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薬之助は――足を撃ちぬかれ、立ち上がれない筈の薬之助は、しかしながら立ち上がった。
「よくも……やってくれたなァ……」
立ち上がって、先生に、拳銃を発砲した。
「次は……お前も殺してやる……」
さらに、それを私にもつきつけ、まるで半病人のように、倒れそうになりながら、にじり寄って来る。
その瞳は、物の怪と見紛う程、怒り狂っていた。
「どうして……」
「あ?」
「どうして先生を撃ったんですか!?」
私は声を荒げていた。
もし殴られた痛みが回復して立ちあがれるような状態なら、そのまま、横っ面をぶん殴ってやりたかった。
「どうしてか? どうしてだと?」
その言葉に、薬之助は、文字通り青筋を立てていた。
「ハッ! 女の癖に……? 俺の邪魔して、暴言吐いて、仲間殺して、挙句俺に怪我までさせて……?」
ぎちぎちと、歯軋りをしながら、がっと空気を飲み込んで、
「これが怒れずにいられるか!」
薬之助は激昂した。
堪忍袋の中身が全部弾け飛んだ。
「そこに転がってるデカブツは、なんか知らんがガミガミと口やかましかったが、お前のことだってそうだ」
「私の……こと?」
そう聞き返す私に彼は憎しみたっぷりに、がはははっと笑い、
「そうだよォ!」
と、言って話し始めた。
「だって女だぞ、女。無学で構いやしねぇのに、わざわざ学校なんて場所にしゃしゃり出てきてる。それだけで、腹立たしいだろ!」
眉間にしわが寄っている、ような気がした。
確かに、知識力がものをいう仕事なんてものは大抵が男の仕事であって、そういう現場に女がいても、信用なんてされない。
明治という世の中においても、それは当たり前のことだ。
当たり前のことで、その当たり前に当たり前のように私も迎合していた。
そういう分別を弁えるのが、信仰していた大和撫子らしさだった。
――けれど、今は最早、腹立たしい。
「おまけに、毛唐。親の腹ん中から、日本人の誇り捨ててる? てか、折角生んでくれた親の血を手前ェで汚してる?」
――また、この人は、私の容姿に触れるのか。
「兎に角な、お前存在そのものが、苛立たしいんだよ! ただでさえ、苛立たしいんだから、殺したって良いだろうが!」
――最早、抑えられそうにない。
「……笑止」
私の口は、考えるより先に動いていた。
聞き間違いだとでも思ったのだろうか?
その時、薬之助はぽかんと、口を開けて、呆けていた。
「笑ォォォオオ止ィィィイィイィィイイイッ!!」
だから、もう一度、私は大声で言った。
言ってやった。
「ギャハッ! イッハッハハハハハハハハハァッ!!」
そして、笑ってやった。
腹を抱えて。
「何が……可笑しい?」
怖い顔――をしているつもりなのだろうか?
薬之助は。
最早、笑い種にしか見えない。
「ちゃんちゃら可笑しいんですよ! 人に平気で剣を向けて、銃まで撃って! そんな人間がさも正論みたいに暴論を語るのが!」
間違いだらけなのだ。
「女だから何だっていうんですか? 髪が金色なことが悪いことなんですか?」
――女が日本を治めていた時代があったという。
――玄奘三蔵法師と旅し、彼を支えた従者の一人の沙悟浄は、真っ赤な髪と、青い皮膚を持つ、異形と言われてしまうかもしれない人間だったという。
「人の価値は――私の価値は! 私は! 貴方なんかに! 平気で私に暴力を振るうイカれた貴方なんかに! どうこう決められて良いものじゃないんだ!」
ずっと、そう思っていた。
虐げ続けられて、齢十八まで生きて。
心の何処かに、ずっとそんな考えがあった。
けれど、きっとこんなことを言ったら、また殴られる。
また、蹴られる。
棒で殴られ、石を投げられ、嘲笑を浴びる。
――言わなくても、結局それは私に容赦なく降り注ぐ。
そして、それに耐えて、自分の意見を押し殺して、そうしなければ、日本人として、大和撫子失格。
一番、私が拘っているものが、もともと無いに等しいけれど、完璧に失われる。
そんな悪循環の中に私はいた。
だが、そこに先生が現れて、それを全て壊してくれた。
主張しても良い。相手が男であったとしても。
胸を張れば良い。私の毛が金色で、目が翡翠色で、肌が真っ白であっても。
それでも――いや、だからこそ大和撫子なのだから。
「何か言い返す言葉はありますか?」
私は敢えて、薬之助に訊ねた。
返事はなく――、
