。


彩矢は、その優也の写真だけ、自分の手帳に仕舞った。

宿題提出用の写真は、水鳥が噴水から飛び立つ瞬間を撮したものと、新緑と青空の風景、そして、手を繋いで散歩していた老夫婦の後ろ姿の3枚にした。

彩矢が提出した写真は、先生が勝手に3枚ともコンテストに出しており、見事に入賞を果たしていた。

あとから知った彩矢は、腰が抜けそうになるほど驚いた。

家に帰って優也にコンテストの話をしてみると、優也は彩矢を抱き締めながら喜んでくれた。


彩矢は、専門学校に通いながらメキメキと、その才能を発揮していた。

7月、優也の誕生日にまた一緒に沖縄の座間味島でスキューバダイビングをしながら、海中の写真を夢中で撮った。

その写真は、秋のコンテストに出品され、見事に優勝を勝ち取っていた。


冬が訪れ、彩矢の1年間の専門学校生活も、残り数ヶ月となっていた。

正月に彩矢の実家に挨拶をしに行った時に、彩矢は両親から就職するのかを聞かれた。

しかし彩矢は、フリーカメラマンとして、ある雑誌に定期的に掲載させてもらうことが決まっていると話した。

だから、就職はしない。と…


その雑誌とは、所謂旅行雑誌だった。

ここに行って、旅先の写真を撮ってきてほしいと依頼があれば、旅費は雑誌社側持ちで行けるのだ。

依頼がなければ、自分で撮った写真をコラムページなどに使ってもらえないかと売り込むのだ。


優也は、また一つ大人になった彩矢を、誇らしく思っていた。


専門学校を首席単位で卒業した彩矢は、早速、フリーカメラマンとしての忙しい毎日を送り始めていた。

しかし、どんなに忙しく疲れていたとしても、絶対に弱音は吐かなかった。そして、毎朝のおはようと行ってきますのキス、毎日のただいまのキスとハグ、夜の背中の流し合いは、出張で居ない時を除いて一度も欠かしたことはなかった。


専門学校を卒業して4ヵ月後、優也の誕生日に合わせて沖縄の座間味島に向かい、優也の親友達に協力してもらい、挙式をした。

彩矢の両親だけを招待して、同日ペンションに宿泊していた客人も初対面ながら両親と共に祝福してくれたのだ。


それからも毎年、優也の誕生日には、相変わらず沖縄の座間味島で過ごしていた。どんなに忙しくても、この日だけは毎年必ず休みを入れて日々の喧騒から逃れるように、優也とゆっくり過ごした。


彩矢が専門学校を卒業して3年目の冬。

彩矢は、自分の身体の異変に気付いた。

毎日続く微熱や倦怠感、寝ても寝ても取れない疲れ、とにかく毎日眠気が酷く、重たい身体を引き摺るように仕事に向かった。

優也は、彩矢にこんな質問をした。

『彩矢、先月来てないでしょ?』

そう言えば…と、彩矢はカレンダーに目を向けた。

12月10日に印を付けたっきり、生理が来ていなかったのだ。

『明日、休みだから病院行こう?』

優也に優しく言われ、彩矢は静かに頷いた。


翌日、産婦人科を訪れた2人は、医師からご懐妊ですと言われ、抱き合って喜んだ。

予定日は、9月17日頃ですねと言われ、彩矢はこれを期に仕事を辞めて専業主婦になることに決めた。


産院からの帰り道、彩矢は実家に電話をして、報告したいことがあるから、これから行くと告げた。


実家に着き、両親に妊娠したことを告げると、両親は飛び上がって喜んでくれた。

父親に、夫として父親として男はどうあるべきかのアドバイスを受けた優也は、何かあった時は宜しくお願いしますと父親に頭を下げた。

父親は、笑顔で頷くと、男は身体の痛みを経験しない分、妻からの八つ当たりで心が痛むぞと言って笑った。

そして、どんなに心が痛んでも、妊娠出産は代わってやることは出来ないわけだから、自分の子供をお腹に宿し、命懸けで育み命懸けで産むということを絶対に忘れず、全てを広いおおらかな心で受け止めて、大切にして支えてやることが、男が唯一してあげられることだと諭した。

優也は、彩矢の父親を、ますます尊敬の眼差しで見詰めた。


自宅に帰る前に、本屋に寄った。そこで優也は、ありとあらゆる妊娠出産育児の本を、片っ端から手に取りパラパラとページをめくっては戻し、また手に取りパラパラとページをめくっては戻しを繰り返していた。その真剣な様子を見ていた彩矢は、思わず吹き出してしまっていた。

