坂東蛍子、あっと驚く
健康的な朝のホームルームの片隅で、坂東蛍子は行儀よく背筋を伸ばして着席しながら、炭鉱に連れてこられたカナリアのような面持ちで事態の進行を見守っていた。教室は少年少女の体を表すかのように至って開放的であったが、蛍子は心がすっぽりと籠の中に囚われているような閉塞感を覚えていた。まさに鳥籠の中のようにである。彼女は自分を憐れなカナリアと重ね合わせながら、毒を吸い込んで息絶えるその時が刻一刻とその身に迫るのを感じて目を伏せた。
勿論彼女がこれからこの教室で毒を吸い込む予定などない。恐らくこの先一生無いだろう。彼女が恐れている死は、直接的な言葉通りの意味の死ではなく、例えばうっかり鞄に入れたまま出し忘れてしまった大好きな兎のぬいぐるみが、突然訪れた抜き打ちの持ち物検査によって衆目の下に曝され、校内で才色兼備の高嶺の花として崇められている自分の地位が一瞬で崩れ去ってしまうような、そういった意味での死だ。
坂東蛍子が自身の学生鞄に入っている兎のぬいぐるみの存在に気づいたのは今朝の登校中のことだった。蛍子は遅刻の危機を背に感じて足を早める通学路の最中で、自分の右肩にいつもよりも大きい重みを感じてバッグを開き、渋々貴重な時間を割いて中を覗き込んだ。鞄の中には彼女の一番のお気に入りである旧友のロレーヌがそのつぶらな瞳を彼女に投げかけていた。蛍子は鞄に手を突っ込んだままの姿勢で足を動かしながら、慌てて昨晩の記憶を探ったが、夜更かしをしてマジックショーのテレビ特番を見ていたこと以外は何一つ思い出すことが出来なかった。きっとテレビの方を向いた不自然な姿勢でそのまま眠ってしまったものだから、一緒に眠っていた――女子高生はぬいぐるみと一緒にベッドで寝ない、というアイデアは非常に悲しい偏見であるため、もしそういう偏見をお持ちの方がいたらすぐにでも考えを改めた方が良い。現に蛍子のクラスだけでも四人の高校生が人形やぬいぐるみと床を共にしているし、隣のクラスの川内和馬は毎夜枕元にマーマレード・ジャムを置いて就寝する――ロレーヌが押し出されて、ベッドの下で口を開けていた鞄の中に転がり落ちてしまったのだろう。蛍子はそう結論づけて、悔しそうに唇を噛みながら登校の片道をひた走ったのだった。
「はーい、じゃあ次の列」
そんな日に限って抜き打ちの持ち物検査が重なるのだから、蛍子の下唇はもはや噛み千切れんばかりであった。坂東蛍子は着々と歩み寄る担任教師の財部花梨の動向を眺めながら、彼女の邪悪な提案を恨んだ。なんで今日なのよ、と蛍子は思った。きっと先生は私の鞄の中身を知っているに違いない。それで私に恥をかかせようとしてるのよ。青春を謳歌している女子高生を妬んでいるんだ。
さて、女子高生が鞄の中から兎のぬいぐるみを取り出され、クラスの学友達に知られることは果たして恥と言えるのだろうか。恐らく普通の女子高生ならば言えないだろう。しかしながら坂東蛍子は普通の女子高生ではなかった。幼い時分から培った天才美少女としての実績と、同じだけの堅牢な矜持を抱えて生きてきた彼女にとって、自分がプロデュースした坂東蛍子という理想に対する周囲の羨望の眼差しは、もはや自分自身にとってもなくてはならないものとなっていた。「高嶺の花の、鞄にぬいぐるみを入れて持ち歩く意外な一面」などという新聞の見出しは、たとえ全校生徒が笑顔で許しても、坂東蛍子には決して許せないのである。