「ふざけンなァァァ!」
変わりに、薬之助は引き金を引いた。
弾丸が、私の命を、刈り取らんと、迫り来る。
当たれ、ば、確実に、死ぬ。
そし、て、わ、た、しは、
「――そこまでやれと誰が言った?」
死ななかった。
弾丸は、私と薬之助の間に割って入った先生の、衝き立てた右肘に突き刺さって止められていた。
「な……なんで……?」
薬之助は拳銃を落とした。
落としたことにも、気がつかなかった。
「どうしてだ!? なんで!? どうして生きてる!?」
取り乱す、薬之助。
当たり前だ。
死んだと思っていた人間が、ついさっき死んだ人間が、しかも自分が殺した人間が、生きて目の前に現れたら、誰だって同じ反応をするだろう。
そんな月並みな反応をする薬之助に、
「たかが三十三口径――。背中で受けられず何が大和撫子か」
と、先生は背中に突き刺さった拳銃の弾を引き抜き、それを彼に見せつけ、豪語した。
先生は死んでいなかった。
実は銃弾を食らっても、少し顔をしかめる程度だった。
――俄かに信じがたいが、恐らく背筋に力を入れて銃弾を受け止めた、と思われる。
そして、無声のまま、口の動きで、
「時間を稼げ」
と私に命令して、いきなり倒れたのだ。
このいきなりの命令には驚き、どうして良いか一瞬分からなくなってしまい、呆けてしまった。
――故の、『そん……な……』である。
「すいません。つい我を忘れてしまって」
私は先生に謝る。
「というか、なんで死んだフリなんてしたんですか? すぐに反撃すれば良かったのに」
「――少しばかり罵詈雑言を考えていた。満足していた所に水を差されてしまった上に、救いようのない馬鹿だったから、説教の一つもしてやりたくて。けれど、学に乏しくてなかなか言葉が出てこない」
「それなのに先生なんですか?」
「夫に頼まれて仕方なくやっているんだ。本当はあまり頭は良くない」
「……それでいい言葉は思いついたんですか?」
「あぁ、勿論。君が色々言い過ぎた所為で、言うべきことはなくなってしまったけれど」
先生は私に悪戯っぽい笑みを返した。
そんな、私達のやり取りを聞く薬之助の顔からみるみる内に生気が失せていく。
「さて……」
先生は、右肘に打ち込まれた弾丸を無造作にに引き抜き、体から力が抜けて倒れそうになる彼の首を左手で掴み、高々と吊るし上げる。
「ウグッ……」
苦しそうな呻き声が、薬之助から上げる。
「香が勇気を以って。変わろうとして。大和撫子であろうとして。紡ぎだした言葉の片鱗すら届いてなさそうだな」
先生は笑っていなかった。
「その時点で既に救いようも無く下種なのだが。貴様には。いや、貴様等には、阿修羅も竦む怒りを以って刻み込む。貴様等の何が悪いのかを」
言葉通りに、いや、それ以上の怒りで、麗人という言葉以外が相応しくない筈の先生の顔は歪んでいた。
「香を今まで虐げたことだ。香を今まで侮辱したことだ。それが……! それを全て許されると思い込んだ貴様等の性根だ!」
そして同時に、蔑むような目をしていた。
人でないものを。
例えるなら、三千世界の至る所を探しても見つからないほど、醜い何かを見るような目をしていた。
「そうだ! 弟が死に、故郷が敗北し、血が流れ、その血に血を上塗りし、それすら血で洗い流して、そうやって新しい時代にした!」
そして、また語ったのは戦争のこと。
「……だのに、だのにまるで人の考えは変わらない! 何も学ばない! 男は女をまるで物であるかのように扱う! 女はそれをまるで美徳であるかのように黙ったまま! 男尊女卑だ! 何も前時代と変わりはしない! それの所為で私の故郷がどれほど蹂躙されたか分からないのに!」
彼女の瞳に涙は伝わらない。
きっと、戦争に敗北して、多くの若者達が、その涙と生血を吸わせたとかいう布に、彼女も涙を吸わせてしまったのだろう。
戦争が好きで、闘争が好きで、傷つけあうことが好きで、さらに妖怪の鵺のように強い先生。
けれど女だからと、分を弁えろと、そう言われ続けて戦場から遠ざけられ続けたのだろう。
そして弟の弔い合戦という大義名分を得て――それでもきっと強く反対はされて――やっと戦場に出たけれど、時既に遅しで、故郷は大敗して――。
まして、正真正銘気狂いではなく、夫を愛し、私なんかの為に泣けぬその目で泣いてくれて、当たり前に怒ることの出来る『中途半端な気狂い』の先生だから、恐らくずっと苛立っていたのだろう。
彼女は、それだから男尊女卑という考え方そのものが憎いのだ。