優也は、とりあえず妊婦雑誌を手に取り彩矢に渡した。

『初めてのことで、分からないことだらけだと不安でしょ?』

彩矢は、そんな気遣いがたまらなく嬉しかった。


それから間もなくして、彩矢は悪阻との戦いの日々が始まった。

優也は、背中を擦ってやることしか出来ない自分に、歯痒さを感じた。苦しむ彩矢を見ては何度も泣きそうになりながら、彩矢の背中を優しく擦った。


1ヵ月ほどで、彩矢の悪阻との戦いの日々が幕を閉じた。

しかし、少し出始めたお腹はまだまだ小さく、少し大きめのパーカーを着ると、妊婦だということは全く分からなかった。


彩矢は時々、昼間からソファで横になると、そのまま優也が帰宅するまで眠ってしまうことがあった。

しかし優也は、寝ている彩矢を起こさないようにタオルケットをかけると、外にお弁当を買いに行くのだ。

ご飯が出来てなくても、掃除が中途半端でも、洗濯物が干しっぱなしでも、優也はひとつも文句など言わず、自ら片付けをするのだった。

この日も、お弁当を買った。

家に入ると彩矢が泣いていた。

お弁当をテーブルに置くと、急いで彩矢の傍に駆け寄った。

そして、なぜ泣いてるのかを聞いた。

『ゆうくん、ごめんなさい。彩矢は専業主婦になったのに、全然出来てないよね。迷惑ばっかかけてごめんなさい。』

優也は、彩矢が泣いていた理由が分かってホッとした。

お腹でも痛いのかと心配していたからだ。


優也は、彩矢を優しく抱き締めながら言った。

『彩矢の今一番やらなきゃいけない仕事は、お腹の中で赤ちゃんを育てるために、絶対に無理をしないことでしょ?寝てしまうのだって、赤ちゃんを育てるために必要な体力を溜めるためだよ!彩矢は今、毎日一生懸命赤ちゃんを育てるという立派な仕事をしてくれてるんだよ、迷惑なんて全然かけられてないよ!大丈夫だから、気にしないの!』


そう言うと優也は、お腹空いたでしょ?と、お弁当を食べようと彩矢を誘った。

彩矢は、優也と結婚したことを、改めて幸せだと感じていた。

お弁当を食べながら、今日学校でこんなことがあったんだよと、優也の話を聞きながら、彩矢は笑っていた。


優也の誕生日が近付いてきた頃には、彩矢のお腹は随分と大きくなっていた。

今年は沖縄は止めようという話になり、代わりに彩矢の大好きな八景島の水族館に行くことにした。

海には潜れないが、座間味島の海にいた魚たちにはここでも会えるのだ。

彩矢は目をキラキラさせながら、楽しそうな顔で優也に

『連れてきてくれてありがとう!』

と言った。


夏休みも終わりに近付き、いよいよ臨月に入った彩矢のお腹は、はち切れんばかりに大きくなり、胎動が一段と激しさを増していた。

毎晩お風呂で背中の流し合いをしたあとは、ベッドに横になった彩矢のお腹に向かって、パパだよ~と話し掛けるのが優也の日課になっていた。

臨月に入った彩矢の体は、腰痛が酷さを増していた。

段々と骨盤や恥骨がミシミシと音を立てるように痛み始め、疲れやすくなっていた。

優也は、そんな彩矢の身体を優しく擦りながら、大丈夫?と声をかけた。

彩矢は、妊娠中、優也のお陰でイライラすることはほとんどなく、穏やかな妊婦生活を送ることが出来た。


あと3日で予定日という日曜日の朝。

優也は、まだ寝ている彩矢を起こさないようにしながらベッドから出て、朝食を作っていた。

美味しそうな匂いに釣られて起きてきた彩矢は、突然の激痛にお腹を押さえながらソファの背もたれを握り締めた。

激痛はすぐに治まり、彩矢は時計を見た。

8時20分。これが、彩矢の陣痛の始まりだった。


朝食を食べながら、また激痛に襲われた彩矢は時計を見た。

8時35分。

優也が、彩矢の異変に気付き、お腹痛いの?と聞いてきた。

『今、15分間隔かな。』

優也は、急いで携帯を手に取ると、彩矢に手渡した。

彩矢は急いで朝食を済ませると、また8時50分に激痛がきたことを確認してから病院に電話をかけた。

すぐに来るように指示があり、入院グッズを車に積むと、病院に向かった。

優也は、事故らないように安全運転を心掛けながら、病院へと車を走らせた。


9時20分、最初の激痛に襲われてから1時間後に病院に到着した。


すぐに診察室に案内され、子宮口が3cm開いているということで、陣痛室に通された。

出産用の服に着替えを済ませると、ベッドに横になり、痛みが全くない時には優也と笑いあって話せたが、一度陣痛の波に襲われると、その痛みを深呼吸しながら歯を喰いしばりながら耐えた。