とうとう財部が蛍子の座る席の最前列へと到達し、少女の焦燥は愈々もってピークを迎えていた。そしてその心境はロレーヌも同様に抱いていた。彼は暗がりの中で息を潜めながら、事態の好転を神に祈り――ぬいぐるみが祈ったりしない、などという悲しい偏見も、今すぐ改められるべきものだ。彼らは当然のように祈るし、考えるし、休日は人目を盗んで屋根の上で余暇を楽しむ――蛍子の心情を慮った。ロレーヌは蛍子が今の身長の半分もない頃から彼女の友人であったので、現在彼女がどれほど焦っているか容易に想像することが出来た。自分のせいで愛すべき主人が恥をかき、傷つくのはとても悲しい。それは中綿に砂糖水を染み込ませられ、カブトムシ用の罠として雑木林に吊るされるのと同じぐらい悲しいことだ。そんなことは絶対に避けなければならないが、しかしぬいぐるみが人前で動くことは国際ぬいぐるみ条例によって固く禁じられているため、もはやこの段になってしまったら、主人である坂東蛍子の機転と幸運を信じること以外ロレーヌに許されていることはなかった。
財部花梨は教室中の生徒の机を訪問している最中、坂東蛍子がずっと挙動不審な態度だったことにちゃんと気がついていた。財部は生徒のことを愛していたし困らせたくはなかったが、常に品行方正で成績優秀な優等生の鞄の中にいったいどんな危険な秘密が潜んでいるのか、人としてささやかな期待を抱かずにはいられなかった。
「次は坂東さんね。見せてもらえるかしら」
鞄の上に覆いかぶさるような姿勢で俯いていた坂東蛍子が、財部の呼びかけで顔を上げ、おずおずと鞄を光の下に差し出した。蛍子の高校の指定鞄は、布製のスクールボストンバッグである。ネイビーカラーの学生鞄のチャックは大きく開いていたが、鞄の両端を押しつぶすように抑えている蛍子はその手を離す気はないようだった。どうやらこのまま覗き込んでくれという意図のようだと察した財部は、特に不満な顔も見せずに望み通り上方から蛍子の鞄の中を見やった。
(・・・あれ?)
蛍子の鞄の中は空っぽだった。怪しいものどころか、文房具の一つすらない。まるで浜の貝殻が波にもまれて消えてしまった後のように、彼女の鞄の中はまっさらな静寂だけを収めていた。
「綺麗なバッグね」と財部が言った。
「有難う御座います」と蛍子が爽やかに笑った。
「それに、なんだか頑丈そう。ほら、四方に黒い枠があって、しっかり補強されてる」
蛍子がとびきりの笑顔を少し濁らせた。財部は蛍子が仕掛けた手品のトリックを看破していた。蛍子が大きめの化粧鏡を鞄に嵌め込んで斜めに仕切り、鞄の側面を屈折させて映し出し中身を空に見せかけていることも、そのトリックを実現させるために必死に両端を押さえて正六面体を作り出そうとしていることも把握していた。ここまでして何かを取り繕おうとしている健気な生徒を、見逃してあげるのも一つの教師としての選択肢だな、とも考えた。
しかしながら、残念なことに財部花梨は美人だがまったく融通の利かない教師であった。美人というのはは融通の利くタイプと融通の利かないタイプに必ず分けられるものだ。美人でない人達と同じように。
「あっ」
財部は蛍子の短く小さな悲鳴を聞きながら、鞄の中の鏡を取り去ってその奥に押し込められていた彼女の私物を観察した。蛍子は観念したように肩を落とし、力なく項垂れた。
「・・・なんだ、特に何もないじゃないですか」
「え!うそ!」
蛍子も鞄の中を覗き込む。鳥籠一つ分の暗がりの中を何度も確かめ手探ったが、大切な兎のぬいぐるみの姿はどこにも無かった。
「そ、そんな!」
ロレーヌは登校の途中で潜り込んでおいた体操着入れの中で両手を広げ、見えない観客にウィンクしてみせた。観衆の注意を手元や助手へと逸らし、目を欺いて余所で本懐を遂げる。手品の基本だ。
【ロレーヌ前回登場回】
戦場の只中で眠る―http://ncode.syosetu.com/n5104cd/