憎くて、憎くて、その身が切り刻まれそうなほど憎いのだ。
大和撫子の強さや、在り方や、可能性を主張するのも、次代を担うのは女性、時代を動かすのは女と考えるのも、きっとただ純粋に憎しみから。
――私を救った、『大和撫子』の在り方でさえ、もしかしたらその怒りの産物なのかもしれない。
「全部! 全部貴様等のような男尊女卑の権化のような輩がいる所為だ! 貴様等のような輩の所為でそういった考えを持った女共はそれに従う。そういった考えを持たぬ女までもが、虐げられ、磨耗し、その在り方に染められる!」
――また、罵詈雑言を考えていたなどと言ったがあれは嘘だろう。
いや、もしかしたら考えていたのかもしれないが、今出ている彼女の言葉は、きっと自分の中に以前からずっと溜まっていたものに違いない。
「悔い改めろよ、下郎が」
彼女は、薬之助にそう吐き捨てると、地面へと力任せに叩きつけた。
しかし、彼からは呻き声は上がらない。
それを上げる体力すらもまともに残っていない。
「……う……」
小さく、情けない声を漏らすだけ。
「ついでに言っておく。貴様の仲間、全員生きてる。ただ剣の命が死んだだけだ」
先生はしゃがんで、薬之助の顔をそっと、遊女のように撫でてそう告げた。
――先生は、一度たりとも銃や剣を致命傷になる箇所は攻撃していなかった。
腕の関節や足といった、武道にとっては大切となるであろう箇所――つまり『剣の命』を奪うことしかしていなかったのだ。
「だが、勘違いするなよ。貴様等には地獄の閻魔の顔を拝む価値すら無いんだ。私の快楽を満たすためだけに打ち抜かれるしか価値がないんだ。肝に銘じろ」
「……ッ……」
「その体を治したら、私を警察に突き出すなりなんなり好きにしろ。ただし夫は巻き込むな」
先生は最後まで、毒を吐き続けて漸く立ち上がる。
そして、自分が使った武器を全て回収して、私の手を引いてその場から立ち去ろうとした。
「そうだ」
急に思い出したかのように先生は薬之助達に振り返る。
「全員これからの人生出会う人間全てにこう警告しておけ。大和撫子を舐めるなよ、と」
先生はそういうと、笑った。
まるで子供のように、屈託無く。
これが、私が大和撫子の在り方を教えて貰い、生まれ変わった日のことの顛末である。
――少しばかり、後日談を。
あの後、私は家に帰るなり、父と母に連れられて、お医者に行った。
娘が顔を傷だらけにして帰ってきたのだから、当たり前といえば、まぁ、至極当たり前の反応だろう。
先生も夫に酷く叱られた。
「怪我をしないように戦ってよ! ハニー!」
とのことだ。
一体どんな人が、先生の夫なのだろうかと気になってはいたが……。
成る程、決して尋常ではなかった。
尋常であって先生の夫などが務まる訳がないとはいえ、度を越して尋常ではなかった。
薬之助達は傷の手当をされた後、捕まった。
廃刀令違反と傷害罪及び婦女暴行により懲役十年。
常識的に考えて重過ぎる処分と言えよう。
ちなみに、先生は幾許か追っていた怪我を一日で完治させ、英学校相変わらずで教鞭を振るっている。
先生のしたことも十分傷害罪に当たる筈なのに、どうして何の罪にもならなかったのかと尋ねると、
「猿を肩に乗せた鬼のように怖い、鬼より強い知り合いの剣客警察が……。まぁ、頑張ってくれた」
と、懇切丁寧に答えてくれた。
なんでもそのお方、警察のお偉い様に気に入られているとか。
とはいえ、先生を無罪放免にしつつ、男共にそれほど重罪を課せられるとは、『頑張った』程度の話ではない。
一体どれほどドス黒い権力の力が働いたのかは想像したくもない。
さらに言うならば、先生をして鬼と言わしめるような人には決して会いたくはない。
会うとしても、敵には回したくない。
――あと、少しだけ、私の話も。
「今日からお世話になります。神原香と申します」
そう言って、私は畳の上に頭をつけた。
すると、
「ああ! 良いって、良いってそういうの! 僕そういうの苦手だから!」
と、ご主人はなんとも気さくに、そう言って私に頭を上げさせた。
そういえば、ご主人は先ほどから肩膝をついていた。
「どうも。新島襄です。こちらこそどうぞ宜しく」
一体あれほど過激な言葉を発した先生の夫とは一体どんな人かと思って幾許か覚悟はしてみたが、なんと好青年といった雰囲気の人であった。
背も高く、顔立ちは整っていて、先生とは全く違う種類の笑顔が似合う人であった。