彩矢が痛みに耐えてる間、優也は彩矢の腰を助産師の見よう見まねで擦りながら励ました。

お昼過ぎ、陣痛の間隔が8分ほどに狭まったとき、優也は彩矢の実家に電話を入れた。

30分ほどして彩矢の両親が病院に駆け付けた。

陣痛室に通された両親は、彩矢を励ましながら、母親と優也は交互に腰を擦った。


苦しむ彩矢を見て、優也は助産師に何時くらいに産まれるかと、何度も何度も聞いた。

『心配なのは解りますが、周りがいつ産まれるのかと急かしても仕方無いでしょう?少し落ち着いてください。これからどんどん間隔が短くなれば、それだけ痛みも強くなります。でも、女だから耐えれる痛みなんです。ゴールは必ず訪れます。初産だから、進みはゆっくりですが、日付が変わる頃には、赤ちゃんとご対面出来ると思いますよ』


日付が変わる頃にはって、あと半日近くも彩矢は苦しむのか…


優也は胸が締め付けられそうだった。

痛みに耐えてる彩矢を励ましながら、優也は子供は1人でいいと思っていた。

こんなに苦しむなら、何度も経験させるわけにはいかないと思ったのだった。


夕方には、陣痛は5分間隔になっていた。

助産師が時間を確認して、『本陣痛の計測に入りますね』と言ったのを聞いて、優也と父親は、今からか?と驚きを露にした。

母親は、彩矢を産んだ時のことを思い出していた。

彩矢をお腹に宿し、産まれて来る日を今か今かと楽しみにしていた妊娠期間は、夫のサポートのお陰で彩矢同様に穏やかに過ごせていた。彩矢を産んだ時は破水から始まったが、最初は余裕だった痛みが段々と強くなり、5分間隔になった時には腰が砕けそうなあまりの痛みにイライラしたものだった。

母親は彩矢を産むまでに5分間隔になってから8時間ほどかかっていた。

彩矢も、それくらいはかかるかもしれないと母親は優也と父親に言った。


彩矢に夕食が運ばれてきた。痛みのない間に急いでほおばり、飲み込んで痛みに耐えてまた食べるという状態だったが、なんとか完食した。

優也は両親に先に夕飯を食べてもらった。

陣痛室に彩矢と2人、赤ちゃんの名前を男の子なら和也、女の子なら真矢と書いたメモを見ながら、どちらになるかを楽しそうに話した。陣痛の痛みに襲われるたび、優也は腰を擦ったり、お尻を押さえたり、彩矢に言われるまま動いた。

自分にはそれしか出来ない。それが優也は悔しかった。

しばらくして、食事を終えた両親が戻ってきて、優也は1人、夕飯を食べに部屋を出た。

病院の目の前にある蕎麦屋で夕飯を素早く済ませると、またダッシュで陣痛室に向かった。


彩矢の陣痛の進み具合は意外と早かった。

夜7時を過ぎた頃には2分間隔になっていた。助産師がバタバタと分娩室の準備に取り掛かっていた。

優也が夕食に向かった直後、分娩室から産声が上がっていた。

その声を聞いて、彩矢は頑張るぞ!と気合いを入れ直していた。


夜9時を回った。

彩矢の陣痛の間隔は1分になっていた。

陣痛の合間に歩いて分娩室へと向かった。おそらく、この時の彩矢の体力は、極限に近かっただろう。痛みに耐える体力は、想像を絶する早さで消耗していくのだ。

両親は分娩室の外のベンチで、その瞬間を待っていた。

優也は立ち会いのため、水色の手術着のようなものを着て、頭に給食のおばちゃんのような帽子をかぶり、マスクをつけて彩矢と一緒に分娩室に入った。

彩矢の顔の横に立ち、額に光る汗をタオルで拭いながら、頑張れ頑張れと声をかけた。

医師が羊膜を破り人工破水をさせた瞬間、痛みがピークを迎えた。

息んでいいよ、次の山で息もうね!

助産師が声をかける。深く深く呼吸を整え、彩矢は息んだ。

『大丈夫大丈夫!うん、上手だよ。はい、楽にして』

彩矢の息む姿を見て、優也も無意識のうちに一緒に力を入れていた。

2度3度4度と息むにしたがって、陣痛よりも更に体が裂けてしまうんじゃないか?という痛みを感じた。

『もう頭見えてるからね、次が最後かな?頑張って!』

助産師が励ました。彩矢は最後の力を振り絞って息んだ。


ーンギャ~ンギャ~ンギャ~

その産声、この世にこんなにも幸せなことがあるのかと、まさに言葉では言い表せないほどの喜びと幸せが、彩矢を包み込んでいた。

まだ、産まれたばかりの赤ちゃんを、和紙のような紙の上に置き、彩矢の前に連れてきてくれた。

元気な男の子ですよ!と、初めての抱っこは、実に感動的だった。

彩矢の目からは涙が溢れた。優也も泣きながら彩矢にありがとうありがとうと何度も言った。

優也も産まれたばかりの和也を抱っこした。

シワシワの小さな手が、優也の指をキュッと握った。

優也はこの瞬間から、俺は父親として恥ずかしくない男になる!と、強く決意したのだった。


赤ちゃんが風邪をひいちゃうから、産着に着替えさせますね。

助産師が和也を連れていった。

医師が彩矢の体内から胎盤を出したり、切開した部分を縫合したりと後処置を終え、分娩台がベッドへと変身した頃、分娩室の外で両親が和也とご対面を果たしていた。


彩矢は、両親の嬉しそうな声を聞きながら、分娩台ベッドの上で眠り始めた。

2時間の休憩、彩矢は熟睡した。

優也は、しばらくの間、お疲れさまと彩矢の頭を撫でていたが、そのうち分娩室を出て出産着を脱ぐと、両親のもとに向かった。

両親は新生児室の前で、和也をガラス越しに見ていた。

優也に気付いた父親が、優也に握手を求めた。

手を握られ、肩をバシバシと叩かれ、これから更に頑張れと声をかけられた。

優也は、彩矢と和也を自分の力で絶対に幸せにしますと力強く答えた。

母親にも、彩矢をよろしくねと言われ、両親が病院を後にした後ろ姿に向かって、優也は頭を下げた。


彩矢は産後の入院中、悪戦苦闘しながらもなんとか母乳をあげられるようになった。沐浴も楽しかった。オムツを替える時には、男の子ならではのシャワーも経験した。初めての育児は分からないことだらけだったが、1週間の入院中に、それでもお世話をすることの楽しさを見出だしていた。

優也は毎日面会に来た。産後2日目からは母子同室だったため、好きなだけ抱っこすることが出来た。

優也は和也が可愛くて可愛くて仕方がなかった。

彩矢は嬉しそうな優也の顔を見て、ますます幸せを実感した。


退院後1ヵ月は、実家にお世話になることにしていた。

優也は、毎日実家に通った。休みの日は、午前中から夜まで実家で過ごし、和也の世話を手伝った。

母親が、優也くんは嬉しそうな顔してお世話するのね。と、優也の帰宅後に彩矢に笑いながら言った。若い頃のお父さんみたいだと。


産後の兆しも良く、1ヵ月健診を終えた彩矢は、優也と暮らす自宅に和也と帰ってきた。

今日からようやく家族水入らずの生活が始まるのだ。


優也は毎日、飛ぶように帰って来ると、和也の育児と残りの家事を引き受け、彩矢を出来る限り休ませた。

優也は産後の女性の体力面や精神面について、妊娠中から猛勉強していたのだ。優也のサポートのお陰で、彩矢は寝不足でイライラすることもなく、疲れもあまり溜まらなかったのだ。

彩矢は優也の存在そのものに、日々感謝していた。


和也の成長1つ1つを、彩矢は写真に収めた。

月齢記念はもちろんのこと、初めての湯船、初めての寝返り、初めてのお座り、初めての離乳食、初めての立っち、初めてのアンヨ…出先でも家でも、とにかくシャッターチャンスは逃さないように、常に近くにカメラを置いていた。