但し、背が高いといっても先生とならんでしまったら、そうだとは全く思われないのだろうが。
閑話休題――。
私は学校を辞めて、先生の家の使用人となった。
勿論、先生の大和撫子としての在り方に魅了され、先生の側で大和撫子として己を磨く為である。
――どんな理由があれど、先生の在り方はかっこよく映り、私の心が救われたということには変わりはないのだから。
「ところで、先生はどちらに?」
しかし、新島家に上げられ、案内された居間には先生はいなかった。
「あぁ。八重ちゃんならまだ自分の部屋だよ」
起きてきていないらしい。
寝起きがあまり良くないのだろうか。
「そうじゃないよ。まぁ……昨晩ちょっと……ね?」
含みを持った表情でご主人は言った。
「良かったら行ってみる?」
「良いんですか?」
「うん。八重ちゃんも許してくれるだろうし」
と、ご主人に案内されてやってきたヨーロッパ風な装いの部屋に入った時、私はまず少し驚いた。
かなり上等なベッドがある。窓の側にはこれまた上等そうな机が。本棚にはところ狭しと洋書の数々が。
だがそれ以上に、衝撃的なのは壁だろうか。
――拳銃と例の銃剣が至るところに飾られているのだ。
流石に、一瞬たじろいでしまう。
「なッ!?」
その次に、ベッドに腰掛けた人物をみてげんなりしてしまう。
疲れた顔をして、腰の曲がった、寝癖だらけの女性が煙草を吸っていたのだ。
――それが先生だということに気がつくのに大分時間がかかってしまった。
「先生!! 一体どうしたんですか!?」
私は声を張り上げていた。
「あ……。香か……」
うつらうつらと此方に反応した。
「夫が一週間口も聞いてくれなくなってしまって」
「どうして!?」
「私が怪我をして心配をかけたから……」
最早、気の毒としか言葉が見つからない。
「『旦那様、どうして私をいじめるの? 私はこんなに貴方のことを愛しているというのに……』と言ったら許してはくれた」
何か凄く恐ろしいものが耳に入った気がしたが、きっと気のせいだと思うことにした。
「ジョーは可愛い男だ。良い人だ。だが、その後がいけない」
「どうしたっていうんですか?」
「情熱的過ぎる。五十回も達してしまった……」
「なっ!?」
「いじめるなと言ったのに、結局いじめられてしまった」
「言わないで下さい! 恥ずかしい!」
顔が真っ赤になるのを感じた。
此方は未通の身である。
そういう話は控えていただきたいところだ。
だから一回咳払いをして、
「今日からお世話になります。神原香と申します」
と、改めて自己紹介する。
「……新島八重だ。なんでも言ってくれ」
そう言ったので、私は、
「今後は猥談を控えて下さい。先生」
と、誠心誠意頼んだ。
「ではそうしよう」
ほとんど生返事と言った具合に私の頼みを受け流す。
きっと、これからこの猥談は定期的に聞かなければならないのだろうと、私は覚悟を決めた。
一日目にして挫折を経験することになるとは思ってはいなかったが、くよくよと悩んでいても仕方はない。
私は本題に移ることにした。
「これを」
そう言って、私は傘を取り出した。
――なんとなく先生を真似て、着物の中に隠していたあの日、返しそびれた傘を。
しかし、それを差し出されると先生は、
「それは……君にやろう」
私にそう言った。
鳩が豆鉄砲を食ったよう、だったのだろう私の顔は。
先生は枕元に置いた灰皿――煙草の吸殻で山になっている――に煙草を捨てて、
「少しだけ、生まれ変われた記念というヤツだ」
私に微笑みかけた。
『戦争』で見せた狂気に満ちた笑みではなく、どこまでも柔らかく優しげな笑みで。
私は少し驚いたけれど、
「有難うございます。大切に、ずっとずっと、大切にします」
すぐに先生と同じ微笑でそう返した。
「ところで、一つ気になっていたのだけれど」
「……なんですか?」
「先生とは……、その呼び方どうなんだ? 君はもう既に、私の生徒ではないのに」
言われてみれば。
私は学生ではないのだから、もう既に新島八重を先生という必要はなかった。
「いいえ。良いんですこの呼び方で」
――けれど、この呼び方で呼びたかった。
「だって、先生は『大和撫子』の先生なんですから」
私はこの時、心の底から、人生で一番の笑顔を見せていた。
――なんだか、先生はとても気恥ずかしそうだった。
話したのは先生にまつわる極々一部でしかない。
まだまだ話したいことは沢山あるけれど……一先ずお終い――。