生後10ヵ月の時には、初めての飛行機で初めての沖縄旅行という最高の記念撮影が出来た。

彩矢はこの年はスキューバダイビングをせずに、和也と一緒に海辺を散歩するだけにした。

優也は海に潜ったが、1人で潜ることには慣れていたはずなのに物凄く淋しさを感じた。そのせいで、海の中がくすんで見えた。

早々に海から上がってきた優也を見て、彩矢はどうしたのかと聞いた。そして優也の答えを聞いて、思わず笑ってしまっていた。

彩矢の笑顔に釣られて優也も笑った。両親が笑ったからなのか、和也も笑った。


翌年は両親も一緒に連れて沖縄に来た。

両親に和也を預け、優也と彩矢はスキューバダイビングを楽しんだ。両親が快くベビーシッターを引き受けてくれたことに、優也も彩矢も感謝していた。


何歳くらいからスキューバって出来ると思う?と、優也は彩矢に問い掛けた。

彩矢は、小学生くらいからじゃないと、危ないと思うと答えた。

やっぱりそうだよね。優也は残念そうな顔で答えた。

優也は和也に、1日でも早く海の中の美しさを教えてあげたかったのだ。

『それまでは、写真を見せまくるしかないな』

1人、納得したように優也は力強く言った。


和也は彩矢と優也に沢山愛され、スクスクと成長し、やがて春から幼稚園に通うことになった。

初めての制服、入園式、泣き顔の愛しい我が子を写真に残した。

初めての遠足は小さな動物園に行くことになっていた。

幼稚園にも慣れてお友達も出来て、毎日楽しそうな和也を見て、彩矢も優也も安心していた。

初めての母の日、和也はお母さんの絵を幼稚園で製作し、プレゼントしてくれたのだ。

彩矢は、胸がいっぱいになり、じわじわと涙腺が緩んだ。

初めての父の日、和也はお父さんの絵を書いたハンガーを幼稚園で製作し、優也にプレゼントした。

優也は和也からそれを受け取ると、和也を抱き上げ高い高いしてギュッと抱き締めると、ありがとうと言った。

和也の満足感たっぷりの顔を見て、彩矢は優也と顔を見合わせて笑った。


秋に行われた幼稚園の運動会では、毎年、保護者向け競技があった。優也は張り切って参戦した。

彩矢はビデオカメラで撮影しながら、和也と一緒に応援した。


幸せな日々が当たり前のように通り過ぎた。

毎年夏に訪れる沖縄の座間味島のことも、和也はきちんと解ってきていた。

ブカブカだった幼稚園の制服がピッタリになってきた頃、優也は彩矢と和也を連れて、彩矢の両親と共にランドセルを選びに出掛けた。ランドセルを背負った和也はまだ小さく、ランドセルから手足が生えているようで可愛かった。

紺色の格好いいランドセルを買ってもらった和也は上機嫌だった。


あっという間に幼稚園最後の日が訪れた。

入園式では泣きじゃくり、最初は通わせるのも大泣きで拒否したり脱走しようとしたりと、本当に心配だったはずなのに、いつの間にか笑顔で通えるようになって、いつの間にかこんなに大きくなって…彩矢は凛々しい我が子の卒園児姿を写真に収めた。

その成長が嬉しくもあり、淋しくもあった。彩矢も優也も、目に涙を滲ませながら、和也の卒園式を見守っていた。


春、入学式には優也は高校での仕事のため、出席出来なかった。

『平日じゃ仕方無いよ』

そう慰めた彩矢に対して、初めて

『お前はいいよな、いつだって和也の傍にいれて』

と、トゲのある言い方をした。彩矢は初めての言われ方にショックを受けた。悲しかった。

彩矢は優也に何も言わずに背を向け、寝室に入るとシクシクと泣いた。

和也は既に夢の中の住人になっていた。


しばらくして、優也が寝室に入ってきた。泣いてる彩矢を後ろから抱き締めると、酷い言い方してごめんね。と謝った。

入学式を見に行けないことがショックで、つい感情が高ぶってしまったのだ。子供の傍にいつだって居れる母親を羨ましいと思う気持ちは正直持っていたが、だからと言って、あんな言い方はしなくて良かったはずだと、優也は彩矢を傷付けたことを後悔していたのだ。


優也と彩矢は10歳の年の差のお陰なのか、今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。

優也は今まで1度だって、彩矢に暴言を吐いたり、ましてや暴力を奮ったりなど絶対になかった。

いつだって大切に大切に守ってきたのだ。

彩矢は、そんな優也に『お前』と言われたことにビックリしたのとショックとで、泣いてしまうほどに優也に大切にされてきていたのだ。


優也に優しく抱き締められたことで、落ち着きを取り戻した彩矢は、優也にもたれかかりながら甘えた。

優也は、母親になっても変わらず可愛らしい彩矢を、心底愛しいと改めて感じたのだった。


小学校に入学してからは、いつも親と一緒にということが少なくなり、彩矢は少し淋しさを感じていた。

優也は、以前のような忙しいフリーカメラマンではなく、趣味程度にちょっとコラムページに載せてもらえるような写真を撮ったらどうかな?と、提案してくれた。

彩矢は、以前仕事をしていたときのカメラや写真を引っ張り出してきて、それらをしばらく眺めていたが、やがて決心したようにあるところに電話をかけた。


自分の現在の生活状況を伝えた上で、コラム用の写真を使ってもらえることが、すんなりと決まった。


あるところとは、以前契約をしていた雑誌社とは別の出版社で、彩矢が妊娠して辞める時に、もし数年後に復帰する時には、連絡してくださいと言われていたところだった。


彩矢は翌日から、早速、カメラを手に出掛けた。

彩矢の生き生きしたカメラマン姿は久し振りだったが、その姿を見た優也は、働きだしたばかりの頃の彩矢の姿を思い出していた。


17歳で優也と付き合ってから、12年目に突入しようとしていた。

彩矢は今年30歳、優也は40歳になる。


和也が小学校に入学して仕事に復帰した彩矢は、和也の帰宅時間には必ず家に居るようにしていた。

一人っ子である和也に淋しい思いをさせないためだった。


夏休みには、初めてのスキューバダイビングを和也に体験させようと、和也に潜ってみたいかを写真を見せながら聞いた。

和也は目をキラキラさせながら、潜ってみたいと答えた。


日曜日には、スキューバダイビングの体験練習に向かった。

和也は飲み込みが早く、今すぐにでも海に潜れそうなくらい上手だった。


夏休み、優也の誕生日に初めて和也も一緒に座間味の海に潜った。優也は、ようやく夢が叶った気がして嬉しかった。

彩矢は水中カメラで、父と子のダイビング姿を何枚も撮影した。

父と子の傍に海ガメが近寄ってきて、挨拶をしているかのように向かい合った姿を写真に収めた時には、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

吹き出してしまえば、海水を飲み込んでしまう恐れがあるからだ。

和也と手を繋いで泳ぐ優也の後ろ姿は、実に嬉しそうであった。


それからは毎年、家族でスキューバダイビングを楽しんだ。

和也は父と母と過ごす綺麗な海の中が大のお気に入りだった。


小学校に入学したのが、昨日のことのように思える。

ランドセルから手足が生えているような感じで歩いていたのに、いつの間にかランドセルが小さく見えるようになっていた。

155cmの彩矢の目線と随分近くなった和也の頭。

明日は和也の小学校の卒業式だ。


入学式には行けなかった優也だったが、卒業式の日は高校は春休み中だったため、有休が使えた。

彩矢の両親も来ると言っていた。


優也は、和也の卒業式を見ながら、彩矢が高校を卒業した日のことを思い出していた。

あれからもう17年が過ぎたのだ。

ついこの間、17年目の結婚記念日に家族で高級イタリアンのお店でお祝いをした時には、あまり実感しなかったが、彩矢が苦しみ抜いた末に元気に産まれてきた和也が、今自分の目の前で小学校を卒業しようとしているのだ。

彩矢が35歳、優也が45歳。

(年取るわけだよな…)

優也は、しみじみと心の中で呟いた。


和也が中学生になっても、毎年、家族で座間味島に行った。

反抗期も思春期も、和也は年に1回のスキューバダイビングのお陰でなのか、あまり荒れることはなかった。


和也が高校生になり、初めて家に彼女を連れてきた。

彩矢は手料理でもてなし、優也は笑顔で歓迎した。

その日の夜、優也は和也に性教育をみっちりと叩き込ませた。そして、かつて彩矢の父親から手渡された小さな巾着の中に避妊具を入れて、和也に手渡した。

『何かあれば傷付くのも苦しむのも女の子だからな。大事にしなさいよ!』

和也は照れ臭そうに、わかったよと答えた。

あんなに小さかった和也が、いつの間にか性について話をする年齢になったんだな。優也は時間の流れの早さに戸惑いを隠しきれなかった。


和也は1人の彼女とあまり長続きするタイプではないようだった。高校の3年間で、付き合った彼女は8人だった。

比較的モテるタイプではあったが、すぐに飽きられて浮気をされたり捨てられたりと、和也の恋愛はどうも上手くいくことがなかった。

高校3年生の2学期半ばに彼女と別れて以来、和也は恋人を作ろうとはしなかった。

『女なんて絶対信用しない!』

それが和也の口癖だった。


しかし、高校を卒業して大学に入学してすぐに、和也は1人の女性と目が合った。

不思議な胸の高鳴りを感じた。

今までの彼女達には、一切感じたことのないトキメキだった。

和也は早速、その日の夜に優也に相談をした。

優也は、和也に彩矢との馴れ初めを、この時初めて話した。

好きになるきっかけは、人それぞれ。その気持ちをどう相手に伝えるのか、どのタイミングで打ち明けるのか、そこが大事だと言った。何も知らない相手から、いきなり好きだと言われても困るだけだろう?と。まずは、自分を知ってもらうことから始めなきゃ何も始まらないよとアドバイスした。

和也は、とりあえずその女性の名前を知ることから始めた。

同じサークルに入り、あくまでも自然体を意識して、積極的に話しかけた。

女性の名前は、沙夏といった。その名の通り、夏産まれだった。

しかも、優也の誕生日の1日前が沙夏の誕生日だった。

和也は思い切って、座間味島への旅行に沙夏を誘ってみた。

沙夏は快く、行きますと返事をした。

和也は帰宅すると、興奮気味に両親に沙夏のことを打ち明けた。

旅行の日に初対面ていうのは緊張するだろうからと、夏休みに入ってすぐに、和也は沙夏を家に連れてきた。

彩矢も優也も、一目で沙夏を気に入った。可愛らしく清楚な沙夏は、言葉遣いも行動も女性らしく、彩矢の目から見ても惚れ惚れするのだった。

旅行の日にちや出発時間などを伝え、優也の誕生日と1日違いということで、ペンションにケーキを注文することにした。


楽しい旅行は、和也と沙夏の愛の時間を後押しした。


4年後、新卒社会人となった和也は、大手出版社に就職した。

更に翌年には、24歳で沙夏との結婚式を挙げた。

彩矢も優也も、挙式披露宴では、涙を流した。

産まれたばかりの和也にギュッと握られた優也の指は、今や皺が深く刻まれていた。

彩矢は47歳、優也は57歳になっていた。


相変わらず毎年、座間味の海に潜り、毎晩背中の流し合いをしていた。

和也が結婚して家を出て、3年後には孫が産まれた。

更に優也が定年退職をした年には、5歳違いで2人目が産まれた。


優也は定年退職をした翌年から、塾の講師として再就職をした。

彩矢は、相変わらずフリーカメラマンとして、雑誌のコラムページに写真を掲載していた。


孫がまだ小さいからと、座間味島には孫が産まれた時から2人で行くようになっていた。

年期の入った手と手を取り合い、座間味島を散歩しながら、彩矢は優也と初めてこの座間味島に来た日のことを、ふと思い出していた。

あれから38年間、優也と歩んできた日々は、最高に幸せな毎日だった。優也とだから、歩めた人生だった。

繋いだ手を見詰めながら、彩矢は優也にありがとうと言った。

優也は笑いながら、どうしたの?急に。と聞いた。

彩矢は首を横に振って、何でもない!と笑った。


ペンションの経営は、優也の親友の娘が引き継いでいた。

親友は引退して、サポートするだけになっていた。

夜には親友が部屋に来て、酒を飲みながら優也と語り合う年もあった。楽しそうな優也の姿を見るだけで、彩矢まで笑顔で居られた。


彩矢は60歳でフリーカメラマンを引退した。

優也は70歳で現役講師を勤め続けていた。

引退するからとG.W.中に、専門学校に入って最初にコンテストで入賞を果たした写真を撮った広い公園に、優也と一緒にカメラを手に出掛けた。

あの当時29歳だった若かりし頃の面影を残しながら、今、彩矢の目の前で笑顔でポーズを決めている70歳の優也は、確実に、この42年間、彩矢を大切に守ってきてくれた夫だ。


彩矢は、シャッターを切った。


この年も、座間味島に足を運んだ。

しかし優也は、70歳…いや、71歳になったからと、スキューバダイビングは引退したのだ。

その代わり、本島の美ら海水族館に、初めて訪れたのだ。

彩矢は、スキューバダイビングをしているかのような水槽の造りに驚きながらも、その美しさに感動していた。

来年も、また来ようね!と、優也は優しく彩矢を抱き締めた。


夏が過ぎ、秋が木の葉を紅く染め始めた頃、優也の勤める塾では受験の大詰め時期に入っていた。

毎年、この時期から優也の帰宅時間は遅くなる。

講師を勤める時間が増えるからだ。

彩矢は毎晩遅くまで、優也の帰宅を待ち、一緒にお風呂に入って背中の流し合いをしながら、優也の疲れを労うのだった。


しかし、それは当然訪れた。


いつものように、お昼過ぎに家を出た優也の背中を見送り、家事を済ませて一段落ついた夕方、家の電話が鳴った。


優也の勤める塾からだった。


授業の準備をしていた優也が、突然倒れたというのだ。

彩矢は驚きを隠せなかった。動揺しながらも病院の名前と住所を聞いて、すぐにタクシーで向かった。


優也は、末期ガンだったのだ。


余命半月あるかないかと医師に言われても、何のことか彩矢にはさっぱり理解が出来なかった。

和也と沙夏と孫が2人、しばらくして駆けつけた。

彩矢は医師に言われた言葉をそのまま和也に伝えた。沙夏が涙を溢した。


翌日、何とか持ちこたえた優也は、一般病棟に移された。

酸素マスクをつけ、意識も弱かったが、彩矢は必死に語りかけた。

翌日も、更に翌日も、毎日毎日彩矢は優也の傍にいた。


医師から宣告を受けた余命半月は、あっという間に過ぎたが、優也はまだ生きていた。

いつまで生きられるかは誰にも分からなかった。

しかし彩矢は、優也がきっと元気になって、また毎晩背中の流し合いをしながら色んな話が聞けるものだと、信じていた。

余命半月を遥かに超え、優也が倒れてから5ヵ月が過ぎた。


『ゆうくん、今日は洸の小学校の卒業式ですよ。』

洸とは、優也が60歳の時に産まれた初めての孫である。


優也は話せない代わりに涙を流した。


『嬉しいね、大きくなったね』

彩矢は、話せない優也の代弁をした。


翌日には、とうとう容態が急変した。

苦しみ抜いた末、手の施しようもなく、優也は彩矢に手を握られると最後の力を振り絞って握り返した。そして、もうほとんど声にならない声で

『あ…い…して…る…よ、…あ…や』

そう言うと、涙を流しながら目を閉じ、永遠の眠りについた。


優也の亡骸を抱き締めながら、彩矢は何度も何度もありがとうとお礼を言いながら泣いていた。


葬儀が無事に終わり、自宅に戻った彩矢は、家の中のありとあらゆる場所に、優也の面影を見た。

自然と頬を伝う涙は、優也との44年間の付き合いを思い出しては更に止まることを知らないかのように、後から後から溢れだしてくるのだった。

彩矢は、まだ精神的に優也の死を受け入れられないでいた。


和也と沙夏が彩矢を心配して、一緒に住もうかと申し出てくれた。しかし彩矢は、優也との思い出が詰まった1LDKのこの家に居たかったため、ごめんなさいと断った。

代わりに和也達は、彩矢に内緒で近くに引っ越しをしてきた。

いつでも彩矢の様子を見ることが出来るように…と。


今年もまた、夏がやってきた。

優也が生きていれば72歳の誕生日だったこの日、彩矢はやはり1人で座間味島へと向かった。


露天風呂付の、毎年泊まる部屋に入って荷物を置くと、写真立てを持ってテラスに出た。


潮風に吹かれながら目を閉じ、潮騒の音に耳を澄ませた。


『彩矢、なにやってんの?』

優也が後ろから優しく彩矢を抱き締めた。

『彩矢、愛してるよ』

優也が優しくキスをする。


彩矢は目を開けてテラスから部屋の中を見た。

ベッドに座りながらテレビを見ている優也が居る。

テラスに目を向けると、優也が優しく両手を広げてハグしようとしている。

彩矢はまた海に目を向けた。


そして、ゆっくりと深呼吸をすると、手に持っていた写真立てを眺めた。

『ゆうくん、愛してるよ』


写真立ての中では、新緑の輝く中で、あの頃よりも遥かに年を取った優也が、優しく笑っていた。


ー完ー


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